前回、熱田神宮伝馬町駅から神守口バス停まで歩いた。今回は神守口バス停から近鉄長島駅まで歩こうと思う。「近鉄長島?桑名じゃないの?」という人もいるだろうが、本来桑名まで歩く予定だったが尾張大橋を渡る直前でゲリラ豪雨に降られ、途中リタイアしたのである。
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1.神守宿
今日は神守口バス停からスタートだが、写真を撮り忘れてしまった。
神守口バス停から少し歩くと、「神守の一里塚」がある。
神守の一里塚は佐屋街道の一里塚のひとつで、かつては道の両側に塚があった。
現在は北側の塚が残っており、こんもりとした小山の上に大きなムクの木が茂っている。なお、神守の一里塚は佐屋街道の一里塚のうち、唯一の現存一里塚だ。
神守の一里塚から7分ほど歩くと、神守村道路元標がある。
道路元標とは大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1基ずつ設置されたものだが、戦後の道路法改正により道路の付属物ではなくなったため撤去が進み、現在では全国で2,000基程度しか残っていない。
「東海道を歩く」では前回登場は「東海道を歩く 31.御油駅~藤川駅」で赤坂町道路元標、長沢村道路元標、本宿村道路元標、藤川村道路元標が登場している。
東海道とは関係ないのだが、「地図ラーテン 特大号」で「道路元標を訪ねて―船橋市編―」という文章を書いている。これは船橋市の道路元標の特集だ。「10月うさぎ」ではなく実名名義ですが私が書いた文章なので、読んでいただけると嬉しいです(唐突な宣伝)。
神守村道路元標の近くには「神守の宿跡」という案内板がある。
神守宿は、北から上町・中町・下町の3町で構成され、本陣は上町にあった。旅籠が12軒あり、中町に問屋場や高札場、下町の東の入口に一里塚があった。
憶感神社の祭礼、「神守祭」の山車庫がある。中を確認することはできない。
憶感神社は小さな神社だが、やはり拝殿の奥に本殿がある。
神守宿に文化財等はないが、趣のある街並みをしている。
2.津島神社の追分
穂歳神社に参拝した。前回も見たが、狛犬の前にあるものは何か気になる。
日光橋のたもとには、橋の親柱などが飾られている。
解説板によると、日光橋は佐屋街道でも大橋として有名だったらしい。それにしてもこの解説板、ボロボロだなぁ…。
「日光湊は昭和の中ごろまで木材や石炭を積んだ船の出入が多く佐屋街道筋は賑わっていた 木製の橋から昭和八年と平成二十年に架け替えられた」と読める。
歩き始めて1時間ほど、友人が「お腹すいた」と言うのでくら寿司で昼食をとる。
くら寿司で昼食をとり、先に進むと道標、燈籠、鳥居跡を見つけた。
道標は「右 つしま天王みち 左 さやみち」と読める。
津島神社の祭神は建速須佐男命(たけはやすさのおのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)で、欽明天皇のころ(6世紀中頃)の創建と伝えられ、古くは津島牛頭天王社とよばれていた。
「津島の天王さん」として人びとに親しまれ、「お伊勢さんに詣って天王さんを詣らぬのは片詣り」「東の津島、西の八坂」といわれ、京都の八坂神社と並ぶ牛頭天王信仰の中心であった。
津島神社にも参拝したいところだが、ここからは少し遠いので今回は行かないことにする。
愛宕神社の燈籠の前にもよくわからない装置があるし、カゴもあった。
3.佐屋宿
ふと横を見ると「愛西市」の不法投棄禁止看板がある。愛西市に入ったのだ。
これは三ツ谷サイダー…ではなく佐屋町章入りマンホール。
愛西市は平成17年(2005年)4月1日に海部郡佐織町、佐屋町、立田村、八開村の合併により市制施行した。
これは毛利元就の教訓にある「三矢」を「佐屋」に例えたもの。ちなみに毛利元就と愛西市(佐屋町)の関係性は調べても見つからなかった。
「佐屋海道址」の石碑を見つけた。
佐屋街道の栄華を語り継ぐために昭和54年(1979年)に碑が建てられたそうだが、誰もいなかった。
愛西市のマンホールを見つけた。
愛西市の頭文字である「あ」のローマ字、「a」をモチーフに、濃尾平野の豊かな緑とすがすがしい空気、木曽川、長良川の恵まれた自然を表現している。
歩いていくと、佐屋宿に着いた。
「さや舟場道」という道標があるが、昭和54年(1979年)に建てたものらしい。
尾張名所図会にも描かれた「きこく」の生垣があった。
「さや舟場道」の道標の道の向かい側には佐屋代官所址がある。
天明元年(1781年)、尾張藩は、藩の西半分の海東・海西の109カ村をおさめる佐屋代官所を設けた。
この代官所は、街道の治安と三里の渡しを監督する「海の関所」としての役割もになっていた。
「さや舟場道」の道標の近くには「佐屋三里之渡趾」がある。
三里の渡しは、佐屋川を南下し伊勢長島を経て桑名に至る3里の航路で、明治の中頃に佐屋川がせきとめられるまで大いに賑わった。
佐屋宿は三里の渡しの起点であるため、佐屋街道が公認されると同時に、本陣・脇本陣・旅籠が設けられ、増水による川止めなどの場合は、旅籠不足のため民家に泊まることまで認められた。
佐屋宿は、天保14年(1843年)の「佐屋路宿村大概帳」によれば、本陣2軒・脇本陣2軒・旅籠31軒、宿内人口1,260人であった。
旧佐屋町のマンホールを見つけた。
「人魚が住めるような水を目指して」ということから、人魚と町の花・キキョウがデザインされている。ちなみに、私は人魚ではなくヘチマだと思っていた。
明治天皇佐屋行在所の門を見つけた。
明治元年(1868年)、明治天皇が東幸・還幸の際、佐屋宿本陣加藤家にて昼食のため休憩した。そのときの門がこれである。なかなかご立派な門だ。
4.満身創痍で近鉄長島駅へ
弥富市のデザインマンホールがこれだ。
市の桜を背景に、市のキャラクター「きんちゃん」と、明治時代に弥富市で生まれた白文鳥をデザインしたマンホール蓋だ。
「きんちゃん」は弥富市の地場産業である金魚をモチーフにしており、市名の「やとみ」にちなんだ平成8年(1996年)10月3日に誕生した。
弥富市 鯏浦町(うぐいうらちょう)…読めない。
イオンタウン弥富のドコモショップでチャージスポットを借りるついでに、ミスドで少し休憩した。
イオンタウン弥富からしばらく行くと「ふたつやの渡」があり、その昔、木曽川で渡船が行われていたことがわかる。
ここは東海道ではない(佐屋街道でもない)のに「東海道」の案内標識が。
ここが尾張大橋で、尾張大橋を越えると愛知県とはサヨナラして、三重県に入る。
びしょびしょになりながら無になって歩いていると、友人が「あ!」と指さした。
三重県と愛知県の県境だ。
やっと愛知県が終わったか…と感慨に耽りたかったが耽る暇もなく雨が体を叩き、靴のなかを濡らす。
尾張大橋の終わりに「東海道」と書かれた石碑があったので撮ったが、もう満身創痍である。
友人と話し合った結果、服も靴もびしょびしょなので近鉄長島駅で途中リタイアとした。
このあとは宿の近くのサウナで満身創痍となった体と心を回復した後、友人とあんかけスパを食べた。
歩いた日:2024年7月14日
【参考文献・参考サイト】
愛知県高等学校郷土史研究会(2020) 「愛知県の歴史散歩 上 尾張」山川出版社
愛西市 市章
https://www.city.aisai.lg.jp/0000001785.html
https://www.city.yatomi.lg.jp/kurashi/1000451/1000464/1005095.html
(2024年8月25日最終閲覧)