前回、静岡駅から吐月峰駿府匠宿入口バス停まで歩いた。今回は吐月峰駿府匠宿入口バス停から岡部宿柏屋前バス停まで歩こうと思う。「東海道を歩く」初のバス停スタート、バス停エンドである。それも鉄道が通っていないからである。
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1.起樹天満宮・長源寺
今日もやまさんが同行する。静岡駅で待ち合わせをし、バスに乗って吐月峰駿府匠宿入口バス停で降りる。少々早いが、ここで昼食を済ませることにする。昼食に向かったのはもちろん、丁子屋だ。丁子屋について詳しくは前回記事を参照してほしい。
前回食べて美味しかった「本陣」を頼んだ。
わかっていたが、やはり美味しい。麦飯ととろろ汁だけでこんなに美味しいと思えるのは、やはりすごい。書いていてまた食べに行きたくなってしまったほどだ。
丁子屋をあとにして、丸子橋で丸子川を渡る。今日はここからスタートだ。
丸子橋を渡ったところに、高札場がある。
高札場は、幕府や諸藩が定めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)を木の板札に書き、人目を引くように高く掲げておく場所のことである。丸子宿の高札場は丸子川を渡った東側に設けられていたといわれている。
少し進んだら、大日如来を見つけた。
この大日如来には、以下のような説明がある。
「大日如来は真言密教において諸仏諸尊の本尊がこの世の総てのものに知恵の光をおよぼして、あまねく一切を照らし出し慈悲の活動が活発で不滅永遠である。(中略)元宿山の山頂からは伊豆の山々、駿河湾静岡市がよく見回すことができる場所で宇宙をあまねく照らす大日如来は鎮座しています。」
「宇宙をあまねく照らす」…壮大すぎてうさん臭さすら感じる。
そのまま進むと水準点を見つけた。一等水準点第129-1号だ。
平成2年(1990年)設置の金属標型だが、残念ながら金属標は草に埋もれていて、標識と保護石しか確認できなかった。
さっき言ってた大日如来はこれだろうか。流石に山に登っている余裕はない。
すっごく薄くなっているが「丸子路へ」はなんとか読める。
宇津ノ谷峠への案内板を発見した。ここから国道1号に沿った旧道を進む。
国道1号の188キロポスト発見。もう188kmも歩いたのか。
不自然なところにドアのある住宅。
「日本の紅茶発祥の地 丸子紅茶」という看板を見つけた。これについての説明はこの先の起樹天満宮に譲ることにする。
起樹天満宮に到着した。
起樹天満宮は平安中期に学問の神として知られる菅原道真公を御祭神として鎮祭された。春秋2度の例祭日には「合格祈願」「雷除けの神」として信仰篤く、遠近より参詣者で賑わっているそうだ。
境内には多田元吉翁碑と起木天神碑文、「丸子は紅茶発祥の地」という板がある。
丸子に茶園を開いた多田元吉は、明治9年(1876年)政府からインドに派遣され、紅茶製造技術を持ち帰り全国に広めた。このことから丸子が日本の紅茶発祥の地とされているのである。紅茶はたまに飲むが、このことは初めて知った。
起樹天満宮の隣には長源寺がある。長源寺は宝台院の末寺として、寛保元年(1741年)慈悲と心の安らぎの観音様を祀った寺院である。起樹天満宮の隣にある寺院なので、別当寺(神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺院)なのではないかと思う。
境内の庭が美しく、池には鯉もいた。
2.宇津ノ谷峠を越える
赤目ヶ谷中交差点で歩道橋を越えると、丸元工芸のでかい観音様が見える。
国道1号の脇道をしばらく進む。丸子川にかかる橋に、ガードレールがなかった。「これ、車で落ちたら怖いよね」とやまさんが言った。
逆川交差点の少し先に、一等水準点第130号があった。金属標型らしいが、「水準点」の看板しか確認できなかった。
「道の駅 宇津ノ谷峠(下り)」があったが、上り側で休憩しようと思っていたので、とりあえずスルー。
「静岡県へようこそ」の看板と、宇津ノ谷に関する説明板があった。
宇津ノ谷は、静岡市の最西部、宇津ノ谷峠の入口にある集落である。かつては茶店などがあり賑わっていたが、現在は静かな集落となっている。なお、宇津ノ谷峠を越えると静岡市は終わり、藤枝市に入る。
また、宇津ノ谷峠には、古代・中世の東海道である「蔦の細道」や、江戸時代の旧東海道、明治、大正、昭和、平成のそれぞれの時代に造られたトンネルがある。
蔦の細道というのは、東海道を平橋から南側に折れて細道を上がり、猫石、釣鐘石、神祠平を越えて岡部町坂下の鼻取り地蔵の南へ出るコースをいう。
蔦の細道は在原業平の「伊勢物語」が名称の由来である。「十六夜日記」の阿仏尼をはじめ、中世以降の文人たちは、業平の「駿河なる 宇津の山辺の うつつにも 夢にも人に あはぬなりけり」の歌の世界を追体験しようと、この峠越えで歌を詠んだ。今でも細く険しい峠道であるが、ハイカーには人気のコースとなっており、頂上には業平の歌碑もある。
いろいろな道が残っているのは時代のレイヤー構造のようで面白いと思う。さすがに、令和のトンネルはない。国道1号沿いには、昭和のトンネルと平成のトンネルがある。
昭和・平成のトンネルの前で右折して、坂を登る。分岐があるので、左側に行くと、宇津ノ谷の集落に入る。
「ようこそ、宇津ノ谷へ。」「夢舞台東海道」「交通の難所 宇津ノ谷峠」があった。
宇津ノ谷の集落をゆく。
御羽織屋を見つけた。
豊臣秀吉が小田原攻めに行く途中、ここで馬のワラジを求めたところ3つしか売らない。馬は4つ足、3つでは用が足せないというと、あと1つは勝って帰るろきに差し上げますと答えたので、縁起がよいといって紙子の陣羽織をくれた。これ以後「御羽織屋」として街道の名物になったというものである。参勤交代の大名も拝観しており、その芳名帳などとともに奥の部屋に展示されている。この日は残念ながら拝観を中止していた。
宇津ノ谷の集落を進む。
この写真、セピア加工すると非常に味が出る。
そのまま進むと分岐点にくるので、ここを右に行けば旧東海道だが、少しだけ寄り道して明治のトンネルを見に行く。
これもセピア加工してみた。
「トンネルのむこうは、不思議の町でした。」ではないが、本当に異世界に通じていそうな場所である。このまま進むとトンネルで宇津ノ谷峠を越えてしまうので引き返す。
この明治のトンネルは明治9年(1876年)に開通した日本最初の有料トンネルで、このトンネルが開通以降、東海道の本道になったようだ。
明治のトンネルの前には宇津ノ谷峠の立体モデルがあり、地図好きにはそそられるものがある。
明治のトンネルの前から、宇津ノ谷の集落を見下ろす。美しい集落だなあ。
先ほどの分岐点まで戻る。また「夢舞台東海道」がある。
ここから、峠道に入る。ほかの人の会話が聞こえてきた。「箱根峠」や「薩埵峠(さったとうげ)」というワードが聞こえてきたので、この人たちも東海道を歩いている人たちなのだろうか、と思った。
山を登っていく。
少し開けた場所に出た。やまさんの息が上がっていたので、ここで少し休憩する。
少し休憩したら、また山を登っていく。
雁山の墓を見つけた。
俳人の雁山は、山本素堂に俳諧を学び、甲府と駿河に庵を結んで俳諧の地盤を固めた。享保12年(1727年)頃旅に出て音信不通となったため、駿河の文人たちが、旅先で没したものと思いこの墓碑を建てたらしい。しかし、雁山はその後「有度日記」や「駿河百韻」を著し、明和4年(1767年)82歳で甲府で亡くなったらしい。つまりここには雁山はいないということだ。
階段を登る。
このあたりは、明治43年(1910年)に起きた集中豪雨により地形が変わり、江戸時代の東海道は今は通れないらしい。江戸時代の東海道をトレースするつもりで歩いているが、通れないのなら仕方がない。
突然、巨大な石垣が現れた。峠の地蔵堂跡の石垣である。
この石垣は、江戸時代中頃、宇津ノ谷峠の傾斜地に地蔵堂を構える際、平らな土地を確保するために積まれた。
石垣は二段構えで総高約7m、最大幅約12mで、石材はすべての箇所で平置きである。
峠の地蔵堂は、東海道を往来する人々が道中の安全を祈り、また「道しるべ」の役割も果たしていた。地獄の入口で衆生を救おうという「地蔵信仰」は江戸時代に庶民の間で盛んになった。村境に地蔵を祀り、信仰することによって村や旅人を守る一つの形として、峠の地蔵信仰も流行した。峠の地蔵は明治42年(1909年)に慶竜寺へ移された。こんなところに地蔵堂を建てるのは、さぞ大変だったろうと思った。
坂を登った頂上に、「宇津ノ谷峠」の看板がある。
宇津ノ谷峠を登りきった。これで静岡市は終わりである。静岡市に入ったのは「東海道を歩く 13.吉原駅~新蒲原駅」からなので、長かった。やっと静岡市が終わった、という感慨に耽った。だが、ひとつ残念なのは、眺望が全く望めないことである。
3.宇津ノ谷峠を降りる
宇津ノ谷峠を降りていくと、割とすぐに舗装路に行きついた。
だがまたすぐに未舗装に戻り、降りていく。途中落ち葉で軽く滑ってびっくりする。
「南無妙法蓮華経」と書かれた石碑を見つけた。髭題目碑だ。
碑の正面に「南無妙法蓮華経」の題目が筆端を髭のようにはねて書く書体で刻まれているので「髭題目碑」と呼ばれている。側面には「為人馬安全」「天下太平五穀成就」と刻まれており、旅の安全と世の平和・豊作を願って建立されたことがわかる。
髭題目碑は日蓮宗の信仰が盛んな静岡県東部には普通にあるが、中部のこのあたりでは珍しいもの、と解説板に書いてあった。
また少し進むと蘿径記碑(らけいきひ)跡がある。
蘿径記碑は文政13年(1830年)、儒学者でもあった駿府代官の羽倉外記が、蔦の細道の消滅を恐れ、末長く残すために建立した石碑である。現在は坂下地蔵堂の裏にある。
「夢舞台東海道」の「東海道参勤交代の道」と「旧東海道」の説明板があった。
参勤交代が東海道を使っていた、というのは当たり前のように思われるが、大名行列がこの峠道を通っていたと考えると驚くものがある。
これにて、宇津ノ谷峠は終了した。
4.道の駅宇津ノ谷峠(藤枝側上り)
舗装路に出て右折、そのまま道なりに進むと延命地蔵尊が見えてくる。
宇津ノ谷峠を越える旅人が、鬼に遭わないようにお参りしたという。
「ごみ捨て禁止 岡部町」という看板を見つけた。
ここで注目してほしいのが、「岡部町」という表記である。ここは現在藤枝市であり、岡部町ではない。岡部町は平成21年(2009年)に藤枝市に編入合併して廃止された。平成の大合併にしては遅めである。
Y字路を左側に進み、国道1号の下をくぐる。そのまま進むと道の駅 宇津ノ谷峠(藤枝側上り)が見えてくるので寄ってみる。藤枝側にもいろいろな説明板がある。
この「道の駅 宇津ノ谷峠」の看板を見ると岡部町の説明がされていることから、静岡市側の道の駅 宇津ノ谷峠の看板とは違う説明がされていることがわかる。
岡部町のみどころが紹介されている。このなかでは柏屋にはあとで行くが、それ以外にもいろいろな観光名所があるのだなと知った。機会があれば行ってみたい。
東海自然歩道バイパスコースが紹介されていた。柏屋→道の駅 宇津ノ谷峠→明治のトンネル→宇津ノ谷集落→満観峰→花沢山→用宗駅 というルートだ。山道にはあまり自信がないが、機会があれば歩いてみたい。
道の駅 宇津ノ谷峠(藤枝側上り)の名物に、「揚げおかべ」というものがある。
豆腐を一丁まるごと揚げたものである。やまさんと分けて食べた。豆腐は結構お腹に溜まるのか、お腹いっぱいになった。
5.十石坂観音堂
国道1号を進み、廻沢口交差点で右折して県道208号線を進む。太平洋岸自転車道の看板を見つけた。
太平洋岸自転車道とは、千葉県銚子市から神奈川県、静岡県、愛知県、三重県、和歌山県の各太平洋岸を走り、和歌山市に至る延長1,400kmの自転車道のことである。伊豆半島や紀伊半島を一周している。流石に、これは歩く気になれない。
古い看板をたくさん貼り付けた家を見つけた。趣味で集めているのだろうか。
この家の近くに、一等水準点を見つけた。一等水準点第131号だ。
昭和47年(1972年)設置の金属標型らしいが、蓋があり見えなかった。
岡部台と書かれた看板を見つけた。
地図を見る限り、新興住宅地だろうか。
そのまま県道208号を進むと、十石坂観音堂がある。
十石坂観音堂、以前は浄土宗の西行山最林寺といっていた。平安末から鎌倉時代の歌僧として知られる西行とゆかりが深く、正徳元年(1711年)の「西行あんちふつ せんしゆくわんをん 宝台院末寺 西行山最林寺」、文政8年(1825年)の「西行法師六百五十年忌」の石塔がある。
十石坂観音堂は入母屋造りの瓦ぶきの観音堂で内陣、外陣の境の格子は非常に細かい技巧が施されている。江戸時代末期の作と思われ、この観音堂のなかに2基の厨子が安置されている。
観音堂の横に河野蓀園(こうのそんえん)碑文がある。
河野蓀園は、駿府町奉行服部久エ門貢勝が駿府地誌の編纂を山梨稲川(江戸時代の漢学者としてその名を知られた)に依頼したときに、岡部の属する益頭郡を担当した人である。岡部本町に住み、文化12年(1815年)1月18日46歳で亡くなった。
十石坂観音堂を後にして、そのまま県道208号を進んでいくと一等水準点第001-193号がある。
これは昭和42年(1967年)に設置された金属標型の水準点である。
タケノコが描かれた仕切弁を見つけた。
岡部町は朝比奈氏ががの本貫地で、戦いの矢が田に突き刺さり、根が伸びて根元が細く先端が太くなった不思議な竹が生えたという伝説にちなみ、タケノコが描かれているらしい。
ここから少しの区間旧道を通る。そこに笠懸松と西住墓の説明板があった。
これは西住法師の墓とそれを弔って植えた松が近くにあることから設置されている。しかしこの松は松くい虫の被害を受けて枯れてしまったようだ。
岡部町の町章が描かれた消火栓を見つけた。
「農業は芸術だ」
6.大旅籠柏屋
旧道から県道208号に戻るとすぐに立派な建物がある。大旅籠柏屋(おおはたごかしばや)だ。
岡部宿は東海道五十三次21番目の宿場で、天保14年(1843年)には、問屋場2軒・本陣2軒・脇本陣2軒・旅籠27軒があった。このうち現存するのは、山内家が住宅として使用してきた旅籠の建物を、旧岡部町が整備し、一般公開した大旅籠柏屋だけである。柏屋は宿内の旅籠のなかでも筆頭格に位置し、主人の山内氏は代々問屋や年寄などの宿役人を務めていた。この建物は天保7年(1836年)に建てられた。
大旅籠柏屋の前には静岡県の宿場が一覧で展示されていた。
300円払って、建物を見学する。案内もしてくれた。
庭も素敵だった。
縁側には少し傾斜がついていて、雨水が庭に落ちるようになっている。
江戸時代、子供が読み書きを練習するために使った手本が残っていた。
香時計という面白いものを見つけた。
これは時計がなかった時代、時間をはかるために使われたものらしい。お香を形通りにまいて、火をつける。これは1回3時間程度だったらしい。お香の香りが漂うので、そのお香が燃え尽きて香りがなくなったら「ああ、3時間経ったのだな」という感じで使用するものだったようだ。半分で違うお香に変えて、お香の香りが変わったら「1時間半経ったのか」という感じで使用することもできたようだ。
帳場。今でいうフロント。
大戸。ここは入口になっているが、夜は防犯のため閉めていたようで、今も閉館中は閉めているとのこと。
「東海道中膝栗毛」に登場する弥次さん、喜多さんと柏屋のおかみさんの人形があった。
階段を登って2階にいくと、今度はおかみさんにお酌してもらっている弥次さん、喜多さんがいた。
陶枕(とうちん)を見つけた。陶磁製の枕だそうだ。こんな硬い枕では眠れなそうだ。
「東海道 各宿の食事」が展示されていた。
これを見て驚いたことがあった。それは、岡部宿から由比宿まで1日で移動していることだ。由比宿の本陣は、由比本陣公園だから…だいたい「東海道を歩く 14.新蒲原駅~由比駅」で登場する「由比本陣公園」のあたりからここまで1日で歩いたという計算になる。距離を測ってみたら40km弱だったので、頑張れば歩けなくはないのだが、その間には薩埵峠(さったとうげ)や宇津ノ谷峠があることを考慮すると、1日でこの距離を歩いたのはすごいと言うほかない。
昔のお金や旅に使った道具も展示されていた。
昔の高札も展示されていた。
岡部には蔦の細道に「猫石」と呼ばれる巨石があり、その逸話を画題とした浮世絵も作られたようだ。
岡部や宇津ノ谷峠を題材とした浮世絵は、葛飾北斎をはじめ、歌川広重の東海道五十三次など、それぞれの作風で、風景や名勝を描いた名所絵などの浮世絵として、数多くの作品が作られた。
ちなみに、「東海道五十三次」の「岡部」はこれである。
この絵の画題となっているのは、宇津ノ谷峠である。
岡部宿のジオラマも見つけた。よくできている。
江戸時代の宿場の役割や、柏屋についても説明されていた。
宿泊した武士の芳名帳「関札」も残っていた。
柏屋の建物のなかの見学を終え、庭に出てみる。東海道を歩く 15.由比駅~清水駅の1.小池邸で登場した水琴窟がここにもあった。
「ギャラリーなまこ壁」として公開されている蔵があったので入ってみる。
蔵の中では立体書画工芸が展示されていた。
これは芸術作品なのか?とやまさんが笑っていた作品がこれ。
この言葉好きだな。「夢中になるものが見つかれば人は生きていて救われる」
干支Race。猫は仲間外れ。十二支にいないから。
一通り作品を見て、ギャラリーなまこ壁をあとにする。隣の蔵は蔵cafe&dining coconami。今回は寄らなかったがまた行く機会があったら行ってみたい。
「ご自由にお入りください」と書かれた建物の中に入ると、岡部周辺の「東海道五十三次」が展示されていた。
大旅籠柏屋周辺の観光情報も展示されていた。
外に出ると、広い公園のようなものがあった。内野本陣跡である。
大旅籠柏屋をあとにすると、もう16時近くなっていた。岡部宿柏屋前バス停からバスに乗り、静岡駅に戻ることにする。今日はここで終了だ。
【おまけ】
静岡駅まで戻り、やまさんオススメのラーメン屋で夕食をとることにした。訪れたのは、「麺飯食堂」。
とりあえず、ビールを頼む。
おつまみセットと、餃子をつまんでいるうちに、ラーメンが来た。
こってりしてそうに見えるが、意外とあっさりしていて美味しかった。
静岡駅まで戻り、やまさんと解散後、「サウナしきじ」に向かった。
サウナしきじについては「東海道を歩く 14.新蒲原駅~由比駅」のおまけで散々語ったので今回は軽めにするが、やはり漢方薬草風呂と韓国式サウナ、そして天然水の水風呂が疲れた体に沁みて最高だった。
サウナしきじで癒されて、今日は宿に戻る。
歩いた日:2022年11月26日
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【参考文献・参考サイト】
静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」山川出版社
風神社(2015)「ホントに歩く東海道 第6集」
国土地理院 基準点成果等閲覧サービス
https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/
藤枝市のマンホール
http://usagigasi1f2.starfree.jp/sizuoka/hujieda/hujieda.html
(2023年1月14日最終閲覧)