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うさぎの気まぐれまちあるき「新宿DeepZone&歴史探訪(第二回)」

 「お写ん歩書房」の石井建志さんにお誘いいただき、「新宿DeepZone&歴史探訪(第二回)」に参加してきた。

 ちなみに本橋先生とのまちあるきは渋谷、新宿、上野に続いて4回目である。過去のまちあるきはこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

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 また、以前掲載した記事「新宿DeepZone&歴史探訪」と内容が重複している部分があるので、そちらも参照していただきたい。

1.本橋先生と石井さんのトークイベント

 まちあるき前にTIME SHARING に集合し、参加費を払い、レジュメを受け取って待つ。しばらく待っていたらトークイベントが始まった。

 まず本橋先生と担当の勝浦さんの紹介、続いて石井さんと松本さんの紹介から始まった。

 そしてまちあるきの説明。まちあるきの内容は、石井さんパートと本橋先生パートがあり、特に本橋先生パートは前回とは違う内容、ということで期待を抱いた。

 石井さんの新宿の歴史に関する解説が始まった。こちらについては、あとでまちあるきパートで解説したいと思う。

 本橋先生のパートになり、本日イベントに参加する中村京子さんの紹介があった。中村さんはかつて「Dカップ京子」の異名をもって活躍していたヌードモデルだったが、現在は「中村酒店」というスナックを経営している。

 今日のメインテーマ「歌舞伎町アンダーグラウンド」の話題になり、「そこで出てくる「オレたちひょうきん族」の「懺悔の神様」って知ってる?」と石井さんに聞かれたので「オレたちひょうきん族は私が生まれる前に放送終了しているので(平成元年(1989年)放送終了)、本を読むまで知りませんでした」と答えた。

 本橋先生は「今回のまちあるきは「未解決事件」のスポットを中心的にめぐろうと思う」と話す。例えば、新宿歌舞伎町ディスコナンパ殺傷事件。これは昭和57年(1982年)に千葉県千葉市で2人の女子中学生が何者かに殺傷された強盗殺人事件だ。

 令和5年(2023年)8月に発売された本橋先生の新作「僕とジャニーズ」の話題に移る。これは、少し前にジャニー喜多川の性加害がニュースで話題になったが、本橋先生が以前ゴーストライターとして書いた「光GENJIへ」での北公次さんへの取材をもとにして書いた本である。北公次さんもジャニー喜多川の性加害の被害者だったが、平成24年(2012年)に63歳で亡くなっているので今回の報道で取材されたものではない。

 そしてジャニー喜多川性加害問題の被害者の話を聞く仕事をしている、という参加者の方の意見があったが、これは北公次さんが受けた性加害と同じだった、という。ジャニー喜多川は自分より若ければどの世代にも、同じ性加害をしていた、ということである。立場を利用したセクハラである。

 本橋先生と高校の同級生だった入子優さんが、この前の川越高校の同窓会について語った。そして同級生で元テレビアナウンサーの辛坊治郎さんの話題が出た。そういえば、私は対となる川越女子高校の卒業生だが、クラスメイトは誰も連絡先を知らないので私に同窓会の誘いをかけるとしたら実家に手紙を送るしかないと思うのだが、実家に手紙が来ていたりするのだろうか(多分、来ていないと思う)。

 最後に、石井さんの新刊の同人誌の宣伝があった。これは上野、川越、日光の同人誌で、この3都市の共通項は、上野寛永寺開山の天海僧正が関わっていることである。これもあとで買って、今読んでいるところだ。

 

2.新宿追分

 石井さんのまちあるきが始まった。まずは新宿伊勢丹に残る段差を見る。

 明治19年(1886年)に神田明神下の旅籠町に呉服屋として誕生したのが伊勢丹である。

 昭和8年(1933年)、神田の店舗をたたみ、現在の場所に新店舗を構えたが、当時その地にあったのが「ほてい屋百貨店」だった。伊勢丹はほてい屋とそっくりの建物を、ぴったりと隣接させて建築した。競争意識丸出しである。

 両者は約2年間、熾烈な競争を繰り広げたが、昭和10年(1935年)、伊勢丹がほてい屋を買収した。翌年建物を一体化するが、つなぎ目を確認することができる。

 

 「職業、お姫様」という派手なトラックが通り過ぎ、新宿にいることを実感する。

 

 伊勢丹の向かい側に、「追分」がある。

「新宿元標ここが追分」

 ここは青梅街道と甲州街道の分岐点で、名物として「追分だんご」がある。

 ここで新宿の歴史について説明したい。

 慶長8年(1603年)、日本橋を起点として五街道が定められた。五街道とは東海道中山道日光街道奥州街道甲州街道である。

 このうち甲州街道日本橋から甲府を通過して、中山道の下諏訪まで繋がっていた。甲州街道日本橋から最初の宿場の高井戸までの距離が長いということで、元禄12年(1699年)に途中の宿場の設置が認められた。

 この宿場は、内藤氏が幕府に返上した敷地に置かれたことと、新しい宿の意味から「内藤新宿」と名づけられた。新宿の始まりである。

 色街の風紀の問題があり享保3年(1718年)に一度廃止されるが、再興の願いもあり明和9年(1772年)に新宿は再興された。

 このとき、飯盛女(客に給仕をするという名目で置かれた遊女)は150人までと定められた。これが現在の盛り場の原点で、戦後も昭和33年(1958年)まで赤線地帯があった。

 

 「追分」の近くに「追分だんご」の店を見つけたが、イベント中ということとそもそも混んでいたので通り過ぎた。機会があれば食べてみたい。

「追分だんご」

3.赤線地帯

 末広通りを歩く。ここは戦前の赤線地帯だ。赤線地帯とは、昭和33年(1958年)に売春防止法が施行されるまで、売春が合法だった地帯である。

末広通り

 

 「もじゃハウス(樹木に覆われた建物)」を見つけた。ここは「Barどん底」という店で、美川憲一が一時期通っていたこともあるバーだ。

Barどん底

 「角海老」のあるあたりに、明治43年(1910年)から大正3年(1914年)までの4年間、芥川龍之介が住んでいたらしい。

角海老

 新千鳥街のディープな一角を通る。

新千鳥街

 千鳥街のあたりは世界最大のゲイタウンとして有名だが、千鳥街は元からゲイタウンだったわけではなく、一般の飲み屋が中心だった。

 道路開通による区画整理により移転を余儀なくされ、1960年代に「新千鳥街」に移転してきた。

 このあたりも昭和33年(1958年)まで赤線地帯で、そこに飲み屋が集まってきて、その後ゲイバーの比率が高まった…らしい。

 

 「毒」という看板の店があるが「中島みゆきBar」で、中島みゆきの歌「毒をんな」にちなんだ店名らしい。

「毒」

 

 新千鳥街のそばにあるゲイバー「九州男」店主の増田さんと「クィーン」ボーカル、フレディ・マーキュリーは仲が良かったらしく、ホテルの同じ部屋に泊まったこともあるらしい。まあつまり、そういうことだろう。

「九州男」

 ゲイバーの一角を通る。1人だと通る勇気、ないなぁ。

 

4.太宗寺

 ゲイバーの一角を抜けると、太宗寺にたどり着いた。

太宗寺

 太宗寺は慶長元年(1596年)に建てられた浄土宗の寺院である。

 太宗寺には「江戸六地蔵」のひとつである「銅造地蔵菩薩坐像」がある。

 江戸六地蔵とは、江戸時代の前期に江戸の出入口6ヶ所に造立されたお地蔵さんである。

 深川の地蔵坊正元(じぞうぼうしょうげん)が発願し、江戸市中から多くの寄進者を得て造立した。

 太宗寺のお地蔵さんは正徳2年(1712年)に「江戸六地蔵」の3番目として造立され、製作者は太田駿河守正儀である。

 江戸六地蔵品川寺(品川区南品川、東海道)、東禅寺(台東区東浅草、日光街道)、太宗寺(新宿区新宿、甲州街道)、真性寺(豊島区巣鴨中山道)、霊巌寺(江東区白河、水戸街道)、永代寺(江東区富岡、千葉街道)に設置された。このうち永代寺のお地蔵さんのみ取り壊されてしまったが、それ以外は残っている。

 

 太宗寺には閻魔様と奪衣婆像がいる。

閻魔様

 この閻魔様には「つけひも閻魔」という異名がある。これにはこのようなお話がある。

 ある日乳母が太宗寺の境内で子守をしていると、子供が泣き始め、あまりに泣き止まなかったので「そんなに悪い子だと閻魔様に食べられてしまうよ」と言ったら子供は泣き止んだ。

 そのとき乳母が背中を見ると、おぶっていた子供が消えていた。閻魔様の口からおんぶ紐がぶら下がっていたため、子供は閻魔様に食べられてしまった、というお話だ。

 実際は閻魔様に食べられたのではなく、さらわれてしまったのだろう、と思う。

 

 奪衣婆像はうまく写真を撮ることができなかった。

奪衣婆像

 なお、奪衣婆は死者の衣を剥ぐ役割を担っていたことから、内藤新宿の妓楼の商売神として信仰されていたようだ。「衣を剥ぐ」「妓楼」…まあそういうことだ。

 

 太宗寺には切支丹(きりしたん)灯籠もある。

切支丹灯籠

 切支丹灯籠は内藤家墓所から出土した。切支丹灯籠とは、江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れキリシタンがひそかに礼拝したとされるものである。つまり内藤家はキリシタンだった、ということになる。

 

 太宗寺は新宿山ノ手七福神布袋尊も祀られている。新宿山ノ手七福神は新宿区内の7つの寺社を巡る七福神巡りだ。いつかやってみたい。

布袋尊が祀られているお堂

 この塩かけ地蔵の塩をもらって帰り、おできに塩をぬりこむことでおできが治るらしい。痛そうだが、今度ニキビができたら塗ってみようと思う。

塩かけ地蔵

 塩かけ地蔵の前にある灯籠のなかに小さい猫がいた。かわいい。

 

5.花園神社

 太宗寺を出て、正受院に向かう。正受院は浄土宗の寺院で、文禄3年(1594年)の創建。

 ここの奪衣婆は泥棒を霊力で止めたとか、奉納された綿についた火を消したとかいう逸話があり、一時は寺社奉行の取り締まりを受けたり、年2回しか開帳しないと決められたほどの人気があったらしい。今はいつでも参拝できる。

正受院の奪衣婆のお堂

 正受院には「平和の鐘」がある。この鐘は太平洋戦争中に金属類回収で回収されたものの、戦後にアメリカで発見され、正受院に返還された鐘である。この鐘をつき、平和を祈ることができる。

平和の鐘

 

 正受院の隣にある寺院が成覚寺で、文禄3年(1594年)に創建された。

 成覚寺には子供合埋碑がある。子供とは遊女のことで、内藤新宿で働く遊女たちは過酷な仕事で病死したり、客との恋仲で無理心中させられたりして命を落とすことが多く、死んだらここに投げ込むように葬られた。この子供合埋碑にも1,600人もの遊女の霊が眠っているという。そっと手を合わせた。

子供合埋碑

 成覚寺にある旭地蔵も遊女たちの悲惨な歴史を物語る遺跡である。

旭地蔵

 旭地蔵には18人の戒名が刻まれていて、うち7組は玉川上水で心中した内藤新宿の遊女と客といわれている。

 もとは玉川上水沿いにあったが、明治12年(1879年)に成覚寺に移されたという。そっと手を合わせた。

 

 ここから花園神社に向かうのだが、その途中にある伊勢丹メンズ館は以前ストリップ劇場だったらしい。

伊勢丹メンズ館

 

 花園神社に参拝する。

花園神社

 花園神社は大和国吉野山より勧請した稲荷社で、現在地に移転したのは寛政年間(1789~1801年)のことである。移転先が美しい花が咲き乱れる場所であったことから「花園稲荷神社」と呼ばれるようになった。

 

 境内には成徳稲荷神社がある。夫婦和合、子授け、縁結びや恋愛成就にご利益があるそうだが、そんなことよりも扁額の裏や本殿の裏にある男性のシンボルが気になる。

成徳稲荷神社

 

 境内には芸能浅間神社もあり、芸能のご利益を受けるために参拝する芸能人も多いらしい。

芸能浅間神社

 藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑もある。

「圭子の夢は夜ひらく」

 宇多田ヒカルの母でもある藤圭子は「新宿の女」という曲でデビューしたが、平成25年(2013年)に亡くなっている。

 

 ここで石井さんから本橋先生にバトンタッチした。

 まず本橋先生から紹介されたのがこの飛行機の額。

 

 これは昭和27年(1952年)に奉納された額で、当時の飛行機旅行は神社に額を奉納するほどの行事だったことがわかる。

 乗客が乗った飛行機は「もくせい号」というのだが、これとは別の便で伊豆大島で墜落事故を起こし、乗客・乗務員37人全員が亡くなる事故を起こしている。

6.中村酒店・新宿スポーツジム

 新宿ゴールデン街に入る。

新宿ゴールデン街

 新宿ゴールデン街に「中村酒店」というバーがある。今回はバーのママ、中村京子さんも同行していたため、特別に中も見せていただいた。

中村酒店

 中村京子さんは「歌舞伎町アンダーグラウンド」129ページから登場する。

 中村酒店の店主、中村京子さんは「Dカップ京子」の異名を持ち、80年代「平凡パンチ」をはじめとして数多くの雑誌グラビアのヌードモデルとして活躍していたようだ。

 

 新宿ゴールデン街には「四季の道」という遊歩道がある。そこは都電角筈線の跡である。

都電角筈線跡

 テルマー湯というスパの前に来た。ここは一度行ってみたいと思っていたのだが、本橋先生曰くホストやキャバ嬢が出勤前にここによく来るらしい。

テルマー湯

 写真は差し控えるが、新宿歌舞伎町ラブホテル連続殺人事件の現場前も通った。この事件は昭和56年(1981年)3月から6月にかけて、新宿歌舞伎町2丁目のそれぞれ別のラブホテルで3人の女性が殺害された事件である。

 いずれも未解決のまま、平成8年(1996年)に時効となったようだ。

 

 新宿スポーツジムに入る。ここは「歌舞伎町アンダーグラウンド」165ページから登場するRIKIYAさんが経営するスポーツジムだ。

新宿スポーツジム

 私は運動はからっきしなので、ボクシングジムに入るのは初めてだった。

 我々が入ると、RIKIYAさんが笑顔で出迎えてくれた。

 RIKIYAさんは昭和45年(1970年)、北海道札幌市生まれ。高校時代からバンドに打ち込み、その後上京。

 バンド解散後はキックボクシング選手として活躍後、飲み屋経営を経て、現在のキックボクシングジムの経営を始めたのだそうだ。

 

 キックボクシングの指導の傍ら、外国人を対象とした忍者体験も行っているようだ。やはり外国人に「ニンジャ」はウケるのだろうか。

 

 ボクシングジムの傍らに、「歌舞伎町アンダーグラウンド」が置いてあるのを見つけた。

 

7.事件現場をめぐる

 ヤクザマンション前を通り、クラブヴィーナス事件の現場に到着した。

 平成13年(2001年)8月16日午前2時過ぎ、歌舞伎町のクラブ「ヴィーナス」に男5人が押し入り、店長の腹を刃物で刺して死亡させ、客やホステス12人を拘束し、現金や貴金属を奪って逃走した事件が「クラブヴィーナス事件」である。犯人は現在も国外逃亡中で指名手配されているようだ。

 

 ここは「歌舞伎町アンダーグラウンド」210ページから登場するキャバ嬢の黒宮ちはやさんが勤めるお店だ。本橋先生曰く、指名料はすごく高いらしい。

 

 ここは「パリジェンヌ事件」が起きた喫茶店、パリジェンヌだ。

 パリジェンヌ事件とは、平成14年(2002年)9月27日に喫茶店「パリジェンヌ」で住吉会系の暴力団員がチャイニーズマフィアに射殺された事件である。

 

 パリジェンヌが入っている「風林会館」は台湾華僑が経営しているビルである。

風林会館

 

 「モッツマン新宿本店」などのあるビルだが、ここはかつて屋台村があったようだ。屋台村とは屋台型の店舗が集まった場所のことをいう。

 

 写真は載せないが、歌舞伎町タワー近くのカラオケ店で平成31年(2019年)1月に韓国籍の男性が住吉会系の元暴力団に射殺された事件があり、その現場跡を通過した。ほかの事件より最近の事件なので少し怖い。

 

 COCO Chicken&Ribs。ここは韓国料理店だが、元事件現場である。

 平成13年(2001年)9月1日未明、歌舞伎町一番街の雑居ビル、明星56ビルから出火し、麻雀ゲーム店「一休」、4階の飲食店「スーパールーズ」の従業員と客、44人の犠牲者を出す大惨事となったが、未だに犯人は捕まっていない。

 令和元年(2019年)に起こった京都アニメーション放火殺人事件をはじめ、火事はいつどこで起こるかわからないだけに怖い事件だと思う。

 

 SUZUYAビル前に来た。

ここの5階に「すずや」という飲食店があり、ここはとんかつ茶漬けを提供するお店なのだが、そこの初代オーナー、鈴木喜兵衛は歌舞伎町というまちを作った人物である。喜兵衛はもう亡くなっており、喜兵衛の子孫が今も「すずや」を経営しているようだ。なお、喜兵衛は歌舞伎町の始祖の存在であるため、この通りだけはぼったくりがいないらしい。いつか食べに行きたい。

 

 ここは大蔵省接待汚職事件の現場である。

 大蔵省の職員らが銀行から接待を受けた際に、中国人女性が経営する風俗系しゃぶしゃぶ店「楼蘭(ろうらん)」を使用しており、その楼蘭があった場所がここである。

 

 東亜会館に着いた。

東亜会館

 東亜会館は新宿歌舞伎町ディスコナンパ殺傷事件の現場となったディスコのあった場所である。

 これは昭和57年(1982年)6月6日、2人の女子中学生が何者かに殺傷された強盗殺人事件で、1名は死亡、もう1名は軽傷で保護された。犯人が検挙されないまま時効となっている。

 2人の中学生が歌舞伎町のディスコで遊んでいたときに見知らぬ男に声をかけられ、そのまま「ドライブ」と称して車で連れていかれ、殺傷された。

 知らない人の車に乗らないように、とは今では常識だが、当時は違ったのだろうか。

 

 歌舞伎町タワー前に昔は噴水があったらしい。

 ここに大学生時代の本橋先生が飛び込み、なかに入っていたウイスキーボトルが足に刺さり、怪我をしたエピソードを話してくれた。そんな噴水も今はない。(「歌舞伎町アンダーグラウンド」84ページ)

 ちなみに歌舞伎町タワーは川のしぶきをイメージしてデザインされているようだ。

 

 大久保公園前を通る。今日もたちんぼと呼ばれる、フリーランスの娼婦が立っていた。

 

 今日の懇親会会場は台湾料理「青葉」。

 「青葉」およびオーナーの渡辺さんは「歌舞伎町アンダーグラウンド」149ページから登場する。歌舞伎町には中華料理屋や台湾料理が多いらしい。それは終戦後に在日中国人や台湾人がここで商売を始めたからである。ちなみに渡辺さんの出身は茨城県である。

 懇親会は、まずビールから。歩いた後のビールは美味しい。

 台湾料理は初めていただいたが、どれも美味しかったので機会があればまた行ってみたい。

 

 このあと有志で2次会に行ったが、青い明かりと照明の暗さのため、あまり写真が撮れなかった。これはカシスオレンジだった気がする。

 

 まず石井さんとのまちあるきで新宿の歴史を感じる。内藤新宿は繁華街だったが、裏に遊女の悲惨な歴史があることを知った。その後の本橋先生とのまちあるきで改めて歌舞伎町は事件の多いまちであることを知る。昼間は頑張ればなんとか、と思うがやはり夜一人で歩くのは危険だなと感じた。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

【参考文献・参考サイト】

新宿の歴史を語る会(1977) 「新宿区の歴史」 名著出版

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

石井建志(2023) 「あなたも知らない「新宿の今昔物語」」

本橋信宏(2023) 「歌舞伎町アンダーグラウンド」 駒草出版