「お写ん歩書房」の石井建志さんにお誘いいただき、「河越夜戦・上杉軍の陣地から最前線へ歩く」に参加してきた。「うさぎの気まぐれまちあるき 川越編」「うさぎの気まぐれまちあるき 川越の魅力をさらに発見する街歩き」でも川越に行っているため「また川越かよ!」と思う人もいるかもしれないが、むしろこの2つとの重複部分は終盤のみである。これらのリンクも載せておくので、併せて読んでいただければ幸いである。
1.広谷南城跡
今日は、若葉駅からスタートだ。ワカバウォークの脇を通り、ワカバウォークの角で右折する。そういえば、ワカバウォークは子供の頃、映画を見によく連れて行ってもらった記憶がある。もう何年行っていないだろう。今度、久しぶりにショッピングに行ってみようかな、と思った。
鶴ヶ島市立富士見中学校の角を左折する。この道、昔川島町に住んでいた母方の祖父に会いに、よく通っていたな。何年振りに通っただろう。その祖父も、実家への同居期間を経て、今は老人ホームに入っているから、もう何年も川島町に行っていない。
次の交差点を右折して、首都圏中央連絡自動車道の脇を通る。ひたすら首都圏中央連絡自動車道の脇を通っていると、川越市のカントリーサインを見つけた。
そんなに車通りの多くない道なのに、カントリーサインがあることを意外に感じるとともに、ここも川越市なのか、と驚いた。
川越市のカントリーサインの少し先に、森が見えた。広谷南城跡である。
広谷南城跡は埼玉県により発掘調査が行われ、1400年代に築かれたことが明らかになった。1400年代後半には山内、扇谷の両上杉氏による戦いが行われ、軍事上の要衝としてどちらかの軍が陣城として築いたのではないかと推定されている。
なお、広谷南城跡は私有地であるため、公的な案内板や案内サイトもない。堀を確認することはできたが、「堀の写真は私有地なのでSNS等にはアップしないでください」と講師の新津さんが言っていたため、掲載は自粛する。
2.大堀山館跡
そのまま、首都圏中央連絡自動車道の脇を通る。普通の民家に、「全家研 月刊ポピー」の看板がついていた。初めて見たので写真を撮ってしまった。
あとで調べてみたら家庭教育教材らしい。結構古そうな看板に見えたが、今も発行しているようだ。
下広谷在家公園を見つけた。遊具はない。ただの空き地だ。
交差点にお地蔵さんがあり、そっと手を合わせた。
お地蔵さんに挨拶してそのまま進むと、未舗装の森の中に入っていく。
そして森に入り、「この奥に堀があります。靴が大丈夫な方はぜひ見てください」と新津さんに言われたのでみんな森の中に入っていった。私も続いた。
堀は立派な堀だと思ったが、不法投棄のゴミがあったのが少し残念だ。
堀を確認したら、新津さんの解説が始まった。
ここは大堀山館跡である。大堀山館跡は今から500年くらい前の戦国時代に築かれた城跡である。一辺約200m、三重の堀と土塁で囲まれた方形を呈し、この種類の城跡としては埼玉県内で最大級の規模と良好な保存状態を誇っている。「良好な保存状態を誇っている」と説明板に書いてあった。保存状態は良好かもしれないが、不法投棄はどうなのか。
説明を終え、お地蔵さんの交差点に戻る途中に「不法投棄は法により罰せられます」の看板を見つけた。
ごみを捨てた人はこれを見て捨てたのだろうか(いや、見ていないと思う)。
3.やえがき公園
お地蔵さんの交差点で左折して、南に進む。道端に「ぱちんこ倶楽部」の看板を見つけた。
ラ○ホの看板みたいだなと思ってしまった。
途中で森を見つけた。
ここも城跡らしいが、調査されていないのか名前はないようだ。
なぜここに、長崎ちゃんぽんのお店があるのか?と思ってしまった。
ここで、10月に長崎に行ったときに食べた本場のちゃんぽんの写真を上げておく。
フォトジェニックなカントリーサインだ。ここ、東坂戸団地入口交差点で右折する。
坂戸町の境界標を見つけた。
坂戸市が市制施行したのが昭和51年(1976年)のことだから46年以上前に設置されたことになる境界標だ。
カーブを曲がり、川越市に再び入る。すぐに左折する。
小堤(北)交差点で昼食休憩となった。主催者の石井さんはリンガーハットで食事する予定だったようだが、30人以上いて全員入れなそうだったのでリンガーハットとガストに分かれて食事を取った。私はリンガーハットを選び、かきちゃんぽんと餃子を注文した。
思ったより提供に時間がかかり、急いで食べた。
小堤(北)交差点から再開する。少し東に進み、やえがき公園に寄る。
「八重垣」とは何重にも作られた柵のことを言う。この公園の場所は地形高低差のへりにあり、防御しやすい地形になっている。ここに、戦で使用された柵があった、ということなのだろうか。調べてみたが、何も出てこなかった。
4.鎌倉街道・メルト
小堤(北)交差点に戻り、左折、南へ進む。しばらく進むと左手側に川越市民の森第1号が見えてくる。その森の中に、小道がある。この小道が、鎌倉街道上道である。
この道は、鎌倉から府中、所沢、鳩山、児玉を経て、信濃に抜ける鎌倉時代の主要道「鎌倉街道上道」の枝道である。
22年間川越市に住んでおり、東海道も歩いているのに、鎌倉街道がまだ川越市に残っていたことを初めて知った。
鎌倉街道を抜け、そのまま進むと小畔川を越える。
この小畔川を遡っていくと、私の母校、川越市立霞ヶ関西小学校の北側を通ることになる。そういえば、大学時代の水文学実習で、小畔川の水質を調査したことがあったことを思い出した。
小畔川沿いを歩き、西原公園を通り、川越西文化会館(メルト)の裏に来る。ここに、馬頭観音がある。
この馬頭観音には「鯨井村」と書かれている。
この地名の「鯨」は鯨の背中のようにこんもりとした丘がある場所を言う説がある。なお、鯨井村は明治22年(1889年)に名細村になり、昭和30年(1955年)に川越市になった。馬頭観音はよく見ると「左」「右」の文字が確認でき、道標としての機能もあったのではないか、と考えられる。
川越西文化会館(メルト)で発掘物の展示見学・トイレ休憩があった。
メルトに最後に来たのはいつだろう。おそらく小学生の頃、習っていたピアノの発表会のときだったと思う。ピアノは、中学生の頃は伴奏者もやっていたほどだが、もう数年弾いていないので何も弾けないだろう。
発掘物がこちら。
霞ヶ関遺跡から発掘された旧石器時代から江戸時代までの発掘物が並んでいる。奈良時代には、ここ霞ヶ関に入間郡衙があったのでは、と推定されているらしい。
河越館跡の発掘物も展示されている。河越館跡については、後ほど。
ここは「名細」という地名である。これ、川越市民以外ほぼ読めないらしく、正解は「なぐわし」である。なぜこのような読みにくい地名があるのかというと、万葉集の歌「名細き(なぐわしき) 稲見の歌の奥津浪 千重に隠りぬ やまと島根は」から引用されたという。この地名は鯨井村等、9村が合併するときに小嶋平氏がつけたとされる。難しいが、この地名由来を知って風流だなと思った。
やえがき公園で、新津さんが「全国街道マップを売っています。興味のある方はお声がけください」と言っていたので、1,200円払って購入した。
私が購入していたのをこの地図を作った人が見ていたらしく、「今度ちゃらぽこ(この地図を作っている団体)にも来てくださいね」と誘われた。
5.河越館跡
メルトを過ぎると、立派な門のある家があった。
特に解説はないし、この先は一般民家なので、ただそれだけである。
しばらく行くと、右手側に河越館跡がある。
「河越氏 時代を超えて 館跡」というかわごえ郷土カルタの札が脳裏をよぎった。かわごえ郷土カルタをやっていたため河越館跡の存在は知っていたが、実際に来たのは初めてだ。
河越館跡は、平安時代末から南北朝時代にかけて、有力な関東武士であった河越氏の居館である。河越氏は、桓武平氏の血筋だが、その後鎌倉幕府の有力御家人となった。中世武家政権を支えた在地領主の実態を解明する上で、きわめて重要な遺跡である。
河越館跡の時代は大きく4つに分けられる。河越氏が館を構えてから平一揆で敗れ、この地を離れるまでの時期が「河越氏の時代」で、12世紀後半から貞治7年(1368年)である。
河越氏の持仏堂が起源である常楽寺が寺域を広げた時代が「常楽寺の時代」、これが14世紀後半から15世紀後半である。常楽寺は河越館跡の南側に現存する。
15世紀から永正2年(1505年)、扇谷上杉氏の河越城を攻略するため、山内上杉氏が陣所を構えたのが「山内上杉氏の時代」である。
大道寺政繁の墓所が常楽寺にあるので、大道寺氏が陣所として整備した説がある時代が「大道寺氏の時代」で、これが16世紀中期から天正18年(1590年)である。
河越館跡の東側には入間川が流れており、入間川の北岸右側、地表面から1m低い場所に側道が発掘されている。これは河越館跡が水運活動をしていたことを示している。
昭和7年(1932年)に県指定史跡になったが、第二次世界大戦後の高度経済成長期の開発で危機を迎え、昭和44年(1969年)に宅地造成がはじまった。「川越郷土保存会」が署名運動と川越市への陳情活動を行い、さらに文化財保存全国協議会や歴史学研究会なども加わった広範な文化財保存市民運動が展開された。昭和47年(1972年)、文化庁から川越市長に「発掘や保存のための適切な措置を」との通知が出され、建設中の道路は急遽急カーブに史跡上を避ける形で計画を変更した。昭和59年(1984年)に国指定史跡となった。平成21年(2009年)、河越館跡の恒久的な保存を図りつつ、関東武士の館を偲ぶとともに地域の人々の憩いの場として整備した。
河越館跡の南側には常楽寺がある。
常楽寺は河越館跡の敷地内にあった持仏堂から発展した寺院で、時宗の寺院である。
河越重頼は平安時代末期にこの地で実力を持っていた武将で、河越氏の歴史で最も勢力が強い時代を作った。源義経は源頼朝の異母弟で、牛若丸として知られている。京娘は河越重頼の娘で、源義経の正妻となった人物で、郷御前(さとごぜん)とも呼ばれている。
6.東明寺へ
これは仙波東照宮にあり、国指定重要文化財のようだ。これは寛永17年(1640年)に仙波東照宮に奉納されたものである。
川越橋にはほかにも川越まつりなど、いくつかの絵があった。
入間川の河川敷を歩き、雁見橋の手前で東側に向かう。そこには小さな釈迦堂と、庚申塔があった。
歩いていたら猫が3匹いたのを見つけた。見つけられるかな?
少し進んだらまた猫。外にいるのに呑気に香箱座りをしている。
向こう側に星野高校が見えてきた。
星野高校は高校受験のときに併願校として受けた思い出がある。星野、といっても女子校と共学校があり、こちらは共学校、私が受けたのは女子校なので、仮に第一志望に落ちてもここに通うことはなかったのだが。なお、第一志望に合格したので、星野高校は母校ではない。
ひたすら東に進むと、住宅街のなかに篠田塚稲荷神社を見つけた。
篠田塚稲荷神社は創建年代不詳だが、篠田三郎行家が住んでいた屋敷跡である、という説がある。
篠田塚稲荷神社の少し先に、愛宕神社がある。
愛宕神社の社殿のある場所は少し高く、塚になっている。
少し先で左、右に曲がり県道39号沿いを進む。左手側に岸眼科があった。
ここは子供の頃、祖父の緑内障の通院で来た記憶がある。祖父を待つ間に、菓子屋横丁で買い物をしていたことを思い出す。
高沢橋の少し前に、本応寺がある。
本応寺を建立したのは上杉憲定の家臣、長沢久右衛門である。武州松山城周辺を領地としていたが松山城の落城や主君の死亡により落ち武者になり、落ち延びるときに上杉家から秘仏を託され、25年後に自分の名前「長久」を山号とした寺を建てた。
本応寺をあとにして、新河岸川沿いを進み、坂下橋で新河岸川を渡り、東へ進む。
その途中でなんかすごい改造車があった。
県道12号との交差点にミルキーウェイブがあった。
中学時代、クラリネットの上達の遅さを心配した母がクラリネットを習わせてくれ、その発表会で来た記憶がある。
そのまま直進すると東明寺がある。
東明寺は時宗の寺院で、川越夜戦跡である。元川越城の主、扇谷上杉朝定が川越城を奪還しようと、山内上杉憲政、古河晴氏と連合軍を組み川越城を包囲した。連合軍は約80,000の大軍、川越城に籠城する北条軍は3,000人だった。約半年間、籠城していた北条軍に援軍8,000人が到着し、闇夜に乗じて連合軍に奇襲をかけ、勝利した。これが川越夜戦である。
東明寺自体は素晴らしかったが、銀杏の臭いと銀杏の落ちた実がすごかった。
7.川越駅へ
イベント自体は東明寺で終了だが、川越駅まで一緒に歩いた。
広済寺に寄った。
広済寺は曹洞宗の寺院で、天文17年(1548年)に大道寺駿河守政繁が建立し、開山は天寧寺5世の広庵芸長師と記録されている。
境内にはあごなし地蔵としわぶきばばがある。
あごなし地蔵はあごがないお地蔵さんで、あごがないということは歯がなく、歯痛もない。ということで歯痛に霊験があったらしい。
変わったお地蔵さんといえば「うさぎの気まぐれまちあるき 都内のちょっと変わったお地蔵さん巡りツアー」も参照してみてほしい。
しわぶきばばは以下のような伝承がある。元禄の頃、上州厩橋の浪人が川越喜多町に住んでいた。彼は、ある日夜遅くに外出から帰ってきたが、そのとき彼の後ろから誰かが付いてくるような気配がしたので急いで中に入ると、誰かも一緒に入った。明かりをつけたら台所に石があり、翌日見たら石塔だったので広済寺に納めたところ、いつのまにかこの石を荒縄でからげ、病気平癒の願をかけると効能があるという噂が広まった。このことから、しわぶきばばは咳や喘息によく効く、らしい。
札の辻交差点の少し北側に、弁天横丁がある。
かつて「芸者横丁」とか「弁天横丁」などと呼ばれ、置屋などがあった場所で、川越のなかでも独特な雰囲気がある。
夕暮れ時の蔵造りを歩く。
日中よりは人通りや車通りは少ないものの、それなりにある。
大沢家住宅を見つけた。
大沢家住宅は明治26年(1893年)にあった川越大火での焼失を免れた川越最古の蔵造りである。川越に蔵造りが多いのは、大沢家住宅が大火でも焼け残ったことで、多くの商人が土蔵造りの店舗を建てるきっかけになったから、とのこと。
「本の店 太陽堂」。
今回のイベントの主催者、石井さんの本も売られている。
夕暮れ時の時の鐘。
埼玉りそな銀行(旧八十五銀行)。
旧八十五銀行本店本館は、今からおよそ100年前の大正7年(1918年)、国内の85番目の銀行として設立された。設計したのは保岡勝也。ルネサンス様式サラセン風の建物で、国の登録有形文化財に指定されている。
旧山吉デパート。
ここは「丸広百貨店」の創業地で、昭和11年(1936年)に建てられたこの「山吉ビル」を借り、川越初のデパートとしてオープンしたのが始まりである。今では地下1階、地上10階の丸広百貨店だが、この3階建ての小さなビルからスタートしている。手がけたのは埼玉りそな銀行と同じ、保岡勝也である。
仲町交差点で左折し、すぐ右折する。その交差点に川越商工会議所がある。
これは昭和のはじめに建てられた、旧武州銀行川越支店の建物を活かして、今は商工会議所として使われている。
夕暮れ時の大正浪漫夢通りを歩く。
大正浪漫夢通りは関東大震災以後に流行した看板建築の洋風店舗や町屋造りが多く残る商店街である。
大正浪漫夢通りに、謙受堂という書店を見つけた。
ここで高校の教科書を買った記憶がある。
大正浪漫夢通りの途中で右折して、蓮馨寺(れんけいじ)へ向かう。
蓮馨寺は、天文18年(1549年)に川越城代「大道寺駿河守政繁」の母「蓮馨大姉」が、平方村に建立した寺院を河越に移転し、蓮馨大姉の甥である存貞上人を招き創建した。かわごえ郷土カルタでも「蓮馨寺 鐘の鳴る音が 響く寺」と詠まれている。
境内には「おびんづる様」がいて、直接その身体を触ると病気が治り、また頭を触ると頭が良くなるらしい。仕事中の頭痛に悩まされているので念入りに頭を撫でておいた。
ここで本当にイベントは終了…と思いきや、「まっすぐ帰りたくない人はこちらに来てください」とアナウンスがあった。参加者の方とあまり交流できなかったと思っていたので、飲み会に参加することにした。
やはり、歩いた後のビールはうまい。
この後、帰り道が一緒の人とは成増まで一緒に帰ったり、何人かとはFacebookを交換したりした。
いつか行こうと思っていた河越館跡も、川越市街地から距離があるためなかなか行けていなかったので、今回行けてよかった。「埼玉は何もない」と言われがちだが、私の知らない遺跡などが、まだまだありそうだ。
歩いた日:2022年11月12日
【参考文献・参考サイト】
埼玉県高等学校社会科教育研究会歴史部会(2005)「埼玉県の歴史散歩」山川出版社
石井建志(2022)「お写ん歩ノート 「川越♡愛」」
そこに城があるから 広谷南城
https://ckk12850.exblog.jp/675211/
カワゴエール 常楽寺
https://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/jorakuji/
カワゴエール 川越夜戦跡(東明寺)
https://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/kawagoeyasen/
(2022年12月5日最終閲覧)