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東海道を歩く 4.神奈川駅~保土ヶ谷駅

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 前回は川崎駅から神奈川駅まで歩き、その距離は2.5里(約10km)だった。今回は神奈川駅から保土ヶ谷駅まで歩いたのだが、その距離は1里9町(約5km)、前回の半分ほどの距離だった。そのため13時過ぎに神奈川駅を出発し、そこから歩いて15時過ぎには保土ヶ谷駅に到着してしまった。今回は少し短いが、お付き合いいただきたい。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.東横フラワー緑道

 さて、今日は神奈川駅から始めよう。

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神奈川駅

 神奈川駅から橋で京急線を超え、左折する。少し歩くと右手側に上り坂が見えてくるのでそこを右折する。すると遊歩道が見えてくる。東横フラワー緑道だ。

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東横フラワー緑道

 東横フラワー緑道は平成16年(2004年)2月の東急東横線の地下化にともない、今まで線路が走っていた部分を緑道として整備したものである。実際に地図を見ると現在でもここに東急東横線が走っていることが確認できる。

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地図中央、十字の地点

 暗渠かと思ったら、暗線路だった。

2.大綱金刀比羅神社

 少し歩くと、大綱金刀比羅神社に着く。

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大綱金刀比羅神社

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 ここは平安末期の創立で、もとは飯綱社と呼ばれ、山の上にあった。その後現在地へ移り、琴平社を合祀して大綱金刀比羅神社となった。

 また、この神社の前には日本橋から7つ目の一里塚があり、案内板によると土盛の上に樹が植えられた大きなものだったらしい。現在はこの案内板のみで、一里塚は残っていない。

3.台町

 大綱金刀比羅神社に参拝してから坂を上っていく。このあたりはかつて神奈川の台と呼ばれ、神奈川湊を見下ろす景勝の地だった。ここには多くの茶屋が立ち並び、旅人の目を楽しませ、疲れを癒す格好の場所となっていた。

 この様子はいろいろな絵や書物でも取り上げられ、歌川広重の「東海道五十三次」の神奈川宿風景でも、片側に茶店が軒を連ねる台町の坂を旅人たちが上っていくさまを描いている。「東海道中膝栗毛」の弥次さん、喜多さんもこのあたりの茶店で波打ち際の景色を見ながら鯵を肴に一杯飲んでいる。

 また、このあたりにあった料亭の「田中屋」では坂本龍馬の妻、お龍も働いていたようだ。

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 横浜が開港すると、当時の人たちにとって神奈川湊は欧米文化の入口で、物珍しい場所として新たな名所の一つになっていく。二代広重が描いた絵では、女性が台町の茶屋から遠眼鏡で開港場や外国船を覗き込んでいる情景も見られる。

 台町の案内板のある場所は以下の地図の地点で、今は埋め立てが進んでだいぶ内陸になっている。

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台町

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地図中央、十字の地点

4.神奈川台関門跡

 坂の頂上に「神奈川台関門跡」と書かれた石碑が置かれている。

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神奈川台関門跡

 ここは開港後に幕府が安政6年(1859年)に置いた関門である。関門設置のことは「東海道を歩く 3.川崎駅~神奈川駅」の「鶴見橋関門旧跡」にも書かれているので、そちらも参照してほしい。

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 鶴見橋関門と同じく、明治4年(1871年)に廃止となった。

 関門設置3年後の文久2年(1862年)、生麦事件が発生した(生麦事件についても詳細は「東海道を歩く 3.川崎駅~神奈川駅」を参照してほしい)。事件後、島津久光はイギリス軍などの追撃を避けるため、急遽神奈川宿宿泊を取りやめ、その先の保土ヶ谷宿まで行って宿泊している。このとき、神奈川台関門は薩摩藩の行列が通り過ぎた後、すぐに関門を閉じている。

 神奈川台関門跡から坂を下り、上台橋を渡る。

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上台橋

 かつての上台橋のあたりは、海辺の地であったという。もちろん、今ここから海は見えない。

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地図中央、十字の地点

 切り通しの道路ができるとともに、昭和5年(1930年)ここに陸橋がかけられた。

 そのまま進むと、臨海セミナーのある建物で左側、右側に分かれている。

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 右側のセブンイレブンが目印だ。

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 ここで横浜市主要地方道83号の太い道(左)と軽井沢公園の横を通る細い道(右)に分岐する。この2つの道のどちらも旧東海道とされており、浅間下交差点で合流する。この分岐は好きなほうを選んでよい。ちなみに私は右、軽井沢公園の横を通る道を選んだ。旧道を感じたからだ。特に見るものはなく、そのまま進んでいたら浅間下交差点北西にある浅間下商店街に到着した。

5.浅間神社

 浅間下商店街を歩いていると右側に「浅間神社参道入口」と書かれた看板がある。

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 ここから幼育園の横を通って浅間神社に向かう。本当に通っても大丈夫なのか?と思うほど細い道を進み、石段を登るとそこに、浅間神社があった。

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浅間神社

 浅間神社は承暦4年(1080年)に源頼朝浅間神社を勧請して造営されたとしている。旧芝生村の鎮守で、現在は浅間町一帯の鎮守である。祭神は木花咲弥姫命(このはなさくやひめのみこと)である。

 昔、この山のそばに海が迫り、山際の狭い場所をすれ違うのに袖が触れ合うほどだったため、「袖すり山」と呼ばれていた。今は海からだいぶ遠くなってしまった。

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地図中央、十字の地点

 浅間神社の前面左手には昔「富士の人穴」と呼ばれる大きな穴があり、富士山の麓までつながっていたと伝わっている。ここは東海道の名物のひとつで、山伏が見せ物の呼び込みをやっていたほどだった。「富士の人穴」は周辺の開発により取り壊され、今はない。

 浅間神社に参拝し、石段を降りて東海道に戻る。このあたりは「旧東海道」と刻まれたプレートが道路に埋め込まれているため、東海道を歩いているかどうか、わかりやすい。

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旧東海道」プレート

6.追分

 住宅街を歩いていくと、「追分」と書かれた案内板を見つける。

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追分

 追分とは一般に道の分岐点を意味するが、ここ、芝生の追分は東海道と八王子道の分岐を意味する。八王子道はここから町田や八王子に続く道で、安政6年(1859年)の横浜開港以後は八王子から横浜に絹が運ばれるようになったことから、「絹の道」とも呼ばれている。格好良く言えば、「日本のシルクロード」だ。

7.洪福寺松原商店街

 追分から進行方向を見ると、「やすさ MATSUBARA 来やすさ」と書かれたアーチが見える。

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洪福寺松原商店街

 ここが洪福寺松原商店街だ。

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混みすぎて先に進めない

 この日は日曜日、八百屋の前は通り過ぎるのに苦労するほど人でごった返していた。家まで遠いので横目で見ただけだが、安くて新鮮な野菜や果物が売られていた。ここまで栄えている商店街を見たのは東海道を歩き始めて、初めてのことだったのでなんだか嬉しくなった。

8.YCVテレミン商店街

 松原商店街入口交差点を越えると、YCVテレミン商店街に入る。

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YCVテレミン商店街

 「ホントに歩く東海道 第1集」では「シルクロード天王町商店街」と書かれているが、商店街の幟には「YCVテレミン商店街」と書かれている。どうやら2019年10月から「YCVテレミン商店街」と名称を変えたらしい。ちなみにYCVとは横浜ケーブルビジョン(横浜市のケーブルテレビ)の通称で、テレミンはYCVのキャラクターである。

9.江戸方見附跡

 YCVテレミン商店街に入るとすぐに、江戸方見附跡と書かれた看板がある。

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江戸方見附跡

 ここは保土ヶ谷宿の江戸方見附があった場所で、かつては土塁の上に竹木で矢来を組んだものがあった。

 もう保土ヶ谷宿に着いたのか、神奈川宿から近かったなと思った。

 なお、江戸時代の旅は1日10里(約40km)歩くのが普通で、午前4時頃に日本橋を出発した人の多くは、次の戸塚宿で泊まる。そんな旅人を保土ヶ谷宿に泊めようと、「留女(とめおんな)」という人が旅人を度々追いかけていた。「東海道中膝栗毛」の弥次さん、喜多さんも留女に戸塚まで追いかけられたようだ。

10.橘樹神社

 そのまま進むと右手側に神社が見えてくる。橘樹(たちばな)神社だ。

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橘樹神社

 創建は文治2年(1186年)、京都の八坂神社の分霊を勧請奉祀したと伝えられている。もとは牛頭天王と呼ばれており、このあたりの天王町という地名はこの神社に由来する。明治時代にこの地、武蔵国橘樹郡の郡名を取って橘樹神社と改められた。

11.帷子橋

 橘樹神社に参拝してから東海道に戻ると、すぐ帷子(かたびら)橋を渡る。

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帷子橋

 このまま行くと行きどまりなのではないか、と思うのは正面に相模鉄道天王町駅があるからだ。

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天王町駅

 天王町駅のガードをくぐるとすぐに復元された帷子橋跡がある。

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帷子橋跡

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 帷子川は昔ここを流れていた。橋と景観の様子は素晴らしく、歌川広重も大変気に入り、保土ヶ谷宿を表す場所として何枚も絵を残したほどだった。しかし帷子川は暴れ川で、下流域にたびたび水害をもたらしていた。そこで横浜市は大規模な改修工事をして、川をまっすぐにした。今流れている帷子川は、先ほど通った帷子橋の下の川である。

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現在の帷子川

 ここからは横浜市主要地方道83号を歩いていく。ここからしばらく歩いていくと左側にロータリーがあり、その奥に保土ヶ谷駅がある。今回はここで終了となる。

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保土ヶ谷

 今回の神奈川駅から保土ヶ谷駅までの区間はやや短めであったが、次回の保土ヶ谷駅から戸塚駅保土ヶ谷宿から戸塚宿までは2里9町(約9km)あるというから、またがんばらなくてはならないだろう。

 

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今回の地図①

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今回の地図②

次回記事はこちら↓

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歩いた日:2021年10月10日

 

【参考文献・参考サイト】

風人社(2020) 「ホントに歩く東海道 第1集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016) 「神奈川の宿場を歩く」 神奈川新聞社

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011) 「神奈川の歴史散歩」 山川出版社