両親が名古屋旅行に行くらしい。
そこで名古屋城と大須観音に訪れることを検討しているようなので、1年前の話ではあるが旅行記をまとめてみようと思う。
今回は名古屋城とその周辺をめぐった話について書いていく。
1.名古屋市役所・愛知県庁
10時頃新幹線に乗ったので名古屋城駅に降り立ったのは14時頃だった。
3番出口から出てまず目につくのが名古屋市庁舎だ。
名古屋市庁舎は昭和天皇即位の記念事業としてたてられたものである。
名古屋市庁舎の外観設計は公募で選ばれたもので、一部修正して昭和6年(1931年)に着工された。
しかし、この年に満州事変が勃発したため、不測の事態に備えて高射砲が設置できるように屋上の一部を補強したといわれる。
建物は鉄筋コンクリート造り、外壁は茶褐色のタイル張り。高さ53mの中央塔の上部に和風の2重屋根をのせ、最上部に四方にらみのシャチがおかれている。
内部の意匠は名古屋城本丸御殿をイメージして設計され、木製部分にはチーク材が使用された。
ふとここで足元を見る。この東邦ガスのマンホールは中央に東邦ガスの社章が入り、自然・都市・人間をイメージしたデザインらしい。幾何学模様だ。
これは名古屋市上下水道局キャラクター「アメンボ」のマンホールだ。
これは消火栓の蓋で、名古屋市章、名古屋城、鯱(しゃち)がデザインされている。
上真ん中にある○に八が書かれているのが名古屋市章で、これは尾張徳川家の合印から採用されている。
名古屋市役所の隣にあるのが愛知県庁だ。
愛知県庁舎は昭和13年(1938年)に建設された。
鉄筋コンクリート造りの近代建築のうえに、城の櫓の頭部をのせた特徴あるデザインだ。
外壁は市庁舎と同様のタイル張りであるが、最上階は白壁仕上げとなっており、城の櫓を連想させ、最下層の腰周りには花崗岩を張って強固にみせている。
タイルの使用は、愛知県が全国有数の陶磁器どころであることをアピールしたものだ。
名古屋市役所・愛知県庁が建設された昭和初期には、国威発揚のために日本の伝統を建築にも反映させようとする風潮が高まっていた。
洋風の本体に瓦屋根をのせた「帝冠様式」とよばれる建物が各地にたてられたが、この2つの庁舎はその典型的な例である。
2.名古屋東照宮・那古野神社
また別のマンホールがある。これは「水」を図案化したマーク…らしい。
こちらはデザインマンホールで、中央に名古屋城、周りに名古屋市の名所(名古屋港、宮の渡し、名古屋テレビ塔、東山動物園、名古屋国際会議場)が配置されている。それらの間に、名古屋市の花、ユリも描かれている。
愛知県庁から南に進み、大津橋交差点で右折して外堀通りをしばらく歩くと名古屋東照宮に到着する。
徳川義直は、元和5年(1619年)、城内三之丸に東照宮を造営し、父・家康の神霊をまつった。
社殿は権現造で、内外に彩色がほどこされた壮麗なものであったようだ。明治時代に名古屋鎮台が城内に設置されると、明治9年(1876年)に明倫堂跡の現在地に遷座された。
しかし、第二次世界大戦の戦災で当時国宝であった諸建造物は焼失。現在の本殿は、義直夫人の高原院の霊廟として慶安4年(1651年)に万松寺内にたてられたもので、建中寺に移築されたあと昭和28年(1953年)名古屋東照宮に移された。
唐門(からもん)・透塀(すきべい)に囲まれた本殿は方3間、寄棟造、桟瓦葺きで、装飾豊かな霊廟建築の遺構である。
名古屋東照宮には福寿稲荷社がある。
福寿稲荷社、通称「福神社」は、徳川家康が天下をとっていたとき、深く恵比寿と大黒を信仰していたので、天海僧正が恵比寿と大黒を彫刻して作り、これを御神体としている。
名古屋東照宮・福神社で御朱印をいただいた。「奉拝」とページの真ん中に大きく書かれ、名古屋東照宮と福神社のハンコが押され、あとは日付が書いてあるだけのシンプルなデザインだ。
名古屋東照宮の隣には那古野(なごや)神社がある。
那古野神社の御祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。社伝によると創祀は延喜11年(911年)と古く、亀尾天王社または天王社などとよばれており、江戸時代は天王祭が盛大に行われていた。
この祭りは、京都の八坂神社の祇園祭や津島神社の天王祭と同様、疫病と厄難除けの天王信仰の夏祭りで、江戸時代後期の最盛期には2台の車楽(だんじり)とよばれる山車と16台の見舞車(みまいぐるま)とよばれる山車が引き出されていたが、第二次世界大戦の空襲で山車のほとんどは焼失し、現在では例祭の7月15日夜に車楽1台が境内にかざられ、翌日に若宮八幡社への御輿(みこし)の渡御(とぎょ)が行われている。
那古野神社でも御朱印をいただいた。
3.名古屋城
外堀通りに戻り、来た道を少し戻って本町通交差点を左折すると愛知縣護国神社がある。
明治2年(1869年)5月、尾張藩主・徳川慶勝が戊辰戦争で戦死した藩士25柱の神霊を、現在の名古屋市昭和区川名山に祀って「旌忠社(せいちゅうしゃ)」としたのが始まりで、その後嘉永6年(1853年)以降、大東亜戦争までの愛知県ゆかりの英霊93,000柱を神様として祀っている。
愛知縣護国神社からまっすぐ進むと右手側に二之丸大手二之門がある。
この門は二之丸西側にある枡形の外門となるもので、内門である大手一之門と共に二之丸正門を形成していた。
そのまま歩いていくと東門に着くので、チケットを買う。
入るとすぐに二之丸東庭園がある。
二之丸庭園は、文政年間に10代藩主・徳川斉朝によって、それまでの姿から大きく改変・整備され、二之丸御殿に付属する築山や池、茶屋が点在する回遊式庭園となった。
二之丸は明治以降、昭和20年(1945年)まで陸軍の管理下に置かれ、二之丸御殿は破却されるとともに、二之丸庭園の東部は、練兵場や兵舎の建設のために築山の削平や池の埋め立てが行われ、その姿を失った。
現在の「二之丸東庭園」として整備されたのは昭和53年(1978年)のことである。
本丸表二之門から名古屋城本丸に入る。
本丸表二之門は本丸大手の外門で、内門である表一之門とともに枡形を形成していた。本瓦葺の高麗門で、軒回りは漆喰塗り込めとし、柱や扉に金具を打ち付けている。
名古屋城本丸に入るとやたら新しい建物がある。名古屋城本丸御殿だ。
名古屋城本丸御殿は、尾張藩主の住まいとして徳川家康の命により慶長20年(1615年)に建てられた。
寛永11年(1634年)には将軍のお成(なり)御殿として上洛殿が増築され、格式高い御殿として知られていたが、昭和20年(1945年)の空襲で天守閣とともに全焼した。
名古屋市では、平成21年(2009年)1月から本丸御殿の復元に着手し、平成25年(2013年)5月には入口にあたる玄関、謁見の間である表書院などの公開を開始した。
さあ、天守閣に入るか!と思ったが…残念ながら、天守閣の耐震性が低い、ということで入ることができなかった。
ここで、名古屋城について説明する。
名古屋が尾張の政治・経済の中心となったのは江戸時代にはいってからのことで、それまでは織田氏の城下町として栄えた清州(きよす)がその中心だった。
関ヶ原の戦いのあと、徳川家康は第4子・松平忠吉を清州に配置して徳川一門による尾張の統治を開始。
忠吉が28歳で跡継ぎを作ることなく亡くなると、第9子・徳川義直を甲斐甲府から清州に転封した。
当時家康にとって、もっとも重要な課題は、大坂城の豊臣秀頼と豊臣恩顧の西国大名を服属させることである。
豊臣方との決戦に備えていた家康は、清州では防衛上不安であるとして慶長14年(1609年)、名古屋城の築城と清州からの移転を命じ、翌年築城がはじまった。
築城工事は普請からはじまり、加藤清正・福島正則ら西国大名に助役が命じられる。築城に際しての最大の問題は、石材の採取であった。
名古屋の地は良い石材が乏しかったので、諸大名は美濃・三河をはじめ、小豆島からも船で良材を運んだ。
この苦労を物語るかのように、集めた石材が他家のものとまぎれないようにつけた目印の符号が現在も残っている。
引き続いて作事が慶長15年(1610年)、幕府直轄の工事として行われ、慶長17年(1612年)に層塔式の大天守がほぼ完成した。
大天守の大棟には金色の鯱(しゃち)一対がかざられ、それに使用された金の量は慶長大判で1,940枚、純度84%以上だったらしい。
この黄金のシャチは尾張藩士のみならず、城下の人々の自慢のひとつであった。
初代尾張藩主・徳川義直は、元和6年(1620年)に本丸御殿から二之丸御殿に移り、以後代々藩主はここに居住し、藩の政庁もおかれ、二之丸御殿は名古屋城の実質的中枢となった。
一方、本丸御殿は将軍上洛のときの宿殿にあてられ、御殿の各部屋は狩野派の絵師たちによって描かれた華麗で優雅な障壁画で埋め尽くされ、極彩色の彫刻欄間や精巧な飾り金具ではなやかにかざられていたそうだが、空襲で焼失してしまった。
現在建てられている大天守と小天守は昭和34年(1959年)に再建されたものだが、令和元年(2019年)から閉館中である。
天守閣と本丸御殿こそ空襲で焼失してしまったが、西南隅櫓(未申櫓)、東南隅櫓(辰巳櫓)、表二之門、御深井丸の西北隅櫓、旧二之丸東二之門、二之丸大手二之門などは江戸時代から残っている建造物である。
天守閣に入ることができないことを嘆いても仕方ないので、本丸御殿に入る。なお、荷物が多いと手荷物預かりで預けることを勧められる(手荷物で建造物を傷つけないため)。
まず入ると車寄(くるまよせ)がある。これは将軍など正規の来客だけが上がる本丸御殿への正式な入口だ。
表書院は、江戸時代は広間と呼ばれ、藩主と来客や家臣との公式な謁見に用いられた。
ちなみに本丸御殿は戦前に国宝となっていたため、精密な実測図面が作成され、写真も多数撮影されていた。そしてこれらは第二次世界大戦時には疎開し、焼失をまぬがれたことから、本丸御殿の復元に活用された。
対面所は、藩主と身内や家臣との私的な対面や宴席に用いられた。上段之間、次之間には四季の風物や名所が多くの人物とともに描かれている。
鷺之廊下(さぎのろうか)は対面所と上洛殿を結ぶための廊下で寛永11年(1634年)に増築された。欄間がとても大きく、きらびやかだ。
上洛殿は、寛永11年(1634年)に三代将軍家光の上洛にあわせて増築された御成御殿(おなりごてん)で、本丸御殿で最も格式の高い建物であった。
梅之間は、将軍をもてなす役割に任じられた尾張上級家臣の控えの間で、上洛殿とともに寛永11年(1634年)に増築された。
上御膳所(かみごぜんしょ)は上御台所(かみおだいどころ)で調理されて運ばれた料理を、長囲炉裏で温め直し、上段に揃えられた御膳・容器に盛り付けて、将軍のもとへ運ぶためにある部屋である。
本丸御殿の終盤に、派手な箱がある。これは「名古屋城天守閣木造復元募金箱」だ。
本丸御殿の最後の部屋、下御膳所(しもごぜんしょ)も上御膳所同様、料理の配膳や温め直しに使われた部屋だ。
本丸御殿をあとにする。
本丸御殿、今は「すごく派手なもの作ったなぁ」という印象だが、これが100年、200年すると適度にくすみ、風格が出てくるのだろう。その頃にはもういないだろうけど。
とにかく、天守閣に入れなかったのは残念だった。実は天守閣閉館前に名古屋城に一度訪れたことがあったのだが(平成28年(2016年))、そのときも時間が遅く、閉館後だった。天守閣が復活した頃に、また本丸御殿に訪れてみたいと思う。
名古屋城の売店で名古屋城の御城印を買った。御城印とは御朱印のお城バージョンだ。
不明門をくぐって名古屋城本丸をあとにする。
不明門は厳重に施錠され「あかずの御門」と呼ばれていたのでこの名がついた。なお、空襲で焼失したので昭和53年(1978年)に復元された。
先述した集めた石材が他家のものとまぎれないようにつけた目印の符号が石垣に残っている。
昭和20年(1945年)に焼失した天守閣は、礎石だけが残っている。
石棺式石室があるが、これは島根県松江市にあったものらしい…なぜここに?
天守の石垣は、上部が外側にそりだす扇勾配で、石の重みや土の圧力が分散される構造になっている。
西北隅櫓は清州城天守を移築したと伝えられ、清州櫓とも称された。昭和39年(1964年)の解体修理により、古い建物の材木を一部用いて元和5年(1619年)頃に造営されたことが明らかになり、清州城天守の古材を転用した可能性が高まった。
西北隅櫓の近くに乃木倉庫があり、これは乃木希典が名古屋鎮台に在任していた明治初期に建てられたと伝えられている。
昭和20年(1945年)5月14日の名古屋空襲の際、本丸御殿の障壁画や天井絵類の大半を取り外してここに保管していたため、これらは被災を免れた。
ここからだと天守閣のしゃちほこを確認することができる。
この入江のような空間は「鵜の首」とよばれ、本丸への敵の侵入をはばむための構造である。
これは西南隅櫓で、慶長17年(1612年)頃に建てられ、未申櫓(ひつじさるやぐら)と呼ばれた。
櫓は明治後期から大正期ごろに、自然災害で倒壊したが、大正12年(1923年)、宮内省により古材を用いて再建された。
西の丸御蔵城宝館という宝物殿があったが、最終入館時刻を過ぎていたため入ることはできなかった。
名古屋城正門をくぐって名古屋城をあとにする。この正門も空襲で焼失したため、昭和34年(1959年)に外観復元された。
名古屋城正門から左に進むと名古屋城前交差点にぶつかるのでそこを左折、そのまま行くと名古屋城駅に到着する。
名古屋城駅から名古屋駅に戻り、JRセントラルタワーズ13階にある「とり五鐵」で名古屋コーチンの親子丼を食べた(1,800円)。
次回は大須観音を訪れる予定なので、お楽しみに!
歩いた日:2023年9月17日
【参考文献・参考サイト】
愛知県高等学校郷土史研究会(2020) 「愛知県の歴史散歩 上 尾張」 山川出版社
愛知縣護国神社 沿革
https://www.aichi-gokoku.or.jp/about/
(2024年10月19日最終閲覧)