「お写ん歩書房」の石井建志さんにお誘いいただき、「江戸の水脈地形探訪」に参加してきた。
江戸城。今の皇居は、基準点インフラツーリズムで几号水準点巡りで来たことはあったが、江戸城自体を見たことはあまりなかったので、勉強になった。
1.真田濠
今日は12時半に四ッ谷駅に集合した。四ッ谷駅でレジュメとTOKYO千代田区観光マップをいただいた。
まず、四ッ谷駅にある「江戸城外堀史跡展示広場―外堀と鉄道―」を見た。
四ッ谷駅は、史跡「江戸城外堀跡」の範囲に建築されており、史跡に配慮して駅の工事を行うとともに史跡を紹介していく取り組みを行っている。これはその取り組みのひとつで、①四ッ谷駅周辺の史跡案内 ②江戸城外堀と鉄道の歴史のパネルが展示されているほか、甲武鉄道のシンボル「甲(かぶと)」レプリカが展示されている。今回はじっくり見ている時間はなかったが、またじっくり見に行きたい。
麹町口から外に出て右折、南に進む。千代田区の公共基準点を見つけた。
中心に千代田区章がデザインされている。
千代田区章は円の中に「千代田」の「千」を鶴の飛ぶ姿にかたどり、さらにこれをひらがなの「よ」に似せ全体を「田」と読んで千代田を表しているらしい。昭和25年(1950年)制定。
南に向かって歩いていき、右側を見ると上智大学真田堀運動場が見える。ここは江戸城の真田濠の跡である。
現在の上智大学校舎は、尾張徳川家の中屋敷跡である。上智大学のグラウンドは外濠の埋立地で、大規模な土塁に囲まれている。真田家が掘ったことから真田濠とも呼ばれるこの濠は、上幅約120m、深さは四谷側で約18m、喰違土橋側で約15mある。ショベルカーなどがない時代に、よくここまでの濠を作ったものだと、感心する。
真田濠を眺めていると、丸の内線の赤い電車が通っていった。
2.ホテルニューオータニ
紀尾井坂との交差点に、喰違木戸跡(くいちがいきどあと)がある。
喰違木戸は、慶長17年(1612年)に旧武田家臣の小幡景憲(おばたかげのり)によって縄張りされたと伝えられる。
通常、江戸城の城門は、枡形門と呼ばれる石垣を巡らした形だが、ここは土塁を前後に延ばして直進を阻むという、戦国期以来の古い形態の虎口(こぐち)(城の出入口)構造となり、門ではなく木戸が設けられていた。
喰違木戸から少し戻り、また南に進むとホテルニューオータニの敷地に入る。ここは近江彦根藩井伊家屋敷跡である。
ホテルニューオータニの敷地には江戸時代、近江彦根藩井伊家の麹町邸があり、井伊家は外桜田にあった永田町邸(国会前庭一帯)を上屋敷として使用していたため、ここは中屋敷として使われた。
井伊家は譜代大名の筆頭であり、大老職にも任じられる名家で、特に有名なのは井伊直弼である。
ホテルニューオータニには大谷米太郎の銅像がある。
大谷米太郎は明治14年(1881年)に富山県で生まれた実業家で、昭和39年(1964年)に東京オリンピック開催により国家の要請に応えてホテルニューオータニを建設した。
ホテルニューオータニの日本庭園を見る。
加藤清正公の下屋敷や井伊家の庭園として400年余りの歴史を有し、江戸城外堀に囲まれた約1万坪の広大な日本庭園である。
日本庭園には赤い石がある。
これは佐渡島の金山から運ばれた高価な庭石で、赤褐色の独特色彩から赤玉石と呼ばれている。庭園にある一番大きな赤玉石は重量22トンもあり、これは日本一の大きさといわれている。
ホテルニューオータニを背景に、滝が流れる。いつか泊まってみたいなあ。
3.清水谷公園
ホテルニューオータニをあとにして、紀尾井町通りに出て、北に進むと右手側に千代田区立清水谷公園がある。
このあたりは、江戸時代の紀伊家、井伊家の屋敷境にあたり、この境が谷であったことと、紀伊家屋敷内に霊水(清水)が湧き出ていたことから、清水谷と呼ばれていた。「清水谷公園」の名は、この地名から名づけられた。
清水谷公園は大久保利通遭難記念敷地一帯が、贈右大臣大久保公哀悼碑建設発起人から東京市に寄贈され、明治23年(1890年)に開園した。
贈右大臣大久保公哀悼碑は、公園の奥のほうにある。
贈右大臣大久保公哀悼碑は、明治11年(1878年)に暗殺された大久保利通をしのんで明治21年(1888年)に建立された碑である。
大久保利通は薩摩藩出の政治家で、明治維新後は版籍奉還や廃藩置県などを主導し、初代内務卿に就任した。
西南戦争の終結後、一部の士族らが大久保の政策に反発し、明治11年(1878年)5月14日朝、麹町清水谷において、赤坂仮皇居内の太政官に出仕する途中の馬車を襲い暗殺した。この事件は「紀尾井坂の変」と呼ばれている。
安倍元総理大臣殺害事件もあったとおり、大きな力を持つ政治家でも呆気なく殺されてしまうこともある。そっと手を合わせた。
贈右大臣大久保公哀悼碑の隣には、玉川上水の石枡がある。
この石枡は、昭和45年(1970年)に国道20号線(麹町大通り)の共同溝拡幅工事の際に麹町3丁目2番地先で発見された玉川上水施設の一部である。
玉川上水は、4代将軍徳川家綱の命で承応2年(1653年)に着工し、翌年に竣工した。取水地は羽村の多摩川上流で、四谷大木戸に至る約43kmを開渠で導水し、江戸市中へは石樋や木樋による暗渠で配水していた。
この石枡は江戸市中における本管の一部で、地中深く4段に積んだ大規模な構造を持っていた。
清水谷公園のあたりは「紀尾井町」と呼ばれている。江戸時代初期から、この界隈には大名屋敷が置かれていた。安政3年(1856年)の絵図にも見られるとおり、紀伊和歌山藩徳川家中屋敷、尾張名古屋藩徳川家中屋敷、近江彦根藩井伊家中屋敷があった。紀尾井町の名前は、「紀」伊徳川・「尾」張徳川・彦根「井」伊の3家よりそれぞれ一字ずつ取って名づけられたものである。
4.千代田稲荷神社
紀尾井坂を横切り、坂を上る。1つめの交差点で右折して、国道20号線を越える。現在の甲州街道である。
そのまま進むと、左手側に小さな神社がある。千代田稲荷神社だ。
千代田稲荷神社は江戸時代に住んでいた旗本、富田家の屋敷神であった富田稲荷が前身であると伝えられている。
空襲による社殿の焼失後、昭和24年(1949年)に京都伏見稲荷大社より御神体を勧請して宝形造りの社殿を建立、「千代田稲荷神社」と命名された。
ちなみに、「千代田稲荷神社」だけで検索すると、渋谷道玄坂の「千代田稲荷神社」がヒットしてくる。これについては、「うさぎの気まぐれまちあるき 渋谷の凸凹地形体験の集い(第2回)」で訪れている。
そのまま道なりに歩いていく。途中、永井坂などを横切っていく。すると、この道が谷の底になっていることに気づく。
駐日英国大使館の壁に「A」と書かれたガムテープが貼られており、これは何を意味しているのだろう、と参加者の方と話しながら歩いていく。
5.江戸城に入る
そのまま歩いていくと、千鳥ヶ淵に出る。
北の丸の西側、田安門から半蔵門まで続く濠が千鳥ヶ淵である。千鳥ヶ淵交差点を境に千鳥ヶ淵から半蔵濠と濠は名称を変えるが、半蔵濠という名称は江戸時代にはなかった。
千鳥ヶ淵は、番町地区の大小3つの谷を水源に、乾濠・蓮池濠・蛤濠を経て、日比谷入江に流れ込んでいた川の、代官町の谷を埋めてつくったダム様の濠である。
南は半蔵門の土橋で仕切られ、北の田安門の土橋の水の落とし口から牛ヶ淵にあふれた水を流して、水位調節がはかられていた。ここの水深は16mと内濠中もっとも深く、濠幅も最大部分160mに達している。
現在の皇居は、江戸時代の江戸城である。
江戸城は、12世紀のはじめ、桓武平氏秩父流の江戸重継が居館を構えたことにはじまる。その後、長禄元年(1457年)関東管領 扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)の家宰 太田道灌(おおたどうかん)が古河公方 足利成氏(あしかがしげうじ)に備えるため、関東屈指の堅城とうたわれた本格的な城郭を築いた。
道灌が上杉氏に謀殺されると上杉氏の所有となるが、大永4年(1524年)小田原の北条氏綱に攻略され、以後、後北条氏の支城となり遠山氏が城代として守備した。
天正18年(1590年)豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと、徳川家康がその旧領をあたえられ、江戸を領国経営の拠点とした。
さらに、慶長8年(1603年)家康が江戸に幕府を開いて天下の覇権を握ると、全国の諸大名へ天守閣・殿舎・濠・石垣などの築城工事が御手伝普請として課されていった。その結果、寛永13年(1636年)、江戸城の総構は完成した。
明治元年(1868年)4月江戸城は無血開城し、10月明治天皇は江戸城西の丸にはいった。
江戸城跡は、昭和38年(1963年)国の特別史跡に指定されているが、城内の殿舎は、たびたびの火災でほとんど焼失し、幕府時代の建造物は、富士見櫓、伏見櫓、巽櫓と、桜田門、田安門、清水門など少数の城門を残すのみである。
千鳥ヶ淵から東に進み、代官町通りをそのまま進むと、左手側に旧近衛師団司令部庁舎がある。
明治43年(1910年)に竣工した「旧近衛師団司令部庁舎」は、当時の陸軍技師で、ほかにも多くの軍事関連施設を手がけていた田村鎭(たむらやすし)が設計を担当した。もとはその名の通り近衛師団司令部として使われ、北の丸地区の中央に建設された。
赤レンガ造りの2階建てでスレート葺きの屋根、中央部に八角塔屋をもつ簡素なゴシック風の様式を整えている。明治時代の洋風建築の一典型で、官公庁建築の貴重な遺構である。
そのまま進むと、乾門(いぬいもん)がある。
乾門は、明治21年(1888年)明治宮殿造営の際、皇居の通用門として新設された門で、西の丸裏門を移築したものである。本柱の後方に控柱2本をたて、切妻破風造の屋根をもつ薬医門形式で、移築の際に左右両袖を増築した。皇居の乾(北西)の方角にあたることから乾門と名づけられた。
江戸時代、この場所には主に将軍が物事を見物する「上覧所」と呼ばれる施設があった。旗本たちが日ごろの武芸鍛錬の成果を将軍に披露したり、「天下祭」と呼ばれる山王社(現在の日枝神社)と神田明神(神田神社)の祭礼行列もここに立ち寄ったという。
さっきから、ランナーが私の前から後ろに通り過ぎていく。皇居ランナーたちだ。ただ、前から後ろに通り過ぎていくことはあっても、後ろから前に通り過ぎるランナーはいない。どうやら、反時計回りに走ることがマナーになっているらしい。知らなかった。
平河濠の向こうに、北桔橋門(きたはねばしもん)が見える。
門の名は、本丸北端に位置し、有事に備えてはね上がる構造の橋があったことに由来する。ここは、皇居東御苑の北側の入口であるため、私も何度か入ったことがある。
その先に、竹橋御門がある。
竹橋御門は、旧江戸城内曲輪(きゅうえどじょううちくるわ)15門のひとつで天正18年(1573年)、徳川家康江戸入国の頃、「竹を編みて渡されしよりの名なり」と、その由来が伝えられているが、ほかにも諸説あり、竹橋の架設時期と併せ、いずれも定かではない。
江戸時代の竹橋は幅約8.2m(4間3尺)の木橋で、大手前曲輪と北の丸とを連結しており、現在のコンクリート橋より南側にあった。
竹橋御門といえば、几号水準点(きごうすいじゅんてん)がある。
几号水準点とは、明治初期に高低測量を行うために設けた基準となる基準点である。皇居周辺だけでも5ヶ所、千代田区内11ヶ所に残存している。これについては同人誌「地理交流広場 第2号」に掲載されている「几号点を訪ねて―千代田区編」で随筆を書いている。興味のある人は見ていただけると嬉しい。
そのまま歩いていくと太田道灌公追慕之碑がある。これは太田道灌公没後450年を記念して昭和11年(1936年)に建立された。刻みが薄いからなのか、だいぶ読みにくい。
太田道灌とは、室町中期の武将で歌人である。長禄元年(1457年)、ここに江戸城を築く。文武両道に優れ、30数戦して負け知らずの名将だったが、山内上杉氏の策謀により主君に暗殺された。
橋の向こうには、平川門が見える。
平川門は、江戸城内郭門のひとつである。徳川家康の入国以前から門の前を平川が流れ、これに沿って上・下の平川村があったので門の名称となったという。
城中の死者や罪人をこの門からだしたので不浄門ともよばれた。貞享元年(1684年)、若年寄稲葉正休に刺殺された大老堀田正俊の遺体や、元禄14年(1701年)切腹のため芝田村町の田村右京大夫邸に向かった浅野長矩、正徳4年(1714年)風紀紊乱(ふうきびんらん)の罪により、白無垢1枚にはだし姿で、信州の高遠へ配流された大奥年寄の絵島がだされたのはこの門からである。
なお、この門は御三卿の登城口でもあったという。
大正12年(1923年)の関東大震災でこの地域一帯は焼け野原になったが、このイチョウは奇跡的に生き残った。
しかし、帝都復興計画による区画整理事業で切り倒されることになってしまった。それを聞いた当時の中央気象台長の岡田武松が惜しみ、帝都復興局長官の清野長太郎に樹木の保存を申し入れたところ、長官もそれを理解して文部省の構内(現在のパレスサイドビル付近)からここに移植され、現在まで残っている。
和気清麻呂は、宇佐八幡宮の神託といつわって皇位につこうとした道鏡の野望を打ち砕いた忠臣とされる。皇居外苑の武臣楠木正成像に対し、昭和15年(1940年)、文臣の象徴として「皇紀2600年」記念に、陸軍大将林銑十郎らによって建立された。
内堀通りを南進し、大手町三井ホールのある交差点を左に折れるとすぐに、将門塚がある。
平将門は、伯父の平国香を殺し、下総・常陸で反乱をおこして関東を制覇した。新皇と称したが、天慶3年(940年)、国香の子・平貞盛や藤原秀郷に討たれた(承平・天慶の乱)。その将門の首塚がこの地にあったという伝承は、鎌倉時代末期には成立していたらしい。
粗末に扱うと呪われる、などとオカルトスポットとして有名な将門塚だが、そっと手を合わせておく分には何もしないだろう。
6.皇居外苑
次の交差点で右折し、和田倉橋が見えたら右に折れて和田倉橋を渡る。
和田倉橋は江戸城内にあった木橋のひとつで、擬宝珠(ぎぼし)も載せられていたらしい。現在残っているのは昭和49年(1974年)に改修された木橋風のコンクリート橋である。
和田倉橋を渡ると、和田倉門がある。
慶長7年(1602年)頃の絵図には、門内には「一の蔵」があり、この門が「蔵の御門」と記されていて、これが「和田倉門」の由来である。門の築造は、元和6年(1620年)仙台藩藩主伊達正宗などによって行われ、さらに寛永5年(1628年)に熊本藩藩主加藤忠広により改築された。
和田倉門と内堀通りの間には和田倉噴水公園がある。
和田倉噴水公園は、昭和36年(1961年)に上皇さま(平成の天皇陛下)の結婚を記念して創られた大噴水を、平成5年(1993年)の今上天皇(令和の天皇陛下)の結婚を機に、「継続と新たな発展」をテーマに再整備し、平成7年(1995年)に完成した。
和田倉噴水公園にはスターバックスコーヒーもある。
内堀通りを渡り、桔梗門を見る。途中で東京電力の古そうなマンホールを見つけた。
桔梗門がこちら。近づくことはできない。
大手門が諸大名や勅使が使う江戸城正門であるのに対し、桔梗門は旗本や商人たちが通行した通用門だった。屋根瓦にある太田道灌の家紋、桔梗絞が呼称の由来である。城門は関東大震災後に復元されている。
蛤濠に沿って進むと坂下門が見えてくる。
坂下門は、台地上の西の丸から平地の西の丸下にでるための坂下に位置していた。西の丸裏門へ出入りする門であったが、現在は宮内庁への通用門として使用されている。
幕末に、この門前に屋敷をあたえられていたのが安藤信正である。安藤は桜田門外で大老井伊直弼が暗殺されると、公武合体運動を推進して皇女和宮を14代将軍家茂の正室として迎えた。
しかし、これに憤慨した水戸浪士らに、文久2年(1862年)1月15日、登城しようと屋敷をでて坂下門外にさしかかったところを襲撃された。肩先に傷をうけた信正は、坂下門内に逃げ込んだ。これを坂下門外の変という。
濠に沿って進むと皇居正門と二重橋がある。
手前に見える橋が正門石橋、奥の橋が正門鉄橋である。正門鉄橋は、かつては木橋で、その下に橋桁を支えるもうひとつの橋があったため、二重に架けられた橋という意味で「二重橋」と呼ばれる。
正門石橋を渡ると皇居正門があり、皇居内に入る。あくまで皇居の正門であり、江戸城の正門ではない。
正門石橋と正門鉄橋が重なり、その奥に伏見櫓が見える皇居外苑からの眺めは皇居を象徴する景色である。
桜田門は、西の丸下曲輪の西南隅にあたり、かつ江戸城南口を防備する重要な関門であった。今の門は、寛文3年(1663年)に再建されたもので、大正12年(1923年)の関東大震災で破損し、修理されて現在に至っている。この門は、現在自由に出入りできる数少ない旧江戸城城門の1つである。
安政5年(1858年)大老に就任した井伊直弼は、勅許を得ないまま日米修好通商条約の調印にふみきるとともに、紀伊藩主徳川慶福(14代家茂)を将軍後継者に決定した。さらにこれらの決定に反対した尊皇攘夷派や一橋派の人々を厳しく処罰した(安政の大獄)。
この弾圧に憤激した水戸脱藩の志士たちは、万延元年(1860年)3月3日、登城のため外桜田の彦根藩上屋敷をでて桜田門外にさしかかった直弼の駕籠を襲撃、斬殺した。これが桜田門外の変である。
余談だが、桜田門にも几号水準点があり、これも「地理交流広場第2号 几号点を訪ねて―千代田区編―」で取り上げている。
7.日比谷公園
祝田橋を渡り、日比谷公園に入る。
日比谷公園は、明治36年(1903年)に開園されたドイツ式庭園である。
長州藩毛利家上屋敷・佐賀藩鍋島家の上屋敷の跡で、明治元年(1868年)の火災で焼失したのち、陸軍練兵場となっていた。日本最初の西洋式庭園である。
アーク灯を見つけた。
このアークライト灯は、開園当時の公園灯で、園内には10基設置され、1200カンデラの明るさがあったといわれている。現在は点灯しないのだろうか。
水飲みを見つけた。
この水飲みも、日比谷公園開園当時(明治36年(1903年))のものである。馬も水を飲めるような形に作られている。
江戸時代の上水施設である石枡も展示されていた。
日比谷公園は都立公園なので、都立公園のマンホールがある。
これは都の木「イチョウ」、都の花「ソメイヨシノ」、都の鳥「ユリカモメ」がデザインされている。
今度は松石を見つけた。
今から3~5千万年前の植物が、水底に運ばれ埋没されたあと、珪酸質の液がしみこんだものを珪化木という。
ここにあるものは、昭和初期、福岡県亀岡炭鉱の地下300mのところから長い木のまま発見された珪化木の一部である。一種の化石である。
旧日比谷公園事務所を見つけた。
旧日比谷公園事務所は、明治43年(1910年)11月に竣工したドイツのバンガロー風の瀟洒な建物である。平成2年(1990年)に東京都指定有形文化財に指定された。
慶長6年(1601年)、伊達政宗は徳川家康から江戸屋敷を与えられ、外桜田のここの屋敷は寛文元年(1661年)まで仙台藩上屋敷として使用された。
伊達政宗は江戸参勤のとき、寛永13年(1636年)に70歳で亡くなったようだ。
日比谷公園の有楽門の近くに心字池という池がある。
心字池は、日比谷公園ができる前は濠だった。濠の面影を残すために公園を造るときに池としたのが心字池で、全体を上から見ると「心」の字をくずした形をしている。
ちなみに、心字池のほとりにある「亀石」という石には几号水準点がある。これも「地理交流広場第2号 几号点を訪ねて―千代田区編―」で取り上げている。
日比谷公園にはもう1ヶ所几号水準点があって、それは南側、幸門付近にある「烏帽子石」にある。
心字池のほとりに、日比谷門跡がある。
日比谷門の名前は、中世のこの地域に日比谷村があったことに由来する。
慶長19年(1614年)に熊本藩藩主加藤忠広によって石垣が築造され、寛永5年(1628年)に仙台藩藩主伊達政宗によって門の石垣が構築された。
日比谷門は現在の日比谷交差点付近にあったが、明治6年(1873年)に撤去された。
日比谷公園を出て、有楽町駅まで歩いてくる。
有楽町駅西口の東京国際フォーラムに入る。近代的な建物だ。
太田道灌像は、ここに東京都庁があった昭和33年(1958年)、ここに設置され、長らく都庁のシンボルとして親しまれてきた。
都庁の移転後、ここが東京国際フォーラムとして新たに生まれ変わったことに伴い、平成8年(1996年)5月、ゆかりの深いここに再設置された。正面を向いていないのは、旧江戸城(皇居)を望んでいるからである。
ここでイベントは終了、有志で懇親会に向かった。
やはり歩いた後のビールは美味しい。
懇親会で食べた餃子が美味しかった。
ビールのおかわりを要求したら、なぜか1Lのビールが運ばれてきた。
なんとか東京駅まで歩いて戻り、池袋駅まで山手線に乗って帰ろうとしたら、酔っていたのか、起きたら品川駅にいた。無駄に1周回ってから池袋駅で降り、帰路についた。
私の職場は千代田区なので、毎日千代田区を訪れている。しかし、江戸城・皇居をあまり深く知ろうとはしてこなかったので、このイベントは大変勉強になった。私の知らない東京が、まだまだありそうだ。
歩いた日:2023年2月25日
【参考文献・参考サイト】
萩原さちこ(2017)「江戸城の全貌―世界的巨大城郭の秘密」 さくら舎
東京都歴史教育研究会(2020)「東京都の歴史散歩 上 下町」 山川出版社
JR東日本ニュース 四ッ谷駅に「江戸城外堀史跡展示広場―外堀と鉄道―」を開設します
https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200624_to01.pdf
千代田区 区の紋章
https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kuse/gaiyo/yokoso/monsho.html
ホテルニューオータニ 日本庭園
https://www.newotani.co.jp/tokyo/garden/
https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/243
https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/15
皇居外苑 和田倉噴水公園
https://fng.or.jp/koukyo/place/historical/ruins-gaien/wadakurafountainpark