前回、箱根峠を越えて三島、静岡県に到着した。そこで、Twitterの三島に住んでいるフォロワーさんから「一緒に東海道を歩いてみたい」と言われたので、一緒に行くことにした。私は三島駅まで新幹線で移動し、三島駅で待ち合わせ、その後一駅移動して三島広小路駅から今日は始まる。
初回記事はこちら↓
前回記事はこちら↓
1.千貫樋
三島広小路駅を出て、Y字路の左側、県道145号線沿いを進む。少し進むと秋葉神社がある。
秋葉神社を祀るようになったのは、慶安元年(1648年)から宝暦2年(1752年)の間に、町が数度の大火に見舞われたからである。そこで、防火の神として信仰を集めている秋葉神社の分霊を祀る神社を創建した。
秋葉神社の道路の反対側を見ると千貫樋がある。
千貫樋は伊豆・駿河の国境、境川にかけられている樋で、長さ42.7m、巾1.9m、深さ45cm、高さ4.2mである。創設については諸説あるが、天文24年(1555年)今川、武田、北條3家の和睦が成立したとき、北條氏康から今川氏真に聟(むこ)引出物として、小浜池から長堤を築き、その水を駿河に疎通させたというのが一般に認められている。千貫樋の名称には、水の代金が千貫文であったとか、建設費が千貫かかった、用水が千貫の田地を潤すようになった、などという説がある。江戸時代には東海道の名所の1つとして、『東海道名所図会』や葛飾北斎の浮世絵にも描かれている。なお、現在の千貫樋は、関東大震災による大破後に、コンクリートで再建されたものである。
千貫樋は伊豆・駿河の国境にあるが、ここは現在でも三島市と清水町の市町境になっており、清水町のカントリーサインがある。
伊豆と箱根の境は箱根峠なので、伊豆国はあっという間に終わってしまった。
2.清水町に入る
清水町のマンホールを発見した。
富士山を背景に、柿田川と眼鏡橋がデザインされている。現在、眼鏡橋は破損し、その上流に柿田橋が架かっているので、これは実際の景色とは違うらしい。
千貫樋から少し進んだ県道144号線を右折して少し進むと庚申堂がある(写真は撮り忘れてしまった)。現在この周辺には寺がないが、「駿河風土記」によると近世には浄土宗の「善境寺」という寺があり、庚申堂もこの寺の一角にあったようだ。現在でも浄土宗の寺院があったことによる念仏信仰が盛んで、庚申堂では「真如会」と称する高齢者グループにより月例観音講が主催され、念仏や読経が行われている。ここから少し進んだところで経を上げながら家を巡っている団体を見たので、これが真如会かもしれない。
少し進むと大きな常夜燈を見つけた。
これは弘化3年(1846年)に建立されたもので、両側に秋葉大権現と富士浅間宮と刻まれており、いずれも火を鎮める神様である。
清水町新宿南交差点の少し先に、非常に凝った東海道の案内図を見つけた。
このようなものを見ると、現在でも東海道を大切にする意識が伝わってくる。
少し進むと玉井寺一里塚・宝池寺一里塚を見つけた。
玉井寺一里塚は慶長9年(1604年)に作られたもので、昔の姿をそのまま残しており、清水町指定文化財に指定されている。宝池寺一里塚は原型が損なわれてしまったため昭和60年(1985年)に復元されたものだが、こちらも清水町指定文化財に指定されている。
秀源寺の山門前に水準点を発見した。
一等水準点第59号だ。これは平成12年(2000年)に設置された割と新しい水準点である。中心に金属標が置かれ、その周囲に保護石が4つ、「大切にしましょう水準点」の標示杭が立ててある。
3.八幡神社
水準点の少し先に鳥居を見つけた。
参道になっているようだが、入ることができない。興味を持ったので、脇道から進んでみることにした。進んだ先には、八幡神社があった。
八幡神社の創立年代は未詳。祭神は譽田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)である。なんと本殿のドアが自動ドアになっており、近づくと自動ドアが開いたので少し驚いた。本殿のドアが自動になっている神社は初めて見た。
本殿の裏には対面石がある。
この対面石は治承4年(1180年)に源頼朝と弟の源義経がこの石に腰掛け、源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙にくれたといわれている石である。対面石は、江戸時代に八幡村を支配した旗本久世氏の陣屋にあったといわれ、久世氏は文化8年(1811年)に対面石の顕彰碑を建てている。
4.智方神社
八幡神社に参拝し、先に進むと臼井国際産業のビルが見えた(松林に隠れてわかりにくいかもしれない)。
臼井国際産業は社員数730名(2020年12月現在)の自動車部品を製造している会社で、この付近では有名な会社である、と同行者の方が教えてくれた。地元では有名なのかもしれないが、私は知らなかった。
臼井国際産業の向かい側には智方神社がある。
智方神社は昔、黄瀬川が伊豆と駿河の国境であったため、国境を守る神々が祀られた神社である。祭神に、予母都道守神菊理比咩神(よもつみちもりのかみきくりひめのかみ)がいる。この神様は道や旅人の安全を守っている。
境内には清水町で最も大きい樹木であるクスノキがある。
足利方に敗れた護良親王は建武2年(1335年)に鎌倉の土牢に幽閉されて殺された。お側に仕えていた南の方は、密かにその御首を持ち帰る途中に黄瀬川の洪水に遭ったためやむなくここに葬った。その目印にクスノキを植えたという。この話通りならこのクスノキは樹齢700年ほどだろうか。
近くには護良親王の御陵もあり、そっと手を合わせた。
黄瀬川橋を渡り、黄瀬川を越える。
黄瀬川は富士山の東麓を流れる唯一の川で、上から藍壷、白滝、赤瀬、黒瀬、黄瀬などの地名がついているから五色川ともいう。何の標識もなかったが、ここで清水町は終わり、沼津市に入ったようだ。
5.潮音寺
黄瀬川を越えてすぐに、八幡神社を見つけた。
この八幡神社は説明板もなく、インターネットで調べても有力な情報は出てこなかった。
八幡神社から少し進んだところに潮音寺がある。
潮音寺は弘仁年中に弘法大師が伊豆修善寺に修行に行ったとき、この地を通ったときに聖観世音菩薩を刻み、堂を建てて安置したのが始まりである。ここには亀鶴の伝説がある。
亀鶴は小野長者の一人娘として生まれ、鶴や亀のように長生きしてほしいという親の願いを一身に受けて育てられたのであるが、富士の巻狩りの折に源頼朝に招かれたのを断って18歳の春、黄瀬川の上流の鮎壷の滝に身を沈めてしまったという。村人は亀鶴山観音寺を建てて彼女を供養した。今は街道に面した潮音寺に祀られ、駿河三十三所観音霊場の第三十三霊場になっている。
潮音寺から先に進むと傍示石がある。石には「従是西 沼津領」と刻まれている。
これは沼津領の東端を定義するもので、安永7年(1778年)にこの石が韮山代官所から運ばれ、東海道沿いの黄瀬川村と下石田村の境界に建てられて沼津藩領域が確定した。
ここに沼津市のマンホールがあった。
沼津市のマンホールは沼津市の花「はまゆう」と千本松原、駿河湾、愛鷹山と富士山がデザインされている。清水町のマンホールとの共通項は、富士山がデザインされていることである。流石である。
6.平作地蔵
県道380号と合流して少し先に進むと「歴史マップ 沼津市大岡」という看板を見つけた。
ここには13ヶ所の史跡が書かれているが、うち7ヶ所が東海道沿いである。やはり史跡は旧道沿いに残りやすいのだ。
近くには「→東海道」の石柱もあった。
小さな祠を目印に、旧道に進む。
少し進むと平作地蔵尊がある。
平作地蔵尊はいつの頃創建されたか明らかではないが有名な浄瑠璃「伊賀越道中双六」に出てくる沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られている。
平作地蔵尊の少し先に一里塚と玉砥石がある。
この一里塚は江戸から30里の一里塚で、29里の一里塚から計測すると距離が不足しているものの、ここは宿場内であるため東方に寄せて、日枝神社旧参道脇のここに築いたといわれている。正確であるはずの一里塚も政治的配慮によって変更しなくてはならなかったようである。
玉砥石は、今から1200~1300年前に玉類を磨くために用いられた砥石と伝えられている。柱状の2つの大石にそれぞれ直線的な溝があり、ここに玉の原石を入れて磨いたと考えられている。この地は古代の駿河国駿河郡玉造郷の旧地で、狩野川の対岸には『延喜式』式内社の玉造神社がある。
7.日枝神社
一里塚から右手側を見ると日枝神社が見えるので、行ってみよう。
平安時代末期、関白藤原師通は、神社付近から北東地域一帯に広がっていた大岡荘の領主であった。ところが、嘉保2年(1095年)に源義綱(藤原師通の家来)が比叡山の僧円応法師を殺害する事件、義綱の家来が日吉神社の神人を殺害する事件がおき、神社の恨みを買うことになった。やがて師通は僧侶たちの呪詛により、比叡山の守護神である山王の祟りをうけ、38歳で死去してしまった。そこで師通の母である北政所は、その恨みをやわらげるため、ここに日吉神社を勧請し、それが現在の日枝神社になったという。
日枝神社の祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)、大名牟遅神(おおなむちのかみ)、大歳神(おおとしのかみ)である。境内には天満宮もあり、神牛がいた。
そしておみくじの番号が選べるおみくじははじめて見た。
県道380号に戻り、西に進む。三園橋交差点から少し進んだところで左側に入る。「旧東海道 川廓通り」と書かれているのが目印だ。
「川廓」は「川曲輪」とも記し、狩野川に面した城廓に由来して名づけられたものと考えられる。この城廓とは、沼津城のことである。
沼津城の前身、三枚橋城は武田勝頼が修築したが、慶長19年(1614年)に一度廃城、安永6年(1777年)になって水野氏が三枚橋城跡に沼津城を再建した。明治5年(1872年)に沼津城は廃止、城跡は民間に払い下げられたため城跡は残っていない。
8.沼津宿を歩く
沼津駅に繋がる県道159号との交差点に出る。雨が激しくなってきたのとお腹が空いてきたので同行者の方オススメのラーメンを食べることにした。入ったのは「らーめん 銕(くろがね)」。「まったりの鶏」のラーメンを食べた。
4月の雨でだいぶ冷えていたので、美味しく感じた。
ラーメン屋で雨の状況を見ながら先に進むか考えたが、先に進むことにした。
県道159号との交差点まで戻り、南に進む。ここは通横町といい、江戸時代、沼津宿の問屋場が置かれ、人馬継立てでにぎわったところであるようだ。
通横町の交差点で右折、次の交差点で左折してまた南に進む。屋根があって少しでも雨がしのげるのがありがたい。
沼津宿の中心街は南北に通っている。東海道の宿場はほとんど東西にできているのに、南北にできているのは静岡県内では沼津宿、岡部宿、浜松宿くらいである。
中村脇本陣跡の石柱を見つけた。
ここには特に説明板はない。
「東海道ルネッサンス 376km←京都 東京→119km」の板を見つけた。
この東海道ルネッサンス、調べてみたが何も出てこない。平成8年(1996年)に始まったことなので、ホームページが整備されていないのだろうか。余談だが、平成8年(1996年)は私が生まれた年である。
清水本陣跡の石柱も見つけた。
この石柱もこれ以外に説明板はない。現在は空き地になっていた。
9.丸子浅間神社
次の信号で右折し、西に進む。すぐに丸子浅間神社がある。
ここは「丸子神社」「浅間神社」という一扉二社という稀有な形式で鎮座している。
丸子神社は「金山彦尊(かなやまひこのかみ)」をお祀りする神社で、剣・鏡・鋤・鍬を鍛える守護神とされ、鉄鋼業の進歩発展に広く恵みを授けた。延喜式神名帳(延長5年(927年)発行)に所載される「式内社」であり、その創建は第10代崇神天皇(紀元前97~30年)の頃と伝えられている。
浅間神社は「木花開耶姫命(このはなのさくやびめ)」を祀る神社で、縁結び・安産・子育ての守護神として尊崇を受けている。延暦20年(801年)、坂上田村麻呂が東征凱旋のおり、狩野川の右岸(現沼津市宮町)に浅間神社として奉斎し、建仁3年(1203年)に現在の浅間町に遷座した。
丸子浅間神社に参拝し、西に進むと出口町見付外の説明板があった。
ここが沼津宿の西端のようだ。そういえば沼津宿の江戸口見付は見なかった気がする。
10.六代松
しばらく県道163号沿いを進むと、右側に「是ヨリ南一町半 六代松」という案内板を見つけた。少し寄ってみる。
六代は小松の三位中将平維盛の息子であり、祖父は重盛、曾祖父は清盛である。平家物語によると、六代は平家一門の滅亡に伴い、源頼朝の家来北条時政によって捕らえられ、鎌倉に護送の途中、千本松原において処刑されそうになった。そのとき、文覚(もんがく)上人の命乞いによって赦免となったが、その後文覚上人の謀叛に連なり、処刑された。従者の斎藤六範房は、六代の首を携え、ゆかりの深い千本松原にやってきて、その首を松の根本に埋め弔った。この松を土地の人は「六代松」と称し、六代御前に関わりを持つ松として親しまれてきたが、松が枯死したので、天保12年(1841年)に沼津藩の典医であった駒留正隆の撰文により、枯れた松の傍らに記念碑が建てられた。
六代松から東海道に戻り、しばらく進むと「旧東海道」と書かれたY字路があるので右側に進む。すると沼津藩領境榜示がある。
安永6年(1777年)水野出羽守忠友は、2万石の大名として10代将軍徳川家治から沼津に城地を賜り、築城を命じられた。翌安永7年(1778年)、韮山代官江川太郎左衛門から城地を引き継ぎ、沼津藩創立とともにこの榜示杭を設置した。これは明治末期頃に折られて下半分が失われているが、完全な形で残っている榜示杭と同時に立てられたものと考えられる。
11.片浜駅まで歩く
少し進むと八幡宮がある。
祭神は譽田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)である。そしてこの八幡宮の説明板が非常に長い。
雨だったので読む気が失せたほど長い。晴れていても最後まで読んだかわからない。
八幡宮の境内にも水準点がある。
一等水準点第60-1号だ。これも平成12年(2000年)設置、金属標の周囲に4つ保護石があり、「大切にしましょう水準点」の標示杭がある。
少し先に進むと気になる参道を見つけたので行ってみる。
諏訪神社だ。
諏訪神社の祭神は建御名方命(たけみなかたのかみ)で、天正3年(1575年)武田氏家臣の市川和泉守の創立と伝えられている。
少し進むと気になる寺院を見つけたので寄ってみる。吉祥院だ。
ここは特に説明板もなく、調べても宗派が本門法華宗であること以外情報が出てこなかった。参道が2つに分かれているのが珍しい。
今日は原駅まで歩く予定だったが、現在15時半であること、そして雨が激しく靴の中がびしょびしょであることから、途中の片浜駅で切り上げることにした。
この後は同行者の方と沼津駅の居酒屋に入り、しばらく談笑してから別れた。また東海道に参加したいと言っており、明後日は空いているとのことで同行者の方は明後日も参加することになった。
次回記事はこちら↓
歩いた日:2022年4月29日
【参考文献・参考サイト】
静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」山川出版社
https://mishima-life.jp/sunzu/info.asp?id=168
清水町 マンホール
https://rojonomanhole.web.fc2.com/shizuoka/shimizu_town.htm
国土地理院 基準点成果等閲覧サービス
https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html
http://www.inarijinja.com/yahata/
臼井国際産業株式会社 会社概要
http://www.usui.co.jp/jp/profile/companyinfo/index.html
智方神社
http://www.inarijinja.com/kenmu/tikata/index.htm
沼津市 潮音寺(ちょうおんじ)
https://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/profile/bunkazai/toukai/chouonji.htm
https://www.city.numazu.shizuoka.jp/kurashi/sumai/gesui/gaiyo/mhcard1.htm
日枝神社 山王さんについて
https://numazu-hieijinjya.com/sanno.html
丸子神社 浅間神社
http://marukosengen.jp/about.html
沼津市 六代松(ろくだいまつ)の碑
https://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/profile/bunkazai/toukai/rokud.htm
(2022年6月8日最終閲覧)