
前回、岡崎公園前駅から知立駅まで歩いた。今回は知立駅から鳴海駅まで歩こうと思う。桶狭間古戦場や重要伝統的建造物群保存地区の有松など、見どころたくさん、そしてついに名古屋市内に入った。
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1.総持寺
今日は知立駅からスタートだ。

知立市観光交流センター前の交差点まで行って左折、東海道に入る。
歩いていると、何やら山車の作業をしていた。それを見ていると、ビラをいただいた。どうやら近々「知立まつり」をやるようだ(この日は4月28日、知立まつりは5月2~3日)。


知立まつりの歴史は承応2年(1653年)から続いており、山車のうえで上演される山車文楽とからくりを特徴としている。
からくりは80本もの糸をあやつることもある見事なものらしく、いつか見に行ってみたいが、流石に数日後、知立にまた来るのは財政的に厳しい。
突き当たりを右折、また突き当たるので左折するとあんまきが名物の「小松屋本家」がある。

友人とあんまきを2つオーダーした。「小松屋本家」と知立市のゆるキャラ「ちりゅっぴ」の焼き印が押されている。特に「ちりゅっぴ」が可愛い。

江戸時代、池鯉鮒(ちりゅう)では畑で多くの麦を作っていた。その小麦粉を延ばし、焼き、二つ折りにして、畑で採れた小豆を塩あんにして中に挟んだものが「あんまき」の始まりと言われている。
その頃から知立神社への参拝客、弘法山参りの人々、街道を往来して休憩する旅人に出して大変喜ばれていたそうだ。
あんまきは焼き立てホカホカで、美味しかった。
少し先に進むと、総持寺がある。

三河新四国霊場は寛永2年(1625年)に開創された愛知県三河地方の霊場巡礼だが、現在の形となったのは昭和39年(1964年)のことである。
「江戸三十三観音もやっていることだし、三河新四国霊場、はじめないの?」と思う人もいるかもしれないが、通うのが大変なので三河新四国霊場はやらない。でも、御朱印はもらった。

子供たちがやたらたくさん境内にいたので、何かイベントでもあるのかとお寺の方に聞くと、「ちりゅっ子かふぇがある」とのこと。
ちりゅっ子かふぇは総持寺で行っているボランティア活動で、「子ども食堂」のひとつである。高校生以下の子供は無料、大人も200円で弁当を販売しているようだ。確かに境内にどこかおいしそうなにおいが漂っていた。しかしまだ弁当が出来上がるまでには時間があったので、先を急ぐことにした。
また、総持寺の本堂に長いひもが垂れており、「このひもを握ればご本尊様と縁を結ぶことができる」とお寺の方に言われたため、握って縁を結んできた。
総持寺の一角には、四国お砂踏霊場がある。こちらもお寺の方におすすめされたので、入ってみた。

四国八十八箇所の「お砂踏み」とは、各霊場の御本尊の写し仏を祀り、持ち帰った八十八箇所霊場の砂を踏みながら礼拝することで、四国八十八箇所をめぐったことと同じ功徳をいただけると考えられてきた風習である。
私たちも砂を踏み、いつか四国八十八箇所をめぐることができればいいなと考えていた。

2.洞隣寺
逢妻川をわたり、国道1号線に合流するとすぐに知立市は終わり、刈谷市に入る。

刈谷市に入ってすぐ、国道1号線の341キロポストを見つけた。

歩道橋に「刈谷市一里山町」と書かれている。このあたりに85里(約340km)の一里塚があったようだが、今は地名くらいにしか残っていない。

刈谷市の消火栓を見つけた。

刈谷市の市の花もかきつばたのようだ。刈谷市内にかきつばた群落があることから市の花に指定されたようだ。
刈谷市章つきの仕切弁を見つけた。

刈谷市章は「雁」と「8」をモチーフとしたデザインで、「雁八」で「かりや」と読む、としている。
こちらのデザインの消火栓もかきつばた。

こちらのマンホールにもかきつばた。

アスカ本社第1配送センターのある交差点で旧道に入り、アド株式会社の交差点で国道1号線に戻り、次の歩道橋を渡ってまた旧道に入る。寛政8年(1796年)の秋葉灯籠のある寺が、洞隣寺だ。


洞隣寺は曹洞宗の寺院で、天正8年(1580年)の開山といわれ、開基は刈谷城主の水野忠重とされている。
境内にある達磨(?)を見て友人が「千と千尋の神隠しに出てくる頭に似ている」と言った。確かに似ている。

3.阿野一里塚
「いもかわうどん」と書かれた解説板を見つけた。

ここがいもかわうどん、現在の「ひもかわうどん」の発祥の地、らしい。
乗願寺は天正15年(1587年)の創建で、本堂に刈谷城主の位牌が祀られている。

新しいデザインのマンホールを見つけた。

これは万燈祭、刈谷ハイウェイオアシス、かきつばたと名産品のスイカがデザインされている。マンホールカードを刈谷駅前で配っていたようだが、刈谷駅前は通過していないのでゲットできなかった。
緑のかきつばた空気弁。

カラーのかきつばたマンホール。

12時前でおなかもすいてきたのでNAN-HOUSE 刈谷店へ。

友人はほうれん草チキンカレーを、私はチキンカレーを頼んだ。ナンが大きくお腹いっぱいになった。

旧道を歩き続け、国道1号を渡るのに危険なので地下道を通ってまた旧道に出る。

わずかな松が東海道を教えてくれる。

境橋を渡る。

境橋は、尾張国と三河国の境界となる橋である。現在はここで刈谷市と豊明市の境界となっている(残念ながらカントリーサインはなかった)。
慶長6年(1601年)、東海道に伝馬制度が設けられ、ほどなく尾張と三河の立ち合いで橋が架けられた。
当初は中ほどから西は板橋、東は土橋となっていたが、やがて一続きの土橋になり、明治に入ってから欄干がついたそうだ。
藤原朝臣光広卿の歌碑があった。「うち渡す 尾張の国の 境橋 これやにかわの 継目なるらん」

さっそく、豊明市のマンホールを見つけた。

豊明市のマンホールには桶狭間古戦場伝説地がデザインされている。こちらはのちほど行くので、そこで説明したい。
第二東海自動車道の下をくぐるあたりで国道1号線に合流して先に進み、池下交差点で旧道に入るとすぐに阿野一里塚がある。


徳川家康は慶長9年(1604年)、すでに整備した東海道の宿駅、伝馬制に加えて、道の両側に塚を築かせ、1里ごとの目印とした。これを一里塚という。
愛知県内の東海道には18の一里塚があったが現存するのは4箇所、道の左右ともに残っているのはこの阿野一里塚と来迎寺一里塚のみである。来迎寺一里塚は前回の「東海道を歩く 33.岡崎公園前駅~知立駅 7.来迎寺一里塚」で紹介している。
一里塚の上には森市雪の句碑がある。「春風や 坂をのぼりに 馬の鈴」

このあたりを歩いていると昔は馬の鈴の音も聞こえたかもしれないが、今は聞こえない。
4.桶狭間古戦場伝説地
豊明小学校に水準点を見つけた。一等水準点第171号だ。

一等水準点第171号は昭和48年(1973年)に設置された標石型の水準点である。
坂部区公民館の一角に坂部善光寺を見つけた。

坂部善光寺は、三田柳庵が明治5年(1872年)に善光寺別当の大勧進から一光三尊弥陀尊像を受け取ったことに始まる。
明治28年(1895年)には三田柳庵が地元にお堂を建てるための土地を提供し、地元の有志によりお堂が作られた。
昭和22年(1947年)には本堂の傷みが激しかったため一旦本堂を取り壊し、仮建物内に弥陀尊像を安置した状態が続いていたが、昭和61年(1986年)に坂部公民館が改築されそこに祀られることになった。
豊明市の市章入りマンホールを見つけた。

豊明市章は豊明の「トヨ」の文字を図案化して両翼に輪舞する人型をとって市民の協力と飛躍を表しているようだ。
文化4年(1807年)に設置された道標があったが、文字が摩耗してほとんど読めない。

豊明市章と市の花、ひまわりをデザインしたマンホール。

旧道をそのまま進むと国道1号線に合流する。348キロポストを見つけた。

桶狭間病院の交差点を左折すると、桶狭間古戦場伝説地に到着する。

ここで、桶狭間の戦いについて説明しておこう。
桶狭間の戦いとは、永禄3年(1560年)6月5日に起こった尾張の守護代「織田信長」と駿河・遠江・三河を治めていた守護大名「今川義元」の戦いである。
当時、桶狭間の戦いは今川義元が圧勝すると誰もが予想していたが、その予想はひっくり返って織田信長が勝利した。
なぜ桶狭間の戦いが起こったのか。近年では、今川義元が三河支配を安定させるため、尾張へ攻め入ったという説が有力とされている。
なぜ今川義元が勝つと思われていたのか。
1つ目は尾張の守護代の織田信長、今川義元は駿河・遠江・三河の守護大名という家柄で、身分上は今川義元のほうが上だったからである。
2つ目は、織田信長は3,000人程度の兵しか動員できなかったのに対し、今川義元は25,000人もの兵を動員していたこと。兵力の差は歴然としていた。
3つ目は家督を継いで間もない織田信長と、今川義元はいくつもの戦いを経て三河を領国とし、武田や北条とも同盟を結ぶなど活躍めざましい大名だったこと。要は経験値の差である。
こう見ると織田信長は絶望的な状況だが、なぜ織田信長は勝てたのか。それは勝てる可能性に賭けて全力で勝負に出た織田信長と、完全に勝ち戦と油断していた今川義元の意識の差にあると言われている。
尾張に侵入した今川軍は織田家の砦を次々に奪っていった。織田信長は清州城で動く気配がなかったが、あるとき急に出陣の準備を命じ、自ら馬に乗って駆けだした。部下の多くは後に続くことができなかったが、織田信長が熱田神宮で神の加護を祈ったときには多くの部下が集まってきていた。
今川義元は前哨戦で勝ったので気をよくして桶狭間山で酒を飲んでいた。その情報が織田信長の耳に入り、信長は敵陣を急襲する決断をくだした。織田信長は嵐のなか駆けていき、桶狭間山の今川義元のもとまで走っていき、今川義元の首をとり、桶狭間の戦いに勝利した。
諦めずに勝利をつかんだ織田信長、そして慢心から命を落とした今川義元、「下剋上」ともいえる戦ゆえに、戦国ファンの心をつかんで離さない、それが桶狭間の戦いである。
そしてこの桶狭間古戦場伝説地は今川義元が殺害された現場であり、義元の墓もある。

桶狭間古戦場伝説地にはとよあけ桶狭間ガイドボランティアの方がいて、6/1~6/2に行われる桶狭間古戦場まつりで使う鎧のレプリカを見せてくれた。ビラもくれたが、このタイミングで桶狭間にまた行くのは残念ながら難しい。


かつては激しい戦いの場となった桶狭間古戦場伝説地にも、現在はかきつばたが咲いていた。

かきつばたを見てつい「からごろも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ…」と呟いてしまった。これが何のことかわからない人は「東海道を歩く 33.岡崎公園前駅~知立駅 6.知立市に入る」を参照してほしい。
香川景樹の歌碑があった。「あと問へば 昔のときの こゑたてて 松に答ふる 風のかなしさ」

桂園派の巨匠、香川景樹が己の歌風を江戸にも広めようと意気込んで出府したが、迎えられず、失意を抱いての帰途、桶狭間を通り、永禄3年(1560年)5月19日、信長のためにこの地に没した義元の気持ちをくみ、自身の心に引き当てて詠んだ一首である。認められないことのつらさがわかる。
桶狭間古戦場伝説地の道路の向かい側に徳本が刻んだ「南無阿弥陀仏」の石碑がある。

これは江戸時代の高僧、徳本がこの地を訪れ、敵味方問わず戦死者の霊を弔うために建てたものである。
桶狭間古戦場伝説地の近くに高徳院という寺院があり、ここも桶狭間古戦場跡地である。


5.有松
桶狭間古戦場伝説地をあとにし、国道1号線に戻ってすぐ旧道に入る。旧道から国道1号線に戻り、足元の消火栓を見て「おっ!」と声が出た。

名古屋城と鯱、そして丸に八の市章。ついに名古屋市に入ったのだ。
この丸に八は名古屋市章で、尾張徳川家の合印として使われていたマークである。
カラーの消火栓も見つけた。

名古屋上下水道局のキャラクター、「アメンボ」が描かれたマンホールがあった。かわいい。

大坪ヶ根交差点で旧道に入り、少し歩くと古そうな町並みに入っていく。有松だ。


東は松野根橋から西は祇園寺までの約800mにわたって江戸時代の面影を残す有松の町並みは、昭和59年(1984年)に名古屋市の町並み保存地区に指定され、その後平成28年(2016年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。東海道の重要伝統的建造物群保存地区は有松と、三重県の関宿のみである。関宿はのちに訪れる予定なので、お楽しみに。
有松の町は慶長13年(1608年)、尾張藩の命によって東海道の鳴海宿と池鯉鮒宿との間に開かれた町である。
住民の生業として導入された絞り染は、藩の庇護もあって有松絞りの名で名物となり、有松の町も大いに繁栄した。
天明4年(1784年)の大火によって町のほとんどが焼失したが、復興にあたって多くの家が瓦葺き・塗籠造りの防火構造にし、現在みられる町並みが形成された。
有松といえば、絞りである。
江戸時代、有松や鳴海で生産・販売された絞りは、有松絞りまたは鳴海絞りとよばれ、東海道を代表する名物であった。
歌川広重が描いた「東海道五十三次」をはじめ、鳴海宿を紹介した浮世絵の多くには、鳴海や有松の町並みとともに絞りが描かれ、人々の絞りへの関心の高さがわかる。

有松・鳴海絞りの生産の由来は、知多郡 英比(あぐい)から有松に移住した竹田庄九郎が、慶長年間(1596~1615年)に築城工事のため名古屋にきていた豊後の人が着用していた絞り染めから九々利(くくり)染めを考案したのが始まりとされる。
その後明暦年間(1655~1658年)に豊後高田藩主の侍医、三浦玄忠の妻が豊後絞りの技法を指導したという。また、鳴海宿で病気になった玄忠との生計をささえるため、妻が絞り染めを村人に教えたので鳴海に絞りが広がったともいう。
東海道沿いという好条件のほか、知多・三河という絞りの原材料である木綿を生産する地域が近くに所在したこと、尾張藩が有松の絞り問屋に販売独占権をあたえたことなどによって、絞り業は当地で発展していった。
絞りは、木綿の生地を糸で括って藍で染め、糸抜きをしたのち湯のし仕上げをして完成する。その作業は工程ごとに細かい分業で行われ、括り作業は近郊農村の女性の内職仕事でもあった。
藍染めは有松や鳴海で行われ、絞り問屋に引き取られて販売された。しかし庶民には高価で、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」では、冷やかし気分で有松の絞りの店にはいった弥次郎兵衛(弥次さん)は、手ぬぐいしか買えなかった。
昭和50年(1975年)、「有松・鳴海絞り」として国の伝統的工芸品に指定された。


奥に見える建物が有松山車会館だ。入ってみよう。

有松では東町の布袋車、中町の唐子車、西町の神功皇后車の3台の山車が、10月第1日曜日の天満社秋季大祭に旧東海道を曳行され、からくり人形が演じられる。
山車は各町に設けられた山車蔵に保管されているが、交代で山車会館に展示されている。この日は東町の布袋車が展示されていた。
天狗と猩々が展示されていた。なんか怖い…。

「10月にお祭りをやるので、ぜひ来てくださいね」と有松山車会館のスタッフさんに言われたので、いつか行ってみたいと思う。
有松・鳴海絞会館に向かう。

有松・鳴海絞会館では1階は有松・鳴海絞りの販売コーナー、2階は有松・鳴海絞りについての展示コーナーとなっていた。


これは「尾張国産物競」という尾張国の特産物を示したもので、右から2番目、1番上に「有松絞」があるのを確認できる。

有松・鳴海絞りの魅力に触れたため、有松絞りのハンドタオルを買ってしまった。

なお、有松・鳴海絞会館では名古屋市の歴まちカードと鳴海宿の御宿場印も販売している。ここ鳴海宿ではないよな、有松だよな…?と突っ込んではいけないのだろう。


歴まちカードこと、歴史まちづくりカードは国土交通省が作成している歴まち認定都市の象徴的な風景写真や歴史まちづくり情報を紹介したカード型パンフレットである。前回登場したのは「東海道を歩く 27.舞阪駅~新居町駅 4.舞阪宿脇本陣」で浜松市の歴まちカードを入手したときである。そのとき「岡崎市役所でももらえる」と書いているが、すっかり忘れていた…。
有松・鳴海絞会館をあとにすると、目の前に服部家住宅が見えた。

服部家は寛政2年(1790年)創業の絞問屋で、屋号を井桁屋という。
屋敷地は東海道に面して広い間口を有する。中央部に店舗及び居住として利用する2階建の主屋を配し、井戸屋形、店倉、藍倉、門など合わせて11棟の建物が有力な絞問屋の屋敷遺構の典型として、昭和39年(1964年)愛知県の有形文化財に指定された。隣の蔵も愛知県の有形文化財らしいが、漆喰が剝がれかけているのは修繕できないのだろうか。

棚橋家住宅の主屋は木造つし2階建、切妻造桟瓦葺である。東海道を挟み北側に分家した服部家住宅(井桁屋)の本家(大井げたや)として約50年絞問屋を営んだ後、棚橋家が、昭和8年(1933年)から約50年間医院、その後は住宅として使用されている。

中濱家住宅は主屋、土蔵、物置、塀、石積みが一体で残っている。
江戸時代末期から絞問屋を営んでいたと伝えられており、屋号をヤマヨとしている。現在は有松絞を売っている「中濱商店」として使用されている。
唐子車(中町)の山車庫を見つけた。

中町の山車庫には「唐子車」と呼ばれる山車が格納されている。
唐子車は天保年間(1830~1844年)に知多内海で造られたものを、明治8年(1875年)に中町が購入した。昭和48年(1973年)、名古屋市の文化財に指定された。

中舛竹田荘は有松絞の開祖である竹田庄九郎ゆかりの江戸時代の建物と伝えられている。現在はデイサービスの松柏苑として使用されている。

竹田家住宅は江戸期と思われる主屋を中心に、明治から大正にかけて整備されていったとみられる。建物は絞問屋の伝統的形態を踏襲している。

岡家住宅は江戸時代末期の重厚な有松の絞問屋の建築形態である。主屋は旧状をよく残し、2階窓の優美な縦格子をもち、有松における代表的な美しい外観を備えた塗籠造の建物である。


小塚家住宅は重厚広壮な有松の絞問屋の形態をよくとどめている。主屋の1階は格子窓、2階は塗籠壁、屋根両妻に卯建(うだつ)があり、塗籠造のうち最も古いものの1つと思われ、有松らしい家並みの景観上からも貴重な建物である。小塚家は、屋号を山形屋として明治期まで絞問屋を営んでいた。

西町の山車庫には「神功皇后車」と呼ばれる山車が格納されている。
神功皇后車は、明治6年(1873年)、西町が名古屋の大工の久七に発注して造ったもので、有松に現存する3台の山車のなかで最も古くから曳かれている。昭和48年(1973年)、名古屋市の文化財に指定された。

「あり松の 柳しぼりの 見世にこそ しはしと人の 立ちとまりけれ」
梅屋鶴寿の歌碑である。梅屋鶴寿は幕末の狂歌師で、享和元年(1801年)に江戸神田佐久間町に生まれ、株を商い、尾州家の御用を勤めていた。元治元年(1864年)に63歳で亡くなった。
有松一里塚を見つけた。

有松一里塚は江戸から87里(約348km)を示す一里塚だったが、大正13年(1924年)に払い下げられたときになくなってしまった。しかし歴史ある有松の地の発展を願う地元の熱意によって平成24年(2012年)に復元された。
名鉄名古屋本線の踏切を境に、有松の町並みは終わる。あとは鳴海駅をひたすらに目指す。
平部北交差点に平部町常夜灯を見つけた。

表に「秋葉大権現」右に「宿中為安全」左に「永代常夜灯」裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれている。
文化3年(1806年)に設置されたもので、旅人の目印や宿場内並びに宿の安全と火災厄除などを秋葉社(火防神)に祈願した。

紫雲山金剛寺は宝暦10年(1760年)に瑞泉寺20世の呑舟和尚が創建した。本尊は行者菩薩像で、そのことから行者堂と言われた。
昭和17年(1942年)に瑞泉寺三十一世道本和尚が寺号開山となり、本尊の行者菩薩の金剛杖や「金剛般若経」と縁深いところから紫雲山金剛寺と改称した。

鳴海根古屋城主 安原宗範(やすはらむねのり)が応永3年(1396年)に創建したと伝えられ、大徹宗令禅師を開山とする。初め瑞松寺といった。
その後兵火により焼失したが、文亀元年(1503年)に現在地に移り、のちに寺号を瑞泉寺と改めた。
20世の呑舟は中興の祖とされ、鳴海の豪族下郷弥兵衛の援助により、宝暦年間(1751~1759年)に伽藍が再興された。
宝暦6年(1756年)に建立した総門は、宇治市の黄檗宗万福寺総門を模した中国風の形式の門で、愛知県の有形文化財に指定されている。

千代倉歴史館前の交差点を左折し、鳴海駅へ向かう。

次回は、鳴海駅から熱田神宮伝馬町駅まで歩く予定である。





歩いた日:2024年4月28日
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【参考文献・参考サイト】
愛知県高等学校郷土史研究会(2016)「愛知県の歴史散歩 下 三河」 山川出版社
風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第11集」
愛知県高等学校郷土史研究会(2020)「愛知県の歴史散歩 上 尾張」 山川出版社
藤田屋 大あんまきの歴史
http://www.anmaki.jp/oanmaki/history/
刈谷市 市勢情報
https://www.city.kariya.lg.jp/shisei/profile/1004361.html
国土地理院 基準点成果等閲覧サービス
https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html
https://www.city.toyoake.lg.jp/2402.htm
ベネッセ教育情報 桶狭間の戦いとは? 戦いが起こった要因や、織田軍圧勝の理由を紹介
https://benesse.jp/contents/history/okehazamanotatakai/
(2024年6月2日最終閲覧)