「史跡散策」の吉田さんにお誘いいただき、「江戸時代の新宿から現代の歌舞伎町までを楽しもう♪新宿散策」に参加してきた。講師は石井建志さん。
以前掲載した記事「うさぎの気まぐれまちあるき「新宿DeepZone&歴史探訪」」「うさぎの気まぐれまちあるき「新宿DeepZone&歴史探訪(第二回)」」と内容が重複している部分があるので、そちらも参照していただきたい。
1.多武峯内藤神社
この日は新宿御苑に12時半に集合。ちなみに新宿御苑には入らない。
もう12月だが、紅葉が綺麗だった。
玉川上水とは、承応元年(1652年)に江戸幕府の命をうけて開削された江戸市中に送水するための水路である。
工事の命を受けた玉川兄弟は、多摩川上流の羽村から、四谷大木戸までの43kmにも及ぶ長い水路をたった1年足らずで開削し開通させたという。
玉川上水は、江戸時代初期、承応2年(1653年)に開通して以来、明治34年(1901年)の東京市内給水停止まで、250年間にわたり江戸・東京の生活を支えていた上水道だった。
ちなみに、玉川上水の水を取水する堰、羽村取水堰に行ったことがある。
羽村取水堰については「うさぎの気まぐれまちあるき「玉川上水×福生×立川 まちあるき」」の3.羽村取水堰 を参照してほしい。
玉川上水の暗渠に沿って歩いていくと、多武峯内藤神社(とうのみねないとうじんじゃ)に到着する。
多武峯内藤神社には駿馬塚の碑と駿馬舎がある。
多武峯内藤神社には以下のような伝説がある。
徳川家康は鷹狩りに同行した内藤清成を呼び、新宿御苑一帯を示し「馬でひと息に回れるだけの所領を与える」と言った。
そこで清成は馬に乗り、南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走り、約22万坪もの広大な所領を手に入れたが、馬はそこで息絶えてしまった。
内藤家はこの故事にちなみ、内藤家の屋敷内にあった多武峯内藤神社に駿馬塚と駿馬舎を造ったという。
22万坪を走った馬はさぞしんどかっただろうな、と思った。
多武峯内藤神社の隣の公園に「鉛筆の碑」がある。
明治20年(1887年)、眞崎仁六が水車を動力とした鉛筆工業生産を始めたのがここで、「眞崎鉛筆製造所」を開業した。現在の三菱鉛筆株式会社である。
鉛筆なんて小学校の頃に「筆記用具は鉛筆のみ」とあるから使っていただけで、中学生になればシャープペンシルが主流となり、今ではボールペンしか触らない。たまには鉛筆を握ってみようかな、などと思った。
2.四谷大木戸跡
玉川上水の暗渠沿いに、「伝 沖田総司逝去の地」という説明板を見つけた。
沖田総司は幕末の武士で、新撰組に所属していた。慶応4年(1868年)に24歳の若さで亡くなっている。
晩年、沖田総司は植木屋平五郎の屋敷で療養し、亡くなったようだが、その屋敷がこのあたりにあったらしい。
国道20号線沿いに戻り、東京都水道局新宿営業所の隣に水道碑記と四谷大木戸跡碑がある。
玉川上水の終着点がここ「四谷大木戸」で、ここは内藤新宿の東門でもあった。
羽村から43kmを流れてきた玉川上水は新宿御苑の北側に沿って流れて四谷大木戸に達し、それより先は木樋や石樋で地下に潜って江戸市中に給水していた。
四谷大木戸に置かれた水番所では、毎日水位の測定や水量の調節をし、余った水や大雨の後の濁り水は南側にあった渋谷川上流部につながる谷のひとつを利用した水路に流していたという。
新宿区立花園小学校と花園公園は、松平信綱の屋敷跡だったという。
松平信綱は川越藩主なども務めていたが、やがて第4代将軍の徳川家綱の補佐役にまで出世した大名である。
私は「川越郷土かるた」の札で松平信綱について知っていた。
「ち 知恵があり 川越治めた 名将信綱」
また、花園公園は三遊亭圓朝の旧居跡でもある。
三遊亭圓朝は幕末から明治時代にかけて活躍した落語家で、話術に長じ、人物の性格や風景の描写を巧みに表現し、近代落語を大成したという。
3.太宗寺
太宗寺へ向かう途中で、ファミマっぽい整骨院を見つけた。入店音はあの音なのだろうか。
太宗寺に着くと、銅造地蔵菩薩坐像が出迎えてくれる。
太宗寺は慶長元年(1596年)頃に建てられた浄土宗の寺院である。
この銅像地蔵菩薩坐像は江戸六地蔵のひとつである。江戸六地蔵とは、江戸時代の前期に江戸の出入口6ヶ所に造立されたお地蔵さんである。
江戸六地蔵が建てられた寺院は品川寺、東禅寺、太宗寺、真性寺、霊巌寺、永代寺の6寺で、永代寺のお地蔵さんは現存していないがそれ以外は現存している。いつか巡ってみたいものだ。
太宗寺には閻魔像と奪衣婆像がある。
閻魔像の別名は「つけひも閻魔」と呼ばれている。これは以下の伝説に由来している。
むかし、一人の乳母が太宗寺の境内で子供を背負い、子守をしていた。
あるとき、子供が泣き始め、いくらあやしても泣き止まない。そこで乳母が「そんなに悪い子だと、閻魔様に食べられてしまうよ」と赤ん坊に言うと、泣き声はぴたりとやんだ。
そして乳母が振り向くと子供の姿はなく、閻魔像の口から子供のおんぶ紐が垂れているのが見えた。子供は閻魔様に食べられてしまったのだ。
本当に閻魔様が子供を食べたとは思えず、子供はさらわれてしまったのだろうと思う…と思うのは野暮なのだろうか。
奪衣婆は、死者の衣を剥ぐ役割を担っている。ちなみに奪衣婆は妓楼の商売神だったらしい。「衣を剥ぐ」から「妓楼」の商売神…詮索しないほうがよさそうだ。
境内には切支丹灯籠がある。
この切支丹灯籠は昭和27年(1952年)に内藤家墓所から出土したものである。
切支丹灯籠とは、江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れキリシタンがひそかに礼拝したとされるものである。つまり内藤家はキリシタンだったということになる。
内藤新宿の祖、内藤家の墓地も太宗寺境内にある。
新宿山ノ手七福神は新宿区内の7つの寺社で構成された七福神巡りである。いつかやってみたい。ちなみに「江戸三十三観音をめぐる 6.高田・西早稲田・神楽坂編」で登場した善国寺も新宿山ノ手七福神を構成する寺社のひとつで、毘沙門天となっている。
境内には塩かけ地蔵もある。
塩かけ地蔵はおできに御利益があり、ここの塩をおできに塗り込むと治るらしい。今度ニキビができたらもらいに行こうと思う。
灯籠のなかに猫がいた。かわいい。
4.正受院・成覚寺
正受院にも奪衣婆がいるが、今日は閉まっていて見られなかった。
正受院の奪衣婆は元禄14年(1701年)以前に安置されたといわれており、咳止めの霊験があるとして庶民の信仰を集め、あまりの混雑ぶりに年2回(正月と7月)しか参拝できなくなった時期もあったという。今はいつでも参拝できる。
境内には平和の鐘がある。
平和の鐘は宝永8年(1711年)に鋳造された鐘で、昭和17年(1942年)の戦時金属類回収で回収されるも、戦後にアメリカのアイオワ州立大学に保管されていたことが判明した。昭和37年(1962年)に正受院に鐘は返還され、「平和の鐘」と名づけられた。
正受院の隣に成覚寺がある。ちなみにここ、夏に訪れると蚊が多く、刺されるのだが、今はおとなしかった。
成覚寺には子供合埋碑がある。
子供とは、遊女のことである。遊女たちは過酷な仕事で病死したりと無残な死に方をする人が多く、死んだら投げ込み寺に投げ込むように葬られた。
この子供合埋碑には1,600人もの遊女が眠っているという。そっと手を合わせた。
境内には旭地蔵もある。
旭地蔵には、18人の戒名が刻まれているが、うち7組は玉川上水で心中した新宿の遊女と客だという。
江戸時代の一時、近松門左衛門の「曽根崎心中」の流行から、遊郭の男女が心中するという流行もあったという。あまりに心中する人が多いことから幕府は心中を禁止する令を出したほどだった。
もとは旭町の玉川上水北岸にあったことから「旭地蔵」と呼ばれたが、明治12年(1879年)に成覚寺に移された。
成覚寺には恋川春町の墓もある。恋川春町は江戸時代の戯作者である。
5.新宿ディープゾーン
ここから新宿のディープゾーンに入っていく。
「男兄さん」などの看板が見えるが、ここはゲイバーの多い一角となっている。
Bar「九州男」がある。ここもゲイバーである。
ここの店主、増田さんはクィーンのボーカル、フレディ・マーキュリーと親交があり、コンサートへ招待されたり、ホテルの同じ部屋に泊まったりしたらしい。つまり、フレディ・マーキュリーは…そういうことだ。
Bar「九州男」の近くに小さな飲み屋街があり、ここが新千鳥街である。
新千鳥街の入口にある「毒」という看板は中島みゆきBarの看板で、中島みゆきの歌「毒をんな」にちなむ店名である。
ここは芥川龍之介の父、新原敏三が娘のヒサ夫婦のために家を建てたが、ヒサが離婚したため空き家になっていた。
そこへ明治43年(1910年)10月、芥川龍之介一家が、本所小泉町から転居してきた。
大正3年(1914年)に田端に転居するまで、芥川龍之介はここに住んだという。
Barどん底にやってきた。
Barどん底は昭和26年(1951年)に開業した老舗のバーである。昭和38年(1963年)頃、美川憲一らが通っていた時期もあったらしい。
末広通りを通る。末広通りは戦前、赤線地帯(売春が合法だった地帯)に指定されていた。
新宿三丁目駅のある交差点に「新宿元標ここが追分」がある。
ここは青梅街道と甲州街道の分岐点である。
ここで内藤新宿について少し解説しよう。
江戸に幕府が開かれた慶長8年(1603年)に東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五街道が定められた。
そのうちのひとつ、甲州街道は日本橋から甲府を経て、中山道の下諏訪につながる街道だった。甲州街道を日本橋から歩くと最初の宿場は高井戸宿(杉並区)で、ここまで4里(約16km)もあり、旅人を困らせていた。
そこで、高松喜六らが幕府に宿場設置を懇願し、元禄12年(1699年)に内藤新宿の設置が認められた。これが新宿のルーツである。
しかし色街の風紀上の問題などで、享保3年(1718年)に内藤新宿は廃止されてしまう。
その後、度重なる再興の願いにより明和9年(1772年)に内藤新宿は再興され、現在に至っている。
「新宿元標ここが追分」の近くに「追分だんご」という名物があるのだが、ここはいつも混みあっている。青い車の横にできている行列が追分だんごの行列。
「新宿元標ここが追分」のある交差点に新宿伊勢丹があるのだが、この伊勢丹、よく見ると建物に継ぎ目がある。
伊勢丹は明治19年(1886年)に神田明神下の旅籠町に呉服屋として誕生した。
昭和8年(1933年)に神田の店舗をたたみ、現在地に新店舗を構えたが、当時そこに「ほてい屋百貨店」という百貨店が既にあった。
伊勢丹はほてい屋そっくりの建物を隣接させて建設した。
2年ほど伊勢丹とほてい屋は熾烈な競争を繰り広げたが、昭和10年(1935年)に伊勢丹がほてい屋を買収してしまった。
建物の継ぎ目は伊勢丹とほてい屋の境目だった、ということになる。
6.花園神社
花園神社に入る。
社伝によると、江戸時代以前に大和国吉野山より勧請した稲荷社で、もとは新宿3丁目交差点付近にあったが、寛政年間(1789~1801年)に現在地に移転した。
移転した先が尾張藩下屋敷の一部で、美しい花が咲き乱れる花園のような場所であったことから「花園稲荷神社」と呼ばれた。
境内には成徳稲荷神社がある。夫婦和合、子授け、縁結びや恋愛成就にご利益があるらしい。
ここには「男性のシンボル」が飾ってあるのだが、ほとんどの参拝者は気づかない。私も石井さんに教えられるまで気づかなかったほどだ。
境内には芸能浅間神社もある。
芸能浅間神社は、日本神話に登場する女神「木花佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」が祀られている。
芸能に関わりのある浅間神社は珍しく、芸能のご利益を受けるために参拝する芸能人も多いらしい。
「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑もある。
宇多田ヒカルの母でもある藤圭子は「新宿の女」で昭和44年(1969年)にデビューした。しかし平成25年(2013年)に亡くなっている。
花園神社の境内にある飛行機の額に向かった。
この額には「同栄信用金庫飛行機貯金旅行會献木記念」と書かれ、昭和27年(1952年)四月吉日と日付が打たれている。
この信用金庫への貯金によって3機の飛行機をチャーターし、旅行に行ったようだ。
当時の飛行機旅行は神社に額を奉納するほどの一大行事であったことが伺える。
この飛行機旅行で使われた飛行機「もく星号」は、彼らが旅行した4日後の昭和27年(1952年)4月9日に、伊豆大島三原山に墜落して乗客・乗務員37人全員が亡くなる事故を起こしている。
事故に遭った人たちは額を奉納していなかったのだろうか。それはわからない。
新宿ゴールデン街に入る。
「中村酒店」の前を通った。
中村酒店の店主、中村京子さんは「Dカップ京子」の異名を持ち、80年代「平凡パンチ」をはじめとして数多くの雑誌グラビアのヌードモデルとして活躍していたようだ。
「新宿DeepZone&歴史探訪(第二回)」では中村さんも同行していたため、店内を見せていただくことができた。
新宿ゴールデン街の奥には「四季の道」という遊歩道があり、そこは都電角筈線の跡である。
パリジェンヌ事件が発生したパリジェンヌの前も通過した。
パリジェンヌ事件とは、平成14年(2002年)9月27日に喫茶店「パリジェンヌ」で住吉会系の暴力団員がチャイニーズマフィアに射殺された事件である。喫茶店で発砲事件が起きるなんて、怖い。
7.歌舞伎町弁財天
「思い出の抜け道」を通る。
「思い出の抜け道」は薄暗く、さまざまな人種が行きかう。一人だったら入る勇気がないと思った。
歌舞伎町弁財天に到着した。
ここの地面を掘り返したらものすごい数の蛇が湧いてきて、これを壺に籠めて埋めたところ、工事の親方がとてつもない悪夢にうなされた。
そこで大正2年(1913年)に上野寛永寺の不忍弁財天の分祀として弁財天を勧請したのが歌舞伎町弁財天だ。
尾張屋銀行は明治33年(1900年)から昭和2年(1927年)の間あった銀行なので、その27年のどこかで奉納されたのだろう。
歌舞伎町弁財天の隣には王城ビルがある。
王城ビルは昭和39年(1964年)に建てられたビルで、当初は「名曲喫茶 王城」として営業していたが、現在はカラオケ店が入居している。
新宿東宝ビルからゴジラがのぞいているが、その下に「ゴジラ-1.0」の広告が。ダブルゴジラだ。
歌舞伎町タワーの前の石碑に、歌舞伎町建設の由来が記されている。
昭和20年(1945年)の空襲により新宿はすべて灰燼に帰した。そこに角筈1丁目北町会長の鈴木喜兵衛氏が立ち上がり復興計画を持ち上げ、東京都都市計画課長と綿密に計画が立てられた。
鈴木氏は復興計画を中断させないために、昭和25年(1950年)にこの地に戦後最初の博覧会となる「東京文化産業博覧会」を誘致する。
戦災で焼失したここに歌舞伎の新劇場を招致して一大劇場街として復興する計画が立ち上がり、その一環として博覧会が開催された。
この博覧会は多額の赤字となり、鈴木氏は借財を背負い、私財で返済したという。
「歌舞伎町」という町名は戦後の復興計画に基づくものだが、歌舞伎の演舞場ができることはなかった。
しかし、新宿コマ劇場や新宿ミラノ座、新宿地球座など映画館や劇場が建ち並び、当初はファミリー向けに建設された繁華街となったようだ。しかし現在は若者を中心とした風俗街と化している。
歌舞伎町ビル火災の現場も通過した。
平成13年(2001年)9月1日未明、歌舞伎町一番街の雑居ビル、明星56ビルから出火し、麻雀ゲーム店「一休」、4階の飲食店「スーパールーズ」の従業員と客、44人の犠牲者を出す大惨事となった。未だに犯人は捕まっていない。
令和元年(2019年)に起こった京都アニメーション放火殺人事件等、火事はいつどこで起こるかわからない。それだけに怖いと思った。
8.常圓寺
SUZUYAビルの横を通る(右側の茶色いビルがSUZUYAビル)。
ここの5階に「すずや」という飲食店があり、ここはとんかつ茶漬けを提供するお店なのだが、そこの初代オーナーが鈴木喜兵衛である。
鈴木喜兵衛は歌舞伎町を作った人物である、ということは前述したとおり。
喜兵衛はもう亡くなっており、喜兵衛の子孫が「すずや」を経営している。
なお、喜兵衛リスペクトか、この通りだけはぼったくりがいないらしい。
アルタビジョンに巨大3D猫が出現した。とてもかわいい。
巨大3D猫は令和4年(2022年)11月に新宿区の警察官に任命され、「新宿東口の猫交番」として警帽をかぶった猫の3Dが登場し、新宿区の防犯の一助を担っている…らしい。どれくらい効果が出ているのだろうか。でもとりあえずかわいい。
なんと新宿西口にも思い出横丁がある。ただ新宿西口の思い出横丁のほうがやや入りやすい気がした。
新都心歩道橋下交差点の新都心歩道橋から小田急百貨店を見たら、建て替え中だった。
常圓寺には便々館湖鯉鮒狂歌碑(べんべんかんこりふきょうかひ)がある。
「三度たく 米さへこはし やはらかし おもふままには ならぬ世の中」
私は最近自炊しているのだが、米を同じように炊いても水の量でやたら柔らかく炊けてしまうことがある。米の炊き具合ですら思い通りにならないのだから、ましてや世の中が思い通りになるはずがない。わかるわ。と思いながら句を読んだ。
常圓寺は、創建年代不詳ながら天正13年(1585年)頃、渋谷区幡ヶ谷近辺より現在地に移されたと伝わる。
境内には枝垂桜が2本植えられていて、桜の時期には夜のライトアップも行われ、とても綺麗だということを石井さんが教えてくれた。
常圓寺には祖師堂がある。
祖師堂には、11代将軍徳川家斉が江戸城中にて御守護仏とした「感応胎蔵の祖師像」が安置されている。
祖師堂の祖師像(日蓮像)は、顔を徳川家斉に似せて作られているという。
これは、法華信仰に厚かった家斉の側室、お美代の方の勧めによって、家斉が江戸城の鬼門を守護するための感応寺建立を発願した際、そこに祀られる予定だった。
しかし感応寺は幕府の財政引き締め方針により建立されることはなく、祖師像だけが残ることになった。
この祖師像は、胎内にお美代の方が日頃から拝んでいた日蓮像を納めたところから「はらごもりの祖師」と呼ばれて信仰を集めていた。これは「子供が育つように」と家斉が祈願して作らせたという。
家斉は53人もの子供がいたらしいが、そこは江戸時代、子供の死亡率が高い時代だ。実際、家斉の子供のうち25人が子供のうちに亡くなったという。
ちなみに、祖師堂では映画が放映されており、祖師像を見ることはできなかった。
筒井政憲は長崎奉行、江戸南町奉行、大目付などを歴任した人物で、ロシア艦隊の司令長官プチャーチンとも会談した人物である。
辰野金吾は東京駅や日本銀行本店など、多くの重要建築物を設計した。
伏屋美濃は祐宮(さちのみや。のちの明治天皇)の乳母、明宮(はるのみや。のちの大正天皇)の養育係詰、迪宮(みちのみや。のちの昭和天皇)の御七夜の儀で御抱を務めた人物である。
このうち辰野金吾の墓に参り、手を合わせた。辰野建築は全国でいろいろ見てきたが、お墓に来たのは初めてだった。
9.淀橋浄水場跡
ここは「君の名は。」でも出てくる場所らしいが、ぱっとどのシーンか思い出せなかった。「君の名は。」は知っていたが、観たことはなかったので今度観て特定しなければ、と思う。
今立っているところから一段低い場所に人が行きかっている。ここは淀橋浄水場跡だ。
淀橋浄水場は玉川上水から水を引き入れ、明治31年(1898年)に使用開始され、衛生面の改善・家事の軽減に役立ったという。
しかしこの立地は新宿の発展を妨げるとして、昭和40年(1965年)にその機能を東村山浄水場に移し、淀橋浄水場は閉鎖された。
その跡地は「新宿副都心計画」により、昭和46年(1971年)にオープンした京王プラザホテルを皮切りに、その後続々と超高層ビルが林立した。
昭和49年(1974年)に新宿住友ビル、昭和51年(1976年)に安田火災海上保険会社ビル、昭和53年(1978年)に新宿野村ビル、昭和54年(1979年)に新宿センタービルなどが建設された。
東京都庁は平成3年(1991年)に竣工し、有楽町から移転してきた。
超高層ビル街を縦横に走る道路が立体交差になっているのは、浄水場の水面と底面の位置関係の名残りである。
新宿住友ビルには「たまちゃん」の像がある。
このたまちゃん像は、世界的に有名な彫刻家・流政之の作である。
それにはこのような伝説がある。
江戸城から出て神田川・妙正寺川を遡った道灌軍と、石神井城と練馬城から出撃した豊島一族が激突した。文明9年(1477年)の江古田が原・沼袋の戦いである。
この戦いの後、道灌は夜道で迷ってしまったという。
そのとき、目の前に現れた黒猫が盛んに手招きをするので、そのあとをついていったら自性院の地蔵堂があった。
道灌はそこで一夜を明かし、翌日体制を立て直して反撃、勝利した。
江古田が原・沼袋の戦いのあと、道灌は猫を江戸城に連れ帰り、たいそうかわいがっていたという。猫はそのうち死んでしまったが、その石像を自性院に寄贈した。
この猫が、招き猫の元祖のひとつともいわれている。
ずっとブログを読んできた人のなかには、「前にも似たような話をしていなかった?」と思う人がいるかもしれない。
そう、「うさぎの気まぐれまちあるき 境界協会FW「豊島区・北区完歩計画」」の5.妙義神社 の道灌霊社に、狛猫がいるのは全く同じエピソードが由来である。
流石江戸城を造った太田道灌、同じエピソードで猫が2ヶ所にいるのだ。
新宿住友ビルにはかつて淀橋浄水場で使用されていた内径1mの蝶型弁も展示されており、「東京水道発祥の地」のプレートもある。ただビルのなかにあり、非常に目立ちにくい。
夕暮れ時に都庁前に行き、ここでイベントは終了となった。
このあと、有志で懇親会に行った。懇親会はまずビールから。歩いた後のビールは美味しい。
この店はおでんが特に美味しかった。
石井さんとの新宿まちあるきはこれで3回目。以前訪れた場所も結構あるので、「楽しかった?」と聞かれてしまった。しかし一度行った場所にまた行くことで知識が定着するし、多武峰内藤神社や常圓寺、淀橋浄水場跡は初めて行った。淀橋浄水場があったことは旧版地形図などで見て知っていたが、実際に立体交差が残っていたことは初めて気が付いた。
私の知らない東京が、まだまだありそうだ。
歩いた日:2023年12月9日
【参考文献・参考サイト】
新宿の歴史を語る会(1977) 「新宿区の歴史」 名著出版
東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社
石井建志(2023) 「あなたも知らない「新宿の今昔物語」」