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10月うさぎがいろいろ語る部屋

東海道を歩く 13.吉原駅~新蒲原駅

 前回、片浜駅から吉原駅まで歩いた。今回は吉原駅から新蒲原駅まで歩こうと思う。三島駅から片浜駅まで一緒に歩いた方が、今日も来てくれることになった。

 「東海道を歩く」とは関係ないのだが、最近ブログの更新が滞っている理由として、残業が続いていたことがあげられる。残業は終わったのだが、ほかに同人誌の原稿などもあるので、細々と「東海道を歩く」を続けていければと思う。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.左富士

 今日は吉原駅からスタートする。吉原駅交差点まで出て、そこを左折して県道171号線を北上していく。ひたすら県道171号線を北上していくと左富士神社がある。

左富士神社

 元吉原まで右に見えていた富士山が、依田橋でぐっと北東に折れ曲がるために松並木の間から左に見えるようになる。長い東海道でここだけであるので、古来「左富士」といって名所の一つになっていた。

 左富士神社の創建は寛政8年(1796年)で、もともとの社名は「悪王子神社」だったが明治41年(1908年)に「左富士神社」と改めた。

 「左富士」は茅ヶ崎にある「南湖の左富士」もある。南湖の左富士については「東海道を歩く 7.藤沢本町駅平塚駅」で取り上げているのでそちらも参照してほしい。

octoberabbit.hatenablog.com

 

 境内には依田橋村一里塚もある。

依田橋村一里塚

 「田子の古道」によると元吉原時代には、田嶋村付近(現港湾付近)に一里山を築いたとある。その後、寛永16年(1639年)、元吉原宿が中吉原宿に移転、その時、一里塚は「日本分国絵図」によると津田村西側付近に描かれている。延宝8年(1680年)、水害により中吉原宿は新吉原宿に移転、その時、一里塚は依田橋村の左富士神社の北側に描かれている。吉原宿と共に、この一里塚は3度の移転をしたことになる。

一里塚…?

 少し進むと、「名勝 左富士」がある。

 「左富士」は、江戸時代に災害から逃れるため吉原宿が2度の移転をしたことに由来する。東から西にまっすぐ延びていた東海道が急に北方へ回り込み、道筋が一時的に北東を向くこのあたりで、左手に富士山を望む形となる。

 今日、周辺には工場、住宅が建ち並び、かつての風情はないが、わずかに残る1本の老松が往時の左富士をしのばせている。

1本の松

 ちなみに、この日は天気が悪く、左富士を見ることはできなかった。

 

 少し進むと「南無妙法蓮華経」と書かれた石碑と馬頭観世音を見つけた。日蓮宗総本山久遠寺が近いからか、日蓮宗の信仰が盛んなのだろうか。

南無妙法蓮華経

2.平家越の碑

 しばらく歩くと、平家越の碑を見つける。

平家越の碑

 治承4年(1180年)、富士川の合戦の際、富士沼(現在の浮島ヶ原)の水鳥が飛び立つ羽音に驚いた平氏は、源頼朝率いる源氏の襲来かと思い、戦わずに逃げ去ったという。その場所がこの付近と伝えられている。「平家物語」に、「富士川の瀬々の岩越す水よりも早くも落つる伊勢平氏かな」の落書があり、それがここだと考えられている。

 平家越の碑のところには古い東海道の石碑も建っている。

 

3.吉原宿

 橋を渡り、少し進むと吉原宿東木戸跡がある。ここから吉原宿に入る。

吉原宿東木戸跡

 吉原宿は津波のために3度も移転をして現在の地に移った。初めは田子の浦港の東にあった中世以来の吉原、移転後は元吉原といわれるようになったところで、ここが津波に襲われて寛永16年(1639年)に依田橋近くの中吉原に移り、再び津波の害により天和2年(1682年)に今のところ、それまでの吉原とは何の関係もない富士山麓に移った。ただ宿の名前だけは低地のヨシの茂った原っぱの地名を持ち続けてきたので吉原宿という。

 なお、吉原の宿場は全く新しくなって、昔の面影を残しているものは何もない。

 

 吉原本町駅前で岳南電車の線路を越えたら「見よう歩こう富士市東海道」という看板を見つけた。

見よう歩こう富士市東海道

 吉原商店街に入る。日曜日の午前中だというのに、人通りが少なく、寂れた商店街という印象が否めない。

吉原商店街

 吉原商店街を歩いていたら見つけた神社に寄り道してみる。吉原天神社だ。

吉原天神社

 吉原天神社の御祭神は日子番能瓊瓊杵命(ひこほのににぎのみこと)、菅原道真公である。

 創建の年代は不詳だが、元吉原見付宿にて祀られていた古社であり、建久4年(1193年)源頼朝公、天正18年(1590年)豊臣秀吉公が参拝するほどの大社だった。しかし度重なる天災により遷座、天和2年(1682年)に現在地に祀られて以来「天神さん」として崇敬を集め、学問の神として多くの受験生が参詣に訪れるようだ。

 境内に「平成23年3月 震災にて崩壊し竣工」という表記を見つけた。

 平成23年(2011年)3月…というと東日本大震災?と考えていたら、同行者の方が「静岡県東部地震のことですよ」と教えてくれた。

 静岡県東部地震平成23年(2011年)3月15日に発生した静岡県東部を震源とする地震で、静岡県富士宮市で最大震度6強を観測した。これだけ大きな地震ならもっと報道されてもよいはずなのだが、記憶にないのは、その4日前に発生した東日本大震災の被害が甚大だったからだろう。

 

 吉原商店街に戻る。建物の老朽化具合から、この商店街の寂れ具合を感じずにはいられない。

 吉原道道標を見つけたら左折する。

吉原道道

 そのまままっすぐ行くと妙祥寺がある。

妙祥寺

 妙祥寺は日蓮宗の寺院で、日蓮聖人の直弟子六老僧の一人、日昭上人を開山とし、日雲上人を開基として鎌倉時代後醍醐天皇代の元亨3年(1323年)に元吉原宿今井の地に創建された。元和元年(1615年)大津波に遭い伽藍等を流失、寛永16年(1639年)に中吉原に移転、延宝8年(1680年)に再度大津波と台風により流失、天和2年(1682年)に現在地に移転再興された。

 それにしても、日蓮聖人像が大きい。

日蓮聖人像

 県道22号線に戻り、少し進むと右手側に木の元公園があり、その奥に木元神社がある。

木元神社

 木元神社は17世紀中頃創建、主祭神は木元大神とされている。

 吉原宿は寛永16年(1639年)に鈴川今井から依田橋に所替えしたが、そのとき鈴川の鎮守の木之元神社は地主神として残されたため、分霊が中吉原宿に祀られた。これが当神社の創祀と伝えられる。天和元年(1681年)にまた津波に襲われ、翌年木元神社も遷座した。

 

 錦町北交差点の前に西木戸跡を見つけた。ここで吉原宿は終わりだ。

西木戸跡

4.青嶋八幡宮神社

 錦町北交差点で左折し、南進、錦町交差点で右斜め前に進む。「見よう歩こう富士市東海道」があるので参考にしてほしい。

「見よう歩こう富士市東海道

 少し進むと左手側に青嶋八幡宮神社がある。ここは「磔八幡」とも呼ばれている。

青嶋八幡宮神社

 青嶋八幡宮神社の由緒がマンガで描かれていて面白い。

 徳川5代将軍綱吉の代、延宝から天和に年号が変わる年(1681年)のこと、その数年前より行われてきた鈴川検地に代表される過酷な租税取り立ての検地が行われていた。

 前年の延宝8年(1680年)には大津波がこの地区を襲い吉原宿も中吉原から今の吉原宿の地に所替えを余儀なくされた大変な時代で農民は苦しい生活だった。

 そのようなときに行われようとした過酷な検地を青嶋村の名主、川口市郎兵衛は近隣庶民のため検地を拒んだ。これにより川口市郎兵衛は磔刑に処された。

 それを知った村人たちは大変悲しんだが幕府にとっては罪人であるため公には祀ることはできず幕府をはばかり密かに八幡神社川口市郎兵衛を合祀した。

 川口市郎兵衛は82年後(1763年)にようやく赦免された、というお話である。

 村の神社に祀られた川口市郎兵衛はよほど、慕われていたのだと思う。

5.案内板を見ながら進む

 青嶋八幡宮神社からまっすぐ進み、「旧東海道順路」とあるところを右折する。

 すぐに左折する。

 富安橋で潤井川を渡る。富安橋は工事中だったが、歩行者は渡ることができた。

富安橋

 しばらく進むと右手側に蓼原の単体道祖神がある。

蓼原の単体道祖神

 「一万歩「加島旧東海道」コース」のチェックポイントらしいが、特に説明板はなし。笏を持った道祖神は珍しいと思う。

一万歩「加島旧東海道」コース

 少し進むと右手側に山神社がある。

山神社

 祭神は大山津見神(おおやまつみのかみ)。

 そのまま進むと少し離れた本市場町南交差点まで行って交差点を渡るよう指示がある。

 そのまま進み、県道396号線との交差点を斜め前に進む。ここにも「見よう歩こう富士市東海道」がある。

 それにしても、地図がボロボロで役に立たない。

 「富士緑道」を見つけた。暗渠かな?と思い同行者の方に知っているか聞いたところ、ここは身延線廃線跡らしい。なるほど。

富士緑道

 元市場の一里塚跡を見つけた。ここは「旧東海道一里塚」と書かれた石碑があるだけで、一里塚らしきものは何も残っていない。

元市場の一里塚跡

ここも「一万歩「加島旧東海道」コース」だった

 富士市立富士第一小学校内に、2つも水準点がある。

 手前のほうが第準基1363号で、標高は12.958m。ここからは見えなかったが、金属標タイプらしい。昭和52年(1977年)設置。

 奥のほうが第65-1号で、標高は13.8246m。これも金属標タイプらしい。昭和47年(1972年)設置。これだけ近くに2つ水準点を置いた意図はわからない。

 富士駅前のアーケードが見えたが、寂れている。12時半なのでそろそろ昼食にしようか、と思ったが昼食によい店が見つからなかった。結局少し進んだところにあったすき家で食べた。

富士駅前のアーケード

 もはや地図が消えている「見よう歩こう富士市東海道」を見つけた。この案内板、メンテナンスされていないのだろうか。

 ちなみにこの案内板は「札の辻跡」だった。ここに高札場があった、ということだろうか。

 このタイプの「加島の旧東海道コース」の看板は初めて見た気がする。

6.天白神社

 県道396号線と合流してすぐのところに天白神社がある。

白神社

 天白神社にはこのような民話がある。

 養老年間(奈良時代)のある年、柚木村の初穂田(はつほだ)という水田に、大きな米粒が3粒天から降ってきた。米粒の大きさは一寸八分(6cm)ほど。

 村の人たちは、「不思議なことがあるもんだ。きっと、この土地はお米の神様と関係があるに違いない」と米粒の一つを祀って、天白神社と名付けた社を建てた。そして残りの米粒は米之宮浅間神社出雲大社に奉納した。

 また、天白神社の横にあった大きな池「天白池」で雨ごいをすると雨を降らすことができたそうだ。ちなみに、今は特に雨ごいはしていないのに、雨が降っている。

 

 身延線柚木駅のガード下をくぐる。今日の目的地の新蒲原駅ではないので、ここで電車に乗るわけにはいかない。

 「見よう歩こう富士市東海道」の案内板のある交差点を斜め前に進む。

 ここには道標と常夜燈がある。この常夜燈には「秋葉山」と書かれているので、秋葉信仰が盛んであったことが伺える。ちなみに、秋葉信仰とは静岡県浜松市にある秋葉山本宮秋葉神社を信仰することである。東京都台東区にも秋葉神社があり、これが「秋葉原」の地名の由来となっている。

 道標には「左 東海道」と書かれている。

道標と常夜燈

 「歩く健康づくり一万歩 岩松 治水の歴史コース」と書かれた看板があった。いつの間にコース名が変わったのだろうか。

 ここで、三角点を見つけた。四等三角点「松岡」だ。

四等三角点「松岡」

 設置は平成17年(2005年)で、結構新しい。保護石や標示杭もちゃんとついている。

 

 県道396号線に戻り、明治天皇御小休所阯を見つけた。そういえばこれ、久しぶりに見たな。

明治天皇御小休所阯

7.水神社

 富士川のたもとに、水神社がある。

水神社

 日本三大急流の一つである富士川の水害を防ぐために、失敗を繰り返しながら建設されていた堤防工事の完成を願って、江戸時代初期に水神社が建立された。

 江戸時代、東海道を行き交う人々は、富士川を渡るために東西の両岸を結ぶ渡船を利用していた。渡船場は上・中・下の3ヶ所が定められ、その時々で川の流れが穏やかなところが選ばれた。東岸の渡船場のうち、最も下流の渡船場であった松岡村の水神の森周辺は、渡船が行われなくなった現在でも「船場」と呼ばれ、当時の名残を感じることができる。

 「東海道名所記」には「あはや、この舟、水底へづぶりとしづミけるよと、おもへど、さもなくて、こぎ行舟の中にある人ハ、目まひ、肝きゆる心地して、腹ハ背につき、手をにぎりて、やうやう岸へつく」とあり、渡船は快適なものではなかったようである。今は橋を渡ればいいので、眩暈を起こすこともない。

富士川船場

 また、水神社の鳥居そばには、「冨士山道」と刻まれた石碑が移設されている。これは、宝暦8年(1758年)に東海道から分かれて富士山へと向かう登山者のために、水神社から少し東の場所に建てられていたものである。

「冨士山道」

 境内には、水準点もある。一等水準点第66号だ。昭和47年(1972年)設置の金属標らしいが、残念ながら金属標は確認できなかった。

一等水準点第66号

 さあ、富士川を渡ろう。

 富士川は濁流が流れていた。これでは船渡しはできないだろうな、と思った。だがそこは現代人、安心して富士川橋を渡れるのだ。

 なお、いかにも「市町村境」である感じがするが、この橋を渡っても富士市内を出ることはない。市町村合併前は富士市富士川町の市町村境だったようだが、現在、富士川町富士市と合併してしまったからである。

8.富士川の向こうへ

 富士川を渡り、右折する。すると後ろ向きになっている石碑と説明板を見つける。あまりに見る人のことを配慮していないので笑いがこみあげてくる。

 説明板を見に行ってみる。

 「船型の植樹枡」「角倉了以翁の紀功碑」「渡船「上り場」常夜燈」の説明板があった。

 「船型の植樹枡」には船の形の植樹枡群を平成元年度(1989年)県道富士川身延線の修景工事として作成したことが書かれていた。残念ながら植樹枡の撮影はしていなかった。

 「角倉了以翁の紀功碑」は、角倉了以をたたえた碑のことが説明されていた。これも後ろの写真しか撮っていなかった。

 角倉了以・素庵父子は、慶長12年(1607年)に江戸幕府から富士川の開削を命じられた。父子は工事に取り組み、甲州鰍沢から駿州岩渕までの間約71kmは難工事の末に舟運が可能となり、以後、岩渕は「下り米・上り塩」の中継地として繁栄した。しかし、明治44年(1911年)の国鉄中央線、昭和3年(1928年)の身延線の全通によってその使命をおえた。碑は父子の功績をたたえるため、昭和12年(1937年)に旧富士川町(現・富士市)が建立したものである。

 「渡船「上り場」常夜燈」は、富士川渡船と甲州通船の交通安全を祈って、文政13年(1830年)正月、甲州三河岸・岩淵河岸商人・富士川渡船関係者らが建てたものである。この常夜燈だけ撮影していた。

渡船「上り場」常夜燈

 説明板のあったところをUターンして、坂を登る。「東海自然歩道バイパスコース 富士川コース 一里塚 0.93km」という案内板を見つけた。

 右手側に寺院を見つけた。光栄寺だ。

光栄寺

 開創は天正10年(1582年)2月。中郷山等覚寺を退隠した本泉院日正が、岩淵字大畑に一宇を建てて「法華堂」と名付けたことに始まるという。

 本堂から振り返ってみると、富士川から遠くは製紙工場の煙突まで見えた。晴れた日はもっと綺麗なのだろう。

  光栄寺を出たらそのまま道なりにカーブして、行き止まりを左折する。よく見ると「東海道」という貼り紙がある。

 住宅街を進んでいく。秋葉山の常夜燈を見つけた。秋葉信仰が盛んだったのだろう。

 久しぶりに見つけた、「東海道ルネッサンス」。

 岩渕地区の東海道沿いの散策マップが掲示されているのを見つけた。なお、配布はしていなかった。

9.旧小休本陣「常盤家住宅主屋」

 「無料公開中」と書かれた建物を見つけたので、寄ってみた。

 旧小休本陣「常盤家住宅主屋」と言うらしい。

旧小休本陣「常盤家住宅主屋」

 岩渕は、吉原宿と蒲原宿の間宿(あいのしゅく)であった。宝永元年(1704年)の富士川の水害後、東海道の高台への付け替えが行われたのちは、東側77戸、西側75戸という宿駅なみの規模であったという。小休本陣は立場(たてば)本陣ともいわれ、大名や貴人が休憩に利用した施設のことで、富士川の渡船名主(なぬし)の1軒であった常盤家が、遅くとも18世紀末には小休本陣をつとめていた。

 主屋は木造平屋建て・切妻造・桟瓦葺き、正面のみセガイ造で、総建坪75.38坪(約249㎡)。賓客が休憩したと思われる「上段の間」があり、富士市では平成16年(2004年)から公開している。

 中にはおしゃべりなガイドさんがおり、いろいろ教えてくれた。

10.新豊院

 そのまままっすぐ進むと右手側に寺院が見えてくる。新豊院だ。

新豊院

 鎌倉時代正治元年(1199年)真言宗の寺院として開創され、室町時代天文3年(1534年)に曹洞宗に改宗した。

 山門は、延宝7年(1679年)の建立と考えられ、間口3.03m、奥行2.15m、切妻造り桟瓦葺で、本柱が門の中心線から前方にずらして、本柱と控柱を結ぶ梁の中間の上に束をたてて屋根をのせる、薬医門の形式である。それにしても、説明板が読みにくい。

 ほうきを持ってる子供の像。お地蔵さん、と書こうとしたが、たぶん違う。

 洗い大日如来尊。洗うとご利益があるのだろうか。

 東海道を歩いているといろいろなところにある芭蕉の句碑。

 ぽっくり観音と縁むすび観音。なかには聖観世音菩薩立像と薬師如来坐像があるらしい。聖観世音菩薩立像はもともと新豊院の末寺の慈眼院増福寺(明治6年(1873年)廃寺)の本尊だったらしい。薬師如来坐像も新豊院の末寺の芳野山光雲寺(明治6年(1873年)廃寺)の本尊だったようだ。

 四国八十八ヶ所と百観音巡拝記念の石碑。四国八十八ヶ所はいつかやってみたいと思っている。百観音は坂東三十三ヶ所、西国三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所を合わせて百観音である。坂東三十三ヶ所は途中までやったが進めていないから最後まで終わらせたい。秩父三十四ヶ所は手軽にできそうだが、やったことはない。

 仏足石。お釈迦様の足の裏の相で、「素足でふんで功徳を受けてください」と書かれているが、この雨のなか、靴をぬいで踏む気にはなれなかった。

 

 新豊院を出て少し行くと水準点がある。一等水準点第66-1号だ。

一等水準点第66-1号

 明治28年(1895年)設置の古い水準点で標石タイプらしいが、鉄蓋の下にあって確認することはできなかった。

11.岩渕の一里塚

 そのまま進むと右手側にカーブする。そこに岩渕の一里塚がある。

 江戸から37里にあたる岩渕の一里塚は、宝永4年(1707年)の東海道の経路変更と、正徳年間(1711~16年)の朝鮮通信使の通行に際して設置されたものである。付近には、名産「栗の粉餅」を売る店があったといわれ、現在、富士市中之郷の菓子店で復元・改良され、販売されている。また、東側の塚の榎は虫害のため昭和42年(1967年)枯死してしまったので、昭和45年(1970年)に二代目榎を植えた。

 

 また秋葉山常夜燈を見つけた。秋葉信仰が盛んだったのが伺える。

 常夜燈から数えて2つめの交差点を右折する。そのまま歩いていくと東名高速道路をくぐることになる。

 このあたりは中之郷というらしい。蒲原宿まで23間、2.5km。

 道の左側は野田山健康緑地公園らしい。

 東名高速道路の高架下をくぐると「野田山不動明王 聖徳太子 弘法大師 東京三田講」と書かれた石碑と薬師如来の石碑が目についた。

 富士講とかは聞いたことがあるが、三田講とは…?東京、と書いてあるから港区の三田ということはわかる(ついでに「東京」だから明治時代以降に設置されたものであることもわかる)。確かに三田は寺院が多くあるが…増上寺…?三田講で検索しても何も出てこなかったので、知っている人は教えていただきたい。

 

 先ほどの不動明王の石碑で左折し、道なりに行く。そのまま進んでいったら、新幹線の下をくぐるトンネルがあった。本当にここで大丈夫なのか…?

 どうやら通れるようだ。

 トンネルを出てすぐのところに水準点がある。一等水準点第67号だ。

一等水準点第67号

 水準点マンホールの下に昭和6年(1931年)設置の標石がある。残念ながら標石は見えなかった。

 また秋葉山常夜燈である。

   

 そのまま進んでいくと東名高速の上に出てきて、橋を渡ることになる。富士川を渡ったときのほうが「境界を越えた」感があったが、ここで富士市から静岡市清水区に入る。なお、静岡市区間はかなり長く、蒲原~由比~興津~江尻(清水)~府中(静岡市街地)~丸子、丸子宿と岡部宿の間の宇津ノ谷峠を越えるとやっと次の藤枝市に到着する。「←静岡市」「富士市→」の看板だけがここが市町村境であることを物語っている。

12.静岡市に入る

 そのまま道なりに南下していく。蒲原町のマンホールを見つけた。蒲原町はかつて静岡県庵原郡に属していた町で、平成18年(2006年)に静岡市編入合併清水区の一部となった。

左上に蒲原町章がある

 そのまま進むと光蓮寺がある。浄土宗の寺院である。

光蓮寺

 「北條新三郎の墓・蒲原宿東木戸」と書かれた看板を右折する。

 民家の中にビルドイン一里塚を発見した。ビルドイン一里塚は初めて見た。ここは江戸日本橋から数えて38番目の一里塚である。

ビルドイン一里塚

 右手側に諏訪神社の石段があったので登る。

諏訪神社

 諏訪神社は保元年間(1156年頃)吹上の丘六本松付近に建てられた御宮に始まる。住民は水害から逃れようと相談の結果、長野県上諏訪大明神の御分霊を勧請して六本松の池の畔に諏訪明神社を創建し、水難守護神としてお祀りした。

13.蒲原宿に入る

 やっと、蒲原宿東木戸に到着した。東木戸には常夜燈も残されており、これは文政13年(1831年)のものと考えられている。

蒲原宿東木戸

常夜燈

 蒲原宿東木戸には日本遺産の地図や案内板もある。ここから日本遺産に指定されているらしい。

 巨大パイプを見つけた。これなんだろう、と呟いたら同行者の方が「日本軽金属の工場に電力を供給する発電用の水を通すパイプです」と教えてくれた。

 「蒲原の名所、旧跡」と書かれた紹介パネルを見つけた。このうちいくつかは、次回の「東海道を歩く」で行くことになる。

 奥に古い土蔵を見つけた。渡邊家土蔵だ。これは、天保9年(1838年)2月21日に上棟したことが判明しており、静岡市内最古の土蔵である。平成13年(2001年)8月29日、静岡市指定有形文化財に指定された。残念ながら、中を見ることはできなかった。

渡邊家土蔵

 少し進むと、右手側に寺院がある。龍雲寺だ。

龍雲寺

 臨済宗妙心寺派の寺院である。

 龍雲寺の少し先には、正八幡神社がある。

八幡神社

 特に説明板等はなく、祭神もわからない。

 道端に小さな馬頭観音を見つけた。説明板によると平成11年(1999年)に発見されたものらしい。

 さらに先に進むと、東漸寺がある。東漸寺は日蓮宗の寺院で、日蓮聖人の直弟日興上人の弟子、中老僧の日目上人の開創といわれ、北条重時の嫡男石川式部入道勝重の発願により、元弘元年(1331年)に創立された。

東漸寺

 境内には、水準点がある。一等水準点第67-1号だ。これは平成12年(2000年)設置、結構新しい水準点である。金属標らしいが、石蓋に遮られて確認することはできなかった。

一等水準点第67-1号

 一般家屋のため中を見ることはできないが、「なまこ壁の塗り家造りの家」を見つけた。塗り家造りは土蔵造りと比べて壁の厚みは少ないが、防火効果が大きく、昔から贅沢普請と言われている。なまこ壁の白と黒のコントラストが装飾的で、黒塗りの壁と街道筋には珍しい寄棟の屋根とが相まって、重厚感があふれている。

なまこ壁の塗り家造りの家

 この家もなまこ壁の塗り家造りの家である。この家は、昭和まで続いた「僊菓堂(せんかどう)」という屋号で和菓子を作る商家だった。

 普通の民家の前に「問屋場跡」の看板を見つけた。問屋場とは、幕府の荷物の取り次ぎ、大名の参勤交代の折の馬や人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物の運搬の手配をしたところで、蒲原宿では宿のほぼ中央にあたる場所に設置されていた。

 問屋場跡の奥に、椙守稲荷神社がある。

椙守稲荷神社

 特に案内板等はなく、祭神は不明。

 東海道に戻り、まだまだ西へ続くが、今日はここまでにして新蒲原駅に向かう。新蒲原駅へ向かう途中に蒲原夜之雪記念碑がある。蒲原夜之雪とは歌川広重天保3年(1832年)4月、幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京へ上った折、この地で描いたもので、東海道五十三次の中でも最高傑作といわれている。なお、蒲原は静岡県、そうそう雪は降らないだろうと思われるが、これは歌川広重の想像で降らせた雪、と東海道廣重美術館では解説されていた。

歌川広重「蒲原夜之雪」

 県道396号線を歩道橋で越え、新蒲原駅に到着した。

新蒲原駅

 ここから三島駅まで戻り、新幹線に乗る。今日の夕食は三島駅で買ったあしたか牛すき弁当だ。

 次回は新蒲原駅から由比駅まで歩く予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

今回の地図⑤

今回の地図⑥

歩いた日:2022年5月1日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

小杉達(1992)「東海道歴史散歩」静岡新聞社

静岡県日本史教育研究会(2006)「静岡県の歴史散歩」山川出版社

人力 左富士神社

https://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/hara_yoshiwara/yoshiwarashuku/hidarifujijinja.html

富士おさんぽ見聞録 吉原天神社

http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-18.html

日蓮宗 静岡中部宗務所 妙祥寺

https://myouhou.com/temple/post_14/

八百万の神 山神社

https://yaokami.jp/1221392/

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/

富士市 【広報ふじ平成11年】富士の民話 あれこれ

https://photo.city.fuji.shizuoka.jp/kouhou/kiji/101110905_0740_10.htm

富士おさんぽ見聞録 岩正山 光栄寺

http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-281.html

(2022年8月29日最終閲覧)