10月うさぎの部屋

10月うさぎがいろいろ語る部屋

東海道を歩く 8-1.平塚駅~箱根板橋駅①

 

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 前回、平塚から小田原まで歩くと書いた。結論から言うと、1日で平塚駅から小田原の箱根板橋駅まで歩ききることはできなかった。なぜなら、途中の大磯があまりにも魅力的だったからだ。主に「大磯はいいぞ」といった記事になってしまったが、お付き合いいただきたい。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.平塚の塚

 平塚駅北口を出て、平塚駅前交差点を左折する。

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湘南スターモール

 目の前に商店街がある。湘南スターモールという。この名前の由来は、「湘南ひらつか七夕まつり」のメイン会場になっているからだと思われる。

 しばらく行くと、平塚宿の江戸見附を見つける。

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平塚宿の江戸見附

 平塚宿は平塚駅から離れた場所にあったようだ。資料によると、長さ3.6m、幅1.5m、高さ1.6mの石垣を台状に積んで、頂部を土盛りにし、東海道の両側に、東西に少しずれた形で設置されていたという。

 歩いていくと、平塚宿脇本陣跡、平塚宿高札場の蹟、平塚宿本陣旧跡、平塚宿西組問屋場の蹟を見つける。どれも案内板があるだけだ。

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平塚宿脇本陣

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平塚宿高札場の蹟

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平塚宿本陣旧跡

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平塚宿西組問屋場の蹟

 平塚宿の本陣は、代々加藤七郎兵衛と称し、建物は間口30m、奥行68m、163坪の総欅造りで、東に寄って門と玄関があったという。

 平塚宿西組問屋場の蹟で右折すると要法寺に突き当たる。そこを左折するとすぐ右手側に平塚の塚がある。

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平塚の塚

 ここで天保11年(1840年)に編纂された「新編相模国風土記稿」を見てみよう。そこにこう書いてある。「昔、桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向かう旅をした折、天安元年(857年)2月この地で逝去した。柩はここに埋葬され、墓として塚が築かれた。その塚の上が平らになったので里人はそれを「ひらつか」と呼んできた。」これが「平塚」の地名の由来である。確かに平塚の塚は平らだった。

 ところで高見王の子、高望王は「平」姓を与えられて東国に下り、その子孫が坂東八平氏として栄え、一つの流れは北条氏の始祖につながり、一つの流れは伊勢平氏として清盛の武家政権につながる。このため、平氏の起源にゆかりを持つ場所、古塚であるともいわれている。

 平塚の塚の上には三角点がある。その名も三等三角点「平塚」。そのままである。

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三等三角点「平塚」

 平塚の塚の隣には西仲町公園、その隣には春日神社がある。

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春日神

 春日神社は平塚宿の鎮守である。縁起によれば、建久2年(1191年)、源頼朝が馬入川の橋供養の祈願をし、橋の完成の後創建した神社と伝えられ、その当時は黒部宮といって、今のこの地よりずっと南にあったものの、その後津波で社殿が流されたためここに移ってきたそうだ。

2.高来神社

 来た道を戻り、東海道に戻る。古花水橋交差点を左折し、国道1号に合流する。そこに、平塚宿京方見附がある。

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平塚宿京方見附

 そこには「從是東 東海道平塚宿」と刻まれた石碑がある。古花水橋交差点の辺りが京方見附のあった場所といわれている。その名のとおり、かつては近くを花水川が流れていたというが、高麗山がすぐ目の前にあって、その姿は歌川広重の絵に取り上げられた情景とあまり変わらない。

 平塚宿京方見附の近くに平塚市と大磯町のカントリーサインもある。平塚宿の西の端は、平塚市の西の端でもあったのだ。

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 ここで大磯町のマンホールを見てみよう。町の木クロマツサザンカ、町の鳥カモメ、そして海が描かれている。

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 そのまま進むと「平成の一里塚」がある。東海道の新しい道しるべとして、歩行者の休憩場所として整備された。ちなみに15番目の一里塚は馬入(前回紹介)、16番目の一里塚は化粧坂なので、この一里塚は江戸時代に整備されたものではない。

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平成の一里塚

 花水橋で花水川を越える。花水川の名前の由来のひとつとして、源頼朝が桜を見に来たが風雨で散っており、結局「花を見ず」としてその名がついたという伝説がある。

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花水川

 そのまま進むと、高来神社がある。

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高来神社

 高来神社の創建は神武天皇朝、神皇産霊神(かみむすびのかみ)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、神功皇后(じんぐうこうごう)、応神天皇が祀られている。伝承では神功皇后三韓征討のこと、竹内宿禰(たけのうちのすくね)が三韓の神を移したのが始まりというが、実際には高句麗からの渡来人高麗若光(こまのじゃっこう)らが大磯に移り住んだときに創建されたと考えられ、7月18日の大祭はそのときの様子をしのばせるという。また、高麗山山上にあった高麗権現社を中心に神仏集合の高麗寺であった。高麗寺は「吾妻鏡」建久3年(1192年)の記事に北条政子の安産祈願寺の一つとしてみえ、鎌倉~江戸初期には20余の僧坊を構えて栄えた。徳川家康の関東入国のときは寺領100石を与えられた。「新編相模国風土記稿」によれば、祭神は社伝では神皇産霊尊(かんむすびのみこと)、応神天皇神功皇后の相殿、箱根山縁起では神功皇后が高麗の神を勧請したものなど諸説あることが記載されている。明治に入って郷社高麗神社となり、明治30年(1897年)に高来神社と改称した。

 今日はいい天気だったので、高麗山に登るハイカーで高来神社は賑わっていた。お参りをすませ、鳥居で一礼して帰ろうとしたとき、おじさんに声をかけられた。「どこから来たの?」から始まり、小田原まで歩いていくと言うと「小田原までは遠いなあ。大磯駅から電車に乗るといいよ。大磯駅前にピザ屋があって、若者はみんなそこに行く。大磯駅前には、澤田美喜さんが建てたエリザベス・サンダース・ホームもあるよ。」などといろいろ教えてくれた。

 高来神社をあとにすると虚空蔵堂を見つけた。

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虚空蔵堂

 ここには虚空蔵と熊野権現を祀ったお堂があり、ここに下馬標が立っていた。大名行列もここで下馬し、高麗寺に最敬礼をして通ったそうだ。

 化粧坂(けわいざか)交差点を右に入り、旧道に入る。すぐそこに、化粧井戸がある。

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化粧井戸

 化粧井戸は虎御前がここの井戸水を汲んで化粧をしたのでその名がついたとされている。

 山下の長者がなかなか子宝に恵まれず、そのため近くの虎池弁財天に願を掛けたところ、女の子が寅の年、寅の日、寅の刻に生まれ、それにちなんで「虎」と名付けられた。虎は大変美しかったので大磯の長者菊鶴の養女となり大磯に住み、そこで曽我十郎祐成と出会い結ばれた。曽我十郎祐成と弟五郎は富士の狩場で父の仇を討つが、捕らえられて殺される。それを知った虎御前こと虎は髪を下ろして兄弟ゆかりの各地を旅し、生地に帰って高麗山北麓に小さな庵「法虎庵」を営んで兄弟の菩提を弔った。

 化粧坂は江戸時代においてはほとんど人家もなく、道の両側に木々が立ち並ぶ並木道だった。しかし、鎌倉時代の大磯の中心はこの化粧坂付近であったといわれ、鎌倉や京都の上洛、下向の道筋には鎌倉武士を相手とする遊女もいて大変賑わったそうだ。

 少し行くと、化粧坂の一里塚がある。ここは案内板があるだけだ。

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化粧坂の一里塚

 ここにも大磯町のマンホールがある。基本のデザインは変わっていないが、「大磯」が「OISO」になっている。

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OISOマンホール

 すぐそこに歌川広重の描いた「東海道五拾三次之内大磯虎ヶ雨」の説明板があった。

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東海道五拾三次之内大磯虎ヶ雨」

 今では穏やかな別荘地のイメージの大磯だが、この絵のなかでは雨が降っている。これは虎御前が曽我兄弟の死を悼んで流した涙が雨になったという故事から梅雨時の雨「虎ヶ雨」を切り取ったらしい。近くには「大磯八景の一 化粧坂乃夜雨 雨の夜は 静けかりけり 化粧坂 松の雫の 音はかりして」と刻まれた歌碑もある。

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3.大磯宿を歩く

 地下道をくぐると、すぐに大磯宿の江戸見附がある。平塚宿の京方見附から大磯宿江戸見附までは27町(約3km)、本当に近かった。

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大磯宿江戸見附

 そのまま進むと国道1号に合流する。大磯駅入口交差点で右折し、大磯駅方面に寄り道する。

 進行方向左側に瀟洒な洋館があった。大磯駅前洋館だ。

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大磯駅前洋館

 大磯駅前洋館は貿易商木下建平が大正元年(1912年)に別荘として建築したもので、平成24年(2012年)には国登録有形文化財に指定された。中に入ろうとすると「本日のランチは満席です」と書かれていた。見たところピザを提供しているようなので、おじさんが言っていたピザ屋はここのことだろう。満席らしいので残念だが今回は見送った。

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エリザベス・サンダース・ホーム

 大磯駅の南西側には澤田美喜記念館がある。おじさんが言っていた澤田美喜さんとはこの人だ。澤田美喜は戦後に孤児院を作った人で、彼女は隠れキリシタンの遺物を蒐集していたので記念館にはそれが展示されている。現在もエリザベス・サンダース・ホームは児童養護施設として運営を続けている。ちなみに、澤田美喜記念館はコロナの影響で閉館していた。

 澤田美喜三菱財閥本家の岩崎久弥の長女に生まれ、外交官と結婚して華やかな海外生活を送っていたが、戦後混乱期の混血児の痛ましい状況を知り、孤児院「エリザベス・サンダース・ホーム」を創った。孤児院名は、設立後最初に寄付してくれた聖公会の信者エリザベス・サンダースにちなみ名づけられた。

 ピザも食べ損ねたことだし、お腹がすいた。大磯駅前のカフェに入り、トーストを食べた。

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 トーストを食べながら、大磯駅を見た。

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大磯駅

 大磯駅の開設は明治20年(1887年)7月、東京新橋から国府津まで開通したときである。大磯駅の現在の駅舎は大正14年(1925年)に建てられた古い駅舎だ。スペイン風のオレンジ瓦が洒落ている。

 東海道に戻る。北組問屋場、小島本陣旧蹟を見つけた。

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北組問屋場

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小島本陣旧蹟

 小島本陣は小島家に残された当時の資料によると、間口は16間3尺1寸(30m)、奥行26間3尺(48m)、本陣建坪は246坪(812㎡)あったと書かれている。

 小島本陣を少し過ぎたところから人が出てきたので、見ると地福寺があった。

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地福寺

 地福寺は京都東寺につながる真言宗の寺院で創建は承和4年(837年)、開基は弘法大師の弟子でもあった杲隣大徳(ごうりんだいとく)で、本尊は不動明王である。境内には島崎藤村の墓がある。

 境内の梅がいい味を出している。

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 尾上本陣跡は、小島本陣同様本陣跡である。

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尾上本陣跡

 大磯照ヶ崎海水浴場と書かれた古い石柱を見つけた。裏には大正4年(1915年)5月に建てられたと刻まれている。

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 ちなみに照ヶ崎海水浴場は日本最初の海水浴場である。医者の立場から、健康と体力増進のためには海水浴が一番と考えた松本順がこの地を推奨して、明治18年(1885年)に話がまとまったものである。東海道本線の開通で京浜からの日帰り保養客を可能にしたが、海水浴の効用を説き自身大磯の別荘に居住した松本順の貢献は、その後保養地・別荘地として湘南大磯の発展をもたらしたことだった。

 南組問屋場の近くに、新島襄終焉の地がある。

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南組問屋場

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新島襄終焉の地

 新島襄は明治7年(1874年)に同志社大学のもととなる同志社英学校を設立したが、明治23年(1890年)に病気の療養をしていた大磯の百足屋旅館で生涯を閉じた。

 まだまだ大磯の旅は続くが、長くなるので一旦ここで切ろうと思う。

 次回は鴫立庵(しぎたつあん)から始める。

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今回の地図

次回記事はこちら↓

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歩いた日:2022年2月27日

 

【参考文献・参考サイト】

大磯町(2009)「おおいその歴史 『大磯町史』11別編ダイジェスト版」

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川の歴史散歩」山川出版社

風神社(2013)「ホントに歩く東海道 第2集」

風神社(2013)「ホントに歩く東海道 第3集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016)「神奈川の宿場を歩く」神奈川新聞社

大磯町 大磯駅前洋館(旧木下家別邸)

http://www.town.oiso.kanagawa.jp/sangyo/keikan/kenzoubutsu/youkan/13662.html

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

(2022年3月16日最終閲覧)

東海道を歩く 7.藤沢本町駅~平塚駅

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 前回は戸塚駅から藤沢本町駅まで歩いた。今回は藤沢本町駅から平塚駅まで歩く。藤沢宿から平塚宿までの間は3.5里、約13.7kmとされている。実際今回歩いたGPSログを確認したら16kmと示していた。これまでで最長距離で、帰りの電車は疲れて寝てしまったほどだった。それでは今回の旅の記録を始める。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.おしゃれ地蔵

 藤沢本町駅から今日はスタートする。

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 そのまま伊勢山橋を渡り小田急江ノ島線を越えるとすぐに藤沢宿の京見附がある。

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藤沢宿京見附

 藤沢宿の西の端まで来たということだ。

 そのまま県道43号線を西に進む。「街道や」という店の西側の通りを右側に入る。旧道に入るのだ。

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 旧道は引地橋で県道43号線に合流する。

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 この旧道は特に何もなく、見過ごしてしまっても特に大きな影響はない。

 引地橋で引地川を渡る。

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 そのまま西へ進み、トライアルの西隣に少し変わったお地蔵さんがある。おしゃれ地蔵だ。

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おしゃれ地蔵

 おしゃれ地蔵は「女性の願い事なら何でもかなえてくださり、満願のあかつきにはおしろいを塗ってお礼をする」と伝えられている。このことから「おしゃれ地蔵」と呼ばれるようになったらしい。形態的には地蔵ではなく、双体道祖神ではないか、とも説明板に書かれており、確かにそうだと思った。そして、世の中には変わった信仰もあるものだなあと感じた。

 おしゃれ地蔵の向かい側には寺院がある。養命寺だ。

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養命寺

 養命寺は元亀元年(1570年)創建の寺院で、本尊は木造薬師如来坐像。国の重要文化財に指定されている。この薬師如来は廃絶した「大庭薬師堂」の本尊で、藤沢に勢力を張っていた大庭景義の子、景兼の発願によるものと伝えられている。

 養命寺ではなにやら人で賑わっていた。よく見ると「藤沢七福神めぐり スタンプポイント」と書かれた看板があった。どうやら「藤沢七福神めぐり」のイベント開催中であり、養命寺は布袋のスタンプポイントだったらしい。興味はあるが、このイベントに参加したら東海道は歩けなくなってしまうので参拝だけした。

 そのまま県道43号線を進む。途中立派な水準点を見つけたので写真を撮った。一等水準点37-1だ。

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一等水準点37-1

2.四谷不動

 そのまま県道43号線を進むと四ッ谷交差点で国道1号に合流する。

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 左折してそのまま進む。するとすぐそこに四谷不動がある。

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四谷不動

 四谷不動は東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられていた道標で、大山不動尊の下、正面に「大山道」、両側面に「これより大山みち」とある。江戸時代、四谷辻には多くの茶屋が並び参詣客を誘っていた。現在でも7月1日の大山開きには、辻堂元町の宝珠寺の住職のもと護摩供養が行われている。東海道の大山道の分岐といえば5.保土ヶ谷駅~戸塚駅 後半で紹介した「大山前不動」もある。

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 少し行くと、一里塚跡がある。ここはただ案内の柱が立っているだけだ。

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一里塚跡

 また少し行くと、二ツ家稲荷神社がある。

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二ツ家稲荷神社

 ここの庚申塔藤沢市指定重要文化財となっている。

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庚申塔

 説明板によると、ここの庚申塔は寛文10年(1670年)に作られ、基礎部の上に台座を作り、その上部に三猿像を載せる構造となっている。庚申塔については5.保土ヶ谷駅~戸塚駅 前編の「帝釋天王」の庚申塔の部分で説明しているので詳しくはそちらを参照してほしい。

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 藤沢市茅ヶ崎市カントリーサインを発見した。

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 横浜市は入ってから出るのに4回もかかったのに、藤沢市区間は前回入ってもう終了である。なお、茅ヶ崎市区間は今回だけで終了、茅ヶ崎市を横断して平塚市まで行く。

 55kmポストの少し前に、明治天皇御小休所阯があった。

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明治天皇御小休所阯

3.牡丹餅立場跡

 しばらく進むと、牡丹餅立場跡がある。

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牡丹餅立場跡

 ここは宿場と宿場の間に旅人が休んだりする施設、立場の跡である。ここの立場は牡丹餅が名物だったので「牡丹餅立場」と呼ばれるようになった。また、牡丹餅立場には紀伊藩が江戸屋敷と国元を結んだ専用の飛脚中継所、七里役所も設置されていた。徳川御三家尾張藩紀伊藩は江戸屋敷との連絡を藩専属の飛脚によって直接行うことが許され、そのための中継所を七里ごとに置いていた。

 それにしても、このあたりは松並木が立派である。

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 松並木についての説明板があった。

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 茅ヶ崎市内の松並木は幹回り2.2m、推定樹齢400年の松だという。前回紹介した大坂の松並木は第二次世界大戦時に伐採されたり、松くい虫の被害に遭ったりで失われたが、ここの松並木はそのような被害は受けなかったのだろう。

 歩いていたらまた水準点を見つけた。一等水準点38-1だ。立派な標石タイプだ。

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一等水準点38-1

 少し行くと三角点を見つけた。三等三角点「茅ヶ崎」だ。

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三等三角点「茅ヶ崎

 ここの三角点は建設省ロゴマークのマンホールに入っている。建設省マンホール入りの三角点は初めて見た。

4.茅ヶ崎一里塚

 そのまま西へ進む。すると進行方向左側に塚が見える。茅ヶ崎一里塚だ。

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茅ヶ崎一里塚

 茅ヶ崎一里塚は日本橋から14番目の一里塚である。かつては道の両側にあったが、江戸時代から残っている一里塚は片側だけだ。高さ1.5m、直径7~8mの塚に松が植えられている。神奈川の東海道でも一里塚が現存しているものは少なく、品濃坂、箱根畑宿の一里塚とともに貴重なものである。品濃坂の一里塚については5.保土ヶ谷駅~戸塚駅 後半で紹介している。平成22年(2010年)、反対側もポケットパークとして整備され、「平成の一里塚」としてエノキが植えられた。

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平成の一里塚

 足元を見ると茅ヶ崎市のカラーマンホールがあった。

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 このマンホールは相模湾に浮かぶ烏帽子岩とカモメがデザインされている。残念ながら、今回のルートで烏帽子岩が見えるポイントはない。

 このあたりは茅ヶ崎駅近くである。もし疲れたら、ここで離脱してもよい。ちなみに今日の目的地にはまだ着いてないので、まだまだ進む。

 少し歩くとクロマツの切り株を見つけた。

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 これは樹齢200年ほどのクロマツの切り株で、このクロマツは平成21年(2009年)に腐朽のため伐採されたものの、このクロマツの切り株はモニュメントとして残された。

5.第六天神

 少し進むと第六天神社がある。

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第六天神

 創立年代、創立者等は不詳だが、江戸幕府編集の新編相模風土記(天保12年・1841年)には登場しているため、それ以前となる。祭神は淤母陀琉命(おもだるのみこと)と妹阿夜訶志古泥命(いもあやかしこねのみこと)である。

 鳥居をくぐってすぐのところにまた水準点を見つけた。一等水準点39号だ。

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一等水準点39号

 しばらく歩くと鳥井戸橋の上から進行方向左側に富士山が見える。「南湖の左富士」だ。これは、江戸から京に向かうとき、富士山は通常右側に見えるが、ここは道が北を向いているため富士山が左側に見える。これが珍しいということで、江戸時代名所になっていた。

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南湖の左富士

 

 その近くに鶴嶺八幡宮の鳥居が見える。

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 ここをくぐってすぐに神社があるならともかく、1kmくらい先なので今日はパスした。

 少し先に、神明神社がある。

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神明神社

 この神社は寛正年間(1460~1466年)創立と伝えられるが詳細は不明である。祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)と大山咋命(おおやまくいのかみ)である。

6.旧相模川橋脚

少し行くと、「東海道の名物まんじゅう でかまん」という看板がある。

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 「東海道の名物」という言葉にそそられて、思わず買ってしまった。

 でかまんから少し行くと、「史跡 旧相模川橋脚」という看板があったので寄ってみた。

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相模川橋脚

 旧相模川橋脚は大正12年(1923年)の関東大震災とその余震によって水田に橋杭が出現した全国的にも稀な遺跡である。これは建久9年(1198年)に源頼朝重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、大正15年(1926年)に国の史跡に指定された。この考証の根拠としては「吾妻鏡」の建暦2年(1212年)2月28日条に「相模川の橋がしばらくの間壊れていたので源実朝が修理を命じた。その橋は建久9年(1198年)源頼朝の家臣稲毛重成が亡妻の追善供養のために相模川に橋を架けた。源頼朝が橋の落成式の帰路に落馬し、それが原因で没した。」と書かれていることである。鎌倉時代相模川はこのあたりを流れていたが、その後、川筋の変化によって西の方へ移ったため橋脚は700年間土に埋まっていた。橋脚はいずれもヒノキの丸材で、初め姿を現したのは7本だったが、地中に埋もれたものが3本発見され、合わせて10本の橋脚が保存整備されている。当時の橋の幅は少なくとも4間(7m)くらいと推定され、全国でも数少ない大橋だったと考えられている。

 旧相模川橋脚の隣にベンチがあったので腰掛け、でかまんを食べることにした。

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でかまん

 もっと大きなサイズのそれこそ「でかまん」もあったが、食べきれる自信がなかったので一番小さいサイズのでかまんにした。それでも結構ボリュームがあった。

 でかまんを食べたら道祖神に挨拶しながら先に進む。

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 ついに茅ヶ崎市を横断したようだ。茅ヶ崎市平塚市カントリーサインを見つけた。

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 茅ヶ崎市区間はずっと国道1号を歩いていた。

 カントリーサインの先にはすぐに相模川を渡る馬入橋が架かっていた。馬入橋を渡る。

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 馬入橋は全長563m、橋の上は何もないので余計に長く感じた。

 馬入橋は明治19年(1886年)に架けられたので、それまでは渡船、馬入の渡しによって人々は移動していた。将軍の上洛や朝鮮通信使の来朝のときは川に船を並べこれを繋いでその上に板を並べた「船橋」を架けたことが分かっている。

 馬入橋際にあるホテルサンライフガーデンの敷地内に明治天皇馬入御小休所趾があった。

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明治天皇馬入御小休所趾

 さっきも明治天皇の小休所跡を見つけただけに、明治天皇はよく休みながら進むなあと思ってしまった。

 馬入交差点で国道1号から離れる。そこに馬入一里塚があった。

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馬入一里塚

 ここは日本橋から数えて15番目の一里塚である。立派な塚があった茅ヶ崎の一里塚とは違い、ここは石碑と案内板のみとなっている。

 平塚市のマンホールを発見した。

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 このマンホールは平塚の夏の風物詩「湘南ひらつか七夕まつり」と平塚海岸をはじめとする「湘南の海」をデザインしている。見ているだけでなぜか楽しげになってくるマンホールである。しかし、湘南ひらつか七夕まつりは2020年、2021年ともコロナの関係で中止となっている。

 このままひたすら西へ進む。平塚駅前交差点で左折すると、平塚駅に到着する。

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平塚駅

 16kmのウォーキングで割と疲れた。実は、平塚宿の次の宿場、大磯宿までは27町(約3km)しかない。それでは短い気がするので、次回は箱根板橋駅まで歩くつもりである。平塚宿から小田原宿、4里27町(約19km)。果たして、歩ききれるのか?

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今回の地図①

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今回の地図②

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今回の地図③

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

歩いた日:2022年1月23日

 

【参考文献】

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川の歴史散歩」 山川出版社

風人社(2013) 「ホントに歩く東海道 第2集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016)「神奈川の宿場を歩く」 神奈川新聞社

高橋真名子(2022)「東海道五十三次いまむかし歩き旅」 河出書房新社

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

(2022/02/26最終閲覧)

茅ヶ崎市 史蹟・天然記念物「旧相模川橋脚」

https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/shiteibunkazai/1006254.html

(2022/02/26最終閲覧)

うさぎの気まぐれ旅行記 大分・宮崎旅行③宮崎編

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 前回は大分市街地を歩いてみた。今回は大分駅から特急で3時間の宮崎市街地を歩いてみようと思う。宮崎市街地は城下町や宿場町などではなく、近代に入ってから造成された都市だが、それもそれで面白みがある都市だった。

 なぜ宮崎に近代になってから都市が造成されたか。その理由としては、宮崎県内には江戸時代、延岡藩高鍋藩、飫肥藩佐土原藩薩摩藩が分立しており、それに加え飛び地が多く中心が決めづらかった。そこで、明治6年(1873年)に美々津県と都城県が統合されたときにその境である上別府村に県庁が置かれたのがはじまりである。上別府村は明治22年(1889年)に宮崎町となり、ここで「宮崎」という自治体名が生まれた。なお、「宮崎」という地名自体は平安時代中期に作られた辞書「倭名類聚抄」にも出てくる地名である。

前回記事はこちら↓

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1.官庁街を歩く

 ホテルを出て、宮崎駅に向かう。

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 宮崎駅のコインロッカーに荷物を預けて、出発だ。そこで興味深いものを見つけた。日向夏ポストだ。

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日向夏ポスト

 日向夏は「日向」とつく通り、文政3年(1820年)に宮崎県で発見された果物である。これにちなんだポストを駅前に置くとは、なんとも宮崎らしい。

 宮崎駅交差点を左折し、老松通りを進む。裁判所前交差点を右折し、県庁楠並木通りを進む。県庁楠並木通りは県庁舎の建築時(明治7年(1874年))に造成された。県庁楠並木通りには宮崎地方裁判所宮崎県警察本部がある。このあたりが官庁街なのだろう。それにしても、警察本部はどこの建物も四角い。

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宮崎地方裁判所

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宮崎県警察本部

 「交通安全 宮崎八幡宮」の看板を見つけたので、宮崎八幡宮に寄ってみる。

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宮崎八幡宮

 宮崎八幡宮は永承年中頃(1050年頃)にこのあたりを開拓した海為隆が宇佐八幡大神をここに勧請したのがはじまりである。

 宮崎八幡宮に参拝して、県庁楠並木通りに戻り、次の交差点の右手側にあるのが宮崎県庁だ。

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宮崎県庁

 宮崎県庁舎は昭和7年(1932年)に竣工された、日本で4番目に古い県庁舎である。ゴシック建築の県庁舎は立派である。

 その県庁舎の向かい側に、宮崎市道路元標がある。

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宮崎市道路元標

 道路元標は大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1個ずつ設置されたもので、宮崎県にもいくつか残っている。なお、この道路元標は正面以外、何も刻まれていなかった。

 県庁前交差点を左折し、橘通りを南進する。橘通りは明治20年(1887年)に建設着工された。この地域の中心であった上野町の道路を拡幅することも考えられたようだが、既成市街地の改変は抵抗が大きく、市街地の東側にバイパスするように設けられた。橘通りという名がつけられたのは明治40年(1907年)のことである。

 橘通りにはワシントン椰子が植えられている。これは岩切章太郎の提唱によって1930年代から戦後にかけてフェニックスなどの南国風の並木が風景を観賞する「動く額縁」として市内の通りに植えられていったものである。

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 市役所前交差点の右手側にあるのが、宮崎市役所だ。昭和38年(1963年)竣工である。

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宮崎市役所

2.宮崎の商店街

 橘通りを北進する。片側アーケードの商店街に入ったが、祝日の午前中にしてはシャッターが下りた店が目立つ。車が勢いよく通り過ぎていくので、ロードサイド店舗文化圏なのだろう。

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 橘通2丁目交差点を左折し、恵比寿通りを進む。その後右折して中央通りに入る。中央通りとその南の上野町通りが上野町の南北通りで、この通りは橘通りなどよりはるかに古く、江戸時代からの歴史を持っている。

 「地域猫がいます。ひかないで!」という看板を見つけたので猫がいることを期待したが、残念ながら1匹も見なかった。

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地域猫がいます。ひかないで!

 このあたりは夜の街なのか、クラブなどの看板が目立った。当然夜の街なので、営業していた店はまばらだった。

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 しばらく歩くと右手側に一番街のアーケードが見えた。入ってみよう。

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一番街

 アーケードだから賑わっていることを期待したが、祝日の午前中とは思えないほど閑散としていた。大丈夫なのか、宮崎市

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 橘通りを挟むと若草通に名前を変える。

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若草通

 だが変わったのは名前だけで、閑散とした商店街は相変わらずだった。

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 現在11時半。少しお腹が空いてきたので、昼食にしようと思う。若草通を出て、四季通りを進む。その路地裏を見ると、今までどこにもいなかった人間が行列をなしているではないか。「おぐら」の行列だ。

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 私もこの行列に並んだ。15分くらい待ったら入店できたので、チキン南蛮を注文した。ここはチキン南蛮発祥の店なのだ。そしてチキン南蛮がこちら。

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 甘酢が効いた揚げ鶏に、濃厚なタルタルソースがかかっている。これはうまい。

 この店に貼ってあったチキン南蛮の由来によると、昔、鶏肉は部位ごとではなく、1羽買ってきていた。もも肉はチキンカツにできたが、むね肉は味が薄いのでどうしても余ってしまっていた。そこでむね肉を美味しく食べる方法を考えた。当時のおぐら店主が中華料理好きで、甘酢をかけるアイデアはそこから生まれた。しかし甘酢だけでは物足りなかったので、エビフライにかけていたタルタルソースをつけたことでチキン南蛮が誕生したそうだ。

 おぐらの目の前にある大きなデパートが、宮崎山形屋だ。宮崎山形屋は橘通りと高千穂通りの交差点に位置している。なお、ここには国道220号の0キロポストもある。

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宮崎山形屋

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国道220号0キロポスト

 私は地方都市の百貨店に行くとジューススタンドでジュースを飲むことにしているので、B1Fのジュースハウスさくらんぼで日向夏のジュースを飲んだ。さわやかな酸味で、美味しかった。

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 高千穂通りを東に進むと、宮崎駅前に到着する。

 高千穂通りは若草通りから駅に向かう通り、広島通りのバイパスともいえる位置に大正2年(1913年)、宮崎県再設置30周年※を記念して駅前通りとして造成された。

※宮崎県は明治6年(1873年)に一度設置された後に鹿児島県に合併され(明治9年(1876年))、明治16年(1883年)に再設置された経緯がある

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3.宮崎神宮

 まだ13時半、あと2時間くらい時間がある。スマホで調べたところ、宮崎神宮に行くことができそうなので、行ってみることにした。日豊本線で北に1駅、宮崎神宮駅に到着した。駅の入口が鳥居なのが面白い。

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 駅から西に進むと宮崎神宮に到着するが、せっかくなので正面の鳥居から入ってみることにした。

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 そのまま進むと「宮崎県護国神社」という看板を見つけたので、まずは宮崎県護国神社に参拝する。

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宮崎県護国神社

 護国神社とは国家のために殉難した人の霊を祀るための神社で、1都道府県に1社設置してあることが多い。なお、宮崎県護国神社は戦後の昭和30年(1955年)に創建された。

 宮崎県護国神社に参拝したら、宮崎神宮に参拝する。

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宮崎神宮

 宮崎神宮神武天皇の孫、健磐龍命(たけいわたつのみこと)が九州の長官に就任したとき、祖父の遺徳をたたえるために鎮祭したのが始まりと伝えられている。その創建年代は不明である。

 宮崎神宮に参拝した後、境内に博物館があると見たので行こうとしたところ、今から見たのでは到底間に合わないと判断してやめることにした。

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 本当に面白そうな博物館で行けなかったことが悔やまれるので、次回宮崎に行く機会があればぜひ行きたいと思った。

4.東京に帰る

 そろそろ時間なので、宮崎神宮駅から電車に乗る。宮崎駅で荷物を取ってから、特急にちりんで宮崎空港駅に向かう。ちなみに宮崎駅から宮崎空港駅までの間は乗車券だけで特急に乗ることができる。

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 さあ、楽しい旅行もこれで終わり。次の日は仕事なので、東京に戻ることにする。

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 名残惜しい気持ちを、空港で買ったチキン南蛮弁当と日向夏のチューハイで流し込む。

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 次はいつ旅行に行けるだろうか。

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今回の地図①

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今回の地図②

歩いた日:2022年1月10日

 

【参考文献・参考サイト】

西村幸夫(2018) 「県都物語」 有斐閣

宮崎八幡宮 宮崎八幡宮について

https://www.miyazakihachimangu.or.jp/about

宮崎神宮 宮崎神宮の由来

https://miyazakijingu.or.jp/publics/index/18/

(2022年2月2日最終閲覧)

うさぎの気まぐれ旅行記 大分・宮崎旅行②大分編

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 前回は大分空港に降り立ち、別府で地獄めぐりをした。今回は別府タワーからバスで大分駅まで移動し、そこから大分市街地をまわった記録を書こうと思う。大分市街地は県庁所在地にしては規模は小さめだが、なかなか面白い都市だった。

前回記事はこちら↓

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1.豊後定食

 現在12時。まちあるきをする前に腹ごしらえをする。入った店は大分駅構内の豊後茶屋。ここで「豊後定食」を注文した。それがこちらである。

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豊後定食

 とり天、だんご汁、ごはんと漬物、きんぴらごぼうである。ここで注目したいのはとり天とだんご汁だ。

 とり天は鶏肉に衣をつけて揚げた大分県の郷土料理である。

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とり天

 揚げ物なのにあっさりしていて、かぼすポン酢につけて食べると美味しい。揚げ物はあまり食べないが、これは気に入った。

 だんご汁は小麦粉で作った平たい麺(だんご)を味噌仕立ての汁に入れたもので、汁にはだんごのほかにゴボウやニンジンなども入っている。

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だんご汁

 すいとんに近い食べ物である。こちらも素朴な味で、美味だった。

2.府内城へ向かう

 お腹いっぱいになったら大分駅北口を出る。大分駅平成27年(2015年)に建て替えられたのでまだ新しい。

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大分駅北口

 国道10・57号を南東に進む。この道路は産業道路と呼ばれている。産業道路は戦後の戦災復興計画でできた道路である。

 顕徳町一丁目交差点を左折する。そのまましばらく進むと目の前の道路が2つに分かれ、中央に公園が出現する。遊歩公園である。遊歩公園のある道は近世は東広小路と呼ばれ、19世紀には大手通と呼ばれた。それは府内城の大手門に通じる通りだからである。遊歩公園も戦災復興計画でできたもので、日本では珍しいパークウェイである。

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遊歩公園

 遊歩公園の南端に水準点があるが(一等道路水準点 010-138号)、ほとんど摩耗していた。

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一等道路水準点 010-138号

 遊歩公園には様々なものがある。滝廉太郎は「荒城の月」を作曲した作曲家として有名だが、彼が最期を迎えた地がここ大分だ。

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滝廉太郎終焉之地

 23歳で亡くなったとは、私より年下である。

 「西洋医術発祥記念像」があるのは、フランシスコ・ザビエルとともにやってきたアルメイダがここで西洋医術を使用して人々の治療を行ったからである。

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西洋医術発祥記念像

 そのほか南蛮文化関係では、伊東ドン・マンショ像がある。

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伊東ドン・マンショ像

 伊東ドン・マンショは天正10年(1582年)に天正遣欧少年使節としてローマを訪問した。

 また、遊歩公園の西隣の大手公園には日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師、フランシスコ・ザビエル像もあることは忘れてはならない。

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フランシスコ・ザビエル

 フランシスコ・ザビエルキリスト教を伝えたことは知っていたが、大分が宣教の中心地だったことは知らなかった。

 そして遊歩公園の東隣に建つ高い建物が、大分県庁である。

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大分県

 昭和37年(1962年)の竣工である。大分県庁の北隣には大分県警察本部もある。

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大分県警察本部

 そして、遊歩公園の北端から北を見ると、府内城の大手門が見える。

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府内城大手門

3.府内城

 府内城は慶長2年(1597年)に福原直高により築城された。天守は寛保3年(1743年)の大火で焼失以来再建されなかった。明治5年(1872年)に廃城、城内に大分県庁が置かれた。昭和41年(1966年)に城址公園として整備された。

 さあ府内城へ、と入ろうとしたら閉鎖されていた。

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 令和2年(2020年)5月13日から当面の間、PCR用検体採取場設置のため大分城址公園の内苑は利用できなくなっていた。軽くショックを受けたが、城の外苑をまわってみることにする。

 大手門前に、大分縣道路元標がある。

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大分縣道路元標

 道路元標とは、大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1個ずつ設置されたものである。しかし大分県は全て廃棄されたのかそもそも設置されなかったのか、現在残っている道路元標はこの大分縣道路元標のみである。しかも「縣」の道路元標なので、これはオブジェとして置かれているのかと思った。裏には「位置 大分市大字六九番地 東経一三一度三六分 北緯三三度一四分」と刻まれている。

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道路元標裏面

 現在、府内城大手門の住所は「大分市荷揚町4」なので住居表示が変わったのだろう。

 ちなみに、GoogleMapで「33°14′ 131°36′」で検索したところ1.25km離れた大分市大道小学校の敷地内にピンが落ちた。日本測地系で書かれている上に「分」までしか書かれていないのでここまでずれたのだろう。

 城址公園の外苑をまわる。

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 説明板が各所にあったが、総じて遺構はあまり残っていない。

 外苑の北側に廊下橋がある。廊下橋は、山里丸と西の丸を結ぶ堀の上に架けられた渡り廊下である。

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廊下橋

 ここだけが開放されていて、中に入ることができた。このなかに府内城の日本100名城スタンプがある。

 廊下橋の北側に松栄神社がある。

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松栄神社

 松栄神社は享保14年(1729年)に豊後府内藩主直参の宮として祭祀された。

4.ガレリア竹町

 府内城を一周して大分市役所前交差点を右折する。すぐに右手側に大分市役所がある。

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大分市役所

 大分市役所の前に「中核市指定記念碑」がある。

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中核市指定記念碑

 大分市は平成9年(1997年)に中核市に指定された。

 昭和通り交差点を左折して中央通りを進む。すると右手側に大きなアーケードが見える。ガレリア竹町だ。

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ガレリア竹町

 ガレリア竹町、竹町通りは江戸時代から一貫して大分最大の繁華街だった。それは中堀に架かる門と外堀に架かる入口との間の交通路だったからである。明治38年(1905年)には「竹町商栄会」が設立され、大分県で最も古い商店街とされている。アーケードの屋根から光が入り明るいが、日曜の午後にしてはシャッターが閉まっている店が多いように感じた。

5.水準点探し

 ガレリア竹町の西端を出てすぐのところに水準点がある。一等水準交差点交1935号だ。

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一等水準交差点交1935号

 建物に半分埋まっている。水準点の写真を撮っていたら通りすがりの婦人に「どこかお探しですか?」と聞かれて少し恥ずかしかった。

 少し北側の西新町天満社の境内にも水準点がある。なかなか見つからないので基準点成果等閲覧サービスの近景写真で探したら、「ここ?」となった。準基準水準点、準基2218号である。

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準基準水準点準基2218号

 「大切にしましょう水準点」のプレートはあるが、その上にバケツやら発砲スチロールやらが積み重なっている。全く大切にされていない水準点だった。

 ガレリア竹町の通りに戻り、次の信号を左折、大道入口交差点を右折してすぐにまた水準点がある。これは一等道路水準点、010-137号である。これもなかなか見つからず、近景写真を頼りに探したらこれらしい。

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一等道路水準点 010-137号

 土に埋もれた中に、わずかに金属標が見える。

6.アーケードを歩く

 産業道路を南東に進む。中央町入口交差点を左折して、またアーケードに入る。セントポルタ中央町だ。

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セントポルタ中央町

 セントポルタ中央町もかつて京町・大工町・細工町をつなぐ古くからの繁華街で、中央通りの一本西側の歩行者軸として、駅を降りた乗客がまちへ入ってくる主要な歩行者動線として機能している。ガレリア竹町より大分駅に近いので、人通りも多く賑わっている印象を受けた。

 ガレリア竹町との交差点で右折し、中央通りに出る。

 中央通りは府内城の中堀を埋め立てて造った道路で、かつては大分~別府間の路面電車も走っていた。

 中央通りを南進し、大分駅方面に向かう。左手側に、レンガ造りの建物がある。大分銀行赤レンガ館だ。

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大分銀行赤レンガ館

 大分銀行赤レンガ館は大正2年(1913年)4月11日に株式会社二十三銀行本店として建設された。設計者は東京駅の設計者として有名な辰野金吾と片岡安である。現在は大分県産商品のセレクトショップ「Oita Made Shop」と大分を代表するコーヒーショップ「タウトナコーヒー」が入っている。

 大分銀行赤レンガ館の南隣には百貨店のトキハ本店がある。

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トキハ本店

 私は地方都市の百貨店に行くとジューススタンドでジュースを飲むことにしているので、B1Fのベジテリアでジュースを飲んだ。

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 大分特産のジュースはなかったのでミックスジュースを飲んだ。名前は控えていなかったが、美味しかった。

 トキハ本店を後にして、そのまま南に進むと大分駅に戻ってくる。

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 これにて大分市街地散策は終了である。

 この後、特急にちりんで宮崎に向かった。

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特急にちりん

 宮崎まで特急で3時間、結構距離があるのだなと感じた。

 夕食は宮崎名物チキン南蛮を肴に、地酒を飲んだ。

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チキン南蛮

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 地酒の名前は控えてなかったので調べても出てこなかった。甘くない辛口の酒だったことは覚えている。

 この後は宿に戻り、明日に備えた。

 次回は宮崎市街地をめぐった話を書こうと思う。

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今回の地図

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

歩いた日:2022年1月9日

 

【参考文献・参考サイト】

西村幸夫(2018) 「県都物語」 有斐閣

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

大分市 府内城

http://www.city.oita.oita.jp/o204/bunkasports/shitebunkazai/1352943146749.html

(2022年1月21日最終閲覧)

うさぎの気まぐれ旅行記 大分・宮崎旅行①別府編

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 私は旅が好きで、日本全国旅してきた。47都道府県のうち、45都道府県に行ったことがある。では、行ってない2つの都道府県とはどこか。大分県と、宮崎県である。ただでさえ行きにくい九州で、新幹線が通っていない東九州は行きづらい。しかし、今回の旅行で初めて大分県と宮崎県に行ってきた。その様子を記録しようと思う。

1.大分へ向かう

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  2022年1月8日、9:40羽田発の飛行機で大分に旅だった。天候は晴れ、窓から見えた富士山が綺麗だった。

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 11:30、大分空港に到着。

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 そのまま空港バスで別府駅に向かう。1時間ほどバスに揺られ、別府駅に到着した。

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 駅前に「ピカピカのおじさん」という陽気なポーズをしたおじさんの像があったが、これは別府温泉の観光開発に尽力した実業家、油屋熊八の像である。

2.地獄蒸し

 別府駅からバスに乗り30分ほどで今日の宿泊地、鉄輪(かんなわ)温泉に到着した。13時半を少し過ぎた頃で、おなかが空いてきた。ここで別府名物、地獄蒸しを食べるために「地獄蒸し工房 鉄輪」に入った。しかし30分以上待つということで、その間に宿にチェックインを済ませた。しばらく待って、受付に呼ばれた。受付から食材をもらい、地獄蒸しの釜場に入る。釜に食材をセットして、15分ほど待つ。そこから取り出された食材が、これだ。

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地獄蒸し

 地獄蒸しとは、温泉から噴出する高温の蒸気熱を利用した調理法で、別府では江戸時代から用いられてきた。塩分を含む温泉蒸気で蒸した肉や野菜は、素材の味がした。調味料の味は一切しないので好き嫌いは分かれるかもしれないが、私は気に入った。

3.地獄めぐり①

 その後は西へ向かう。まず白池地獄に入る。

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白池地獄

 白池地獄の池は、青白い色をしている。これは噴出時、透明なお湯が、池に落ちたときに温度と圧力の低下により青白く変化するため、このような色になっている。敷地内には、温泉の熱で熱帯魚を飼育している熱帯魚館がある。数日前、桂浜水族館Twitterでアロワナのことを「マフィアのペットでおなじみ!」とツイートしていたため、アロワナを見てそれを連想してしまった。

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アロワナ

 次は、鬼山地獄へ行く。

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鬼山地獄

 鬼山地獄では約100度の温泉が湯煙を上げている。あまりの湯煙に、写真を撮ることができないほどだった。そして、鬼山地獄にはワニがいる。

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 大正12年(1923年)に日本で初めて温泉熱を利用してワニの飼育を開始したのが、鬼山地獄である。クロコダイル、アリゲーターなど、約80頭のワニを飼育している。

 鬼山地獄の道路挟んで向かい側にあるのが、かまど地獄である。

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かまど地獄

 氏神の竈門八幡宮のお祭りに、ここの地獄の噴気で御供飯を炊いていたことがその名の由来である。「かまど」という名前から、鬼滅の刃の展示が多くあった。また、煙の粒子を核として、湯煙を見せる実験が行われていた。

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 実験で出た湯煙はとても綺麗だった。

 地獄めぐり通りの坂を登っていく。右手側に「山地獄」という施設があるが、ここは地獄めぐり対象外の動物園である。そのまま行くと海地獄と鬼石坊主地獄がある。海地獄から行ってみよう。

 海地獄は、美しい。

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海地獄

 温泉中の成分である硫酸鉄が熔解し、美しいコバルトブルーになっている。一見涼しげだが、98度の熱湯なので触ってはいけない。

 鬼石坊主地獄にも行ってみよう。

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鬼石坊主地獄

 ここは灰色の熱泥がポコポコと沸騰している。この沸騰する様子が坊主の頭に似ていることからこの名がついたようだ。天平5年(733年)に編まれた「豊後風土記」に登場するほど歴史の古い場所である。

 この時点で16時半。少し遠い血の池地獄と龍巻地獄は明日にすることにした。そして地獄で温泉の香りをたくさん嗅いだら、温泉に入りたくなったので宿に帰る前に寄っていく。

4.ひょうたん温泉

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 ひょうたん温泉。ひょうたん温泉はナトリウム塩化物泉で、pHは3.1である。ナトリウム塩化物泉だからしょっぱい味がすると思って舐めたら、酸っぱい味がしたのは酸性が強いからだろう。ゆっくり浸かって、体がほぐれた。そしてサウナだと思って入ったら、蒸し湯だった。蒸し湯が名物の鉄輪温泉らしい。砂湯にも行ってみたが、埋めてくれる人がいなかったためうまく入れなかった。

 夕飯も地獄蒸しを食べた。

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 帰りがけに喘息に効くらしい吸う温泉があったので吸ってみたがすぐにむせてしまい、効果があったかわからない。

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吸う温泉

 「温泉の卵」があったので「温泉卵だ!」と思ってむいてみたところ、ゆでたまごが出てきた。

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 しかもおでんのなかの卵のような固ゆでのゆでたまごである。温泉「の」卵だから、「温泉卵」とは誰も言ってないのだ。

 今日はもう宿に戻り、明日に備えることにした。

5.地獄めぐり②

 翌日。まだ行けてない地獄、血の池地獄と龍巻地獄に向かう。バスに乗って10分ほどで血の池地獄に着いた。

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血の池地獄

 血の池地獄は地下の高温、高圧下で自然に化学反応を起こし生じた酸化鉄、酸化マグネシウム等を含んだ赤い熱泥が地層から噴出、堆積することで池一面が赤く染まる。当たり前だが、血で赤く染まっているわけではない。

 血の池地獄の隣に、龍巻地獄がある。

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龍巻地獄

 ここは間欠泉の地獄で、30分に1回、5~6分ほど熱水を噴き出す。運が悪いと間欠泉を見るのに30分程度待つ必要があるが、私は運がよく来たらすぐに間欠泉が噴き出した。

 龍巻地獄まで行ったら地獄めぐりは終わりなので、バスに乗って別府駅に向かう。別府駅に向かう前に、気になる場所があったので寄ってみた。別府タワーだ。

6.別府タワー

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別府タワー

 別府タワー昭和32年(1957年)に建設された。設計者は東京タワーや通天閣なども設計した内藤多仲である。

 別府タワーに来てみたものの、非常に静かで営業しているのか不安になった。入場券を買い、エレベーターで展望台に上がる。その先は絶景が待っていた。

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 小さい展望台なのですぐ見終わってしまう。エレベーターで降り、バスに乗った。大分駅行きで、別府駅には行かないと乗った後で知ったが、この後の行先は大分なので、まあいいかと大分駅まで乗っていった。

 ここで別府編は終了とする。次回は大分市街地をまわった記事を書こうと思う。

 

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今回の地図

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今回の地図 鉄輪温泉拡大

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

歩いた日:2022年1月8日

 

【参考サイト】

地獄蒸し工房鉄輪

http://jigokumushi.com/

別府地獄組

http://www.beppu-jigoku.com/

ひょうたん温泉/温泉

https://www.hyotan-onsen.com/onsen/index.html

別府タワー 別府タワーについて

https://www.bepputower.co.jp/abouttower/

(2022年1月19日最終閲覧)

東海道を歩く 6.戸塚駅~藤沢本町駅

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 前回、保土ヶ谷駅から戸塚駅まで歩いた。今回は戸塚駅から藤沢本町駅まで歩く。「3.川崎駅~神奈川駅」から長いこと横浜市内を歩いていたが、ついに横浜市を出て、藤沢市に入る。やっと横浜市が終わった、と思った。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.開かずの踏切

 今日は戸塚駅東口からスタート。左折して、戸塚駅東口入口交差点で東海道に合流する。

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戸塚駅東口入口交差点

 そこから左折して西に進むと、すぐ歩道橋にぶつかる。ここは開かずの踏切跡だ。

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 開かずの踏切とは、ラッシュ時には1時間に3分ほどしか開かず、その結果渋滞をもたらしていた踏切である。これによって箱根駅伝では選手が足止めをくらったり、吉田茂元首相がこの踏切に対して業を煮やし戸塚道路の建設を決定したりした。しかしこの踏切は迷惑がられていたが愛されていたことも事実で、踏切の撤去の際には「さよなら戸塚大踏切」なるイベントが開催された。現在も開かずの踏切当時の写真がある看板や、踏切の絵が残っているほどだ。

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 歩道橋を渡り、清源院入口交差点で左折して、南へ進む。脇本陣跡や、戸塚町問屋場跡の看板を見つける。

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 問屋場は戸塚町のほかにも矢部町、吉田町にもあって合計3ヶ所あったらしい。内田本陣跡の看板もあったようだが、見逃してしまった。

2.澤邊本陣跡

 そのまま歩いていくと、小高い塚の上に「明治天皇戸塚行在所阯」と刻まれた石碑を見つける。澤邊本陣跡だ。

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澤邊本陣跡

 澤邊本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者である。戸塚宿は、東海道に宿駅伝馬制度が制定されたときは宿場ではなかったが、戸塚には旅人の荷物の運搬や宿泊などの街道稼ぎを生業にしている人たちが多くいたため、藤沢宿は苦言を呈していた。

 そこで戸塚は幕府に宿の開設を訴えたが、そのときに中心になったのが澤邊宗三だった。澤邊宗三は戸塚の旧家の人で、彼の妹は幕府の代官の妻になっていた。澤邊宗三の努力の甲斐あって慶長9年(1604年)に戸塚は宿場となった。また、明治天皇の東下の際には行在所として使用された。

3.八坂神社

 しばらく進むと進行方向右側に神社がある。八坂神社だ。

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八坂神社

 八坂神社は牛頭天王社を勧請したのが始まりといわれ、その後荒廃して御神体が地中深く埋められていたのを元禄2年(1689年)に夢の中で神託を受けた人が掘り出して再興した。八坂神社前に高札場があったようだ。

 八坂神社はお札まきが有名である。お札まきとは、女装した男性たちが渋うちわで五色の札をまき散らすお祭りである。まき散らされたお札は人々が拾い、それを戸口や神棚に貼る。このお札を拾った人は、その年は福運が授かると言われている。風流歌の歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは、病をよける、コロリも逃げる」という文句があるそうだが、コロリとはコレラのことで、江戸時代に流行した流行病である。現在では「コロリ」より「コロナ」のほうがよいのではないか、と考えてしまった。

 また、鳥居の前に立派な水準点がある。

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 調べてみたら第交35-7号、設置は昭和27年(1952年)だった。水準路線が交差する水準点なので交点で、だから名前に「交」がついている。これをTwitterに掲載したところ「古来由緒ある水準点」というコメントが来たが、設置は意外と新しかった。水準点の裏を見たときに「地理調(地理調査所の略で、昭和20年(1945年)から昭和35年(1960年)にかけて存在していた組織)」と書かれていたのを見たので、「そんなに古い水準点ではないな」と思っていた。

4.冨塚八幡宮

 南に進むと冨塚八幡宮がある。

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冨塚八幡宮

 平安時代の延久4年(1072年)、源頼義、義家父子がこの地に立ち寄った際、夢で応神天皇の神託を受け、その加護によって戦功を立てることができたのを感謝して社殿を作り、御霊を勧請した。

 石段の上に本殿があるが、そのさらに上に「冨塚之碑」が立つ塚がある。これは前方後円墳らしい。残念ながら写真は撮り忘れてしまった。この塚が「戸塚」の由来になっている。

 冨塚八幡宮の前で道が右にカーブし、西に進む。少し行くと戸塚宿の上方見附跡を見つける。説明板と進行方向左側には松、右側には楓が植えられている。

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5.大坂

 ここから坂を登る。大坂だ。

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 冨塚八幡宮前が標高15m、国道1号との合流点では標高62mと、標高差47mの坂である。かつては2つの坂から成り立っていたようで、「新編相模国風土記稿」では、「海道中南にあり、一番坂登り一町余、二番坂登り三十間余」と書かれている。今は改修されて緩やかな坂に見えるが、昔は急坂で、荷車、牛馬車などはまっすぐに登れなかったため、車の後押しを商売とする人に助けられて蛇行しながら登っていったらしい。

 坂の途中に庚申塔が並んでいるところを見つけた。

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 戸塚は庚申講が盛んだったのだろうか。ひとつだけ新しい千手観音の石仏があったのが気になった。

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 坂を登り、国道1号に合流する。そこに「箱根駅伝のため交通規制」と書かれた横断幕が目に入った。

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 今日は12月19日、箱根駅伝が近いから張られていたのだろう。意図していなかったが、このあたりが戸塚中継所らしい。

 「大坂松並木」と書かれた看板が目に入った。

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大坂松並木

 かつてこのあたりには松の巨木が立ち並び、大変壮観で東海道一の松並木とうたわれていたが、第二次世界大戦末期の松の伐採や昭和30年(1955年)頃からの松くい虫の被害などで大半が枯れて失われた。

 大坂では天気の良い日に松並木から素晴らしい富士山が眺められた、と看板にあった。少し歩いたところから富士山を見つけたが、この日は残念ながら山頂に雲がかかっていた。

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 雲がなければ綺麗だっただろう。

6.お軽勘平戸塚山中道行

 そのまま南へ進む。すると左側にお軽勘平戸塚山中道行の場の碑がある。

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お軽勘平戸塚山中道行の場の碑

 このあたりが歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の名場面の石高道だったという。「仮名手本忠臣蔵」とは、早野勘平がお軽との情事のために主君の大事を知らず、そのため責任を感じて切腹しようとするが、お軽に止められ、お軽の実家に逃れることとして鎌倉を出て京に向かう話である。戸塚の山中での道行の場面は、七代目団十郎、三代目菊五郎などの名優の演技から江戸では大変な人気が出た。そういえば、赤穂浪士の墓地がある泉岳寺東海道沿いだったことを思い出した。

泉岳寺が掲載されている記事

octoberabbit.hatenablog.com

7.国道1号を進む

 国道1号の46kmポストを見つけた。

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46kmポスト

 国道1号日本橋を起点としているため、日本橋から46km進んだことになる。もうそんなに歩いたのか、と思った。

 しばらく行くと原宿一里塚跡を見つける。

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原宿一里塚跡

 江戸から11番目の一里塚で、付近には旅人のための茶屋があり、原宿と呼ばれるようになったという。一里塚は明治9年(1876年)に取り壊されたため、ここには説明板があるだけとなっている。

 坂を下りると浅間神社がある。

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浅間神社

 浅間神社は、小田原北条氏治世の永禄年間に、富士信仰をもとに村内安全を祈願するために勧請されたといわれている。浅間神社の前に3基の庚申塔がある。

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 スダジイの大木が連なる参道を登っていくと社殿がある。参拝して、東海道に戻る。

 国道1号沿いを進む。このあたりはロードサイド店舗が多く立地している。どの路線の駅からも遠く、車文化なのだろう。江戸時代の人が見たら腰を抜かしそうなくらい看板が多く、車が騒がしい通りである。

8.影取

 影取歩道橋東側交差点の右側に、不動尊が載った岩山がある。

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 これは、長流寺の入口を示している。

 影取立場跡の説明板を見つけた。

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影取立場跡

 この位置は東海道鎌倉道が交差する交通の要所で、藤沢宿まで一里の場所らしい。

 しばらく行くと車道が地下にもぐるので、地上を進む。進行方向左側に諏訪神社がある。

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諏訪神社

 このあたりの地名「影取」の由来になった影取池は諏訪神社の奥にあったらしい。影取池の話はまた後で取り上げる。

 藤沢バイパス出口を直進し、県道30号を進む。ここで国道1号とお別れである。

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 道祖神の祠に旅の無事を祈ってから先に進む。

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 鉄砲宿交差点に、この地名の由来が書かれた看板があった。

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 近くで飼われていたおはんという大蛇が大きくなり、手に負えなくなったので影取池に捨てられた。おはんは池のそばを通る人の影を飲み込み、その人は数日以内に死んでしまうようになった。そこで村人は猟師に頼み、猟師が「おはん」と呼ぶと蛇が現れ、そこを撃ち殺してしまった。おはんが影を取った池のことを影取池と呼ぶようになり「影取」という地名が残り、猟師が住み着いたところを鉄砲宿と呼ぶようになった。

 ここに横浜市藤沢市カントリーサインがあった。

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 川崎宿を出てすぐのところから横浜市だったので、長かった横浜市区間が終わった、と感慨に浸った。

9.藤沢市に入る

 藤沢市に入ると旧東海道松並木跡があった。

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旧東海道松並木跡

 ここには見事な松並木が見られたそうだが、昭和35年(1960年)頃から全国に猛威をふるった松くい虫の被害で松並木がなくなってしまった、と説明にあった。説明板の裏には松が植えられている。

 歩いていくと歩道上に三角点があった。

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三等三角点「大鋸」

 三等三角点「大鋸(だいぎり)」だ。埋設は明治35年(1902年)と古いが、標石はその当時のものかはわからない。ちなみに大鋸とは付近の地名で、材木から板をつくる大鋸引きの職人が住んでいた地域だからそう呼ばれるようになったようだ。

 遊行寺坂を下る。

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遊行寺

 この坂の名前は坂を下りたところにある遊行寺である。遊行寺はあとで寄る。

 坂の途中に一里塚跡がある。

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一里塚跡

 説明板通り、現在は何も残っていない。

 遊行寺の反対側に諏訪神社があるので参拝する。

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諏訪神社

 諏訪神社遊行寺の遊行四代呑海上人が山中守護のために勧請したのが始まりとされている。元禄の頃、社殿が今より下にあって街道に面していたが、社前を馬に乗ったまま通ると落馬が多かったため、神社を上段の地に移して南向きにしたらその災いがなくなったというエピソードがある。先ほどの神社も諏訪神社だったが、諏訪信仰がこのあたりは盛んだったのだろうか。諏訪神社の向かい側に藤沢宿の江戸見附がある。

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藤沢宿江戸見附

 イイジマ薬局の角を右折するとすぐに、ふじさわ宿交流館がある。少し寄ってみた。

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ふじさわ宿交流館

 なかには昔の旅人の旅行用品や藤沢宿に関する展示があった。「一日十里の強行旅だったので、名所があっても通り過ぎるといったほうが正しかっただろう。」という文章が印象に残った。

 また、藤沢宿東海道から江の島や大山へ参詣する道の分岐点に位置していたので、それぞれの行き来の旅人で大いに賑わったそうだ。

 ふじさわ宿交流館の右手側に遊行寺総門がある。

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遊行寺総門

 これは日本三大黒門とされている。ここから遊行寺に入る。

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遊行寺

 遊行寺時宗の総本山で、正式名称は藤沢山無量光院清浄光寺という。時宗一遍上人が開いたが、一遍上人は賦算の旅を続けたため、この寺は遊行四代呑海上人によって創建された。江戸時代は多くの参拝客がいたと聞き、日曜午後なので混んでいると思ったら思ったより空いていた。人がまったくいないわけではなかったが、川越の喜多院や東京の深川不動堂のほうが混んでいる印象を受けた。

 遊行寺を出て、遊行寺橋で境川を渡る。

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遊行寺

 この橋は昔大鋸橋と呼ばれ、この橋のあたりは多くの浮世絵や錦絵に描かれた、藤沢宿の「顔」といった場所だった。

 遊行寺橋と藤沢橋の間に江の島弁財天道標がある。

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江の島弁財天道標

 これは江戸時代の検校杉山和一によるものである。杉山検校は江島神社を信仰して鍼術を学び、五代将軍綱吉の病を治して有名になった。終生江島神社への恩を忘れず、参詣の人々のために道中48基の道標を立てた。現在14基が残っている。

 正面には「ゑのしま道」右側には「一切衆生」左側には「二世安楽」と刻まれている。この文言には、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏・極楽への願いが込められている。なお、遊行寺橋から左折してそのまま進むと江の島に到着する。今回は東海道をたどっているので、右折して東海道を進む。

 藤沢宿は、東京電力のボックスの古い写真や古い建物の残存から、古くからあった街だということはわかったものの、説明板があまりなかったのが残念だった。

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 かろうじてあったのが蒔田本陣跡と問屋場跡の説明板である。

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蒔田本陣跡

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問屋場

 藤沢宿本陣は初めの頃は堀内家が名主、問屋を兼ねながら務めていたが延享2年(1745年)に堀内家が焼失したため、蒔田源右衛門が代わって務めるようになり、蒔田本陣となった。問屋場跡は消防署出張所になっていた。

 白旗交差点の少し前に伝源義経首洗井戸という案内板があったので、寄ってみた。

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源義経首洗井戸

 奥州平泉で打たれた義経の首は、鎌倉腰越浜で首実検の後で海に捨てられたが、金色の亀によって境川を遡ってきたためここで首を洗い、白旗神社に葬られたとされている。少しおどろおどろしさを感じる場所だった。

 そのまま進むと伊勢山橋があり、そこで小田急江ノ島線を渡っている。右を見ると坂の下に藤沢本町駅があった。今回はここで終了する。

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藤沢本町駅

 11時に戸塚駅を出て16時に藤沢本町駅に着く長い行程だったが(途中で昼食休憩を挟んだ)、これでも戸塚宿から藤沢宿は2里(約8km)らしい。日が暮れるのが早いのも余計に距離を感じるのだろうか。次回の藤沢宿から平塚宿は3.5里(約13.7km)もあるようなので、日が暮れる前に平塚駅に到着したい。

 

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今回の地図①

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今回の地図②

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今回の地図③

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今回の地図④

次回記事はこちら↓

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歩いた日:2021年12月19日

 

【参考文献】

風人社(2013) 「ホントに歩く東海道 第2集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016) 「神奈川の宿場を歩く」 神奈川新聞社

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011) 「神奈川の歴史散歩」 山川出版社

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

(2022年1月12日最終閲覧)

東海道を歩く 5.保土ヶ谷駅~戸塚駅 後編

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 権太坂を登りきり、境木地蔵まで辿り着いた。あとはほぼ、坂を下りていくだけだ。ちなみに江戸時代の人々が旅行で東海道を歩いたとき、1日で日本橋から戸塚まで移動したそうだ。これは大変な距離の移動だと思う。ちなみに10里(約40km)ほどである。なお、現在は東京駅から戸塚駅まで東海道本線で40分ほど、730円で行ける。そもそも東海道の終点の京都まで新幹線だと2時間ほどで行けるのだから、江戸時代の人がこれを知ったら腰を抜かすだろう。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.焼餅坂

 境木地蔵前にある散策案内図がこれである。

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 これを見ると直進すると思ってしまうが、実際は境木地蔵前交差点で南西方向に曲がり、すぐに焼餅坂を下りるのが正解である。実際、私もここで道を間違えて途中で気づき、境木地蔵前まで戻る羽目になった。

 焼餅坂を下りる前に右手側に「左 旧東海堂 右 環状二号」と書かれた石碑があるのを確認してから焼餅坂を下りると確実だ。

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 焼餅坂の由来はこの坂にあった茶屋で焼餅が売られていたからとも、客の多い若い娘の茶店をほかの店の老婆が妬いたからとも伝えられている。ちなみに今は、焼餅屋はない。

2.品濃一里塚

 そのまま進むと住宅街に出る。竹林の脇に、また庚申塔を見つけた。

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  切り通しのようなところを通るが、実はこれは切り通しではない。品濃一里塚だ。

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品濃一里塚

 品濃一里塚は、江戸から数えて9番目の一里塚で、神奈川県内ではほぼ完全な形で残る唯一の一里塚である。昔は大きな榎が植えられていたが、今は榎の根本が残るのみで楠や雑木が茂っている。現在は西側・東側の一里塚ともに塚とその周辺が公園として整備されている。一里塚は以前も見たことがあるが(市場の一里塚)、ここまで立派なものは初めて見た。なお市場の一里塚については「東海道を歩く 3.川崎駅~神奈川駅」で取り上げているのでそちらも参照してほしい。

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3.福寿観音

 そのまま進むと右側に小さなお堂と歩道橋が見える。福寿観音だ。

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福寿観音

 福寿観音は東戸塚駅建設に尽力した福原政二郎氏が建立した観音堂である。この観音堂の前にある歩道橋はイオンに通じており、そのまま進むと東戸塚駅に到着する。疲れた人はこのイオンで休憩してもよいかもしれないが、帰りたくなりそうだ。

 イオンには行かずに、そのまま道なりに進む。すると階段が現れる。ここが品濃坂だ。

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品濃坂

 今は階段になっていてそれほど急だとは感じなかったが、昔は急坂で有名だったらしい。

 品濃坂を歩道橋経由で下り、また住宅街を進む。

 しばらく進むと右手側に川が見える。川上川だ。しばらくはこの川沿いに進む。東戸塚駅交差点を越えても、そのまま進む。目の前を見ると遠くに富士山が見えた。

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 今でも見えるのだから、昔はもっと印象的に見えただろう。

 赤関橋を渡り、国道1号の脇の旧道を進む。すると「提灯立場跡」と書かれた案内板を見つける。

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提灯立場跡

 ここにも立場があったらしい。今はただの住宅だった。

4.大山前不動

 次の国道1号の交差点で東海道国道1号に合流する。少し暗くなってきたので先を急がなければと思った。まだ15時半なのに、11月の日暮れは早い。

 山崎製パン森紙業、ポーラなどの工場地帯を進む。すると右側に「柏尾の大山道入口」と書かれた看板を見つけたので行ってみる。

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大山前不動

 これが大山前不動だ。ここが大山道の始点である。不動堂には台座の上に不動明王が乗っている道標が納められている。この近くに庚申塔や灯篭もある。

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 ここから大山山頂までは約39kmで、日本橋から戸塚までは約40kmとされていることを考えると、ここから大山まで歩いていけるかもしれないと思った。

5.ハム製造所跡

 不動坂交差点で左側の旧道を進む。だいぶ遠くからしか写真を撮っていなかったが、斎藤家のレンガ造りの土蔵がある。ここは日本で初めてハムを製造したハム製造所跡である。

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ハム製造所跡

 明治10年代、ウィリアム・カーチスがこの地でハムを作り始めた。当時この村の村長だった斎藤満平はカーチスにハム製造法を教えてくれと依頼したが、カーチスは日本人には教えてくれなかった。そのため、作業場で働いていた斎藤角次らにハムの製造法を密かに学びとらせた。その後、カーチスは斎藤満平に正式にハムの製造法を教えてくれることになった。明治28年(1855年)には博覧会にハムを出品して表彰され、「鎌倉ハム」として有名になった。

 舞岡川まで来たら川沿いに右折し、国道1号に合流、五太夫橋を渡る。

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太夫

 これは徳川家康が関東へ入国する際に小田原北条氏の家臣を登用したが、その一人石巻太夫がここで家康を出迎えたのでこの名がついた。その後、石巻太夫は家臣に登用され、中田村の領主になっている。

6.戸塚宿江戸方見付跡

 そのまま進むと右側にイオンスタイル戸塚が見えてくる。その前に石碑と案内板がある。戸塚宿江戸方見付跡だ。

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戸塚宿江戸方見付跡

 見付は宿の出入り口であるとともに宿を守る防衛の施設である。ここは戸塚宿の江戸側の出入り口で、参勤交代の大名たちを宿役人がここで出迎えていた。やっと戸塚宿に到着した、と安堵した。

7.戸塚一里塚跡

 そのまま進むとセブンイレブンの少し先に「戸塚一里塚跡」の案内板があるのに気づく。

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戸塚一里塚跡

 品濃一里塚と違い、ここは案内板があるだけだ。それにしても一里塚を見るのは本日3ヶ所目、だいぶ歩いたなと感じた。

 吉田大橋のたもとに、安藤広重が描いた戸塚宿の浮世絵がある。

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戸塚宿の浮世絵

 安藤広重が吉田大橋を題材としたことにより、ここが戸塚宿を代表する場所のひとつになった。現在の吉田大橋周辺とは、ずいぶん違う風景だなと感じた。

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現在の吉田大橋周辺

 矢部団地入口で自動車道は地下に入っていくので、左方向に進み、戸塚駅を目指す。

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 しばらく道なりに進み、戸塚駅東口入口交差点を左折すると、戸塚駅に到着する。

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戸塚駅東口入口交差点

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戸塚駅

 この日は12時に保土ヶ谷駅を出発し、戸塚駅に到着したのは16時半だった。アップダウンが激しかったこともあり、到着したときはクタクタで一休みしないと帰りの電車に乗れないほどだった。保土ヶ谷から歩いてこれだけ疲れるのだから、日本橋から歩いてきたら大層疲れたことだろう。改めて江戸時代の人々の体力はすごいと感じた。なお、これだけ歩いても今日は横浜市内を出ていない。横浜市は広い。

 次回は戸塚駅から藤沢本町駅まで歩く予定で、距離は2里(約8km)。また頑張らなくてはいけないみたいだ。

 

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今回の地図①

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今回の地図②

次回記事はこちら↓

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歩いた日:2021年11月7日

 

【参考文献】

風人社(2013) 「ホントに歩く東海道 第2集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016) 「神奈川の宿場を歩く」 神奈川新聞社

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011) 「神奈川の歴史散歩」 山川出版社