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うさぎの気まぐれ旅行記 名古屋 大須観音編

 両親が名古屋旅行に行くらしい。

 そこで名古屋城大須観音に訪れることを検討しているようなので、1年前の話ではあるが旅行記をまとめてみようと思う。

 今回は大須観音とその周辺をめぐった話について書いていく。

1.大須観音

 大須観音駅2番出口から南に進むとすぐに大須観音がある。

大須観音

 大須観音は「真福寺」ともいい、正式名称は「北野山真福寺宝生院」という。

 建久年間(1190~1199年)に尾張国中島郡大須庄(現在の岐阜県羽島市)に観音堂がたてられたことにはじまる。

 その後、元亨(げんこう)4年に観音堂は北野社の神宮寺となり、宝生坊とよばれるようになり、この頃能信上人が宝生坊の住持となり1寺を建立して真福寺と称した。

 南北朝時代真福寺には8坊の塔頭があり、宝生坊はそのなかの1坊にすぎなかったが、応安4年(1371年)に宝生院に昇格した。

 その後いくたの変遷があり、とりわけ洪水の難がたえなかったため、徳川家康が慶長17年(1612年)、真福寺宝生院のみ名古屋の現在地に移し、伽藍の近くに大須文庫を建立した。江戸時代、寺は尾張藩主の崇敬をうけ、文庫も藩により保護されてきた。

 明治中期に隣家からの火災で類焼し、第二次世界大戦で再度炎上したが、文庫は難を逃れた。

 戦後、本堂と仁王門があいついで再建され、名古屋における庶民信仰の中心の1つとして復活する。

 

 大須観音御朱印をいただいた。

 

 大須観音から南に進み、大須通を左折すると七寺(ななつでら)がある。

七寺

 寺には昭和20年(1945年)の空襲のとき、かろうじてもちだされた木造観音菩薩坐像、勢至菩薩坐像や七寺一切経、黒漆一切経唐櫃(くろうるしいっさいきょうからびつ)がある。

 境内には江戸時代の青銅製大日如来坐像が安置されており、江戸時代にはここで芝居や見世物が興行されていたようだ。

青銅製大日如来坐像

 七寺でも御朱印をいただいた。

 

 七寺を出たら右に進み、西大須交差点を左折、歩道橋のある交差点を左折すると、本願寺名古屋別院がある。

本願寺名古屋別院

 明応年間に本願寺8世蓮如(れんにょ)上人の6男蓮淳(れんじゅん)が伊勢国長島に門徒の協力で創建した願証寺(がんしょうじ)が本願寺名古屋別院のはじまりである。

 伊勢・尾張浄土真宗の中心道場として発展したが、天正2年(1574年)、織田信長に攻められて廃寺となった。

 その後清州に再興され、さらに名古屋城の築城に伴い城下の南寺町の現在地に移った。

 

 インド風の近代的な本堂は、昭和47年(1972年)にたてられたものである。

 このようなインド風の建物は、浄土真宗の寺院でたまに見られるものであり、本願寺築地別院を彷彿とさせる。本願寺築地別院は「うさぎの気まぐれまちあるき「桜と7つのパワースポット巡る隅田川ウォーク&クルーズ」7.本願寺築地別院 で取り上げている。

octoberabbit.hatenablog.com

 

 境内にある大きな鐘楼は江戸時代初期に造られたもので、名古屋市有形文化財に指定されている。

 

2.真宗大谷派名古屋別院

 本願寺名古屋別院を出て左へ向かい、門前町交差点で右折、橘町交差点で左折して次の交差点で左折すると右手側に栄国寺がある。

栄国寺

 このあたりは江戸時代初期には千本松原とよばれ、尾張藩の刑場があったところである。

 江戸幕府によるキリシタン禁制の強化につれ、尾張藩領でもキリシタンに対する取り締まりは厳しさを増していった。

 寛文4年(1664年)にこの刑場で、隠れキリシタン200余人が斬罪に処せられた。

 翌年、2代尾張藩主・徳川光友は、刑場を土器野(かわらけの。現在の清須市土器野(どきの))に移し、その跡地に処刑者慰霊のための堂宇をたて「清涼庵」と名づけ、その後貞享3年(1686年)に瑞雲山栄国寺と改め、さらにのちに山号を清涼山とする。

 現在本堂に付随して切支丹遺跡博物館があり、踏み絵・マリア観音・切支丹制札などキリシタン関係の資料が展示されているようだが、入口が明らかに民家だったので入る勇気がなかった。

 

 栄国寺を出て左折、そのまま進むと山王通にぶつかるのでそこを左折すると左手に大きな寺院が見えてくる。真宗大谷派名古屋別院だ。

真宗大谷派名古屋別院

 真宗大谷派名古屋別院は「東別院」「御坊さん」とも呼ばれている。

 真宗大谷派名古屋別院建立の気運は慶長年間(1596~1615年)にはじまり、元禄4年(1691年)、2代尾張藩主・徳川光友より名古屋城下最南端の古渡城跡地に1万坪の土地の寄進をうけて、元禄15年(1702年)に建立され、その後手狭になったので、文化2年(1805年)より18年の歳月をかけて壮大な本堂が再建された。

 明治にはいり明治7年(1874年)、愛知県主催の物産博覧会の会場となり、また同年から約2年半の間、境内に設けられた仮庁舎に愛知県庁がおかれ、明治12年(1879年)には第1回県会が、当寺を仮議場として開催された。

 第二次世界大戦の名古屋空襲で諸堂は灰燼に帰したが、昭和37年(1962年)に鉄筋コンクリート造りの本堂が再建され、今も以前に劣らぬ威容を誇っている。

 この日は境内でフリーマーケットが開催されており、賑やかだった。

 参拝を終え、空を見ると怪しい空模様をしている。しばらくするとゲリラ豪雨が降り始めた。慌てて近所のスタバ(スターバックスコーヒー東別院店)に避難し、しばしの休憩をとることにした。

 

3.万松寺

 スタバを出て左に進み、大津通を北上していく。万松寺交差点を左折し、大須万松寺通に入る。とてもにぎやかな商店街だ。

 

 ABC-MARTのある交差点(2つ目)で右折するとすぐに、万松寺がある。あまりにもきらびやかなので「ここが本当に万松寺…?」と疑ってしまうほどだった。

万松寺

 織田信長の父で古渡城主の織田信秀が、大雲永瑞(だいうんえいずい)を開山として天文9年(1540年)、現在の中区錦および丸の内のあたりに創建したのにはじまる。

 名古屋城築城に際し、慶長15年(1610年)に現在地に移転した。

 江戸時代には尾張藩より寺領500石をあたえられた七堂伽藍の大寺であったが、第二次世界大戦で焼失した。

 信秀の葬儀がこの寺で行われたとき、信長は荒唐無稽な姿でのぞみ、仏前に抹香を投げつけて列座のもののひんしゅくを買った話はよく知られている。

 その信長が元亀元年(1570年)、越前の朝倉攻めを行ったとき、浅井長政の離反にあって逃げ帰る途中鉄砲で狙撃された。

 弾丸は懐中にあった万松寺の干し餅にあたり命拾いしたという。

 のちにこの話を聞いた加藤清正が、万松寺の不動明王を「身代わり不動」と命名したと伝えられている。

 このことにちなみ、現在、毎月28日に厄除けとして参拝者に身代わり餅がふるまわれている。

 

 万松寺の御朱印をいただいた。万松寺に劣らず、きらびやかな御朱印だ。

 

 万松寺から出て右折してABC-MARTのある交差点を右折、西へ進む。ヤマミヤのある交差点で右折すると大須公園があり、大須公園の北東側に総見寺がある。

総見寺

 天正年間、織田信雄が父・織田信長の菩提をとむらうために、伊勢国大島村(現在の三重県桑名市長島町)にあった安国寺を清州に移して総見寺と改めた。

 慶長15年(1610年)に清州越で現在地に移転し、初代尾張藩主・徳川義直より寺領300石の寄進を受けた。

 総見寺には織田信長公画像などの寺宝があるが、門が閉められ、参拝できなかった。

 

4.三輪神社

 大須公園から東に進むと、万松寺のある道につながって突き当たる。そこを左折すると右手に三輪神社がある。

三輪神社

 三輪神社は元亀年間(1570~1572年)、奈良桜井三輪町から小林城に移った牧若狭守長清が深く崇敬する故郷・大和三輪山大物主神を鎮め祭ったと伝えられている。

 大物主神大国主神と同一といわれ、神話「因幡の白兎」でも登場してくる。このことからこの神社の神使はうさぎであり、なでると幸せになる「なでうさぎ」という置物が設置されていたので撫でておいた。

 

 三輪神社の御朱印にもうさぎのハンコが押されており、かわいい。

 

 三輪神社を出て右折、来た道の新天地通にぶつかるので右折して北に進む。若宮大通に突き当たるので信号を渡って名古屋高速をくぐると左折して進むと右手側に政秀寺がある。

政秀寺

 政秀寺は若き日の織田信長の素行をいさめるために自害した後見人の平手政秀の菩提をとむらった寺である。

 

 ここから少し西に行くと若宮八幡社がある。

若宮八幡社

 社伝によると創始は文武天皇のときと伝えられ、延喜年間(901~923年)に再興された。

 戦国時代の争乱で焼失したが、天文8年(1539年)、織田信秀によって再建され、さらに豊臣秀吉から社領200石を寄進された。

 慶長15年(1610年)の名古屋城築城に際して、社地が城内にはいってしまうために現在地に遷座

 江戸時代、境内には常設の芝居小屋がたち、「芸どころ名古屋」の中心的な場所となっていた。

 またこのころの若宮祭は、東照宮祭・天王祭とともに名古屋三大祭りのひとつに数えられ、天王社(現在の那古野神社)への御輿の神幸は7台の山車が加わる壮麗なものであったらしい。

 しかし第二次世界大戦の戦災で多くの山車が失われ、現在は御輿と唯一残る福禄寿車とよばれる山車による那古野神社への神幸が5月16日に行われている。

 若宮八幡社でも御朱印をいただいた。

 

 若宮八幡社を出て右折してそのまま15分くらい西に歩くと洲崎神社に到着する。

洲崎神社

 洲崎神社は明治以前には、広井天王社、天王崎天王社などとよばれていた天王信仰の古い神社である。

 天王祭は享保17年(1732年)にはじまったとされ、巻藁船(まきわらぶね)を堀川に浮かべる船祭りの様子を「尾張名所団扇絵」の「天王崎祭礼」でみることができる。

 洲崎神社でも御朱印をいただいた。

 

 来た道を戻り、若宮北交差点で右折すると大須観音駅に戻ってくるのでここで終了とする。

 

 その後は名古屋駅に戻り、髙島屋の1階にある赤福茶屋で赤福氷を食べた。

赤福

 赤福氷とは抹茶蜜のかかったかき氷のなかに餡と餅が別々に入っている、夏季限定商品だ。歩いた後に甘いかき氷は沁みる。

 

 その後は名古屋エスカ店の「寿がきや」でラーメンを食べた。

 「寿がきや」は名古屋を中心に展開しているチェーン「スガキヤ」の高級路線ラーメンである。後日スガキヤも食べたが、スガキヤよりコクのある味…な気がした。

 

 翌日は会社だったので、ここで帰ることにした。

 東京在住の私にとって名古屋はあまりなじみがなく、まだ行っていないところもたくさんあるので、そのうちまた行ってみたいと思っている。

今回の地図

歩いた日:2023年9月18日

【参考文献・参考サイト】

愛知県高等学校郷土史研究会(2020) 「愛知県の歴史散歩 上 尾張山川出版社

三輪神社由緒

https://miwajinnjya.com/guide/miwa-yuisyo/

(2024年10月20日最終閲覧)