前回は大分空港に降り立ち、別府で地獄めぐりをした。今回は別府タワーからバスで大分駅まで移動し、そこから大分市街地をまわった記録を書こうと思う。大分市街地は県庁所在地にしては規模は小さめだが、なかなか面白い都市だった。
前回記事はこちら↓
1.豊後定食
現在12時。まちあるきをする前に腹ごしらえをする。入った店は大分駅構内の豊後茶屋。ここで「豊後定食」を注文した。それがこちらである。
とり天、だんご汁、ごはんと漬物、きんぴらごぼうである。ここで注目したいのはとり天とだんご汁だ。
とり天は鶏肉に衣をつけて揚げた大分県の郷土料理である。
揚げ物なのにあっさりしていて、かぼすポン酢につけて食べると美味しい。揚げ物はあまり食べないが、これは気に入った。
だんご汁は小麦粉で作った平たい麺(だんご)を味噌仕立ての汁に入れたもので、汁にはだんごのほかにゴボウやニンジンなども入っている。
すいとんに近い食べ物である。こちらも素朴な味で、美味だった。
2.府内城へ向かう
お腹いっぱいになったら大分駅北口を出る。大分駅は平成27年(2015年)に建て替えられたのでまだ新しい。
国道10・57号を南東に進む。この道路は産業道路と呼ばれている。産業道路は戦後の戦災復興計画でできた道路である。
顕徳町一丁目交差点を左折する。そのまましばらく進むと目の前の道路が2つに分かれ、中央に公園が出現する。遊歩公園である。遊歩公園のある道は近世は東広小路と呼ばれ、19世紀には大手通と呼ばれた。それは府内城の大手門に通じる通りだからである。遊歩公園も戦災復興計画でできたもので、日本では珍しいパークウェイである。
遊歩公園の南端に水準点があるが(一等道路水準点 010-138号)、ほとんど摩耗していた。
遊歩公園には様々なものがある。滝廉太郎は「荒城の月」を作曲した作曲家として有名だが、彼が最期を迎えた地がここ大分だ。
23歳で亡くなったとは、私より年下である。
「西洋医術発祥記念像」があるのは、フランシスコ・ザビエルとともにやってきたアルメイダがここで西洋医術を使用して人々の治療を行ったからである。
そのほか南蛮文化関係では、伊東ドン・マンショ像がある。
伊東ドン・マンショは天正10年(1582年)に天正遣欧少年使節としてローマを訪問した。
また、遊歩公園の西隣の大手公園には日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師、フランシスコ・ザビエル像もあることは忘れてはならない。
フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えたことは知っていたが、大分が宣教の中心地だったことは知らなかった。
昭和37年(1962年)の竣工である。大分県庁の北隣には大分県警察本部もある。
そして、遊歩公園の北端から北を見ると、府内城の大手門が見える。
3.府内城
府内城は慶長2年(1597年)に福原直高により築城された。天守は寛保3年(1743年)の大火で焼失以来再建されなかった。明治5年(1872年)に廃城、城内に大分県庁が置かれた。昭和41年(1966年)に城址公園として整備された。
さあ府内城へ、と入ろうとしたら閉鎖されていた。
令和2年(2020年)5月13日から当面の間、PCR用検体採取場設置のため大分城址公園の内苑は利用できなくなっていた。軽くショックを受けたが、城の外苑をまわってみることにする。
大手門前に、大分縣道路元標がある。
道路元標とは、大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1個ずつ設置されたものである。しかし大分県は全て廃棄されたのかそもそも設置されなかったのか、現在残っている道路元標はこの大分縣道路元標のみである。しかも「縣」の道路元標なので、これはオブジェとして置かれているのかと思った。裏には「位置 大分市大字六九番地 東経一三一度三六分 北緯三三度一四分」と刻まれている。
現在、府内城大手門の住所は「大分市荷揚町4」なので住居表示が変わったのだろう。
ちなみに、GoogleMapで「33°14′ 131°36′」で検索したところ1.25km離れた大分市大道小学校の敷地内にピンが落ちた。日本測地系で書かれている上に「分」までしか書かれていないのでここまでずれたのだろう。
城址公園の外苑をまわる。
説明板が各所にあったが、総じて遺構はあまり残っていない。
外苑の北側に廊下橋がある。廊下橋は、山里丸と西の丸を結ぶ堀の上に架けられた渡り廊下である。
ここだけが開放されていて、中に入ることができた。このなかに府内城の日本100名城スタンプがある。
廊下橋の北側に松栄神社がある。
松栄神社は享保14年(1729年)に豊後府内藩主直参の宮として祭祀された。
4.ガレリア竹町
府内城を一周して大分市役所前交差点を右折する。すぐに右手側に大分市役所がある。
昭和通り交差点を左折して中央通りを進む。すると右手側に大きなアーケードが見える。ガレリア竹町だ。
ガレリア竹町、竹町通りは江戸時代から一貫して大分最大の繁華街だった。それは中堀に架かる門と外堀に架かる入口との間の交通路だったからである。明治38年(1905年)には「竹町商栄会」が設立され、大分県で最も古い商店街とされている。アーケードの屋根から光が入り明るいが、日曜の午後にしてはシャッターが閉まっている店が多いように感じた。
5.水準点探し
ガレリア竹町の西端を出てすぐのところに水準点がある。一等水準交差点交1935号だ。
建物に半分埋まっている。水準点の写真を撮っていたら通りすがりの婦人に「どこかお探しですか?」と聞かれて少し恥ずかしかった。
少し北側の西新町天満社の境内にも水準点がある。なかなか見つからないので基準点成果等閲覧サービスの近景写真で探したら、「ここ?」となった。準基準水準点、準基2218号である。
「大切にしましょう水準点」のプレートはあるが、その上にバケツやら発砲スチロールやらが積み重なっている。全く大切にされていない水準点だった。
ガレリア竹町の通りに戻り、次の信号を左折、大道入口交差点を右折してすぐにまた水準点がある。これは一等道路水準点、010-137号である。これもなかなか見つからず、近景写真を頼りに探したらこれらしい。
土に埋もれた中に、わずかに金属標が見える。
6.アーケードを歩く
産業道路を南東に進む。中央町入口交差点を左折して、またアーケードに入る。セントポルタ中央町だ。
セントポルタ中央町もかつて京町・大工町・細工町をつなぐ古くからの繁華街で、中央通りの一本西側の歩行者軸として、駅を降りた乗客がまちへ入ってくる主要な歩行者動線として機能している。ガレリア竹町より大分駅に近いので、人通りも多く賑わっている印象を受けた。
ガレリア竹町との交差点で右折し、中央通りに出る。
中央通りは府内城の中堀を埋め立てて造った道路で、かつては大分~別府間の路面電車も走っていた。
中央通りを南進し、大分駅方面に向かう。左手側に、レンガ造りの建物がある。大分銀行赤レンガ館だ。
大分銀行赤レンガ館は大正2年(1913年)4月11日に株式会社二十三銀行本店として建設された。設計者は東京駅の設計者として有名な辰野金吾と片岡安である。現在は大分県産商品のセレクトショップ「Oita Made Shop」と大分を代表するコーヒーショップ「タウトナコーヒー」が入っている。
大分銀行赤レンガ館の南隣には百貨店のトキハ本店がある。
私は地方都市の百貨店に行くとジューススタンドでジュースを飲むことにしているので、B1Fのベジテリアでジュースを飲んだ。
大分特産のジュースはなかったのでミックスジュースを飲んだ。名前は控えていなかったが、美味しかった。
トキハ本店を後にして、そのまま南に進むと大分駅に戻ってくる。
これにて大分市街地散策は終了である。
この後、特急にちりんで宮崎に向かった。
宮崎まで特急で3時間、結構距離があるのだなと感じた。
夕食は宮崎名物チキン南蛮を肴に、地酒を飲んだ。
地酒の名前は控えてなかったので調べても出てこなかった。甘くない辛口の酒だったことは覚えている。
この後は宿に戻り、明日に備えた。
次回は宮崎市街地をめぐった話を書こうと思う。
次回記事はこちら↓
歩いた日:2022年1月9日
【参考文献・参考サイト】
国土地理院 基準点成果等閲覧サービス
https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html
大分市 府内城
http://www.city.oita.oita.jp/o204/bunkasports/shitebunkazai/1352943146749.html
(2022年1月21日最終閲覧)