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江戸三十三観音をめぐる 12.三田・高輪・金地院編

 前回、江戸三十三観音第23番札所大円寺に訪れ、その後第24番札所梅窓院に参拝してから南青山・千駄ヶ谷方面をめぐった。今回は第25番札所魚籃寺、第26番札所済海寺、第27番札所道往寺、第28番札所金地院に参拝しつつ三田・高輪方面をぶらぶらしようと思う。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.魚籃寺

 今日は白金高輪駅からスタートだ。

 

 白金高輪駅から北東方向に進み、魚籃坂下交差点で右折すると魚籃坂(ぎょらんざか)を登ることになる。

魚籃坂

 魚籃坂は坂の中腹に魚籃観音を安置した魚籃寺があることから名づけられた。魚籃坂を登ると、魚籃寺にたどり着く。

魚籃寺

 唐の憲宗の元和年間(804~824年)に、金沙羅という仏教信仰の全くなかった地方に、竹かごに魚を入れて売り歩く美しい乙女の姿で現れ、仏の教えを広めた、その姿を写したのが魚籃観音とされている。

 この像は馬郎という人の家に代々祀られていたが、魚籃寺の開山、称誉上人の師匠の法誉上人が長崎を訪れたとき、馬郎の子孫にあたる老婆が霊夢のお告げを受けたので、ということで魚籃観音を法誉上人に預けた。

 法誉上人は元和3年(1617年)頃に豊前中津(現在の大分県中津市)に魚籃院を営んで魚籃観音を安置し、寛永7年(1630年)に三田に仮のお堂を作り、のちに承応元年(1652年)に称誉上人が現在の地に寺を建てて魚籃観音を祀り、今日に至っている。

 魚籃観音を直接見ることはできなかったが、お堂の外側からお参りした。

 お参りのあとは御朱印をいただいた。力強い御朱印だ。

 

2.済海寺

 魚籃寺をあとにして伊皿子交差点を左折して歩いていくと三田台公園がある。

三田台公園

 三田台公園には伊皿子貝塚遺跡の一部が保存されている。

伊皿子貝塚の一部

 伊皿子貝塚遺跡は縄文時代から江戸時代に及ぶ遺構・遺物が重層的に発見された遺跡である。

 昭和53年(1978年)夏に開始され、約1年半にわたった発掘調査により、縄文時代後期の敷石住居跡1軒と貝塚弥生時代中期の方形周溝墓2基、古墳時代後期の住居跡3軒、奈良・平安時代の住居跡1軒が検出され、これらに伴い多数の遺物が出土した。

 この貝塚の一部は、貝、魚や獣を食べた後の骨、家の中のごみ、壊れた土器や石器のかけら、炉から出た灰や燃えさしの炭などで構成されている。要は縄文時代の人のゴミ捨て場だったということだ。

 ゴミ捨て場だったからといって荒らしていいわけでは決してなく、これを調べて当時の人の食べ物や生活の様子を解明するために残すのである。

 

 貝塚のほかにも縄文時代の住居も復元されている。

 

 そのほか、三田台公園には竪穴式住居跡も保存されている。

 

 三田台公園をあとにして、済海寺に向かう。

済海寺

観音堂

 済海寺は元和7年(1621年)に草創された浄土宗の寺院である。

 済海寺には竹芝寺伝説があり、以下のような話となっている。

 10世紀初め頃、武蔵国から京都の宮廷に差し出されて、篝火をたく衛士の役目をしていた若者がいた。

 その若者は御殿の庭を掃きながら「どうしてこういうつらい目にあうのだろう。自分の故郷にはたくさんの酒壷があって、風が吹けば、添えたひょうたんの杓がなびく様子を見て、のどかに暮らしていたのに、今はこんなざまだ」とひとりごとをいっていた。

 これを時の天皇の姫君で大事に育てられていた方が、一人で御簾のはしに出て柱によりかかりながら若者の言葉をお聞きになった。

 姫はどのようなひょうたんが、どんなになびくのだろうととても興味をもたれ、「こちらへおいで」と男を呼び寄せられ、酒壷の話をもう一度語らせた。話を聞いた姫は、「私もつれていってそれを見せて」と強く望んだ。

 若者はもったいなく畏れ多いと思ったけれども、若者はもともと故郷に帰りたいと思っていたので、姫を背負って宮廷から逃げ出した。

 武蔵国で若者と姫は仲良く暮らし、追手の役人も姫に説得されて帰り、天皇夫妻は「幸せに暮らしているなら」と若者に武蔵国を任せた。

 その2人の住居も内裏の御殿のように造られ、2人の子供が生まれると「武蔵」という姓を与えられたという。

 姫が亡くなったあと、その家を寺にしたのが竹芝寺で、それがのちに済海寺になったそうだ。

 

 この済海寺の観音様は亀塚正観世音菩薩といい、亀の上に立つ観音様である。観音堂に祀られているが、非公開のため見ることはできない。

 

 観音堂に手を合わせてから御朱印をいただいた。御朱印は書置きのみ。

 

3.道往寺

 済海寺をあとにして、来た道を伊皿子交差点まで戻って左折、道往寺に向かう。

道往寺

道往寺観音堂

 道往寺は寛文年間に創立され、江戸時代には江戸三十三観音第二十七番札所として栄えていた。江戸時代の江戸三十三観音は寛文8年(1668年)に選定されたものだが、その後廃仏毀釈などで半分以上が入れ替わり、現在の江戸三十三観音の形となったのは昭和51年(1976年)のことである。

 道往寺の観音堂に祀られている聖観世音菩薩と千住観世音菩薩に参拝し、御朱印をいただいた。

 

4.泉岳寺

 道往寺をあとにして、都道415号線を南下し、突き当たりを右折すると泉岳寺がある。

 泉岳寺の中門は天保7年(1836年)35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたもので、昭和7年(1932年)に大修理を施されている。

泉岳寺中門

 泉岳寺の山門は天保3年(1832年)に再建されたもの。

泉岳寺山門

 泉岳寺本堂は昭和28年(1953年)12月14日に再建されたものである。

 泉岳寺の御本尊は釈迦如来、ほかに曹洞宗の宗祖である道元禅師、瑩山禅師、また、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の守り本尊である摩利支天などが祀られている。

泉岳寺本堂

 泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚を開山として徳川家康が外桜田に創設した寺院である。

 しかし寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失したため、現在地の高輪に移転してきた。

 江戸時代は曹洞宗の江戸三学寮のひとつとして多くの僧侶を育成してきた。現在も数は少ないながら大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行をする僧侶はいるようだ。

 泉岳寺御朱印をいただくのだが、御朱印をいただく前に納経をお願いされる。習字は習っていなかったので筆で文字を書くのは下手くそだが、これで願いが伝わればよいな、と思う。

 泉岳寺を語るうえで欠かすことができないのは、元禄赤穂事件だろう。

 元禄赤穂事件の原因となったのは江戸城で起きた「松之廊下刃傷事件」である。

 元禄14年(1701年)3月14日、この日は江戸城において、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の母、桂昌院に朝廷が従一位の官位を授ける儀式が執り行われる予定だった。

 しかしこの日の午前中に赤穂藩3代藩主、浅野内匠頭江戸城の松之廊下で高家筆頭の吉良上野介を日本刀で切り付ける事件が発生した。浅野内匠頭が何の動機があって斬りつけたのかは諸説あり、わかっていない。吉良上野介は軽傷だったものの、浅野内匠頭はその場ですぐさま取り押さえられてしまった。

 大切な儀式の日に刃傷事件を起こされた徳川綱吉は激怒し、浅野内匠頭に対し即日切腹、浅野家のお家断絶を命じた。浅野家の家老、大石内蔵助は浅野家の家督を相続できるように江戸幕府に嘆願していたが、それは認められなかった。

 「傷害事件起こして処罰された、それは当然じゃない?」と現代の感覚では思うが、当時は「喧嘩両成敗」という法原則があった。この法原則によると、喧嘩をした両者はどちらも悪いとして、どちらも罰せられることになる。ところが今回は、吉良上野介には何のお咎めもなかった。

 そこで、大石内蔵助は「吉良上野介がいる限り、浅野内匠頭の名誉を挽回することはできない」と考え、仇討ちの計画を始めた。

 1年後の元禄15年(1702年)12月14日、大石内蔵助赤穂浪士47人は吉良邸に奇襲をかけ、吉良上野介を発見、その首を討ち取り、主君の仇討ちを果たした。

 赤穂浪士にたいする処罰に対しては有罪と無罪の両論があったが、最終的には全員に切腹が言い渡された。そして、浅野内匠頭大石内蔵助赤穂浪士47人の遺骸が葬られているのが泉岳寺である。

 ちなみに、吉良上野介が殺害された吉良邸は、「江戸三十三観音をめぐる 2.人形町・両国・小伝馬町編 6.本所松阪町公園」で訪れている。

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 泉岳寺には元禄赤穂事件に関するさまざまな遺構がある。赤穂義士記念館には赤穂浪士47人のさまざまな遺品が残されている(残念ながら撮影不可)。

赤穂義士記念館

 赤穂義士記念館の向かい側には義士木像館もある。鷲屋石欒やその弟子が作った赤穂義士の木像が展示されている(こちらも撮影不可)。

義士木像館

 この井戸は「首洗い井戸」と呼ばれ、浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首を供える前に首を洗ったことからこの名がついている。

首洗い井戸

 この門の奥に、浅野内匠頭大石内蔵助赤穂浪士47人の墓がある。ちなみにこの門は浅野家の鉄砲洲上屋敷の裏門で、明治に入ってから移築されたもの。

 赤穂義士墓地は有料となっており、お線香代として300円を払う。お線香代なのでお線香をいただき、墓地に供える。

 浅野内匠頭の墓は赤穂義士の墓の外にある立派な墓で、討ち入りを主導した大石内蔵助の墓は赤穂義士の墓のなかでも一番奥にある。今でも参拝に来ている人が多く、元禄赤穂事件の人気は衰えていないのだなと感じた。

 ちなみに、泉岳寺の前には赤穂浪士グッズが売っているお店もある。

 

5.金地院

 泉岳寺をあとにして、金地院へ向かう。金地院へ向かう途中で、東海道を遡る。なつかしの「東海道を歩く 1.日本橋~品川駅 後編」で通ったあたりだ。

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 道の反対側に高輪大木戸跡が見える。

高輪大木戸跡

 高輪大木戸は江戸時代中期の宝永7年(1710年)に芝口門に建てられたのが起源である。享保9年(1724年)に現在地に移された。

 江戸の南の入口として、夜は閉めて通行止めとし、治安の維持に努めていた。後に高札場も札の辻から移された。

 かつては旅人の送迎もここで行われ、たいへん賑やかな場所だったようだが、現在は自動車が大木戸跡の横を通り過ぎるだけとなっていて少し寂しい。

 

 少し進むと御田八幡神社がある。御田八幡神社には「東海道を歩く」以来訪れていなかったので3年ぶりの訪問となる。

 御田八幡神社和銅2年(709年)に創建され、江戸時代に現在地へ遷座した。現在も三田・芝・芝浦・高輪の氏神として崇敬を集めている。

御田八幡神社

 

 札の辻交差点で東海道とは分かれ、都道301号線を北に進んでいく。すると、慶応義塾大学三田キャンパス東館の北側に小さな神社があるのに気が付く。三田春日神社だ。三田春日神社は天徳2年(958年)に奈良の春日神社から天児屋根命(あめのこやねのみこと)の神霊を勧請して創建した。奈良の春日神社を意識してか、御朱印にもシカのハンコが押されている。

三田春日神

 

 赤羽橋交差点まで北進したら右側に進み、東京タワー前交差点を左折する。東京タワーの足元に、金地院はある。

金地院

 金地院は元和4年(1618年)徳川秀忠から寺領を賜り、江戸城北の丸付近に創建され、その後寛永16年(1639年)、徳川家光の命により現在地に移築された。

 開山の以心崇伝は南禅寺を中興開山した人で、徳川幕府草創期の政治を補佐したことで知られている。

 如意輪観音像を祀っていた旧本堂は、「将軍家御祈祷殿」として将軍家にことあるごとにここで祈祷が行われたと伝えられ、御本尊の御開帳がある善月祈祷会には多くの参拝客が訪れ、「切通し金地院の開運三大杓子」と呼ばれる杓子を参詣者に配っていたことでも有名だった。

 昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で全焼してしまい、昭和31年(1956年)再建の本堂に改めて聖観世音菩薩を祀り、現在に至っている。この聖観世音菩薩が江戸三十三観音第28番札所の観音様である。

 御朱印を待つ間、観音様を拝んできた。神々しいお姿だった。

 

 せっかくここまで来たので、東京タワーに登ろうと思った。東京タワーに登るのは5年ぶりだろうか。

 

 東京タワーにはタワー大神宮という神社があり、なんと御朱印もいただける。

タワー大神宮

 

 こういうのを見ると、つい上に乗って歩きたくなってしまう。

 

 東京タワーは曇っていたがそこそこ混んでいて、疲れたのでスタバで一休みしてから帰ることにした。飲んだのは「もっとGOHOBI メロンフラペチーノ」。

 この後は御成門駅から帰路についた。

もっとGOHOBI メロンフラペチーノ

 魚籃寺済海寺、道往寺。3ヶ所の江戸三十三観音札所を一気に回った。その後は泉岳寺で、浅野内匠頭大石内蔵助赤穂浪士47人の冥福を祈った。金地院は昔は人で賑わっていたようだが、今は東京タワーの真下にあるにも関わらず、しんとしていた。そして5年ぶりに登った東京タワー。バカと地理屋は高いところが好き…とはいうが、高いところに登るとワクワクするのはなぜだろう。やはりバカだからだろうか。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2024年5月6日

 

次回記事はこちら↓

 

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【参考文献・参考サイト】

俵元昭(1979) 「港区の歴史」 名著出版

江戸札所会(2010) 「昭和新撰江戸三十三観音札所案内」

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

港区立郷土資料館 伊皿子貝塚遺跡出土遺物

https://www.minato-rekishi.com/museum/2009/10/42.html

刀剣ワールド 元禄赤穂事件

https://www.touken-world.jp/tips/11107/

(2024年6月10日最終閲覧)