前回は日本橋を出発し、港区との境目である新橋駅まで歩いた。今回は日本橋を出て初めての宿場である、品川宿まで歩く。しかし現在では駅で境としたほうが交通の便がよいため、品川駅を目指し、そこを今回のまちあるきの終点とする。
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1.日比谷神社
新橋から南に進むと、左手側に日比谷神社が見えてくる。
日比谷神社の創建は不詳、祓戸四柱大神(はらいどのよつばしらのおおかみ)が祀られている。ここの手水はコロナ対策なのか、センサー式で、私が近づくと龍の口から水が出た。
しばらく南進する。ここの3kmポストは橋の下にあってわかりづらい。
日が当たって暑いので右側に移動した。しばらく歩くと、右手側に芝大神宮が見えてくる。
2.芝大神宮
芝大神宮は寛弘2年(1005年)に創建され、伊勢神宮の祭神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)と豊受大神(とようけのおおかみ)を祀っている。芝大神宮の例大祭は9月11日から21日にかけて行われるが、祭りが長期間に渡って続くため「だらだら祭り」とも呼ばれている。これは生姜を商うことや千木箱という容器細工を頒布すること、甘酒を接待することなどが独特の風習として知られている祭りである。今年の「だらだら祭り」はコロナのため、神職のみで行われるそうだ。
参拝し、御朱印をもらったらいろいろなプレゼントをいただいた。
下から芝大神宮のパンフレット、御朱印、生姜の飴、道中安寧のお守りだ。道中安寧のお守りは、これから長く続く東海道のたびの道中安寧を祈ってくれたのだと思い、大事に持っておくことにした。そして気になったのが生姜の飴だ。なぜ生姜?と思い調べてみたら芝大神宮が生姜とゆかりの深い神社だということがわかった。昔はこの一帯は生姜畑であり、芝大神宮が鎮座したときも生姜が供えられた。そして「だらだら祭り」でも生姜が盛んに売られた。現在この周辺に生姜畑はない。生姜とのつながりがわかるのは、御朱印をもらったときに生姜の飴がもらえることと、境内に生姜塚があることくらいである。生姜の飴は甘さと生姜の香りが絶妙で美味しかった。
3.増上寺
芝大神宮を後にして東海道を南進していくと大門の交差点にぶつかる。このあたりに大きい門があったから大門の地名がついたのだろうか、と考えながらおもむろに進行方向右側を向いたらそこに大きな門があった。増上寺の大門である。
東海道の道からは少し外れるが、増上寺に行ってみることにした。
大門と三解脱門をくぐると、増上寺の境内に入ることができる。そして増上寺を撮ろうとすると、絶妙なアングルで東京タワーが写りこんでくる。
増上寺は明徳4年(1393年)、酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって開かれた。そして天正18年(1590年)、徳川家康が徳川家の菩提寺として増上寺を選んだことにより、増上寺は繁栄してゆく。徳川家康が増上寺を選んだ経緯として、『三縁山志』によると、徳川家康が江戸にやってきたとき、増上寺の門前で馬が動かなくなった。仕方なく徳川家康は下馬し、増上寺門前にいた住職と話してみると、その住職は三河の寺院で修行していたことを知った。そこで徳川家康は自らの出身地と住職の出身地が同じ三河であることや、増上寺の名前が「増し上る」という縁起のよい言葉であったことなどから気に入り、菩提寺にした、と伝えられている。しかしこれは美談であり、江戸に来る前から徳川家康は菩提寺を決めていたのではないか、との説もある。
そして徳川家の菩提寺は2つあり、もう1つは上野の寛永寺である。徳川家将軍の墓所は増上寺、寛永寺、そして日光の輪王寺の3箇所にある。増上寺には2代将軍秀忠、6代将軍家宣、7代将軍家継、9代将軍家重、12代将軍家慶、14代将軍家茂の墓所がある。なぜこのように分けられているのかは不明だが、親子などの親疎の情や、増上寺と寛永寺の勢力関係等が関係しているのではないかと憶測されている。
4.金杉橋
増上寺に参拝したら東海道に戻る。そのまま進むと金杉橋を渡ることになる。
これは古川に架かる橋で、江戸時代は流罪者を運ぶ遠島船の出た橋として知られていた。
金杉橋の近くに4kmポストがあり、日本橋から品川宿の中間地点であることを知らせてくれる。
5.江戸開城西郷南州勝海舟會見之地
そのまま進むと工事中の壁に「田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)付近沿革案内」が貼ってあることに気がつく。ここに江戸開城西郷南州勝海舟會見之地の碑があったようだが、工事で外されているためにここに貼ってあると考えられる。この地で慶応4年(1868年)西郷隆盛と勝海舟が会見し、江戸城無血開城が決定したそうだ。近くに5kmポストがある。
そのまま進むと「札の辻」交差点に行き着く。ここは「札の辻」の名前通り、かつての高札場である。歩道橋を渡って進む。
6.御田八幡神社
しばらく進むと右側に御田八幡神社が見えてくる。御田八幡神社は和銅2年(709年)に創建され、江戸時代に現在地へ遷座した。以来三田・芝・芝浦・高輪の氏神として崇敬されている。現在でも釜鳴神事のような古代的な行事が残っている。
7.高輪大木戸跡
6kmポストを確認したら、高輪大木戸跡が見えてくる。高輪大木戸は江戸時代中期の宝永7年(1710年)に芝口門にたてられたのが起源である。享保9年(1724年)に現在地に移された。江戸の南の入り口として、夜は閉めて通行止めとし、治安の維持と交通規制の機能を持つ門だった。後に高札場も札の辻から移された。かつては旅人の送迎もここで行われ、たいへん賑やかな場所だったそうだ。現在は自動車が大木戸跡の横を通り過ぎるだけとなっている。
8.泉岳寺
そのまま進むと、泉岳寺が右手側に見えてくる。泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚を拝請して徳川家康が創立した寺院である。寛永の大火により現在地に移転となった。境内に忠臣蔵で有名な、赤穂義士の墓地があることで有名である。泉岳寺の前には赤穂義士グッズを取り扱う店もある。
播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央に斬りつけ、浅野内匠頭は切腹となったが吉良上野介はお咎めなしだった。そこで浅野内匠頭の家臣、大石内蔵助良雄以下47人が吉良上野介を討った事件が赤穂事件、これに関わった義士が赤穂義士である。
赤穂義士の墓地を見てみようとしたが、「供養の精神でお参りください。見学はお断りします。」と書いてあった。時間の問題もあり、今回は引き返すことにした。
9.高輪神社
泉岳寺にお参りしてから東海道に戻る。そのまま南進すると右手側に高輪神社が見えてくる。
高輪神社の創建は室町中期で3座の祭神を祀っている。
10.高輪海岸の石垣石
そのまま進むと高輪二丁目の交差点の脇に石垣が積んであることに気がつく。これは高輪海岸の石垣石である。江戸時代に築かれた高輪海岸の石垣に使われていた石垣で、平成7年(1995年)の発掘調査で出土したものらしい。江戸時代は高輪大木戸から品川宿までの間は石垣の海岸だったそうだ。
11.品川駅
7kmポストを確認したら、もうすぐ品川駅である。本来は品川宿をゴールにしたほうがよいのかもしれないが、鉄道の便を考えて今回のゴールは品川駅とする。ロータリーに品川駅創業記念碑があるが、表面は入れないので確認できず、裏側の鉄道創業時の時刻表と運賃だけ確認した。
今回の東海道巡りはここまでとする。次回は品川駅からスタートする。
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歩いた日:2021年7月17日
【参考文献・参考サイト】
風人社(2020) 「ホントに歩く東海道 第1集」
俵元昭(1979) 「港区の歴史」名著出版
東京都神社庁 日比谷神社
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/minato/3034/
(2021年7月17日最終閲覧)
芝大神宮ホームページ 御由緒
http://www.shibadaijingu.com/html/goyuisyo.html
(2021年7月17日最終閲覧)
神社検定 参拝後のお楽しみ「諸国味詣で」 第9回 東京・芝大神宮の「生姜」
https://www.jinjakentei.jp/column/column_000024.html
(2021年7月17日最終閲覧)
増上寺 歴史
https://www.zojoji.or.jp/info/history.html
(2021年7月17日最終閲覧)
御田八幡神社
https://mitahachiman.net/
(2021年7月17日最終閲覧)
泉岳寺 泉岳寺について
https://sengakuji.or.jp/about_sengakuji/
(2021年7月17日最終閲覧)
東京都神社庁 高輪神社
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/minato/3021/
(2021年7月17日最終閲覧)