10月うさぎの部屋

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東海道を歩く 5.保土ヶ谷駅~戸塚駅 前編

 

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 前回は保土ヶ谷駅まで歩いた「東海道を歩く」。この事実に気づいた人はそういないだろう。そう、今までの道のりはあまり坂がなかったのだ。ここに来て初めて「権太坂」などの急坂が出てくる。今回は急坂および距離が長い(2里9町、約8.8km。実際4時間半かかった)が、頑張って歩こう。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.金沢横丁

 今日は保土ヶ谷駅から出発する。

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保土ヶ谷

 保土ヶ谷駅西口を出て直進するとすぐ東海道にたどり着く。そのまま左折して進む。

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 少し進むと助郷会所跡がある。

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助郷会所跡

 これは助郷村々の人馬を手配するために設けられた場所である。助郷とは、江戸時代、幕府が諸街道の宿場の保護、人足や馬の補充のため宿場周辺の農村に課した夫役のことである。助郷は江戸時代初期の頃は臨時の大通行のときだけだったが、江戸時代後期になると交通量増大にともない、恒常的に助郷が求められるようになった。

 少し行くと今度は問屋場跡がある。

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問屋場

 これは幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬、幕府公用の書状等の通信、大名行列の宿場の手配等を担っていた施設、問屋場があったところである。

 また少し進むと金沢横丁がある。

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金沢横丁

 ここは東海道とかなさわ・かまくら道の分岐点である。東海道から杉田・金沢を経由して鎌倉に至り、さらに江の島を巡って藤沢で再び東海道に合流する江戸時代の代表的物見遊山コースの入口で、途中には杉田の梅林、金沢八景鶴岡八幡宮建長寺円覚寺、江の島弁財天など見どころがたくさんあった。

2.本陣跡

 そのまま進むと国道1号にぶつかる。この正面にあるのが、本陣跡だ。

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本陣跡

 本陣とは幕府の役人や参勤交代の大名が宿泊する場所で、慶長6年(1601年)に徳川家康保土ヶ谷を宿場としたときに成立した。保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣、苅部豊前守康則(かるべぶぜんのかみやすのり)の子孫といわれる苅部家が代々つとめていたため、苅部本陣とも呼ばれていた。なお、平成15年(2003年)に設置された新しい解説板だけでなく、大正4年(1915年)に設置された古い石碑もある。

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 本陣はかつての面影はないが、蔵には昔の貴重な資料が多数保存されているらしい。

 そのまま右折して進む。少し進むと脇本陣跡(大金子屋・藤屋・水屋)を見つける。

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 脇本陣とは、本陣が混雑したとき、幕府の役人や参勤交代の大名が宿泊した場所である。大金子屋跡・藤屋跡は現在普通の住宅、水屋跡は消防出張所になっている。

3.旅籠屋(本金子屋)跡

 少し進むと旅籠屋(本金子屋)跡がある。

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旅籠屋(本金子屋)跡

 本金子屋は、保土ヶ谷宿にあった旅籠である。確認できる限り、保土ヶ谷宿で現在残存している唯一の旅籠である。敷地内には本格的な日本庭園があるらしいが、非公開だった。国道1号沿いに往時をしのばせるものがあるとは、と驚いた。

4.旧東海道保土ヶ谷宿お休み処

 そのまま進むと旧東海道保土ヶ谷宿お休み処があったので寄ってみた。

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旧東海道保土ヶ谷宿お休み処

 日曜日しか開いてないらしいが、この日は日曜日だったので開いていた。なかにはパンフレットや書籍がたくさん置いてあった。パンフレットは持ち帰れたので、神奈川宿保土ヶ谷宿・戸塚宿のパンフレットを持ち帰ることにした。また、雑誌「横濱」を購入した。

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 パンフレットを物色しているとお休み処の人に「どこから来たのですか?」と聞かれた。コロナが収まりつつあることと、あまり遠出ではなかったため正直に「東京から来ました」と答えた。正直に答えても叩かれない世の中になったのはありがたい。また、「東海道を歩いていて、今日は保土ヶ谷駅から戸塚駅まで歩きます」と話したら「頑張ってくださいね」と励まされた。東海道を歩き始めてほかの人から直接励まされたのは初めてだったので嬉しかった。

5.一里塚跡

 お休み処を後にして先に進むと、国道1号の脇に松林があることに気がつく。

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 これは東海道保土ヶ谷宿の松並木と復元事業で植えられたものらしい。

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 昔は東海道沿いに松並木が植えられていたそうだが、現在ではほとんど消失している。そこで平成19年(2007年)に今井川沿いの約300mの区間に松林を復元、一里塚も復元したそうだ。

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 なお、今回のウォーキングで私は3回一里塚を目撃することになる。

6.外川神社

 一里塚の横には橋があり、外川神社につながっている。

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外川神社

 外川神社は出羽三山羽黒山の外川仙人大権現の分霊を祀っている。江戸時代から保土ヶ谷宿には出羽三山講があり、幕末頃には外川仙人大権現を祀りはじめた。明治初年の神仏分離令に伴い、社名を外川神社に改称した。

 そのまま進むと松林が終わった場所に「→旧東海道」という看板がある。保土ヶ谷二丁目の交差点を渡り、旧道に入る。

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7.庚申塔

 住宅街を歩き、左側を見ると鳥居が見えるところがある。

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 ここには「帝釋天王」と掲げられている。なかには庚申塔が祀られている。庚申塔とは庚申講を18回続けると記念に建立される石碑である。

 庚申講とは、人間の体内にいる三尸虫が、庚申の日の夜に天帝に悪事を告げに行くため、それを避けるために庚申の日は眠らないで勤行をしたり宴会をしたりする風習である。今は廃れてしまった。

 少し進むと、旧元町橋跡がある。

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旧元町橋跡

 明治時代、今井川がここを通り、元町橋がここに架かっていた。現在今井川は鉄道工事で流れが変えられ、ここにはない。

 この後稲荷祠の前や、堅牢地神塔の横に庚申塔を発見した。

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 このあたりは庚申講が盛んだったのだろうか。

8.権太坂

 元町ガード交差点を左折し、今井川を渡る。案内板のあるところを右折すると、いきなり急坂が見えてくる。これが権太坂だ。

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案内板

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権太坂

 江戸時代はここで命を落とした人や馬が放り込まれた投げ込み塚があったほどと聞いたため心して挑まなくては、と思っていたが、今は改修されたこともあり、少しきつい坂、くらいの印象だった。現在、周囲は住宅街になっているため安心して歩けるが、昔は民家もなく、道の左右は鬱蒼とした松林だったようだ。

 権太坂の碑を見つけた。

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 権太坂の由来はおもに2つある。ひとつは、旅人がこの坂の近くにいた老人に坂の名前を聞いたところ、耳の遠い老人は自分の名前を聞かれたと思い込み、「権太」と答えたことから権太坂になったとする説。もうひとつは、権左衛門という人がこの坂道を作り、「権左坂」と名づけられたが、いつのまにか「権太坂」となっていた説。みなさんはどちらを信じるだろうか。私は面白いので「権太」説を推したい。

 この後坂の頂上に達してから、ゆるやかに下っていく。ひたすら道なりに進むと突き当たりに着く。ここに案内板があるので、それに従い右折する。

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9.境木地蔵

 進行方向左側に「境木立場跡」の看板がある。

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境木立場跡

 立場とは宿場と宿場の間に設けられた休憩所で、ここは富士山と江戸湾を見渡せる高台で名物の牡丹餅を食べながら休憩できたらしい。今は富士山や東京湾を望むことはできないし、牡丹餅屋もないのは残念である。

 境木地蔵は武蔵国相模国の境であることからこの名がつけられた。境木地蔵の前には「武相国境之木」の杭がある。この杭は平成17年(2005年)に復元されたもののようだ。

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武相国境之木

 現在「県境」は地理界隈でファンが多く、「三県境」や「県境を跨ぐ神社」などが流行っているが(私の周辺だけ?)、令制国の境に目を向けることはそうそうないと思う。私も今回初めて知った。令制国境をじっくり堪能する。ちなみに、東海道沿いではここで保土ヶ谷区から戸塚区に変わる。

 境木地蔵は小さなお堂だった。

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境木地蔵

 しかし地元の人に愛されているのか、参拝客が絶えなかった。

 鎌倉の腰越の浜に打ち上げられた地蔵は漁師の家に安置されていたが、漁師の夢に地蔵が出てきて「江戸へ行きたいので牛車で運んでほしい。もし途中で動かなくなったらそこに置いてきてほしい。そうすれば腰越の海は凪ぐ。」と告げた。そこで漁師は地蔵を江戸に運んでいたが、境木で牛車が動かなくなったためそこに地蔵を置いて帰った。

 その後、境木の村人の夢に地蔵が出てきて「堂を作ってくれ。そうすればこの地を繁盛させよう。」と告げた。そこで境木地蔵堂が作られ、その周りには茶店が軒を並べて賑わった。

 手水舎のお地蔵さんや、このご時世でマスクをしているお地蔵さんが愛らしい。

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 さて、長くなるのでブログ記事を一旦切ろうと思う。

 次回は境木地蔵から始める。

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今回の地図

次回記事はこちら↓

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歩いた日:2021年11月7日

 

【参考文献・参考サイト】

風人社(2013) 「ホントに歩く東海道 第2集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016) 「神奈川の宿場を歩く」 神奈川新聞社

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011) 「神奈川の歴史散歩」 山川出版社

東海道を歩く 4.神奈川駅~保土ヶ谷駅

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 前回は川崎駅から神奈川駅まで歩き、その距離は2.5里(約10km)だった。今回は神奈川駅から保土ヶ谷駅まで歩いたのだが、その距離は1里9町(約5km)、前回の半分ほどの距離だった。そのため13時過ぎに神奈川駅を出発し、そこから歩いて15時過ぎには保土ヶ谷駅に到着してしまった。今回は少し短いが、お付き合いいただきたい。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.東横フラワー緑道

 さて、今日は神奈川駅から始めよう。

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神奈川駅

 神奈川駅から橋で京急線を超え、左折する。少し歩くと右手側に上り坂が見えてくるのでそこを右折する。すると遊歩道が見えてくる。東横フラワー緑道だ。

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東横フラワー緑道

 東横フラワー緑道は平成16年(2004年)2月の東急東横線の地下化にともない、今まで線路が走っていた部分を緑道として整備したものである。実際に地図を見ると現在でもここに東急東横線が走っていることが確認できる。

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地図中央、十字の地点

 暗渠かと思ったら、暗線路だった。

2.大綱金刀比羅神社

 少し歩くと、大綱金刀比羅神社に着く。

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大綱金刀比羅神社

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 ここは平安末期の創立で、もとは飯綱社と呼ばれ、山の上にあった。その後現在地へ移り、琴平社を合祀して大綱金刀比羅神社となった。

 また、この神社の前には日本橋から7つ目の一里塚があり、案内板によると土盛の上に樹が植えられた大きなものだったらしい。現在はこの案内板のみで、一里塚は残っていない。

3.台町

 大綱金刀比羅神社に参拝してから坂を上っていく。このあたりはかつて神奈川の台と呼ばれ、神奈川湊を見下ろす景勝の地だった。ここには多くの茶屋が立ち並び、旅人の目を楽しませ、疲れを癒す格好の場所となっていた。

 この様子はいろいろな絵や書物でも取り上げられ、歌川広重の「東海道五十三次」の神奈川宿風景でも、片側に茶店が軒を連ねる台町の坂を旅人たちが上っていくさまを描いている。「東海道中膝栗毛」の弥次さん、喜多さんもこのあたりの茶店で波打ち際の景色を見ながら鯵を肴に一杯飲んでいる。

 また、このあたりにあった料亭の「田中屋」では坂本龍馬の妻、お龍も働いていたようだ。

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 横浜が開港すると、当時の人たちにとって神奈川湊は欧米文化の入口で、物珍しい場所として新たな名所の一つになっていく。二代広重が描いた絵では、女性が台町の茶屋から遠眼鏡で開港場や外国船を覗き込んでいる情景も見られる。

 台町の案内板のある場所は以下の地図の地点で、今は埋め立てが進んでだいぶ内陸になっている。

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台町

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地図中央、十字の地点

4.神奈川台関門跡

 坂の頂上に「神奈川台関門跡」と書かれた石碑が置かれている。

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神奈川台関門跡

 ここは開港後に幕府が安政6年(1859年)に置いた関門である。関門設置のことは「東海道を歩く 3.川崎駅~神奈川駅」の「鶴見橋関門旧跡」にも書かれているので、そちらも参照してほしい。

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 鶴見橋関門と同じく、明治4年(1871年)に廃止となった。

 関門設置3年後の文久2年(1862年)、生麦事件が発生した(生麦事件についても詳細は「東海道を歩く 3.川崎駅~神奈川駅」を参照してほしい)。事件後、島津久光はイギリス軍などの追撃を避けるため、急遽神奈川宿宿泊を取りやめ、その先の保土ヶ谷宿まで行って宿泊している。このとき、神奈川台関門は薩摩藩の行列が通り過ぎた後、すぐに関門を閉じている。

 神奈川台関門跡から坂を下り、上台橋を渡る。

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上台橋

 かつての上台橋のあたりは、海辺の地であったという。もちろん、今ここから海は見えない。

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地図中央、十字の地点

 切り通しの道路ができるとともに、昭和5年(1930年)ここに陸橋がかけられた。

 そのまま進むと、臨海セミナーのある建物で左側、右側に分かれている。

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 右側のセブンイレブンが目印だ。

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 ここで横浜市主要地方道83号の太い道(左)と軽井沢公園の横を通る細い道(右)に分岐する。この2つの道のどちらも旧東海道とされており、浅間下交差点で合流する。この分岐は好きなほうを選んでよい。ちなみに私は右、軽井沢公園の横を通る道を選んだ。旧道を感じたからだ。特に見るものはなく、そのまま進んでいたら浅間下交差点北西にある浅間下商店街に到着した。

5.浅間神社

 浅間下商店街を歩いていると右側に「浅間神社参道入口」と書かれた看板がある。

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 ここから幼育園の横を通って浅間神社に向かう。本当に通っても大丈夫なのか?と思うほど細い道を進み、石段を登るとそこに、浅間神社があった。

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浅間神社

 浅間神社は承暦4年(1080年)に源頼朝浅間神社を勧請して造営されたとしている。旧芝生村の鎮守で、現在は浅間町一帯の鎮守である。祭神は木花咲弥姫命(このはなさくやひめのみこと)である。

 昔、この山のそばに海が迫り、山際の狭い場所をすれ違うのに袖が触れ合うほどだったため、「袖すり山」と呼ばれていた。今は海からだいぶ遠くなってしまった。

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地図中央、十字の地点

 浅間神社の前面左手には昔「富士の人穴」と呼ばれる大きな穴があり、富士山の麓までつながっていたと伝わっている。ここは東海道の名物のひとつで、山伏が見せ物の呼び込みをやっていたほどだった。「富士の人穴」は周辺の開発により取り壊され、今はない。

 浅間神社に参拝し、石段を降りて東海道に戻る。このあたりは「旧東海道」と刻まれたプレートが道路に埋め込まれているため、東海道を歩いているかどうか、わかりやすい。

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旧東海道」プレート

6.追分

 住宅街を歩いていくと、「追分」と書かれた案内板を見つける。

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追分

 追分とは一般に道の分岐点を意味するが、ここ、芝生の追分は東海道と八王子道の分岐を意味する。八王子道はここから町田や八王子に続く道で、安政6年(1859年)の横浜開港以後は八王子から横浜に絹が運ばれるようになったことから、「絹の道」とも呼ばれている。格好良く言えば、「日本のシルクロード」だ。

7.洪福寺松原商店街

 追分から進行方向を見ると、「やすさ MATSUBARA 来やすさ」と書かれたアーチが見える。

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洪福寺松原商店街

 ここが洪福寺松原商店街だ。

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混みすぎて先に進めない

 この日は日曜日、八百屋の前は通り過ぎるのに苦労するほど人でごった返していた。家まで遠いので横目で見ただけだが、安くて新鮮な野菜や果物が売られていた。ここまで栄えている商店街を見たのは東海道を歩き始めて、初めてのことだったのでなんだか嬉しくなった。

8.YCVテレミン商店街

 松原商店街入口交差点を越えると、YCVテレミン商店街に入る。

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YCVテレミン商店街

 「ホントに歩く東海道 第1集」では「シルクロード天王町商店街」と書かれているが、商店街の幟には「YCVテレミン商店街」と書かれている。どうやら2019年10月から「YCVテレミン商店街」と名称を変えたらしい。ちなみにYCVとは横浜ケーブルビジョン(横浜市のケーブルテレビ)の通称で、テレミンはYCVのキャラクターである。

9.江戸方見附跡

 YCVテレミン商店街に入るとすぐに、江戸方見附跡と書かれた看板がある。

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江戸方見附跡

 ここは保土ヶ谷宿の江戸方見附があった場所で、かつては土塁の上に竹木で矢来を組んだものがあった。

 もう保土ヶ谷宿に着いたのか、神奈川宿から近かったなと思った。

 なお、江戸時代の旅は1日10里(約40km)歩くのが普通で、午前4時頃に日本橋を出発した人の多くは、次の戸塚宿で泊まる。そんな旅人を保土ヶ谷宿に泊めようと、「留女(とめおんな)」という人が旅人を度々追いかけていた。「東海道中膝栗毛」の弥次さん、喜多さんも留女に戸塚まで追いかけられたようだ。

10.橘樹神社

 そのまま進むと右手側に神社が見えてくる。橘樹(たちばな)神社だ。

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橘樹神社

 創建は文治2年(1186年)、京都の八坂神社の分霊を勧請奉祀したと伝えられている。もとは牛頭天王と呼ばれており、このあたりの天王町という地名はこの神社に由来する。明治時代にこの地、武蔵国橘樹郡の郡名を取って橘樹神社と改められた。

11.帷子橋

 橘樹神社に参拝してから東海道に戻ると、すぐ帷子(かたびら)橋を渡る。

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帷子橋

 このまま行くと行きどまりなのではないか、と思うのは正面に相模鉄道天王町駅があるからだ。

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天王町駅

 天王町駅のガードをくぐるとすぐに復元された帷子橋跡がある。

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帷子橋跡

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 帷子川は昔ここを流れていた。橋と景観の様子は素晴らしく、歌川広重も大変気に入り、保土ヶ谷宿を表す場所として何枚も絵を残したほどだった。しかし帷子川は暴れ川で、下流域にたびたび水害をもたらしていた。そこで横浜市は大規模な改修工事をして、川をまっすぐにした。今流れている帷子川は、先ほど通った帷子橋の下の川である。

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現在の帷子川

 ここからは横浜市主要地方道83号を歩いていく。ここからしばらく歩いていくと左側にロータリーがあり、その奥に保土ヶ谷駅がある。今回はここで終了となる。

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保土ヶ谷

 今回の神奈川駅から保土ヶ谷駅までの区間はやや短めであったが、次回の保土ヶ谷駅から戸塚駅保土ヶ谷宿から戸塚宿までは2里9町(約9km)あるというから、またがんばらなくてはならないだろう。

 

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今回の地図①

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今回の地図②

次回記事はこちら↓

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歩いた日:2021年10月10日

 

【参考文献・参考サイト】

風人社(2020) 「ホントに歩く東海道 第1集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016) 「神奈川の宿場を歩く」 神奈川新聞社

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011) 「神奈川の歴史散歩」 山川出版社

東海道を歩く 3.川崎駅~神奈川駅

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 品川宿川崎宿の距離は2.5里(約10km)であり、川崎宿神奈川宿の間も2.5里である。前回、品川駅出発が遅かったこともあり、1日で川崎駅まで到着することができなかった。そこで、今回は川崎駅に11時半に到着して出発したところ、神奈川駅に16時頃到着することができた。今回はその様子を記録したい。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.小土呂橋

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 川崎駅を出発し、東に進む。

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いさご通り

 ここが前回終了した砂子(いさご)交差点だ。進行方向に「いさご通り」と書かれた看板もあって、わかりやすい。この地名は宗三寺の薬師如来像が海中から出現したとき、ここは海浜で、安置する場所もなかったため土地の人たちが砂子をかき寄せてその上に安置したところ、土地が繁盛したことから名づけられたそうだ。ここから南進していく。

 砂子交差点の次に信号のある交差点は砂子二丁目交差点、その次は小土呂橋交差点だ。この交差点名は昔ここに小土呂橋があったことに由来する。現在橋はなく、その親柱が残るのみだ。

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小土呂橋親柱

 現在新川通りとなっている場所に幅5mほどの用水があった。これは新川堀と呼ばれ、ここを通ってから海に注いでいた。新川堀は慶安3年(1650年)、郡代の伊奈忠治が普請奉行となり、土地が低く排水の悪い小土呂方面の水田改良のために開削された。新川堀と東海道が交わるところに架けられたのが小土呂橋で、当初木橋だったが田中休愚によって石橋に改修された。現在新川堀は暗渠化されている。

 しばらく進むと、「川崎宿京入口」と書かれた看板を見つける。

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川崎宿京入口

 ここが川崎宿の京都側の入口だったようだ。

2.松尾芭蕉、弟子との別れの地

 そのまま進むと、「芭蕉ポケットパーク」と書かれた自動販売機を見つける。

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芭蕉ポケットパーク

 ここは休憩所だが、この柱の裏に芭蕉の弟子たちが詠んだ句が書かれている。

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 ここになぜこれがあるのか、それは少し進んだらわかった。

 少し進むと「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」と書かれた句碑を見つける。

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松尾芭蕉の句碑

 これは、元禄7年(1694年)に松尾芭蕉が江戸をたち、伊賀へ帰るときに川崎宿に立ち寄り、弟子たちとの惜別の思いを詠んだ句である。当時、このあたりは麦畑が多く、初夏の風にそよぐ麦の穂に寄せて、いつまた会えるかという別離に堪える気持ちを表したものといわれている。この句は、松尾芭蕉が関東で詠んだ生涯最後の句となった。この年の10月に、松尾芭蕉は「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」という句を最後に大阪で亡くなっている。

3.無縁塚

 ここから進行方向を見ると、八丁畷(はっちょうなわて)駅が見える。

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八丁畷駅

 「八丁畷」は昔このあたりに人家がなく、畑のなかをまっすぐに八丁(約870m)もあぜ道(畷)が続いていたことに由来する。

 京急の踏切を渡り、南へ進む。すると左側に無縁塚があるのを見つける。

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無縁塚

 ここからは多くの人骨が発見され、この人骨は江戸時代に亡くなった人のものと鑑定されている。なぜここから多くの人骨が見つかるのか。それは川崎宿が震災や大火、疫病などに襲われるたびに多くの人が命を落としており、そのときに発生する身元不明の遺体を川崎宿のはずれであるここにまとめて埋葬したのではないかと推測されている。この不幸にして亡くなった人たちを供養するため、昭和9年(1934年)に慰霊塔を建て、これが無縁塚と呼ばれるようになった。現在でも地元の人々によって供養が続けられている。

 市場上町交差点を渡ると、横浜市鶴見区に入る。川崎市区間は、結構あっという間に終わってしまった。ここからは横浜市なのだが、神奈川宿横浜市、その次の保土ヶ谷宿横浜市、その次の戸塚宿も横浜市である。その次、藤沢宿になってやっと藤沢市に出る。つまり、しばらく横浜市が続くことになる。

4.熊野神社

 しばらく歩いていくと、右側に神社が見える。熊野神社だ。

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熊野神社

 弘仁年間に熊野本宮の分霊を勧請したのが始まりで、江戸入国のときに徳川家康も参詣している。明治5年(1872年)に新橋横浜間に鉄道が開通するのにあたり、境内と線路が交差するため現在地に遷座した。

5.市場の一里塚

 しばらく歩くと左側に小さな丘を見つける。これが市場の一里塚である。

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市場の一里塚

 日本橋から5番目の一里塚である。一里塚は街道に一里ごとに整備されていることは知っていたが、本物は初めて見た。実際、ほとんど残っていない。本来は街道の両側に一里塚があったようだが、現在の市場の一里塚は左側の塚のみとなっている。一里塚の上には榎を植えることになっており、この一里塚にも昭和初期まで榎が残っていたようだ。平成元年(1989年)に横浜市地域文化財として登録された。

 また、このあたりの地名「市場」はこの地が海辺にあり、漁業や塩の生産が盛んで、天文年間には魚介の市を開設し大いに栄えたことからきている地名である。

6.鶴見橋関門旧跡

 鶴見川鶴見川橋で越える。

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鶴見川

 昔、鶴見川はたびたび洪水を起こしたといわれているが、その一方で船便が盛んで、大正末期までは船の往来が多く、たいそう賑やかだったらしい。

 江戸時代の鶴見橋は、長さ25間、幅3間の板橋で、大山や箱根の山々がよく見えたらしい。現在は残念ながら見ることはできない。また、鶴見橋には、名物「よねまんじゅう」を商う店が多く、市場村だけでも40軒あったらしいが、これも見当たらなかった。

 そのまま進むと左側に鶴見橋関門旧跡と書かれた石碑を見つける。

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鶴見橋関門旧跡

 これは、幕末の頃、横浜開港とともに攘夷派が外国人に襲いかかる事件が続発したため、英国総領事オールコックから浪士取り締まりのために関門を設置するよう要求があり、幕府はこれを受けて関門を7ヶ所設置した。そのうちのひとつが鶴見橋関門だった。後で紹介するが、生麦事件以降、警備が強化され、川崎宿から保土ヶ谷宿の間に20ヶ所も見張番所が設けられ、この鶴見橋関門は第5番の番所だった。世情の安定のため、明治4年(1871年)に廃止され、現在は石碑だけが残っている。

7.鶴見神社

 少し進むと「寺尾稲荷道」と書かれた石碑を見つけた。

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寺尾稲荷道

 これは東海道と寺尾稲荷神社に向かう道との分岐点に置かれた道標である。やけに見た目が新しいが、これは複製品で、本物は鶴見神社境内にある。

 そのまま進み、鶴見駅東口入口から数えて2つ目の交差点を振り返ると、鶴見神社がある。

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鶴見神社

 鶴見神社は、鶴見村の総鎮守である。杉山大明神と牛頭天王社の二社を祀っている。祭神は杉山大明神が五十猛命(いそたけるのみこと)、牛頭天王社素戔男尊(すさのおのみこと)である。

 鶴見神社の創建は推古天皇の御代(約1400年前)と伝えられており、横浜・川崎で最古の神社であるとされている。また、神社境内ということで開発もされなかったのか、境内に貝塚が発見されている。

 本殿に参詣し、奥に進んでいくと先ほどの「寺尾稲荷道」の道標を見つけた。

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寺尾稲荷道

 こちらは横浜市地域有形民俗文化財に指定されている。確かに複製品があった位置にあると破損の危険があるかもしれないが、かといって道標は移すと半分意味がなくなってしまう。そう考えると道標の保管方法として、本体は安全な場所に、そして本来あった場所には複製品を置くのがよいのかもしれない。

 そして一番奥には富士塚があった。

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富士塚

 富士塚とは江戸時代に起こった富士信仰で造られた人工の小さな富士山である。江戸では富士信仰が盛んなので至るところに富士塚があるが、東京以外で富士塚を見たのは初めてだった。

 

 そのまま進み、京急線のガード下をくぐり、さらに南進する。

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 ベルロードと書かれたアーケードをくぐり、進んでいく。

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 今までは「旧東海道」と書かれた看板がどこかにあり、道の確認が取れていたのだが、ここにはこういったものが一切ないので道を間違えたのか、不安になってしまった。そのなかで「旧東海道鶴見」と書かれた小さな石碑を見つけ、「間違ってなかった」と安堵した。

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 鶴見があまり「東海道」と主張していないのは、宿場ではないからだろうか。

 鶴見駅周辺は商店街があるが、そこを過ぎるとだんだん住宅地になっていく。歩いていて少し退屈だが頑張って歩いていく。

8.道念稲荷神社

 しばらく進むと、鳥居がたくさん連なっている稲荷神社を見つける。道念稲荷神社だ。

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道念稲荷神社


 伝えられるところによると、身延山久遠寺奥の院のさらに奥の七面山で修行を積んだ道念和尚が旅の途中、ここに立ち寄った際に稲荷社を建てたことからこの名がついた。

 この神社は無人の小さい神社だが、祭祀である「蛇も蚊も祭り」は横浜市指定無形民俗文化財に指定されている。

9.生麦事件

 生麦事件は日本史のなかでも有名な事件なので、「生麦」という言葉を聞くとこの事件を連想する人が多いだろう。その生麦事件の発生現場があった。

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生麦事件発生現場

 生麦事件とは、薩摩藩とイギリスの間に起こった事件である。文久2年(1862年)8月、江戸から帰国の途にあった薩摩藩島津久光の行列にリチャードソン、クラーク、マーシャル、ボロデール夫人の4人のイギリス人の乗った馬が行列を横切ろうとした。薩摩藩の武士は4人に指示したが、言葉が通じなかったため4人は指示に従わなかった。これを無礼とした薩摩藩の武士が斬りかかり、リチャードソンは殺されてしまった。残り3人のうち2人は傷を負ってアメリカ領事館まで逃げ込み、残り1人は居留地まで逃げた。

 この事件に対してイギリスは幕府に10万ポンド、薩摩藩に25,000ポンドの賠償金および犯人の逮捕を要求した。幕府はこの要求に応じたものの薩摩藩は応じなかったため、文久3年(1863年)イギリス艦隊は薩摩藩を攻撃した。薩摩藩も抵抗してイギリス艦隊を追い払った。これが薩英戦争である。幕末に外国と戦争をした薩摩藩は、西洋文明の力を体験したことで単純な攘夷論では国を守れないことを悟った。

 しばらく進むと生麦事件碑を見つける。

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生麦事件

 これは明治16年(1883年)12月に、リチャードソンが命を落とした場所の土地を所有していた黒川荘三が、自由民権思想の啓蒙に貢献した中村正直に撰文を依頼して建立した。事件の起きた8月21日には毎年記念祭が行われている。なお、リチャードソンの墓は山手の外国人墓地にある。

 少し東海道から離れているので今回は行かなかったが、「生麦事件参考館」もあるので、興味のある人は行ってみてもよいと思う。

 ここで国道15号線に合流し、南へ進んでいく。

10.遍照院

 国道15号を進んでいくと、右手側に気になる寺院があったので寄ってみる。遍照院だ。

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遍照院

 この山門の前に踏切があり、その前に灯篭がある。これは分断参道ではなかろうか、と気になった。たどりついたときは遮断機が下りていて、その前を京急の電車が走っていった。別名踏切寺とも呼ばれているらしい。

 遍照院のある右手側とは反対側に、東子安一里塚の看板がある。

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東子安一里塚

 この一里塚は市場の一里塚とは違い、残っているものはこの看板のみである。市場の一里塚から一里(約4km)進んだのか、と感慨に耽るだけだった。

11.トマトケチャップ発祥の地

 今ではどの家庭にもあるトマトケチャップだが、これが生まれたのはここ、子安らしい。安政6年(1859年)の横浜開港によって、日本に西洋野菜が入ってきた。文久2年(1862年)に居留外国人ローレイロが菜園を作ったのを皮切りに、多くの外国人が山手に農場を開設した。子安で西洋野菜栽培が始まったのは慶応2年(1866年)頃で、ここから西洋野菜栽培はどんどん盛んになっていった。明治27年(1894年)には子安の清水與助がトマトケチャップ製造会社の清水屋を始めた。このことを記念して、ここにトマトケチャップ発祥の地の碑がある。

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トマトケチャップ発祥の地

 トマトケチャップが横浜発祥とは、知らなかった。

12.神奈川通東公園

 浦島町交差点を過ぎると、神奈川宿に入る。

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浦島町交差点

 品川宿川崎宿は宿場町の風情があり、「宿場に入ったな」という感覚があったのだが、ここは国道15号上、あまり宿場に入った感覚はしなかった。

 浦島町交差点を過ぎて2つめの交差点を右折すると、神奈川通東公園がある。

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神奈川通東公園

 ここは神奈川宿の江戸方見付で、旧本陣石井家に伝わる「神奈川町宿入口土居絵図」によると街道両側に高さ2.5mほどの土塁が築かれ、その上には75cmの竹矢来が設けられていた。ここには長延寺という寺院があり、ここは横浜開港当時、オランダ領事館にあてられた。公園内に「史跡 オランダ領事館跡」と書かれた石碑がある。

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オランダ領事館跡

 国道15号に戻り、南に進むと良泉寺がある。

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良泉寺

 神奈川宿の多くの寺院が外国の領事館にあてられるなか、この寺の住職は本堂の屋根を剥がし、修理中であるからと断った。よほど領事館として使用されるのが嫌だったのだろう。

13. 笠䅣稲荷神社

 良泉寺の先を右に曲がり京急の線路をくぐると、 笠䅣稲荷神社がある。

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笠䅣稲荷神社

 笠䅣(かさのぎ)という変わった名前は、笠を被った人がこの神社の前を通り過ぎるとその笠が脱げて落ちてしまうことからこの名がつけられたそうだ。

14.神奈川本陣跡と青木町本陣跡

 国道15号に戻り、しばらく進むと神奈川本陣跡と青木町本陣跡と書かれた案内板を見つける。

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神奈川本陣跡と青木町本陣跡

 滝の川を挟んで、石井本陣と鈴木本陣の2つの本陣が向き合うようにして立っていた。石井本陣は神奈川町にあったので神奈川本陣と呼ばれ、鈴木本陣は青木町にあったので青木本陣と呼ばれていた。

15.洲崎大神

 滝の川を滝の橋で渡り、しばらく行くと右手側に宮前商店街がある。

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宮前商店街

 ここが旧東海道なので商店街に入っていく。少し進むと洲崎大神がある。

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洲崎大神

 洲崎大神は青木町の総鎮守である。境内の大アオキから青木町の名前がついたという。

 石橋山の合戦に敗れ、海路、安房へ渡った頼朝が再起を安房神社に祈願し、その大願が成就できたため、陸路で参詣できるこの地に社を建てて祭神を分霊して祀った。祭神は天太玉命(あまのふとだまのみこと)、天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)、大山咩命(おおやまぐいのみこと)である。

 現在は埋め立てが進み内陸にある洲崎大神だが、かつてこの下はすぐ海で、船着場があり、横浜開港後は開港場と神奈川宿との渡船が行き交っていた。そのため河岸に警備陣屋が置かれていた。

 このまま西に進んでいくと神奈川駅に到着する。

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神奈川駅

 今回の東海道歩きはここまでとし、次回は神奈川駅から保土ヶ谷駅まで歩いていく。

 

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今回の地図①

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今回の地図②

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今回の地図③

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

歩いた日:2021年9月24日

 

【参考文献・参考サイト】

風人社(2020) 「ホントに歩く東海道 第1集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016) 「神奈川の宿場を歩く」 神奈川新聞社

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011) 「神奈川の歴史散歩」 山川出版社

鶴見神社 鶴見神社の歴史

https://tsurumijinja.jp/history/

(2021年9月29日最終閲覧)

東海道を歩く 2.品川駅~川崎駅 後編

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 前回は強風のため品川駅から川崎駅まで行く予定を短縮し、大森海岸駅までとした。それから約2週間後、今度こそ川崎駅まで歩くと決心して大森海岸駅へ降り立った。そして実際に川崎駅まで歩くことができたため、これを記録する。

 

 

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

1.磐井神社

 大森海岸駅から南へ少し進むと右側に大きな神社が見える。

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磐井神社

 磐井神社だ。

 磐井神社は三十代敏達天皇二年(573年)8月起源といわれる古い神社である。別名、鈴森八幡宮とも呼ばれたと磐井神社由緒書にある。天正18年(1590年)に徳川家康が関東入国の際に参詣し、元禄2年(1689年)には五代将軍徳川綱吉が幕府の祈願所とし、享保10年(1725年)にも八代将軍徳川吉宗が参詣、代官の伊奈半左衛門に命じて社殿を改修させた。

 手水をしようと手水舎を見ると閉鎖されており、かわりにアルコール除菌スプレーが置かれていた。

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 手を清めるという意味では、アルコール除菌スプレーでもありなのかもしれない。

 

 御朱印をいただいたら、花火が打ちあがっていた。

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 御朱印は三種類から選べ、そこに「葉月」と書いてあったから、月替わりのイラスト御朱印なのだろう。

2.美原不動尊

 少し南に進み、平和島口交差点の次の信号を左に入る。すると美原通りに入る。

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美原通り

 美原通りはかつて三原通りと呼ばれた。字名の南原、中原、北原からとって三原、美称して美原になった。

 「旧東海道」という石柱もあり、ここが東海道であったことがわかる。

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旧東海道

 大森本町ミハラ通り北商店街に入ってすぐのところに美原不動尊がある。

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美原不動尊

 真言宗醍醐派の、小さな寺院である。

3.大森の海苔

 そしてこのあたりには海苔店が多い。

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 大森村では以前、海苔の採取をやっていたことの名残だろう。

 大森村でいつから海苔の採取を行うようになったかは諸説あるが、浅草永楽屋の「浅草海苔由来記」の説では元禄16年(1703年)の大地震で浅草方面が隆起して海苔が全くとれなくなったところ、翌年の大水で浅草川から流れた楢の小木が根を埋めてそこに海苔が生じたため、以後、この木をまねてひび麁朶を建てて海苔を養殖しだしたのが始まりと伝えている。

 海苔は潮の干満があり、豊かな養分を運んでくる川があり、海水と淡水が混じる海でよく育つ。この条件がそろっていた大森村では海苔の栽培が盛んになり、「海苔業税」を幕府に納めたり、徳川将軍家などにも献上される「御前海苔」を作るようになったりした。慶応の頃には日本全国の海苔生産高の73%を大森村が占めたという。

 明治維新政府の御用金では5000両という大金を献上したことから、海苔の収入で富裕な村だったことがわかる。海苔養殖場明治23年(1890年)には30万坪を超え、昭和3年(1928年)には60万坪を超えている。ピークは昭和8年(1933年)で、100万坪近くに達した。明治の後期からは対岸の千葉海岸で胞子をつけて、大森で育成する移植法が取り入れられたり、昭和になると竹ひびが網に改良されたりして海苔栽培はますます発展した。

 しかし昭和8年(1933年)以降はしだいに沿岸各地の工業化・宅地化がすすみ、水質は汚染し、埋め立てによる面積の減少などで、海苔生産は漸減傾向を示した。さらに戦争なども重なり、大森の海苔の生産量は著しく低下した。

 戦後は一旦復活したものの、東京オリンピック開催のための高速道路建設、埋め立て地の造成、東京国際空港(羽田空港)の拡張などにより、海苔採取場の海面を放棄しなくてはならなかった。昭和34年(1959年)以降、海苔採取場の放棄に関する営業補償の折衝が漁業組合と東京都の間で行われ、昭和37年(1962年)12月に補償金総額330億円で妥協した。そのため、大森の海苔採取は終止符を打つことになり、「大森海苔」の名も消え去ることになった。

 

 しばらく進むと内川橋に行き着く。

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内川橋

 内川にかかる橋なので内川橋という名前になっている。

 

 大森警察署前で三原通りは終わる。そこから国道15号方面に信号を渡り、南進していく。久しぶりに見た14キロポストは草に埋もれていた。

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14キロポスト

4.貴菅神社

 しばらく歩くと貴菅神社がある。

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貴菅神社

 正式な社号は「貴舩神社」らしいのだが、昭和に入って「貴菅神社」と呼ばれるようになった。明治42年(1909年)に菅原神社を合祀したことが神社名の変化に関係があるのだろうか。

5.梅屋敷公園

 梅屋敷商店街を横目に通り過ぎると梅屋敷公園に到着する。

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梅屋敷公園

 文政の頃(1818~1829年)に山本久三郎が梅の木などを植えて東海道の休み茶屋を開いたことが起源である。梅花の季節には、江戸の文人墨客・風流人の賞玩するところとなり、杉田や亀戸の梅林とともに江戸近郊の名所といわれた。

 ここは東海道の旅人だけでなく、十二代将軍徳川家慶が鷹狩りの休み所としたり、十四代将軍徳川家茂も上洛の際に途中休息として使用したり、大久保利通伊藤博文など幕末・維新期の要人が国家の大事をここで談じたりした。

 文久2年(1862年)10月に、長州藩高杉晋作久坂玄瑞らは横浜異人館の焼き討ちを計画した。梅屋敷でそれを打ち明けられた土佐藩武市半平太は、暴挙として反対したが、久坂玄瑞らは聞き入れなかった。そこで武市半平太は主君の山内容堂にこれを伝え、さらに山内容堂長州藩毛利元徳にこれを知らせた。毛利元徳高杉晋作らを説得し、どうにか横浜異人館の焼き討ちは実行されずに済んだ。これを「梅屋敷事件」という。

 明治以降も、明治天皇大正天皇行幸・皇后の行啓などがあり、梅の名所として有名だったが、京浜国道の拡幅や、京浜電車の開通などによる地所の縮小などで、しだいに往時の姿を失っていった。昭和13年(1938年)には東京市の公園に寄付され、一般公開となり、現在は大田区の所有になっている。

 園内には句碑が何基か残っている。

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 戦前には多くの句碑が残っていたが、戦後に姿を消してしまったらしい。探してみたら、3基の句碑を見つけた。

 そして梅屋敷公園には復元した里程標があり、「距 日本橋三里十八丁」と刻まれている。

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 これは梅屋敷の前にあった里程標で、戦後に姿を消したが資料をもとに復元したものである。

 

 15キロポストを超えると、夫婦橋がある。

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15キロポスト

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夫婦橋

 夫婦橋は、呑川にかかる橋である。

 

 京急蒲田駅を横目に見て、16キロポストを超えると熊野神社に到着する。

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16キロポスト

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熊野神社

 境内に祭礼時に力比べをしたと伝えられる力石があった。

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力石

6.六郷神社

 雑色駅の商店街を横目に見て、17キロポストを超えてしばらく進むと、左手側に立派な神社が現れる。六郷神社だ。

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17キロポスト

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六郷神社

 六郷神社の開創にまつわる伝説はいろいろある。八幡太郎義家が奥州征伐のときに八幡宮を祀ったから、源頼義・義家父子が奥州征伐の祈願成就の報賽として建立した、源頼朝が鎌倉を手に入れたとき根拠地だった六郷に鶴岡八幡宮を勧請して建立した、など。どの伝説が正しいのかは定かではない。

 徳川家康は江戸入府とともに社領18石を寄進し、六郷橋竣工のおりに祝詞を捧げている。このころには東海道筋の名高い神社となっていたようである。

 そして六郷一円の総鎮守とされているだけあって広い神社だった。境内には源頼朝が寄進したとされる手水石や、貞享2年(1685年)に六郷中町の有志が奉納した狛犬(大田区文化財)がある。

7.六郷大橋

 東海道に戻って直進すると階段を登ることになる。六郷大橋を渡るのだ。

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六郷大橋

 慶長5年(1600年)7月、徳川家康は酒井左衛門尉忠次を普請奉行として多摩川に六郷大橋を架けた。これは両国大橋や千住大橋とともに江戸の三大橋とうたわれるようになった。この橋の完成は東海道の交通史上、画期的な発展をもたらした。

 徳川家康は慶長6年(1601年)6月23日に、六郷神社に新橋竣工に際しての神文を寄せている。そこに「雁歯百余年間、古今まれなる橋なり」とその成果を自負している。

 しかし急造の橋だったため、いたみが早く、慶長18年(1613年)には大修理が加えられた。そのとき擬宝珠がとりつけられ、立派なものに改修されたようだ。この架橋に際しては、八幡塚村と川崎宿の間を掘り割り、多摩川の流路を変える大工事だったようだ。

 その後、あいつぐ多摩川の氾濫・洪水で毎年のように被害を受け、そのたびに改修が加えられた。寛文2年(1662年)に新たにかけられた橋も、寛文11年(1671年)8月27日から3日間にわたる豪雨で流失、天和3年(1683年)にようやく復旧した。橋の保持・改修には想像以上の費用と労力が費やされていた。貞享5年(1688年)7月21日の大洪水で、上流から流れてきた家屋が六郷大橋に激突し、橋は大破した。これを機会に六郷大橋は廃止となり、渡船による渡し場となった。以後、明治時代に橋を架けられるまで、東海道の名所「六郷の渡し場」として人々に親しまれた。なお、一時的に舟で橋を作ったことはあり(舟橋)、それは徳川吉宗が購入したゾウを運ぶときと、明治天皇の東京行幸のときである。

 明治5年(1872年)、橋のない不便さを解消するため、八幡塚村の名手鈴木左内は自力で橋をかけることにし、東京府に架橋の許可を求める願書を提出した。この計画の内容は渡橋者から料金を徴収し、それを架橋費や修繕費に充てようとした有料橋だった。しかし実際の工事費は莫大で、左内一人の力ではまかないきれず、近隣の協賛者から資金援助や投資を得て明治7年(1874年)1月に完成した。しかしこれも毎年の洪水で破損や落橋がつづいたため、「金喰橋」とよばれるほどだった。

 明治33年(1900年)に京浜電気鉄道株式会社が六郷大橋を六郷架橋組合から買収し、明治36年(1903年)8月に無料で渡れるようになった。これは明治39年(1906年)に政府に献納され、国有になった。その後もたびたび流されていたが、大正14年(1925年)に国道の整備の一環として近代的なコンクリート橋を完成し、これが今日まで存続している六郷大橋である。

 多摩川緑地でスポーツをしている人や多摩川を遠目に見ているうちに、川崎市に入った。日本橋から歩いてついに神奈川県に到着したことになる。

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 川崎市側の六郷大橋を降りるとすぐに「六郷の渡し」の説明板がある。

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8.川崎宿

 説明版を読んだら、少し南に進み、高架をくぐるとすぐに川崎宿に到着する。

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 川崎宿日本橋から数えて2番目の宿場である。東海道の成立時点では正式な宿場となっていなかったが、品川宿神奈川宿の間が5里(約20km)と長かったため、元和9年(1623年)に川崎宿が設置された。しかし宝暦11年(1761年)の大火で建物が焼失してしまい、川崎宿に古い建物はあまり残っていない。

 川崎宿の設置後は窮状に陥り、一時は宿役人が幕府へ川崎宿の廃止を訴える事態にもなった。そんななか、問屋・名主・田中本陣の当主を兼ねていた田中休愚が幕府に働きかけを行い、六郷の渡しの運営を川崎宿の請負とすることにして、川崎宿の経営を立て直すことに成功した。さらに幕府を論じた「民間省要」を著したことで徳川吉宗にも認められ、幕府に登用された。

 民家の前に「田中本陣と田中休愚」という看板がある。

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田中本陣と田中休愚

 この看板の場所に川崎宿の本陣の一つ、田中本陣があった。本陣なので大名や幕府の役人、勅使などが宿泊したのはもちろんだが、明治時代に明治天皇もここで昼食をとり、休憩した。そして田中休愚はここの運営者だった。

 

 川崎宿の名物といえば奈良茶飯である。これはもともと奈良県の郷土料理だったが、茶飯を気に入った旅人が関東へ持ち帰ったところ発展したようだ。奈良茶飯とは、米と大豆、小豆、栗などの穀物をお茶で炊き込んだごはんである。江戸時代の東海道を取り上げた滑稽本東海道中膝栗毛」のなかでも川崎宿の万年屋の奈良茶飯が登場している。私も食べてみたいと思ったが、お店が見つからなかったことと、神奈川県の感染状況から外食自粛となったため、今回は食べていない。コロナが収束したら食べに来たいと思った。

 

 東海道かわさき宿交流館を見つけたので寄ってみた。

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東海道かわさき宿交流館

 入ったら学芸員さんがにこやかに挨拶してくれて、「2階と3階が展示スペースなのでご覧くださいね」とパンフレットを渡してくれた。

 2階が主に川崎宿の展示、3階が川崎宿外も含めた川崎市の展示となっていた。無料だったが、無料にしては展示内容が充実しており、1時間ほど滞在してしまった。川崎宿に訪れたなら、ぜひおすすめしたい博物館である。

 そのまま道なりに進むと砂子交差点に出る。ここから右折すると川崎駅に到着する。

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川崎駅

 今日の東海道歩きは川崎駅を終点とする。

 次回は川崎駅から神奈川駅まで歩くことを予定している。

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今回の地図

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今回の地図

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

歩いた日:2021年8月22日

 

【参考文献・参考サイト】

風人社(2020) 「ホントに歩く東海道 第1集」

新倉善之(1978) 「大田区の歴史」名著出版

三井住友トラスト不動産 東京都大森・蒲田 海苔養殖発祥の地・大森

https://smtrc.jp/town-archives/city/omori/p07.html

(2021年8月22日最終閲覧)

神社と御朱印 貴菅神社(貴舩神社)

https://jinja.tokyolovers.jp/tokyo/ota/kisugajinja

(2021年8月22日最終閲覧)

川崎市 六郷の渡し跡

https://www.city.kawasaki.jp/miryoku/category/67-1-4-1-5-3-0-0-0-0.html

(2021年8月22日最終閲覧)

川崎市川崎区 川崎宿とは

https://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/category/94-10-2-6-2-0-0-0-0-0.html

(2021年8月22日最終閲覧)

 

東海道を歩く 2.品川駅~川崎駅 前編

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 前回は日本橋を出発し、品川駅まで歩いた。今回は品川駅を出発し、川崎駅まで歩く予定である。しかし強風のため、途中の大森海岸駅で引き揚げてしまった。今回は品川駅から大森海岸駅まで歩いた記録とする。

 

 

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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 前回終了した、品川駅から今回の散策を始める。

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品川駅

1.髙山稲荷神社

 品川駅から少し南進すると見えてくるのが髙山稲荷神社だ。

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髙山稲荷神社

 髙山稲荷神社の創建年代は不明だが、明治元年に現在地へ遷座した。祭神は宇迦之御魂神(うかのみたま)となっている。

 少し進むと、8kmポストが見えてくる。

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8kmポスト

 ここからしばらく国道15号を離れるので、キロポストともお別れとなる。

2.品川宿

 八ツ山交差点を左折し、線路を超えたら交差点を右折する。そのまま歩くと北品川本通り商店街に到着する。ここからが品川宿だ。

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 ここは第一京浜国道の拡幅の際、人家が多いため旧道が残され、震災・戦災も受けなかったため、古いたたずまいが今でも残る街である。

 品川宿とは、東海道日本橋を出て最初の宿駅である。宿駅指定は慶長6年(1601年)とされている。江戸に最も近い宿場だったため、江戸の玄関口として、宿駅というよりは社交の場として賑わっていた。品川宿は長期旅行者の宿泊所というよりは、江戸の人が近郷の神社・仏閣へ参詣に出かけたりした帰りに遅くなって休泊する利用者が多かった。そして品川御殿山の桜、袖ヶ浦の汐干狩り、海妟寺の紅葉狩りなどで、江戸市民が季節ごとに訪れた。

 日本橋から二里(約8km)で、最も江戸に近い宿場だったため、この宿場では飯盛女(めしもりおんな。娼婦のこと。)が特別に許可されていた。そのため多くの旅籠屋は、貸座敷として旅人を宿泊させるだけでなく、江戸の人々にとって手近な遊興の場所にもなっていた。経済的に余裕が出てきた江戸市民の手頃な行楽地として、品川宿は発展したのである。

 そして品川宿は芝高輪町から大井村までの間、南北約2kmにわたり続く、海沿いの細長い宿場町だった。そのため、しばらく品川宿の話になる。

3.問答河岸跡

 少し進むと、「問答河岸跡」と書かれた石碑を見つける。

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問答河岸跡

 これは、徳川家光と東海寺の住職、沢庵のやりとりが行われた場所である。そのやりとりとは以下の通りである。

 徳川家光が「海が近いのになぜ東海寺という名前なのか?」と沢庵に質問した。東海寺(とうかいじ)は遠海寺(とうかいじ)と音が同じだからだろう。

 そこで、沢庵は「大軍を率いた将軍でも、将軍と言うでしょう?」と答えた。これも、将軍(しょうぐん)と小軍(しょうぐん)が同じ音だからである。

 要は、駄洒落のやり取りである。

4.土蔵相模跡

 少し進むと、「土蔵相模跡」と書かれた石碑を見つける。

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土蔵相模跡

 これはかつてあった食売旅籠屋(めしうりはたごや)「相模屋」の俗称で、奥座敷が土蔵造りになっていたことから「土蔵相模屋」と呼ばれた。桜田門外の変での水戸浪士やイギリス公使館焼き討ちでの高杉晋作伊藤俊輔(のちの伊藤博文)ら長州藩士の集合場所として使用された。昭和54年(1979年)発行の「品川区の歴史」には「二階の柱に幕末期につけられた刀きずという跡が残っている」と書かれているが、現在も残っているかは不明である。

5.街道松

 品川宿には街道松が多く植えられている。

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袋井宿の街道松

 街道松とは東海道のほかの宿場との兄弟松で、袋井宿、藤沢宿、坂下宿、土山宿、枚方宿、浜松宿、三島宿、亀山宿の街道松が植えられている。街道松の分布は以下の通りである。

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街道松の分布

6.品海公園

 しばらく進むと品海公園に到着する。

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品海公園

 品海公園にある石垣石は、かつて品川宿の街道筋の土留めと目黒川の護岸を兼ねた石垣として組まれており、組まれた時期は幕末から明治時代と言われている。

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品海公園の石垣石

7.養願寺・一心寺

 しばらく進むと虚空蔵横町と書かれた札を見つける。

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虚空蔵横町

 東海道北品川本宿から養願寺への横町を通称「虚空蔵横町」というらしい。これは養願寺境内の虚空蔵堂が「品川の虚空蔵さま」として親しまれたのに起源する。そのまま右に折れて養願寺へ寄ってみる。

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養願寺

 養願寺は正安元年(1299年)に創建された天台宗の寺院である。このあたりを七福神巡りとする、「東海七福神」では布袋尊の札所になっている。

 養願寺の向かい側には一心寺がある。

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一心寺

 一心寺は安政2年(1855年)創建の真言宗の寺院である。こちらも「東海七福神」の札所で、寿老人が祀られている。

8.聖蹟公園

 しばらく進むと聖蹟公園に到着する。

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聖蹟公園

 ここは品川宿本陣の跡で、江戸時代、東海道を行き来する諸大名や公家・門跡などの宿泊・休息所として賑わった。明治元年(1868年)に明治天皇行幸の際の行在所になったことにちなみ、聖蹟公園と名付けられた。

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9.品川宿交流館

 聖蹟公園交差点を超えて南進すると、品川宿交流館に到着する。

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品川宿交流館

 少し寄り道してみる。

 品川宿交流館は「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」が管理・運営する施設で、1階は貸しギャラリー、2階に品川宿の展示、3階と4階は品川区民の多目的スペースとなっている。2階に品川宿の展示があったので少し見せていただいた。

 品川宿交流館をあとにして南に進むと、すぐ橋がある。これは品川橋だ。

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品川橋

 品川橋とは目黒川にかかる橋で、ここが北品川と南品川の境界である。

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 しばらく進むと青物横丁商店街に入っていた。

10.品川寺

 しばらく南に進むと右手側に品川寺(ほんせんじ)がある。

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品川寺

 品川寺とは大同年間(806~810年)に創立された寺院で、本尊は観世音菩薩となっている。この本尊は太田道灌が持ってきたものと伝えられている。ここも「東海七福神」の札所で、毘沙門天が祀られている。

 江戸六地蔵の第一番目にあたる銅像地蔵尊も祀られており、これは武蔵坊正元が勧進して建立したもので、東京都指定文化財である。

 御朱印をいただいた折に、寺の人といろいろ話をした。そこで印象に残っているのは「鈴ヶ森刑場跡には気を付けたほうがいい。あなたは若いから回り道をしてほしいくらいだ。あそこで霊に憑かれる人もいるから。」と言われたことだった。少しぞっとしたから、鈴ヶ森刑場跡は足早に通り過ぎることを決めた。

11.青雲稲荷神社

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鮫洲商店街

 このあたりは鮫洲商店街である。鮫洲とは、建長3年(1251年)頃、品川の海上で大鮫の死体を漁師がとりあげ、腹をさいたところ、正観音の木造が出現したことから生まれた地名とされている。現在は鮫洲といえば免許試験場を連想する人が多い。

 商店街と書かれているが住宅街が続いている。つまり、書くネタがない。そのとき、「青雲稲荷神社」の看板を見つけた。

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青雲稲荷神社

 この看板の位置で右折し、突き当たりを右折する。看板からすぐにあるのかと思ったら案外遠く、これ以上遠かったら諦めようと思った頃に到着した。

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青雲稲荷神社

 小さな、稲荷神社である。

12.鮫洲八幡神社

 青雲稲荷神社に参拝してから東海道へ戻り、南へ進むとすぐに鮫洲八幡神社があった。

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鮫洲八幡神社

 鮫洲八幡神社はかつての御林漁師町の鎮守である。「江戸砂子」に「鮫洲明神さみずの海辺にあり。今砂水と書く。むかし此浜へ丈余の鮫あがる。漁夫どもこれを殺してけり。その折ふし此辺疫病大にはやる。かの鮫のたたり也とて、鮫の頭を神にまつりて鮫頭明神というと也。」と記してある。

 鮫洲八幡神社に頭を祀られた鮫は、先ほどの正観音像の出てきた鮫と同じ個体なのかはわからない。

13.立会川の坂本龍馬

 閑静な住宅街を歩いていると、小さな稲荷神社を見つけたので参拝しようと思った。仲町稲荷神社だ。

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仲町稲荷神社

 そして、仲町稲荷神社から周りを見たら銅像があるのが目に入った。近づいて確認したら、坂本龍馬銅像だった。

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立会川の坂本龍馬

 なぜこんなところに坂本龍馬がいるのか?と思ってしまった。桂浜にいるならともかく、ここは品川だ。近くの説明版を見ると、こう解説されていた。

 ペリーが初めて来航したとき、坂本龍馬は江戸で剣術の修行をしていた。ペリー来航後、土佐藩は立会川河口付近にあった下屋敷の警備のため、土佐藩の武士を動員した。そのなかに坂本龍馬もいた。このことから坂本龍馬の幕末が始まったことを記念して、この銅像が作られた。

 威厳に満ちたように見えるが、コロナ禍故にこの銅像にもマスクがつけられており、それがどうしても可愛らしく映ってしまう。

 そしてこのあたりは立会川商店街が東海道と交差している。

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立会川商店街

 久しぶりに人の気配を感じ、つい歩きたくなったが進行方向とは違うので通り過ぎるだけとする。

14.浜川橋

 立会川商店街と交差するとすぐに、立会川にかかる橋を渡ることになる。浜川橋だ。

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浜川橋

 立会川が海にそそぐあたりを浜川と呼ぶことから、浜川橋の名がついた。

 浜川橋は通称、「涙橋」とも呼ばれている。それは、鈴ヶ森刑場で処刑される罪人が馬に乗せられて江戸から鈴ヶ森刑場に護送されるときに、罪人の親族が密かに見送りにきて、ここまで見送ることが許されて涙を流しながら別れたということからそう呼ばれるようになった。

15.天祖諏訪神社

 浜川橋を渡るとすぐに大きな神社がある。天祖諏訪神社だ。

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天祖諏訪神社

 ここはもともと天祖神社諏訪神社という別の神社で、天祖神社は浜川町と元芝の鎮守の神社だったが、昭和40年(1965年)に合祀され、ひとつの神社になった。

16.しながわ区民公園

 しばらく進むと、しながわ区民公園に到着する。

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しながわ区民公園

 しながわ区民公園は勝島運河を埋め立てて造られた区民公園である。入ってみようかと思ったが、地図を見たところあまりに敷地が広大だったため、入口で看板を見るだけとした。

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17.鈴ヶ森刑場跡

 そのまま進むと、鈴ヶ森遺跡が見えてくる。そう、これが鈴ヶ森刑場跡である。

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鈴ヶ森刑場跡

 鈴ヶ森刑場は慶安4年(1651年)に開設された江戸の処刑場である。現在は日蓮宗の大経寺の敷地になっている。近辺の人々は浜川の南、一本松にこの刑場があったので一本松獄門場といっていたが、隣村入新井にある磐井神社の鈴の森と混同し、江戸の方からみた「鈴ヶ森」の総称が定着してしまったようだ。

 処刑に使用されたといわれる台石や首洗いの井戸、様々な供養塔が残る。何か嫌な気配を感じたので、品川寺の人の言葉通り、足早に通り過ぎた。

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大森海岸駅

 ここから川崎駅まではまだまだ距離があるが、この日は午前中天気が悪くスタート時間が遅かったことや、強風でまちあるきがやりづらかったこともあり、隣に大森海岸駅が見えたところで切り上げてしまった。

 次回は、大森海岸駅からスタートする。

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今回の地図

 

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今回の地図

次回記事はこちら↓

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歩いた日:2021年8月9日

【参考文献・参考サイト】

風人社(2020) 「ホントに歩く東海道 第1集」

品川区文化財研究会(1979) 「品川区の歴史」 名著出版

しながわ観光協会 旧東海道品川宿まち歩き

https://shinagawa-kanko.or.jp/recommended_route/kyuutoukaidou/

(2021年8月14日最終閲覧)

しながわ観光協会 一心寺

https://shinagawa-kanko.or.jp/spot/issindera/

(2021年8月14日最終閲覧)

しながわ観光協会 八幡神社

https://shinagawa-kanko.or.jp/spot/samezuhashimanjinja/

(2021年8月14日最終閲覧)

しながわ観光協会 しながわ区民公園

https://shinagawa-kanko.or.jp/spot/shinagawa-kuminpark/

(2021年8月14日最終閲覧)

しながわ観光協会 鈴ヶ森刑場跡・題目供養塔

https://shinagawa-kanko.or.jp/spot/suzukamorikeijouseki/

(2021年8月14日最終閲覧)

北品川商店街 品川宿交流館

http://www.k-shina.com/kouryu.html

(2021年8月14日最終閲覧)

別格本山 品川寺

http://www.evam.ne.jp/honsenji/

(2021年8月14日最終閲覧)

濱川総鎮守 天祖諏訪神社 神社の由緒

http://www.tensosuwa-jinja.jp/history.html

(2021年8月14日最終閲覧)

 

東海道を歩く 1.日本橋~品川駅 後編

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 前回は日本橋を出発し、港区との境目である新橋駅まで歩いた。今回は日本橋を出て初めての宿場である、品川宿まで歩く。しかし現在では駅で境としたほうが交通の便がよいため、品川駅を目指し、そこを今回のまちあるきの終点とする。

前回記事はこちら↓

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 1.日比谷神社

 新橋から南に進むと、左手側に日比谷神社が見えてくる。

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日比谷神社

 日比谷神社の創建は不詳、祓戸四柱大神(はらいどのよつばしらのおおかみ)が祀られている。ここの手水はコロナ対策なのか、センサー式で、私が近づくと龍の口から水が出た。

 しばらく南進する。ここの3kmポストは橋の下にあってわかりづらい。

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3kmポスト

 日が当たって暑いので右側に移動した。しばらく歩くと、右手側に芝大神宮が見えてくる。

2.芝大神宮

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芝大神宮

 芝大神宮は寛弘2年(1005年)に創建され、伊勢神宮の祭神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)と豊受大神(とようけのおおかみ)を祀っている。芝大神宮の例大祭は9月11日から21日にかけて行われるが、祭りが長期間に渡って続くため「だらだら祭り」とも呼ばれている。これは生姜を商うことや千木箱という容器細工を頒布すること、甘酒を接待することなどが独特の風習として知られている祭りである。今年の「だらだら祭り」はコロナのため、神職のみで行われるそうだ。

 参拝し、御朱印をもらったらいろいろなプレゼントをいただいた。

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 下から芝大神宮のパンフレット、御朱印、生姜の飴、道中安寧のお守りだ。道中安寧のお守りは、これから長く続く東海道のたびの道中安寧を祈ってくれたのだと思い、大事に持っておくことにした。そして気になったのが生姜の飴だ。なぜ生姜?と思い調べてみたら芝大神宮が生姜とゆかりの深い神社だということがわかった。昔はこの一帯は生姜畑であり、芝大神宮が鎮座したときも生姜が供えられた。そして「だらだら祭り」でも生姜が盛んに売られた。現在この周辺に生姜畑はない。生姜とのつながりがわかるのは、御朱印をもらったときに生姜の飴がもらえることと、境内に生姜塚があることくらいである。生姜の飴は甘さと生姜の香りが絶妙で美味しかった。

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生姜塚

3.増上寺

 芝大神宮を後にして東海道を南進していくと大門の交差点にぶつかる。このあたりに大きい門があったから大門の地名がついたのだろうか、と考えながらおもむろに進行方向右側を向いたらそこに大きな門があった。増上寺の大門である。

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大門

 東海道の道からは少し外れるが、増上寺に行ってみることにした。

 大門と三解脱門をくぐると、増上寺の境内に入ることができる。そして増上寺を撮ろうとすると、絶妙なアングルで東京タワーが写りこんでくる。

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増上寺と東京タワー

 増上寺は明徳4年(1393年)、酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって開かれた。そして天正18年(1590年)、徳川家康が徳川家の菩提寺として増上寺を選んだことにより、増上寺は繁栄してゆく。徳川家康増上寺を選んだ経緯として、『三縁山志』によると、徳川家康が江戸にやってきたとき、増上寺の門前で馬が動かなくなった。仕方なく徳川家康は下馬し、増上寺門前にいた住職と話してみると、その住職は三河の寺院で修行していたことを知った。そこで徳川家康は自らの出身地と住職の出身地が同じ三河であることや、増上寺の名前が「増し上る」という縁起のよい言葉であったことなどから気に入り、菩提寺にした、と伝えられている。しかしこれは美談であり、江戸に来る前から徳川家康菩提寺を決めていたのではないか、との説もある。

 そして徳川家の菩提寺は2つあり、もう1つは上野の寛永寺である。徳川家将軍の墓所増上寺寛永寺、そして日光の輪王寺の3箇所にある。増上寺には2代将軍秀忠、6代将軍家宣、7代将軍家継、9代将軍家重、12代将軍家慶、14代将軍家茂の墓所がある。なぜこのように分けられているのかは不明だが、親子などの親疎の情や、増上寺寛永寺の勢力関係等が関係しているのではないかと憶測されている。

4.金杉橋

 増上寺に参拝したら東海道に戻る。そのまま進むと金杉橋を渡ることになる。

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金杉橋

 これは古川に架かる橋で、江戸時代は流罪者を運ぶ遠島船の出た橋として知られていた。

 金杉橋の近くに4kmポストがあり、日本橋から品川宿の中間地点であることを知らせてくれる。

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4kmポスト

5.江戸開城西郷南州勝海舟會見之地

 そのまま進むと工事中の壁に「田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)付近沿革案内」が貼ってあることに気がつく。ここに江戸開城西郷南州勝海舟會見之地の碑があったようだが、工事で外されているためにここに貼ってあると考えられる。この地で慶応4年(1868年)西郷隆盛勝海舟が会見し、江戸城無血開城が決定したそうだ。近くに5kmポストがある。

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田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)付近沿革案内

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5kmポスト


 そのまま進むと「札の辻」交差点に行き着く。ここは「札の辻」の名前通り、かつての高札場である。歩道橋を渡って進む。

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札の辻

6.御田八幡神社

 しばらく進むと右側に御田八幡神社が見えてくる。御田八幡神社和銅2年(709年)に創建され、江戸時代に現在地へ遷座した。以来三田・芝・芝浦・高輪の氏神として崇敬されている。現在でも釜鳴神事のような古代的な行事が残っている。

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御田八幡神社

7.高輪大木戸跡

 6kmポストを確認したら、高輪大木戸跡が見えてくる。高輪大木戸は江戸時代中期の宝永7年(1710年)に芝口門にたてられたのが起源である。享保9年(1724年)に現在地に移された。江戸の南の入り口として、夜は閉めて通行止めとし、治安の維持と交通規制の機能を持つ門だった。後に高札場も札の辻から移された。かつては旅人の送迎もここで行われ、たいへん賑やかな場所だったそうだ。現在は自動車が大木戸跡の横を通り過ぎるだけとなっている。

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6kmポスト

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高輪大木戸跡

8.泉岳寺

 そのまま進むと、泉岳寺が右手側に見えてくる。泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚を拝請して徳川家康が創立した寺院である。寛永の大火により現在地に移転となった。境内に忠臣蔵で有名な、赤穂義士の墓地があることで有名である。泉岳寺の前には赤穂義士グッズを取り扱う店もある。

 播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央に斬りつけ、浅野内匠頭切腹となったが吉良上野介はお咎めなしだった。そこで浅野内匠頭の家臣、大石内蔵助良雄以下47人が吉良上野介を討った事件が赤穂事件、これに関わった義士が赤穂義士である。

 赤穂義士の墓地を見てみようとしたが、「供養の精神でお参りください。見学はお断りします。」と書いてあった。時間の問題もあり、今回は引き返すことにした。

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泉岳寺

9.高輪神社

 泉岳寺にお参りしてから東海道に戻る。そのまま南進すると右手側に高輪神社が見えてくる。

 高輪神社の創建は室町中期で3座の祭神を祀っている。

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高輪神社

10.高輪海岸の石垣石

 そのまま進むと高輪二丁目の交差点の脇に石垣が積んであることに気がつく。これは高輪海岸の石垣石である。江戸時代に築かれた高輪海岸の石垣に使われていた石垣で、平成7年(1995年)の発掘調査で出土したものらしい。江戸時代は高輪大木戸から品川宿までの間は石垣の海岸だったそうだ。

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高輪海岸の石垣石

11.品川駅

 7kmポストを確認したら、もうすぐ品川駅である。本来は品川宿をゴールにしたほうがよいのかもしれないが、鉄道の便を考えて今回のゴールは品川駅とする。ロータリーに品川駅創業記念碑があるが、表面は入れないので確認できず、裏側の鉄道創業時の時刻表と運賃だけ確認した。

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7kmポスト

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品川駅

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品川駅創業記念碑

 今回の東海道巡りはここまでとする。次回は品川駅からスタートする。

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今回の地図

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

歩いた日:2021年7月17日

【参考文献・参考サイト】

風人社(2020) 「ホントに歩く東海道 第1集」

俵元昭(1979) 「港区の歴史」名著出版

東京都神社庁 日比谷神社
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/minato/3034/
(2021年7月17日最終閲覧)
芝大神宮ホームページ 御由緒
http://www.shibadaijingu.com/html/goyuisyo.html
(2021年7月17日最終閲覧)
神社検定 参拝後のお楽しみ「諸国味詣で」 第9回 東京・芝大神宮の「生姜」
https://www.jinjakentei.jp/column/column_000024.html
(2021年7月17日最終閲覧)
増上寺 歴史
https://www.zojoji.or.jp/info/history.html
(2021年7月17日最終閲覧)
御田八幡神社
https://mitahachiman.net/
(2021年7月17日最終閲覧)
泉岳寺 泉岳寺について
https://sengakuji.or.jp/about_sengakuji/
(2021年7月17日最終閲覧)
東京都神社庁 高輪神社
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/minato/3021/
(2021年7月17日最終閲覧)

東海道を歩く 1.日本橋~品川駅 前編

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 私はモノを書くのが好きで、今までも「標高7mを歩く―谷根千編―」や「几号点を歩く」などを発表してきたが(それぞれ月刊地理2020年2月号、地理交流広場第2号掲載)、継続して書く場がなかった。もっとモノ書きとしてスキルアップしたい。そんなことを考えていたとき、東海道を歩くことを思いついた。もう使い古されたネタだとは思うが、一度東海道を自分の足で歩いてみたかった。そこで今回の企画を思いついた。月1回、それぞれの宿場の間を歩き、それを記録してみたいと思う。京都まで辿り着ければ、何か変わるかもしれないと信じて。

1.日本橋

 東京駅、八重洲中央口を出て、北に向かう。呉服橋交差点を右折して進み、日本橋交差点を左折する。すると正面に立派な橋が見えてくる。日本橋だ。

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日本橋

 日本橋日本橋川にかかる橋で、初めて架けられたのは慶長8年(1603年)のことである。徳川家康江戸城の東の海を埋め立て、浅瀬に日本橋を架けた。その後、平川を東へ延ばして日本橋川を造った。普通、川があって通行に困るから橋を架けるものだと思うのだが、ここでは橋を架けた後に川を造っているのだ。

 そして日本橋五街道の起点で、これは慶長9年(1604年)に定められた。この五街道とは、東海道中山道奥州街道日光街道甲州街道である。

 現在かかっている日本橋明治44年(1911年)に架けられたルネサンス様式の石造二連アーチ橋である。

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日本橋

鋳銅製のキリン像、ライオン像もある。橋銘を書いたのは第15代将軍徳川慶喜である。

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 この日本橋関東大震災や太平洋戦争の空襲にも耐えた代物である。しかし昭和38年(1963年)に首都高速道路日本橋の上をまたいで走るようになってから、日本橋の印象が薄くなってしまったのは悲しい限りである。

 日本橋の橋名の由来は、『御府内備考』にこう書かれている。

「この橋、江戸の中央にして、諸国への行程もここより定めらるるゆえ、日本橋の名ありといふ。」

 理念としては日本橋を日本の中心として、すべての道を日本橋から発達させようとしたことに違いない。

 しかし、日本橋が諸街道の起点になったとはいえ、橋の中央が原点と決められたのは明治6年(1873年)に「東京は日本橋、京都は三条橋の中央をもって、国内諸街道の元標となす」と定められてからである。それまでは「日本橋より何里」と道標に書かれていても、橋のどこから測るということではなく、大雑把に距離を示しているにすぎなかった。

 そして、日本橋の橋の中央には日本国道路元標がある。その真上には道路元標地点と書かれた柱があり、これは首都高速都心環状線から見えるようになっている。橋の中央の日本国道路元標を直接見るのは、車に轢かれるおそれがあり大変危険なのでやめたほうがよい。

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日本国道路元標と道路元標地点

 橋の北詰に元標の広場がある。ここには日本国道路元標の複製品と、東京市道路元標の柱がある。

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日本国道路元標複製

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東京市道路元標

 日本橋に道路元標が置かれたのは明治5年(1872年)のことである。東京市道路元標はかつて橋の中央にあったが、都電の廃止とともに移転された。

 東京市道路元標の足元には里程標があり、そこに国内諸都市までの距離が粁(キロメートル)で刻まれている。近い都市では横浜市千葉市から、遠い都市では札幌市や鹿児島市まで刻まれている。那覇市が入っていないのは当時まだ沖縄が日本に返還されていなかったからなのかもしれない。

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 また、五輪も置いてあった。普段は置いてないので、東京オリンピックが近いから特別に置いてあったのだろう。(ちなみに訪れたのは2021年7月17日である)

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 日本橋東海道を巡る覚悟を固めたところで、国道15号に沿って南進していく。

2.ヤン・ヨーステンの碑

 日本橋界隈はデパートが多い。これは江戸時代の呉服屋が百貨店となり、それがデパートになったからである。「ホントに歩く東海道 第1集」には髙島屋、松屋三越松坂屋があると書いてある。髙島屋と三越は確認できたが、松屋松坂屋は確認できなかった。デパートの吸収合併や閉店の波は日本橋にまで来ているのかもしれない。

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髙島屋

 日本橋三丁目の交差点の中央分離帯ヤン・ヨーステンの碑がある。

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ヤン・ヨーステンの碑

 ヤン・ヨーステンはオランダ人の航海士である。ヨーステンは慶長5年(1600年)、ウイリアム・アダムスらと豊後(現在の大分県)に漂着し、そのまま日本に留まることにした。徳川家康の信任を得たヨーステンは、家康に対して外交や貿易について進言する役目に就いた。ヨーステンの江戸屋敷は現在の和田倉門の内堀の沿岸に与えられた。その場所はヤン・ヨーステンの名前をとって「八代洲河岸(やよすがし)」と呼ばれるようになった。明治時代に「八重洲(やえす)」と改められた。「八重洲」の由来が外国から来た人だったとは知らなかった。

3.京橋

 少し南に進むと国道15号の1kmポストを見つける。

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1kmポスト

日本橋から1km進んだのかと思いを馳せる。まだ1kmしか進んでいないのだが。

 そのまま進むと京橋が見えてくる。

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京橋

 京橋は日本橋と同時期に架けられた橋である。『武江図説』には「京橋 日本橋より八丁南なり。橋長さ十二間、欄干に擬宝珠あり」と書かれている。修復費用を幕府がまかなった橋のうち、擬宝珠で飾られているのは日本橋、京橋、新橋のみである。そしてこの3橋はどれもこの話に登場する。

 しかし、京橋に現在橋はない。もちろん昔は川の上にかけられた橋で、その川の名前は京橋川日本橋川同様、橋の名前が河川名になっている。なお、京橋とは江戸から出て京都に向かう最初の橋という意味である。現在、京橋には擬宝珠がついた親柱と大正に作られたガス灯付きの親柱が残るのみとなっている。

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擬宝珠がついた親柱

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ガス灯付きの親柱

4.銀座

 京橋を過ぎると、街が華やかになる。「銀座」に入ったのだ。

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 銀座は日本有数の繁華街、高級商業地である。「銀座」の名前は一種のブランドとなっており、全国各地にそれにあやかった「○○銀座」が多くある。今でこそ「銀座=高級商業地」であるが、元は銀貨を鋳造していた場所だから「銀座」と呼ばれるようになったのだ。

 慶長17年(1612年)、徳川幕府が現在の銀座の地に銀貨幣を鋳造する役所「銀座役所」を設置した。当時の町名は「新両替町」だったが、通称で「銀座町」と呼ばれていた。しかし寛政12年(1800年)に汚職事件が起こったことにより、銀座鋳造所は蛎殻町に移されてしまった。しかし「銀座」の地名だけは残り、明治2年(1869年)に正式に「銀座」が地名となった。この話は銀座2丁目にある「銀座発祥の地」に詳しい。

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銀座発祥の地

 明治2年(1869年)に起こった大火によって銀座の街はほとんど燃えてしまった。そこで政府は文明開化の象徴と防火対策のために「銀座煉瓦街」を造ることにした。しかし建てられた当時は煉瓦が乾ききっていなかったため、商人たちからは不評で寄り付かなかった。そのため見世物業者が集まっていた。煉瓦が乾いて商人たちが戻ってきてから繁華街の様相を見せるようになってきた。

 日本一地価が高いと有名な銀座四丁目交差点の和光を見ながら、銀座の街を南に進んでいく。銀座6丁目に2kmポストを確認したら、新橋が進行方向に見えてくる。

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和光

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2kmポスト

5.新橋

  新橋は、現在はサラリーマンの街として有名だが、この名称は汐留川に架かっていた橋「新橋」に由来する。新橋と言っても新しい橋ではなく、その名は承応2年(1653年)の『武州古改江戸之図』には既に地名が登場している。最後の改架は大正14年(1925年)で、汐留川が埋め立てられたことにより昭和39年(1964年)に撤去された。日本橋、京橋に続く橋由来の地名である。現在は親柱が残るのみである。

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新橋

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新橋親柱

東海道を歩く 1.日本橋~品川駅 前編」はここまでとする。

東海道を歩く 1.日本橋~品川駅 後編」は新橋からスタートする。

 

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今回の地図

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歩いた日:2021年7月17日

【参考文献・参考サイト】

風人社(2020) 「ホントに歩く東海道 第1集」

北原進(1979) 「中央区の歴史」 名著出版