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東海道を歩かない 小田原編

 この前、東海道を歩いたときに小田原城の近くを通ったが行かずに素通りした。

octoberabbit.hatenablog.com

 あの後、改めて小田原城含め小田原城下町を歩いてみたいと思い、小田原に降り立った。今回は小田原歩きの記録となっている。

1.小田原城へ向かう

 今回はここ、小田原駅東口から出発する。そのまま進むと、錦通りが見えてくる。

錦通り

 錦通りを入るところに小田原市エリア ジオサイトの看板がある。

 所要時間4~5時間で小田原駅から小田原城石垣山一夜城などを経由して入生田駅まで歩くルートだが、このなかで小田原城だけ行って一日が終わってしまった。

 

 おしゃれ横丁というおしゃれ(?)な門の先に店があるのを見つけた。

おしゃれ横丁

 ちらりと見える限りではあるが、おしゃれ横丁のなかに居酒屋があるのは不思議に感じる。

 

 「小田原城 正面入口」と書かれたマンホールがあったのでその方向に進む。

 このマンホールはダイヤ街商店会に5つ設置されており、それぞれ北条氏直北条氏政北条氏康北条氏綱北条早雲がデザインされている。

 この5人は小田原城の城主であった北条五代である。調べたところこのキャラクターは北条五代PRキャラクターとしてデザインされたようだが、どことなく鬼滅の刃に似ていると思ったのは気のせいだろうか。

 関係ないがガンダム小田原城のマンホールもあった。

ガンダムマンホール

 栄町一丁目交差点を直進し、小田原城へ向かう。反対側にだるま料理店本店を見つけた。

だるま料理店本店

 だるま料理店は明治26年(1893年)創業の日本料理店で、店の建物は唐破風入母屋造り、国の有形登録文化財にも指定されている。建物は大正12年(1923年)の関東大震災により倒壊、再建されている。天丼セット1700円(税抜)、寿司1200円(税抜)で、高めではあるが出せない金額ではないので次小田原に行ったときは行ってみようと思う。

 

 裁判所の角を右折すると、鐘楼があった。

鐘楼

 この鐘楼は貞享3年(1686年)の記録のなかに登場しており、300年以上前からあったことになる。しかし昭和17年(1942年)の太平洋戦争の金属類供出命令により応召されてしまった。現在の鐘は昭和28年(1953年)に作られたものである。

 鐘楼のあったところに大手門があったようだ。東側の城下より一段高くなっており、この門より西側は小田原城三の丸で、藩の重臣屋敷が立ち並んでいた。

2.小田原城

 学橋を渡って二の丸に入る。

二の丸跡

 二の丸の建物は、「二の丸御屋形」と呼ばれ、藩主の住まいのほか、藩の政治を司る政庁としての役割があった。なお、本丸は徳川将軍家のための御殿があり、小田原城では藩主は本丸に住んでいなかったことになる。

 二の丸の近くに歴史見聞館がある。

歴史見聞館

 これは小田原城廃城後に建てられた小田原第二尋常高等小学校の旧講堂である。現在はNINJA館として使用されており、なかでは忍者体験ができるようだが、成人女性が1人で入るのはためらわれたのでやめておいた。

 

 さらにその近くには銅(あかがね)門の土塀模型と礎石があった。

銅門土塀模型

 銅門の土塀は荒壁、斑直し、大直し、中塗り、砂漆喰を塗り重ねてできているようだ。ずいぶんいろいろ塗り重ねている。

 少し南側には銅門があった。

銅門

 江戸時代に二の丸正門に位置づけられる門で、この門を通り本丸や天守へと進むようになっていた。平成9年(1997年)に古来の工法により復元された。

 銅門の内部が公開されていた。中にはフォトスポットもあった。

銅門内部

 常盤木坂を登り、常盤木門をくぐる。常盤木門は小田原城の本丸正門である。

常盤木門

 門の名前である「常盤木」とは常緑樹のことを指し、戦国時代から本丸に存在した7本の松に由来している。本丸の正面にあたる多門櫓と渡り櫓を配した枡形門で、小田原城の城門のなかではもっとも大きく堅固につくられていたという。明治3年(1870年)、小田原城廃城とともに解体されたが、昭和46年(1971年)に再建された。

 常盤木門をくぐるとなぜかサル山があった。なぜここにサルがいるのかはわからない。

常盤木門のサル山

 常盤木門をくぐると天守閣が見える。

天守

 ここは本丸で、本丸は徳川将軍家の宿所としての役割を持っていた。将軍家の上洛が途絶えた後も維持されていたが、元禄16年(1703年)の地震によって本丸が倒壊・焼失してからは再建されることはなかった。

 天守閣は元禄16年の大地震後の宝暦2年(1705年)に再建され、明治3年(1870年)の廃城・解体まで存在した。現在の天守閣は昭和35年(1960年)に市制20周年の記念事業として鉄筋コンクリート造りで復興されたものである。

 510円払って天守閣に入る。

 小田原城は5階建てで、1階は江戸時代の小田原城、2階は戦国時代の小田原城、3階は小田原ゆかりの美術工芸品・発掘調査結果、4階は明治以降の小田原城の展示がある。5階は小田原城天守の再現と展望デッキとなっている。やや曇っていたが、展望デッキからの眺めは良かった。

 ここで小田原城の歴史について説明する。

 小田原城は、箱根山をひかえた関東の西端に位置し、北方から西方にかけては箱根古期外輪山東麓の丘陵が連なり、西南に早川、北東に酒匂・山王の両川、東南は相模湾に面する要害の地、かつ東西交通の要路東海道をおさえる要衝に所在する。

 小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中ごろのことと考えられている。大森氏時代の城は、現在県立小田原高校がたっている東側の八幡山古郭とよばれる丘陵上にあった。小田原の関所や宿町、東海道など交通上の要所をおさえる目的で、これらを直接監視し得る位置に築かれた城砦が始まりと推測される。やがて領域支配の伸展によりその拠点として、さらには内乱が続きいち早く戦国的様相を呈していた関東の軍事的緊張下のもと、拡張と一層の要害化が進み、15世紀末には相模西郡支配の枢要を担う存在となった。

 1500年頃に戦国大名小田原北条氏の居城となってからは、関東支配の中心拠点として拡張整備が行われ、二の丸・三の丸と城地は拡大していった。永禄4年(1561年)に上杉謙信、永禄12年(1569年)には武田信玄が来襲するが退却した。豊臣秀吉の来攻に備えて、天正18年(1590年)三の丸の外側に町全体を囲む総延長9kmの惣構えが完成すると、城の規模は最大に達して日本最大の中世城郭となった。

 豊臣軍は天正18年(1590年)3月29日に山中城を落城、4月5日には秀吉が早雲寺に本陣を構え、同月中旬には小田原城の包囲が完成した。和睦交渉は6月初旬から始まり、6月6日・7日には織田信雄の家臣岡本利世が小田原城内に入り北条氏直と対面し、7月5日に北条氏直は弟の氏房とともに滝川雄利の陣所に投降、7月6日には徳川家康小田原城は接収された。

 江戸時代になると小田原城徳川家康が支配、関東に入国した徳川家康重臣大久保氏が城主となるが、大久保忠隣改易後の慶長19年(1614年)1月に、二の丸・三の丸の城門や櫓などが破壊された。その後寛永9年(1632年)~貞享2年(1685年)の稲葉氏が城主のときに、幕府の手による再建(公儀普請)が行われ、石垣積みの近世城郭としてうまれかわった。貞享3年(1686年)に再び大久保氏が城主になってからは、いくたびかの災害に見舞われながらもその都度再建が行われ、明治維新後の明治3年(1870年)に廃城、ほとんどの建物は解体されたが、昭和35年(1960年)に天守閣が再建されたのをはじめ、その後順次再建されていき、現在に至る。

 

 現在13時半で、少しお腹が空いてきたので本丸茶屋で北條うどんを食べた。

北條うどん

 小田原特産のかまぼこと梅干が入っている。私は甘い梅干のほうが好きなので、しょっぱくてすっぱいこの梅干はなかなかパンチがあるように感じた。梅干が入ったうどんは斬新だと感じたが、美味しかった。

3.小田原城址公園

 小田原城内にはこども遊園地がある。豆汽車、バッテリーカー、自動遊器具がある。なお、豆汽車以外は大人が遊ぶことはできない。そして豆汽車はコロナ対策で走っていなかったので、結局遊具を見て回るくらいしか大人はすることがない。

 それでもこのような小さな遊園地は好きなので、写真を撮って回るだけでも楽しかった。

 

 報徳二宮神社に向かう前に、小田原城小峯曲輪北堀があった。

小田原城小峯曲輪北堀

 この空堀は小峯曲輪を囲む堀の北側の部分で、石垣を用いない土塁と空堀だけの戦国時代の城の原形を留めている貴重な遺構である。

 

 こども遊園地の南隣に報徳二宮神社がある。

報徳二宮神社

 報徳二宮神社二宮尊徳を祀る神社である。二宮尊徳は報徳社を設立して農村の救済・教化運動を行っていたが、二宮尊徳の死後も報徳社は存続し、報徳社員が明治27年(1894年)に報徳二宮神社を創建した。

 境内には二宮尊徳こと二宮金次郎像もある。

二宮金次郎

 この像は当時のメートル法普及の意図を反映してちょうど1mの高さに作られている。

 

 報徳二宮神社を出て、小田原市郷土文化館に向かう途中に見事な藤棚があった。これは御感の藤と言われるものである。

御感の藤

 大正天皇が皇太子のとき、ここを通りかかったときに馬が藤棚の中に入ってしまったため殿下の肩に花が散ってしまった。周囲の人が恐縮するなか、殿下は「見事な花に心なきことよ」と感嘆されたため、「御感の藤」と呼ばれるようになった。

 

 小峯橋を渡って小田原城内に戻る。

小峯橋

 小峯橋は御茶壷橋という名でも親しまれている。この名前は江戸時代に宇治から将軍家にお茶を献上する際の御茶壷道中と呼ばれる行列に由来している。

 

 小峯橋から少し北へ行くと小田原市郷土文化館がある。

小田原市郷土文化館

 小田原市郷土文化館では奈良時代から江戸時代までの資料が展示してある歴史資料室、明治以降の資料が展示してある文化人資料室、縄文~古墳時代の土器等が展示してある考古資料室、農具などが展示してある民俗資料室、小田原の動植物が展示してある自然科学資料室がある。そしてこれらの展示がすべて無料で見ることができる。展示内容が充実していたので、2時間も展示を見てしまった。天守閣には結構人がいたのに、ここにはほとんど人がいない、穴場スポットだ。展示が気に入ったら常設展示ガイド「小田原の歴史と民俗」を購入するのがおすすめだ。

 

 銅門をくぐり、馬屋曲輪に出る。

馬屋曲輪

 馬屋曲輪はL字形を呈する独立した曲輪である。この曲輪は三の丸より東側は馬出門、南側は南門を経て御茶壷曲輪から二の丸表玄関である銅門へと至る重要な位置にある。

 

 馬出門をくぐって小田原城を出る。

馬出門

 馬出門は三の丸から二の丸に向かう大手筋に位置する門である。寛文12年(1672年)に枡形形式に改修され、江戸時代末期まで存続した。石垣と土塀で四角く囲んだ枡形と、本柱と控柱を備えた高麗門形式の馬出門、内冠木門の2つの門から成る。

 

 お堀端通りを南進して、御幸の浜交差点で右折して東海道を歩く。「東海道を歩かない」だが、ここだけ東海道を歩く。

 

 前回ういろうを買いそびれた「ういろう」の店でういろうを買う。

 切って食べるものなのですぐここで食べることはできなかったが、持って帰って家で食べたら甘くて美味しかった。

 

 早川口交差点で右折して小田原駅方面まで歩く。東海道から小田原駅までは結構距離がある。これが「東海道を歩く」で小田原駅終了とせず、箱根板橋駅終了とした理由である。

 

 そのまま歩き続けると小田原駅東口に到着する。

 これで小田原まちあるきは終了である。もし、また行く機会があれば石垣山一夜城などにも行ってみたい。

 

【おまけ】

 歩き終わった後に温泉に入りたくなった。そこで寄ったのが小田急小田原線沿線にある鶴巻温泉である。

 鶴巻温泉・弘法の里湯はpH8.5のカルシウム・ナトリウム塩化物泉で、神経痛、筋肉痛、きりきず、冷え性うつ状態、皮膚乾燥症などに効能がある。温泉で疲労を回復してから、帰路についた。

今回の地図

今回の地図 小田原城周辺

歩いた日:2022年4月17日

【参考文献・参考サイト】

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川県の歴史散歩」 山川出版社

小田原市郷土文化館(2021)「小田原市郷土文化館 常設展示ガイド 小田原の歴史と民俗」

小田原市 北条五代PRキャラクター活躍中!!

https://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/hojo/ki-20150144.html

だるま料理店

https://darumanet.com/

小田原城

https://odawaracastle.com/

報徳二宮神社 神社について

https://www.ninomiya.or.jp/info/

秦野市 弘法の里湯

https://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/contents/1001000001157/index.html