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江戸三十三観音をめぐる 15.目黒編(最終回)

 前回、江戸三十三観音第32番札所世田谷山観音寺に訪れながら世田谷方面をめぐった。今回は第33番札所滝泉寺に参拝しつつ目黒方面をぶらぶらしようと思う。そして、これで江戸三十三観音は結願(コンプリート)となる。

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前回記事はこちら↓

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1.大円寺

 今日は目黒駅からスタートだ。

目黒駅

 

 目黒駅を出て西に進み、行人坂を下っていくと大円寺がある。

大円寺

 大円寺は行人坂の中腹にあり、天台宗延暦寺派に属する。

 本尊の清凉寺式釈迦如来立像は本堂正面に安置されている。都内最古の仏像で、昭和32年(1957年)2月、国の重要文化財に指定された。

 この釈迦如来立像の由来は以下のようである。

 永観元年(983年)8月、南都(奈良)東大寺の学僧・奝然(ちょうねん)が宋の商人・陳仁夾(ちんにんきょう)らの船に乗って宋の国に渡り太宗に謁見を賜り、のち山西省の五台山に登ってそこの清涼寺で、天竺(てんじく)から伝来した釈迦像を拝んだ。

 奝然はその姿の美しさにうたれ、模刻を日本へ持って帰りたいと訴えたところ、その願望が受け入れられて、杭州まで像を移し、名工・張延皎(ちょうえんこう)・張延襲(ちょうていしゅう)兄弟に依頼して模刻を作ってもらい、1年半で木像ができた。

 寛和2年(986年)8月25日、奝然が帰朝すると、釈迦像は京都嵯峨の浄土宗・棲霞寺(せいかじ)に、新たに釈迦堂を造って安置されたが、のちに棲霞寺は廃寺となり、釈迦堂は清涼寺と称されることになった。

 この釈迦像は美しいことで全国的に有名になって、盛んに模刻が地方の寺に安置されるようになった。全国で80体以上も模刻が作られたそうだが、東京都周辺だけ、現在残っているものだけでも8体の模刻がある。

 大円寺の釈迦像は、昭和34年(1959年)に解体修理したとき胎内から出た品々により、建久4年(1193年)10月に彫刻奉納され、祈願者は丹治氏乙犬女であることが判明している。

 

 本堂に連なって阿弥陀堂がある。

阿弥陀堂

 阿弥陀三尊はいまの雅叙園のところにあった茂林寺明王院の本尊であった。明王院が廃寺となったため、仏像などは大円寺にうつされた。

 明王院大円寺との関係は、明和9年(1772年)2月29日、真秀という僧が住職にうらみをもって放火し、おりからの大風に火はたちまち燃え広がり、江戸の大火となった。

 江戸の大火の原因となった大円寺は寺の再建を許されず、本尊大日如来・大黒天の像は残ったので明王院に像を移し、合併することになった。

 嘉永元年(1848年)に大円寺の再建が許され、明王院からの独立を果たすも、明治元年(1868年)に明王院が衰微して廃寺となってしまったため、明王院の本尊・阿弥陀三尊等が今度は大円寺に移されることになった。

 

 御朱印をいただこうか迷ったが、山手七福神の大黒天でもあるということで、そのときでいいか、と思いいただかなかった。

 

 大円寺でもう一つ驚いたのが、おびただしい数の石仏である。

 大円寺が江戸の大火の火元となったのは前述した。この火事は「行人坂の火事」とも呼ばれ、「振袖火事」「車町の火事」と並び江戸三代火事とされている。

 「新編武蔵風土記稿」には、大円寺境内の五百羅漢は行人坂の火事で亡くなった人々を供養するために建立されたと記されている。

 昔は現代ほど消防技術が発達していなかっただけに、一回火事を引き起こすと大惨事になる。そっと手を合わせた。

 

2.大鳥神社

 大円寺を出て左折し、太鼓橋で目黒川を渡る。昔は本当に太鼓橋だったようだが、大正9年(1920年)9月1日の豪雨で流失、現在は通常の橋となっている。

太鼓橋

 ここで雨が激しくなってきたため一度やめるか迷ったが、しばらく考えたのち続けることにした。

 そのまま進むと山手通りにぶつかるので右折、大鳥神社交差点をわたるとそこに大鳥神社がある。

大鳥神社

 古代、目黒川の流域にあった集落の氏神として、国常立尊(くにとこたちのみこと)を祀った小さい社だったが、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐のときに立ち寄り、ここで平定の祈願をした。

 日本武尊はその後、伊勢の能褒野(のぼの)で亡くなったのでその霊を祀り、国常立尊と2柱の神社となった。

 大同元年(806年)神勅によって社殿を造営し、大鳥神社と称した。いまは弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)を祀って3柱の神社となっている。

 大鳥神社御朱印をいただいた。

 

 大鳥神社の隣に大聖院がある。

大聖院

 大聖院は目黒不動滝泉寺の末寺で、弘治3年(1557年)に良順僧正が開山した。江戸時代までは大鳥神社別当寺だった。

 本尊のみかえり阿弥陀像は戦災で焼けたが、京都永観堂の仏像を模刻し、かしらをかしげていたので、みかえり阿弥陀といわれていた。

 境内に3基のキリシタン灯籠がある。

キリシタン灯籠

 これは松平主殿頭抱屋敷にあった三体地蔵のことで、織部形灯籠に似ている。

 キリシタン灯籠とは徳川幕府の弾圧を受けた隠れ切支丹が庭園の祠等に礼拝物としてひそかに置かれていたもので、「うさぎの気まぐれまちあるき「江戸時代の新宿から現代の歌舞伎町まで 新宿散策」」の3.太宗寺などに登場している。

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3.海福寺

 大聖院から5分くらいの場所に蟠竜寺がある。

蟠竜寺

 蟠竜寺は浄土宗の寺院で、この寺の本堂にある本尊・阿弥陀如来坐像は昭和38年(1963年)3月に東京都の有形文化財に指定されたが、見ることはできなかった。

 この寺は裏山の洞窟のなかに弁財天が祀ってあるので、岩屋弁天とも呼ばれている。

 

 羅漢寺交差点で右に入ると海福寺がある。

海福寺

 海福寺は黄檗宗の寺で、開山は隠元普照(いんげんふしょう)国師である。

 隠元が中国から日本へきて第一番に開山したのはこの寺で、次第は以下の通り。

 承応3年(1654年)、隠元が来朝したおり深川にあったこの寺は真言宗だった。ときの住持・独本は長崎に行って、隠元の弟子となった。

 万治元年(1658年)、隠元が将軍・家綱の招きによって江戸へくだったとき、弟子・独本もしたがって11月15日に隠元を自分の寺へ案内し、黄檗宗に改宗し、堂舎を建立して隠元を開山とし、自分は2世の住持となった。

 これは、隠元が宇治へ万福寺を建てたときより3年前のことであるから、日本の黄檗宗の最初の寺というわけだ。明治42年(1909年)に現在地へ移ってきた。

 海福寺の梵鐘は江戸時代の梵鐘でも珍しいもので、昭和39年(1964年)に東京都の有形文化財に指定された。

 

 海福寺山門は、もと新宿区上落合黄檗宗泰雲寺山門で、この寺が明治のはじめに廃寺となったときに山門を買い取って移築したものである。

海福寺山門

 水死者供養塔は、文化4年(1807年)深川八幡の祭りのとき、永代橋が落ちて多数の水死人をだしたときの供養塔で、寺移転とともに移した。

水死者供養塔

 

4.羅漢寺

 海福寺から3分くらいのところに羅漢寺がある。

羅漢寺

 明治42年(1909年)墨田区から移転し、黄檗宗に属する寺院で、開山は黄檗宗万福寺の2世木庵の門弟・鉄眼(てつげん)禅師。開基は松雲元慶(しょううんげんけい)である。

 寺の縁起によると、松雲は京都の仏師で、22歳のとき仏門にはいり、鉄眼の弟子となった。

 ある年、大分県耶馬渓に行って、そこの羅漢寺で五百羅漢の石像をみ、一念発起し、江戸にくだって五百羅漢の木像彫造にとりかかり、一生を通じて完成した。

 仮堂を本所に建てて、開山には師匠の鉄眼を勧請し、自分は開基となって五百羅漢像を安置して天恩山羅漢寺と称し、万福寺の末寺となった。

 松雲は仮本堂を本建築にして大伽藍にしようと務めたがすでに老年であり、宝永7年(1710年)7月11日、63歳で遷化した。

 本建築を行い大伽藍としたのは3世象先(ぞうせん)和尚である。享保2年(1717年)から10年以上を費やして仏殿・僧坊などの建立が完成した。

 以後、多くの参拝客が訪れてきたが、たびたびの風水害や、安政の大地震などで堂宇の倒壊や破損があり、明治以後は荒廃、明治20年(1887年)に本所緑町に移り、明治42年(1909年)に現在地・目黒へ移転した。

 移転後は住僧もなく堂舎は不朽、仏像も雨露にさらされる時代もあった。もとより檀家をもたない寺であったから、なすすべもなく、仏像の一部は散逸、荒れるままであったが、安藤妙照尼が入山以来なんとか持ちこたえてきた。

 五百羅漢は昭和45年(1970年)8月3日都の有形文化財に指定された。

 

 五百羅漢は撮影禁止だが、300年以上前に作られたとは思えないほど生き生きとした仏様も多く、見ていて面白かった。また、小規模ながら宝物殿もあり、こちらも充実していた。

 拝観料は500円(五百羅漢だけに?)、御朱印も500円だったので1,000円支払った。

 

5.滝泉寺

 羅漢寺から10分ほどで滝泉寺(りゅうせんじ)に到着する。その前に比翼塚がある。

比翼塚

 むかし、滝泉寺の前に東昌寺という寺があった。

 殺人犯の平井権八は、東昌寺の住僧・隋川にかくまわれて、随川から尺八を習った。

 権八は死ぬ前に両親にあいたいと思って虚無僧となり、郷里鳥取に行ったが、すでに両親は亡くなった後だった。

 観念した権八は江戸に帰って出頭、鈴ヶ森刑場で死刑にされた。

 隋川和尚は権八の死骸を拾い、東昌寺の境内に葬った。

 そこへ権八の愛人の遊女・小紫が吉原から抜け出て東昌寺へきたのち、自刃してしまった。

 そして世俗で碑をたて、比翼塚というようになったそうな。権八と小紫に、そっと手を合わせた。

 

滝泉寺

 滝泉寺は天台宗に属し、目黒不動別当である。

 比叡山延暦寺の第3世・慈覚大師は、下野国壬生(しもつけのくにみぶ)の生まれで、僧となって円仁といった。

 15歳のとき比叡山に修行するため郷里をたち、途中目黒の里に立ち寄った。

 そこには日本武尊を祀った大鳥神社があったが、社には御神体がなかったので、里人は日本武尊の容姿を彫刻するよう円仁に頼んだ。

 円仁は荒武者の姿を彫って里人に差し出した。その姿は日本武尊が焼津原で、賊どもにいつわられ、犬をつれて狩りに出たところ、四方の枯草に火を放たれ、剣を抜き、犬をはなって火を消している姿で、うしろには枯草が燃えている。里人はこれこそ日本武尊の姿であると、喜んで神殿に安置した。

 そののち円仁は比叡山で修行をつみ、承和5年(838年)45歳のとき唐へ渡って長安青龍寺へ参詣する。

 そこで拝した仏像は、自分が目黒の里で彫った日本武尊の木像と同じ姿であり、これが不動明王の像であることをはじめて知った。

 円仁は承和14年(847年)帰朝し、翌年、父母の安否をたずねるために品川まできたとき、両親が亡くなっていたことがわかったので、草庵を築き、目黒大鳥社にある木像は不動明王であることを里人にとき、品川の草庵に遷して親の供養として、常行三昧をした。これがのちの常行寺の起こりである。

 目黒の里人は円仁に不動像を品川から目黒に返すように願い、天安2年(858年)円仁は阿弥陀如来像を新たに彫刻して常行寺に安置し、そこの不動像は滝のある現在の目黒の丘に遷し、別当寺として滝泉寺を建てた。

 

 弘治3年(1557年)に堂宇の修繕をし、そのときに創建当時の棟札がみつかっている。

 しかし、元和元年(1615年)に火災に遭い、諸堂は焼失、記録の大部分も失われたが本尊不動像は無事であった。

 

 寛永元年(1624年)徳川家光が鷹狩りにきて、鷹が行方不明となったので、目黒不動別当・実栄に祈祷を命じた。

 するとその祈祷によって鷹が帰ってきたので、家光は大いに喜び、不動明王の御利益を感じ、荒廃していた不動堂と別当滝泉寺の改築を2回にわたって行い、上野東叡山寛永寺の末寺として、護国院の住持・生順が兼帯することになった。そのため面目一新、江戸からの参拝客が多数来て名所のひとつとなった。

 

 太平洋戦争のとき、不動堂・滝泉寺本堂は戦災で焼けてしまったが、鐘楼と前不動堂などは残った。しかし鐘楼は昭和26年(1946年)に失火で焼けてしまった。前不動堂は残った建築物の唯一のものであるから、昭和41年(1966年)に都有形文化財に指定された。

前不動堂

 

 境内にある独鈷(どっこ)の滝は勢いがよく、これが「滝泉寺」の由来なのだな、と思う。

独鈷の滝

 

「甘藷先生 青木昆陽の言葉」という説明板がある。

「甘藷先生 青木昆陽の言葉」

 青木昆陽は甘藷(かんしょ。さつまいものこと)栽培の第一人者で、賊に「おいもの先生」といわれた人である。

 

 本堂と観音堂に参拝し、御朱印をいただいた。観音様は聖観世音菩薩だ。

観音堂

 

 滝泉寺をあとにして八つ目やにしむらの角を左折、成就院に寄る。

成就院

 成就院は「蛸薬師」ともいい、天台宗に属する。

 本尊薬師如来の像は蛸の上に乗っていることからこの名がついた。

 なぜ蛸の上に乗っているのかというと、慈覚大師が唐の国から帰るとき、暴風にあい、守本尊の小像を海に投じて風波をしずめた。

 その後、この小像が蛸の頭上に乗って海岸に漂着したことから、その形をとって薬師像とし、胎内に小像をおさめた、といい伝えられている。

 

 もと来た道を戻り、八つ目やにしむらの角を左折、不動前駅に向かう。

不動前駅

 大円寺が行人坂の火事の火元になったことは初めて知った。都内在住してそれなりに長いが、大鳥神社には初めて参拝した。海福寺に永代橋の水死者供養塔があるのは意外だが、移設したと知れば納得がいく。羅漢寺の五百羅漢は荘厳で、よく作ったなと感心した。そして滝泉寺は江戸三十三観音のフィナーレを飾るにふさわしい立派な寺院だった。

 お金がなく遠出できず、なんとか近場でネタがないかと始めた江戸三十三観音だったが、これが結構楽しかったし東京で行ったことのない場所はまだまだ眠っているのだなと改めて感じた。まだそこまでお金に余裕のある状況ではないのと、まだまだ知りたいことはあるので東京を歩くのは続けたいと思っている。

 では。締めの一言。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2024年9月29日

【参考文献】

目黒区郷土研究会(1978) 「目黒区の歴史」 名著出版

江戸札所会(2010) 「昭和新撰江戸三十三観音札所案内」

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 山手」 山川出版社