前回、由比駅から清水駅まで歩いた。今回は清水駅から静岡駅まで歩こうと思う。宿場名的には江尻宿から府中宿なのだが、「江尻」「府中」と聞いてもどこのことなのか、東海道に詳しい人でないとわからないだろう。「江尻」は今の「清水」、「府中」は今の静岡市街地なのである。
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1.江尻宿
新幹線で静岡駅まで向かい、東海道本線に乗り換えて3駅。今日は清水駅からスタートだ。清水駅で降りていきなり「まるちゃんの生まれた町、静岡市清水へあそびにおいでよ!」
国民的アニメ、「ちびまる子ちゃん」の舞台が清水なので、ちびまる子ちゃんを推しているのである。
今回も「11.三島広小路駅~片浜駅」「13.吉原駅~新蒲原駅」で同行したTwitterのフォロワーの方(以下、やまさん)が同行してくれたので、清水駅で待ち合わせし、江尻口に向かった。
清水駅江尻口の駅前には「エスパルスのある街 静岡」のマンホールがあった。
サッカーチーム、清水エスパルスのお膝元ならではのマンホールだ。
前回の終了地点、江尻東交差点まで進み、左折する。ここからはじめよう。
少し進むと、「町名の由来 鍛冶町」の説明板がある。
江尻宿の鍛冶職は27戸あり、その大部分がここにあったことからこの地名になったそうだ。
歩いていると、やまさんが「ここが有名な荷居屋か」と呟いた。
なんのことかと聞いたら、「ここ、ローカルCMで有名なんですよ。古いCMずっと流しているので。」と答えてくれた。
ちなみに荷居屋のCMがこちら↓
全国区で流している古いCMといえば「電話してちょうだい!」の某CMを思い出すが、それと同じくらい古そうに見える。
さらに、Twitterで調べてみると今年(令和4年)の11月25日に閉店してしまうみたいなので、興味のある人はお早めに。
「雀荘」のある交差点を右折する。
ちなみに「雀荘」という名前なのに麻雀ではなく、仕立屋らしい。
張り出した屋根は片側アーケードだろうか。
以前訪れた「吉原商店街」はだいぶ寂れていたが、そこよりは活気があるように見えた。ちなみに吉原商店街については「東海道を歩く 13.吉原駅~新蒲原駅 3.吉原宿」で取り上げているので、そちらを参照してほしい。
住居表示板を見つけた。「銀座」と書いてある。
地方都市の商店街は「銀座」とつけがち、と大学の授業で紹介していたことを思い出した。
この日(2022年10月29日)はハロウィンが近いからか、商店街はハロウィンムードだった。
店の軒先に蛍光色のバッグを見つけた。「横断バッグ」と書いてある。
「静岡の小学生、みんなこれ使っていますよ」とやまさんが言う。この文化は静岡ローカルの文化らしく、私は初めて知った。
「江尻宿」案内板を見つけた。その隣に江尻宿の解説板も見つけた。
江尻宿には、大名の宿泊する本陣が3軒、それに準ずる脇本陣が3軒、一般の旅籠屋が50軒ほど建ち並んでいたようだ。
魚町交差点まで来ると東海道は左折するが、少しだけ直進して魚町稲荷神社に向かう。魚町稲荷神社の前には水準点がある。一等水準点第125号だ。
昭和25年(1950年)に設置された古い水準点で、標石型である。
魚町稲荷神社に参拝する。
永禄11年(1568年)12月に武田信玄が江尻城を築き、天正6年(1578年)に穴山信君が城を大改築した。そのときに建てた神社が魚町稲荷神社である。祭神は宇賀之御魂命(うかのみたまのみこと)。
境内には大きいサッカーボールの石像がある。これは日本少年サッカー発祥の碑である。
昭和31年(1956年)に魚町稲荷神社隣の江尻小学校にサッカー好きの先生が赴任し、日本で初めてのサッカーチームを作ったのがここ清水だったそうだ。清水が少年サッカーの発祥の地であることは初めて知った。
2.稚児橋
魚町交差点まで戻り、稚児橋で巴川を渡る。
稚児橋の由来は、以下の通りである。
慶長12年(1607年)徳川家康の命により、ここに橋が架けられ、江尻橋と命名されることとなり、渡り初めの日になった。渡り初めに選ばれていた老夫婦が橋を渡ろうとしたとき、川の中から童子が現れ、橋を渡って童子は消えていった。このことから、江尻橋と名づける予定が稚児橋になったようだ。その童子は巴川に棲む河童だったと語り継がれており、橋には河童の像がある。
河童が現れて橋を渡ったなんて今では信じられない話だが、科学の発達していない時代はこういうこともあったのだろう。
稚児橋を渡り、南へ進む。右手側に寺院があった。東明院だ。
東明院は臨済宗妙心寺派の寺院である。
この山門は慶長6年(1601年)に江尻城が廃城になるときに江尻城の裏門を移築したものらしいが、天保2年(1831年)に災禍にあった後に復元したものらしい。結局、慶長時代のものは門扉の金具だけらしく、残念だと説明板には書かれているが、復元されたものでも200年くらい前のものなので十分古いものだと思う。山門の裏には鬼瓦と鯱(しゃち)が展示されている。
また少し進むと慈雲禅寺がある。ここも臨済宗妙心寺派の寺院である。
16世紀末に一安禅師によって、聖観世音菩薩を本尊として開創された。第二次世界大戦の空襲によって全て焼失したため、現在の本堂などはその後再建したものである。
慈雲禅寺を過ぎたところに江尻宿木戸跡がある。
江尻宿の東木戸は案内板がなかったが、前回記事の部分である。江尻宿は結構長い気がした。先ほどの江尻宿の説明板を見返すと、2kmあったらしい。
少し行ったところにまた「江尻宿」案内板があった。
「もう江尻宿終わったのにね」とやまさんと話した。
3.追分羊かん
また進むと、石碑と追分羊かんの店を見つける。
石碑は何と書いてあるのか読めなかったが、「ホントに歩く東海道 第6集」を参照すると志みづ道との追分だったようだ。志みづ…清水港か?と思って「東海道歴史散歩」を参照したら正解だった。ちなみに石碑は「是より志ミづ道」「南無妙法蓮華経」「七面大明神守護」と書いてある、と「東海道歴史散歩」に書いてあった。
徳川家光の頃、明から来た僧侶が旅の途中に病気になったので追分羊かんの初代当主が介抱した。僧侶の病気が治ったとき、僧侶は感謝して羊かんの作り方を教えたことが追分羊かんの始まりだそうだ。竹の皮に包まれた羊かんが昔ながらの羊かんであるが、食べにくいので一口サイズの羊かんを購入した。羊かんは甘くて美味しかった。
少し進むと都田の吉兵衛の供養塔がある。
文久元年(1861年)、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、都田の吉兵衛をここで討った。吉兵衛の菩提を弔うためにここに供養塔を建てたのだそうだ。そっと手を合わせておいた。
この近くに、「夢舞台東海道」の「元追分」の案内板があった。
大澤川を金谷橋で渡る。
「追分と金谷橋の今昔」という説明板があり、それによると金谷橋は昔土橋であったため、旅人はそのまま渡ったが重い荷物を運搬する牛馬は川を渡って向こう岸に行ったようだ。今の橋はコンクリートで作られているのでトラックが通っても大丈夫である。
東海道本線を渡るところに清水市が作った手作りの「追分」の看板があった。
踏切を渡ってそのまま進むとまた水準点がある。一等水準点第125-1号である。
設置は平成14年(2002年)の金属標型らしいが、金属標はマンホールの下にある。
水準点の少し先に、「街道の家」という名前のギャラリーがあったが、東海道沿いにあるからこの名をつけたのだろうか。
進行方向左手側に石碑を見つけた。「久能寺観音道」と書いてある。
この道標は、安永7年(1778年)に妙音寺村の若者の寄進によって造立されたものである。久能山東照宮は聞いたことがあるが久能寺?と思ったら、どうやら久能寺は廃仏毀釈のときに廃寺になってしまったらしい。その後、明治16年(1883年)に山岡鉄舟が久能寺を再興し、鉄舟寺と改めたそうだ。鉄舟寺、機会があれば行ってみたい。
「東海道」という説明板があった。
東海道という言葉の初出は崇神天皇10年9月、四道将軍として武淳川別を東海に派遣した日本書紀の記事に始まる、と書いてある。ここまで東海道を歩いてきて、日本書紀が初出であることは知らなかった。
「東海道」の説明板の裏に池があるらしく、人が吸い込まれていた。公園でもあるのかと思いゲートをくぐってみたが、イオンに通じているだけだった。でも池を見ることができた。
この池は上原堤「宗丹池」という。この池は農業用水の溜め池として、狐ヶ崎遊園地のボート遊びの場として利用されてきたが、今は釣りや堤廻りの散歩等に利用されている。狐ヶ崎遊園地は昭和2年(1927年)に開園し、後に狐ヶ崎ヤングランドとなった。狐ヶ崎ヤングランドはジェットコースターやボウリングなどがある遊園地だったが、平成5年(1993年)に閉園、今は遊園地の面影はない。
少し進むと上原子安地蔵があった。
地蔵堂の前に大きな蜘蛛の巣がかかっていたため、遠くから拝むだけにしておいた。
また、立派なマキの木が生えていた。
ご神木だろうか。
上原子安地蔵の創建年代は明らかではないが、明治24年(1891年)の失火により焼失した御本尊は行基菩薩が作ったという伝説があった。
少し進むと千手寺(上原鎮守十七夜宮)がある。
これはいつ建てられたのかは不明だが、現存する最古の記録では慶安4年(1651年)にはあったらしい。寺の奥には、夢のお告げで浅畑から不動を移してまつったという伝説をもつ上原鎮守十七夜宮がある。祭神は不動尊。境内に昭和55年(1980年)の庚申塔があったが、こんなに最近まで庚申講が続いていたとは思わなかった。
鳥獣保護区は山奥にあるイメージがあったので、こんなに街中でこの看板を見ることがあるとは思わなかった。
県道407号との交差点に「夢舞台東海道」の「有度」の看板があった。
4.草薙
県道407号に入ってすぐ、清水銀行草薙支店の前に大きなタヌキがいた。
なんでも、狸八相というらしい。ネットで調べたら何か情報が出てくるかと思ったが、何も出てこなかった。
タヌキの横に草薙一里塚がある。
この一里塚は現存しておらず、碑のみが残る。ここは江戸より43里(170km)の一里塚である。
草薙一里塚を過ぎると「にこにこ寿司」を見つけた。
やまさんが「昔はにこにこっ寿司のCMやっていたけど、今は見ないなあ」と言っていた。静岡ローカルチェーンらしいのでロケスマで調べてみたが出てこない。ネットで調べても草薙のここしかヒットしない。今はここにしか店を開いていないのだろうか。
謎の石碑を見つけた。
説明板も書いていないが、なんとなく気になる。
「ワタシはここで「まともな酒」に出会えました」
「おいしい」じゃなくて「まともな酒」ってなんだよ、とやまさんと突っ込んだ。
「東海道」看板発見。
現在12時半、そろそろお昼にしようか、となったので草薙駅前交差点で右折して草薙駅前に向かう。昼食を食べたのは「Petit こあん」。せいろそばと天丼のセットを注文した。
せいろそばと天丼は少し量が多いかも、と思ったが美味しかったので食べきれた。
草薙駅にトイレを借りようとしたら、ガイコツが座っていた。
ハロウィンが近いからだろうか。
草薙駅前交差点に戻り、次の交差点を左折、すぐ右折で旧道に入る。
「谷田」という地名表示板を見つけた。
「なんか嫌なことがあったときに使えそうな画像だな」と思った。
「TOMIYA COFFEE」と書かれた看板を見つけた。
「トミヤコーヒーは静岡ローカルのコーヒー豆卸元ですよ」とやまさんが教えてくれた。調べてみたら沼津の企業だった。
「閻王寺と閻魔坂」という説明板を見つけた。
かつてここには、閻魔大王をご本尊とする閻王寺という寺があり、この閻魔大王像を敬えば、極楽に行けるばかりでなく現世における罪も許され、その家は子宝に恵まれて代々繁栄すると伝えられた。閻王寺は明治10年(1877年)に廃寺、閻魔大王像は熊野神社境内にある薬師堂にあるらしい。
また、閻王寺の門前の東海道を閻魔坂といい、傾斜が急であったため馬から落ちてけがをする人が多く、東海道の難所といわれたそうだ。今は非常にゆるやかな坂があるだけである。
「閻王寺と閻魔坂」の説明板の少し先に、東光寺がある。東光寺は臨済宗妙心寺派の寺院である。山門前に葦葉達磨大師像がある。
「閻王寺と閻魔坂」の説明板をよく読んでいなかったため「閻魔大王像ではないのか」と思ってしまった。なお、東光寺は工事中だったので、山門前から拝んだ。
ここで、マンホールが変わったことに気がついた。
このマークは「下水」と「市」を合わせたマークらしい。要は、清水市と合併する前の静岡市に入ったのだ。ここで、静岡市清水区から静岡市駿河区になる。蒲原に入ったときから静岡市清水区だったので、「東海道を歩く 13.吉原駅~新蒲原駅」から清水区だったことになり、やっと清水区から抜けられた。長かった…。
5.旧東海道記念碑
東名高速道路をくぐった先にスーパーアンドウと100えんハウスレモンを見つけた。
スーパーアンドウは静岡市駿河区に2店舗しかない超ローカルスーパーである。「100えんハウスレモンは静岡のローカル100均だよ」とやまさんが教えてくれたが、調べてみたら山形県、千葉県、埼玉県、東京都、神奈川県、愛知県にもあった。しかし、69店舗のうち、45店舗が静岡県内にあり、本社も静岡市にあることから、静岡を拠点とした100均であることは事実である。
「増改築 不動産取引 (有)ブラジル珈琲静岡」
「これって不動産屋?コーヒー屋?どっち?」とやまさんが呟いた。調べてみたら「ブラジル珈琲静岡」という名前の不動産屋らしいが、なぜ不動産屋なのに「珈琲」と名乗るのかはわからない。
塀に厳重に囲われた一画があった。
なにかと思って見たら秋葉山灯篭だった。
秋葉山灯篭は秋葉信仰(秋葉山は浜松市にある)の灯篭で、静岡ならではのものである。
道が突き当たるので、右折して北上する。その前に水準点に寄る。一等水準点第126-1号だ。
金属標型で、昭和57年(1982年)に設置された。草薙総合運動場内にあり、運動場からは応援の吹奏楽の音楽が聞こえていた。どうやら高校野球をやっていたらしい。
東海道に戻る途中の業務スーパーに「マキヤグループ」と貼ってあった。
マキヤグループの店舗は静岡県、山梨県、神奈川県、埼玉県に展開しており、本部は富士市にある。
県総合運動場駅の前を左折し、そのまま進む。県総合運動場駅は静岡鉄道の駅で、結構立派だった。
静岡鉄道の電車は今日の行程で何度か見たが、乗る機会はなかった。
そのまま進むと「旧東海道記念碑」がある。
その説明板を読むと、昭和37年(1962年)に国鉄操車場が建設されるにあたり東海道が線路で分断されてしまったらしい。天下の東海道でも鉄道路線建設には勝てなかったのだ。当たり前だが、線路をそのまま突っ切るわけにはいかないので地下道をくぐって迂回する。
地下道をくぐり抜けたら「たちあおい」のマンホールを見つけた。
タチアオイは静岡市の花である。静岡といえば徳川家康、徳川家の家紋といえば葵の御紋、にちなんで決定された。
小さなお地蔵さんのあるY字路を右に進む。
橋を越えたところに「夢舞台東海道」の「古庄」の案内板があった。
「土溜り 都市下水」のマンホールを見つけた。
この中心にあるマークが、旧静岡市章である。これは平成15年(2003年)に廃止されたのでそれ以前に設置されたことになる。
この消火栓も初めて見た。
真ん中に纏(まとい)が描かれている。
この仕切弁も初めて見た。
「久能山東照宮かな」と呟いたらやまさんが「駿府城では?」と突っ込んだ。あとで調べたら駿府城だった。
久應院を見つけた。久應院は曹洞宗の寺院である。
歩いていたら右手側にバンダイナムコホビーセンターを見つけた。
バンダイナムコホビーセンターはプラモデルを製造している工場である。静岡ではプラモデル製造が盛ん、ということは友人がプラモデルの祭典、静岡ホビーショーに毎年行っていたことから知っていたが、なぜプラモデル製造が盛んなのか、少し追ってみよう。
江戸時代に全国から木工職人が集まり定住した歴史的背景から、木製模型の製造が盛んになった。第二次世界大戦後に米国製プラモデルの輸入が始まると、プラスチック素材への転換が進み、国内模型産業を牽引する生産地に発展したらしい。
6.静岡縣護国神社
静岡清水線と並行して進む。線路の向こうに、大きな森が見えてきた。静岡縣護国神社だ。
その前に、水準点がある。一等水準点第127号だ。
標石型らしいが、マンホールに阻まれて標石を見ることはできない。
さあ、神社にお参りしよう。
静岡縣護国神社は明治32年(1899年)11月13日「共祭招魂社」として静岡市北番町に創立され、明治維新から大東亜戦争に至る国事に倒れた静岡県出身者並びに縁故ある戦没軍人、軍属の英霊76,000柱を神様として祀っている。ちなみに以前、宮崎県の護国神社に訪れたことがある。
上の記事の3.宮崎神宮で訪れている。
参拝した後、御朱印をいただいた。
そして、七五三の時期なので、千歳飴も買ってしまった。
26歳でも売ってくれるとは、驚いた。
静岡縣護国神社に参拝したらまた踏切を渡り、国道1号に合流する。合流したところで179キロポストを見つけた。
もう179キロも歩いたのか。
柚木駅前の歩道橋を渡り、東海道本線の下をくぐる。そのまま県道に合流しそうだが合流せず、線路沿いの道をいく。「夢舞台東海道 曲金」の案内板があれば、正解だ。
そのまま進むとまた東海道本線をくぐることになるが、その少し前に曲金観音堂がある。
ここは鎌倉幕府の武将梶原景時一族と地元武士団との合戦の古戦場で、この古戦場に散った戦死者の諸霊供養とこの地の成仏していない霊に対する慰霊のため十一面観世音菩薩を勧請して観音堂を建立したそうだ。ここが元合戦場なんてこの解説板を読まなければ気が付かないだろう。
7.府中宿
東海道本線をくぐるとすぐに、「東海道府中宿東見附」がある。府中宿に入ったのだ。
実は、静岡市街地は江戸時代まで「府中」と呼ばれていた。これは駿河国の政治の中心地であったから府中といい、駿河の府中であるところから駿府ともいった。静岡という地名はどこにもなかったのだ。明治になって、古代以来の「府中」の名前は「不忠」に通じるということで変えることにし、はじめ賎機山に縁が深いことから賎ヶ丘としたのであるが、賎とか丘の字をわかりやすく温かみのある静岡の文字に変更し、静岡藩とした。それ以降、この町の名前は静岡になった。なお、西見附までは3.6kmあり、静岡市街地はほぼ府中宿だったと言って間違いない。ここから静岡市街地に入る。
飛び出し坊やを見つけた。
飛び出し坊やといえば滋賀県だが、ここは滋賀県ではなく静岡県である(東海道的には滋賀県も後で行くけど)。
靜浜屋の屋根にビールを飲んでいるおっちゃんがいた。
宿場町に入り、片側アーケードの鄙びた商店街が続く。
そのなかに、西宮神社がある。
西宮神社の祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)他3柱、創建年代は不詳だが安政3年(1856年)に再建されたようだ。
西宮神社のお札はイシベフラワーという花屋で売っているようだ。
社務所がわりか。
西宮神社の裏手に水準点がある。一等水準点第127-1号だ。
設置は昭和47年(1972年)、標石型だ。
タチアオイのカラーマンホールを見つけた。
つつじ通りの少し先に、「久能山東照宮道」と書かれた石碑を見つけた。
ここから久能山東照宮へ通じていたのだろう。
「あまのや 繁田商店」という駄菓子屋を見つけた。
「これ、静岡ローカルの駄菓子屋ですよ」とやまさんが教えてくれた。調べたところグランベリーパーク町田、t-FACE豊田に出店していたが、それ以外は静岡県内の出店だった。
「ここは東海道 府中宿」の街灯を見つけた。こういうものがあると嬉しい。
静岡駅と新静岡駅を結ぶ交差点で左折して、静岡駅前に来る。今日はここで終了だ。
次回は、静岡駅から吐月峰駿府匠宿入口バス停まで歩く。
【おまけ】
昼食が遅かったのでそこまでおなかは空いていないが、夕食を食べることにした。前回沼津でやまさんと飲んだときは遠慮してノンアルで通していたが、「Twitterによるとお酒、好きでしょ?」と言われてプレモルを1杯だけいただいた。
今日の夕食は豆腐のしらす乗せ、かつおの刺身、そして静岡おでんである。
静岡おでんは私が食べてみたくてやまさんにリクエストした。味のしみた大根が美味だったが、昼が遅めだったのと、牛すじが大きくて想像以上に苦戦したためそこまで食べられなかったのが少し心残りだ。
お腹いっぱいになった後は、お風呂…そう、サウナしきじである。
サウナしきじについては「東海道を歩く 14.新蒲原駅~由比駅」のおまけで散々語ったので今回は軽めにするが、やはり漢方薬草風呂と韓国式サウナ、そして天然水の水風呂が疲れた体に沁みて最高だった。
サウナしきじで癒されて、今日は宿に戻る。
歩いた日:2022年10月29日
次回記事はこちら↓
【参考文献・参考サイト】
静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」山川出版社
風神社(2015)「ホントに歩く東海道 第6集」
国土地理院 基準点成果等閲覧サービス
https://sokuseikagis1.gsi.go.jp
東海道三百年の味 追分羊かん
あなたの静岡新聞 プラモデルの街・静岡 どうして日本一?
https://www.at-s.com/news/shittoko/1039070.html
靜岡縣護国神社
https://shizuokagokoku.jp/shrine/
あまのや繁田商店
https://www.amanoya-shigeta.com/
(2022年11月14日最終閲覧)