前回、平塚から小田原まで歩くと書いた。結論から言うと、1日で平塚駅から小田原の箱根板橋駅まで歩ききることはできなかった。なぜなら、途中の大磯があまりにも魅力的だったからだ。主に「大磯はいいぞ」といった記事になってしまったが、お付き合いいただきたい。
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1.平塚の塚
目の前に商店街がある。湘南スターモールという。この名前の由来は、「湘南ひらつか七夕まつり」のメイン会場になっているからだと思われる。
しばらく行くと、平塚宿の江戸見附を見つける。
平塚宿は平塚駅から離れた場所にあったようだ。資料によると、長さ3.6m、幅1.5m、高さ1.6mの石垣を台状に積んで、頂部を土盛りにし、東海道の両側に、東西に少しずれた形で設置されていたという。
歩いていくと、平塚宿脇本陣跡、平塚宿高札場の蹟、平塚宿本陣旧跡、平塚宿西組問屋場の蹟を見つける。どれも案内板があるだけだ。
平塚宿の本陣は、代々加藤七郎兵衛と称し、建物は間口30m、奥行68m、163坪の総欅造りで、東に寄って門と玄関があったという。
平塚宿西組問屋場の蹟で右折すると要法寺に突き当たる。そこを左折するとすぐ右手側に平塚の塚がある。
ここで天保11年(1840年)に編纂された「新編相模国風土記稿」を見てみよう。そこにこう書いてある。「昔、桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向かう旅をした折、天安元年(857年)2月この地で逝去した。柩はここに埋葬され、墓として塚が築かれた。その塚の上が平らになったので里人はそれを「ひらつか」と呼んできた。」これが「平塚」の地名の由来である。確かに平塚の塚は平らだった。
ところで高見王の子、高望王は「平」姓を与えられて東国に下り、その子孫が坂東八平氏として栄え、一つの流れは北条氏の始祖につながり、一つの流れは伊勢平氏として清盛の武家政権につながる。このため、平氏の起源にゆかりを持つ場所、古塚であるともいわれている。
平塚の塚の上には三角点がある。その名も三等三角点「平塚」。そのままである。
春日神社は平塚宿の鎮守である。縁起によれば、建久2年(1191年)、源頼朝が馬入川の橋供養の祈願をし、橋の完成の後創建した神社と伝えられ、その当時は黒部宮といって、今のこの地よりずっと南にあったものの、その後津波で社殿が流されたためここに移ってきたそうだ。
2.高来神社
来た道を戻り、東海道に戻る。古花水橋交差点を左折し、国道1号に合流する。そこに、平塚宿京方見附がある。
そこには「從是東 東海道平塚宿」と刻まれた石碑がある。古花水橋交差点の辺りが京方見附のあった場所といわれている。その名のとおり、かつては近くを花水川が流れていたというが、高麗山がすぐ目の前にあって、その姿は歌川広重の絵に取り上げられた情景とあまり変わらない。
平塚宿京方見附の近くに平塚市と大磯町のカントリーサインもある。平塚宿の西の端は、平塚市の西の端でもあったのだ。
ここで大磯町のマンホールを見てみよう。町の木クロマツとサザンカ、町の鳥カモメ、そして海が描かれている。
そのまま進むと「平成の一里塚」がある。東海道の新しい道しるべとして、歩行者の休憩場所として整備された。ちなみに15番目の一里塚は馬入(前回紹介)、16番目の一里塚は化粧坂なので、この一里塚は江戸時代に整備されたものではない。
花水橋で花水川を越える。花水川の名前の由来のひとつとして、源頼朝が桜を見に来たが風雨で散っており、結局「花を見ず」としてその名がついたという伝説がある。
そのまま進むと、高来神社がある。
高来神社の創建は神武天皇朝、神皇産霊神(かみむすびのかみ)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、神功皇后(じんぐうこうごう)、応神天皇が祀られている。伝承では神功皇后の三韓征討のこと、竹内宿禰(たけのうちのすくね)が三韓の神を移したのが始まりというが、実際には高句麗からの渡来人高麗若光(こまのじゃっこう)らが大磯に移り住んだときに創建されたと考えられ、7月18日の大祭はそのときの様子をしのばせるという。また、高麗山山上にあった高麗権現社を中心に神仏集合の高麗寺であった。高麗寺は「吾妻鏡」建久3年(1192年)の記事に北条政子の安産祈願寺の一つとしてみえ、鎌倉~江戸初期には20余の僧坊を構えて栄えた。徳川家康の関東入国のときは寺領100石を与えられた。「新編相模国風土記稿」によれば、祭神は社伝では神皇産霊尊(かんむすびのみこと)、応神天皇、神功皇后の相殿、箱根山縁起では神功皇后が高麗の神を勧請したものなど諸説あることが記載されている。明治に入って郷社高麗神社となり、明治30年(1897年)に高来神社と改称した。
今日はいい天気だったので、高麗山に登るハイカーで高来神社は賑わっていた。お参りをすませ、鳥居で一礼して帰ろうとしたとき、おじさんに声をかけられた。「どこから来たの?」から始まり、小田原まで歩いていくと言うと「小田原までは遠いなあ。大磯駅から電車に乗るといいよ。大磯駅前にピザ屋があって、若者はみんなそこに行く。大磯駅前には、澤田美喜さんが建てたエリザベス・サンダース・ホームもあるよ。」などといろいろ教えてくれた。
高来神社をあとにすると虚空蔵堂を見つけた。
ここには虚空蔵と熊野権現を祀ったお堂があり、ここに下馬標が立っていた。大名行列もここで下馬し、高麗寺に最敬礼をして通ったそうだ。
化粧坂(けわいざか)交差点を右に入り、旧道に入る。すぐそこに、化粧井戸がある。
化粧井戸は虎御前がここの井戸水を汲んで化粧をしたのでその名がついたとされている。
山下の長者がなかなか子宝に恵まれず、そのため近くの虎池弁財天に願を掛けたところ、女の子が寅の年、寅の日、寅の刻に生まれ、それにちなんで「虎」と名付けられた。虎は大変美しかったので大磯の長者菊鶴の養女となり大磯に住み、そこで曽我十郎祐成と出会い結ばれた。曽我十郎祐成と弟五郎は富士の狩場で父の仇を討つが、捕らえられて殺される。それを知った虎御前こと虎は髪を下ろして兄弟ゆかりの各地を旅し、生地に帰って高麗山北麓に小さな庵「法虎庵」を営んで兄弟の菩提を弔った。
化粧坂は江戸時代においてはほとんど人家もなく、道の両側に木々が立ち並ぶ並木道だった。しかし、鎌倉時代の大磯の中心はこの化粧坂付近であったといわれ、鎌倉や京都の上洛、下向の道筋には鎌倉武士を相手とする遊女もいて大変賑わったそうだ。
少し行くと、化粧坂の一里塚がある。ここは案内板があるだけだ。
ここにも大磯町のマンホールがある。基本のデザインは変わっていないが、「大磯」が「OISO」になっている。
すぐそこに歌川広重の描いた「東海道五拾三次之内大磯虎ヶ雨」の説明板があった。
今では穏やかな別荘地のイメージの大磯だが、この絵のなかでは雨が降っている。これは虎御前が曽我兄弟の死を悼んで流した涙が雨になったという故事から梅雨時の雨「虎ヶ雨」を切り取ったらしい。近くには「大磯八景の一 化粧坂乃夜雨 雨の夜は 静けかりけり 化粧坂 松の雫の 音はかりして」と刻まれた歌碑もある。
3.大磯宿を歩く
地下道をくぐると、すぐに大磯宿の江戸見附がある。平塚宿の京方見附から大磯宿江戸見附までは27町(約3km)、本当に近かった。
そのまま進むと国道1号に合流する。大磯駅入口交差点で右折し、大磯駅方面に寄り道する。
大磯駅前洋館は貿易商木下建平が大正元年(1912年)に別荘として建築したもので、平成24年(2012年)には国登録有形文化財に指定された。中に入ろうとすると「本日のランチは満席です」と書かれていた。見たところピザを提供しているようなので、おじさんが言っていたピザ屋はここのことだろう。満席らしいので残念だが今回は見送った。
大磯駅の南西側には澤田美喜記念館がある。おじさんが言っていた澤田美喜さんとはこの人だ。澤田美喜は戦後に孤児院を作った人で、彼女は隠れキリシタンの遺物を蒐集していたので記念館にはそれが展示されている。現在もエリザベス・サンダース・ホームは児童養護施設として運営を続けている。ちなみに、澤田美喜記念館はコロナの影響で閉館していた。
澤田美喜は三菱財閥本家の岩崎久弥の長女に生まれ、外交官と結婚して華やかな海外生活を送っていたが、戦後混乱期の混血児の痛ましい状況を知り、孤児院「エリザベス・サンダース・ホーム」を創った。孤児院名は、設立後最初に寄付してくれた聖公会の信者エリザベス・サンダースにちなみ名づけられた。
ピザも食べ損ねたことだし、お腹がすいた。大磯駅前のカフェに入り、トーストを食べた。
トーストを食べながら、大磯駅を見た。
大磯駅の開設は明治20年(1887年)7月、東京新橋から国府津まで開通したときである。大磯駅の現在の駅舎は大正14年(1925年)に建てられた古い駅舎だ。スペイン風のオレンジ瓦が洒落ている。
小島本陣は小島家に残された当時の資料によると、間口は16間3尺1寸(30m)、奥行26間3尺(48m)、本陣建坪は246坪(812㎡)あったと書かれている。
小島本陣を少し過ぎたところから人が出てきたので、見ると地福寺があった。
地福寺は京都東寺につながる真言宗の寺院で創建は承和4年(837年)、開基は弘法大師の弟子でもあった杲隣大徳(ごうりんだいとく)で、本尊は不動明王である。境内には島崎藤村の墓がある。
境内の梅がいい味を出している。
尾上本陣跡は、小島本陣同様本陣跡である。
大磯照ヶ崎海水浴場と書かれた古い石柱を見つけた。裏には大正4年(1915年)5月に建てられたと刻まれている。
ちなみに照ヶ崎海水浴場は日本最初の海水浴場である。医者の立場から、健康と体力増進のためには海水浴が一番と考えた松本順がこの地を推奨して、明治18年(1885年)に話がまとまったものである。東海道本線の開通で京浜からの日帰り保養客を可能にしたが、海水浴の効用を説き自身大磯の別荘に居住した松本順の貢献は、その後保養地・別荘地として湘南大磯の発展をもたらしたことだった。
新島襄は明治7年(1874年)に同志社大学のもととなる同志社英学校を設立したが、明治23年(1890年)に病気の療養をしていた大磯の百足屋旅館で生涯を閉じた。
まだまだ大磯の旅は続くが、長くなるので一旦ここで切ろうと思う。
次回は鴫立庵(しぎたつあん)から始める。
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歩いた日:2022年2月27日
【参考文献・参考サイト】
大磯町(2009)「おおいその歴史 『大磯町史』11別編ダイジェスト版」
神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川の歴史散歩」山川出版社
風神社(2013)「ホントに歩く東海道 第2集」
風神社(2013)「ホントに歩く東海道 第3集」
NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016)「神奈川の宿場を歩く」神奈川新聞社
大磯町 大磯駅前洋館(旧木下家別邸)
http://www.town.oiso.kanagawa.jp/sangyo/keikan/kenzoubutsu/youkan/13662.html
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(2022年3月16日最終閲覧)