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江戸三十三観音をめぐる 14.世田谷編

 前回、江戸三十三観音第29番札所高野山金剛峰寺東京別院、第30番札所一心寺、第31番札所品川寺、番外札所海雲寺に訪れながら品川方面をめぐった。今回は第32番札所世田谷山観音寺に参拝しつつ世田谷方面をぶらぶらしようと思う。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.世田谷山観音寺

 今日は三軒茶屋駅からスタートだ。

三軒茶屋

 

 三軒茶屋駅から国道246号線を南西に進み、世田谷警察署前交差点で左折する。しばらく進むと右手側に世田谷山観音寺がある。

世田谷山観音寺観音堂

 

 世田谷山観音寺は昭和25年(1950年)、実業家であった太田睦賢和尚が、戦後の世相に感ずるところがあって仏門にはいり、私財を投じて創建したもので、建物・仏像その他の寺宝などのほとんどは、全国から由緒あるものを集めたものである。

 本堂である観音堂には聖観世音菩薩、日光・月光菩薩、木造十六羅漢坐像などが安置されている。

 

 仁王門をはいった左側の六角の不動堂には、国指定の重要文化財である不動明王とその従者の八大童子、都の重宝指定の木造五百羅漢像九躰が安置されている。

不動堂

 不動明王八大童子は運慶の孫の大仏師康円の作で、絵師は法橋重命であったことが、八大童子中の清浄童子の胎内にあった文永9年(1272年)の文書によって明らかで、それによると、この九躰の像は、大和の石上(いそのかみ)神宮の神護寺であった旧永久寺のために造られたものである。

 それが明治初年の廃仏毀釈によって売り払われたものであろうが、保存状態もきわめて良好、九躰一組のものが欠けることなく揃っているのは珍しい。

 

 本堂の左に「特攻平和観音堂」がある。

特攻平和観音堂

 元華頂宮家(もとかちょうのみやけ)の持仏堂を移築したもので、第二次大戦に散華した特攻隊員4704人の霊を祀ってある。

 

 不動堂と向かい合っている3階建ての阿弥陀堂は、京都の金閣の風韻を感じさせるもので、阿弥陀・羅漢・韋駄天地蔵などが祀られている。

阿弥陀堂

 

 ひととおりお参りしたら御朱印をいただく。

 寺の方は気さくな方で、なんと観音堂阿弥陀堂に上がり、聖観世音菩薩像や阿弥陀如来像を撮影していいとまでおっしゃってくれた。撮影はしたものの、ブログに上げていいかは聞けなかったので載せないでおく。気になる人は直接見に行ってほしい。

 

2.三軒茶屋

 蛇崩川緑道(蛇崩川の暗渠)を通って国道246号線に戻り、三軒茶屋駅に戻る。「喫茶セブン」で昼食のミートソーススパゲティを食べ、食後のアイスコーヒーを飲んだ。

蛇崩川緑道

喫茶セブン

 

 三軒茶屋交差点に古い大山道の道標がある。ここで三軒茶屋について説明したい。

大山道の道標

 青山から世田谷新宿・用賀・二子を経て、遠く相模大山の登山口である伊勢原を過ぎ、足柄峠の南側にあった矢倉沢の関所に達する道を、正式には矢倉沢往還という。

 江戸時代の中期以後、江戸市民の大山詣が盛んになると、最初は世田谷新宿回りの道が使われたが、やがて三軒茶屋と用賀の間に近道が開かれて、一般には両道とも「大山道」といわれるようになり、「しがらき」「田中屋」「角屋」という3軒のお茶屋ができて、この辻の付近の俗称が「三軒茶屋」となった。「しがらき」には裏街道を選んで江戸に潜入した坂本龍馬も宿泊したことがあるという。

 文久3年(1863年)8月、外国軍艦の東京湾来航に、海岸通行の危険を感じた幕府は、青山→三軒茶屋→厚木→平塚と通じるルートを本通りとする東海道の付け替えを計画し、沿線の村々に対して、工事目論見に必要な地積や経費を調査して9月11日までに報告するよう命じてきた。諸村の村役人は9月6日、田中屋に集まってその協議をした。

 この問題は実現することなく明治維新をむかえたが、現在は、自動車専用の東海道ともいうべき東名高速道路に接続する首都高速3号線が高架で通っている。

 明治40年(1907年)、最初の郊外電車として玉電が渋谷と二子玉川間に開通し、三軒茶屋はちょうどその中間で、渋谷からここまでが複線、あとは単線であって、乗客の比較的多かった複線区間の折り返し場でもあった。

 

 なお、先ほどの道標の前面には「左 相州通 大山道」右側面に「此方二子通」と刻まれている。背面の銘文から道標は寛延2年(1749年)建立、文化9年(1812年)に再建されたことがわかる。

 近代以降、玉川電車や道路拡幅によって場所が変わったこともあったが、昭和58年(1983年)に三軒茶屋町会の結成50周年事業のひとつとして元の位置に戻された。

 

 三軒茶屋にひときわ高く聳え立つビルがある。キャロットタワーだ。

キャロットタワー

 キャロットタワー三軒茶屋駅の再開発事業により平成8年(1996年)に完成した、地上26階、地下5階建てのビルである。最上階は展望台になっており、無料で登ることができる。

 

3.松蔭神社

  キャロットタワーから降り、教学院に向かう。

 教学院は天台宗の寺院で、竹園山最勝寺という。慶長9年(1604年)の創建といわれ、明治41年(1908年)に青山南町から移ってきた寺で、小田原城主大久保家の菩提寺であった。

 教学院の境内に不動堂があり、江戸五色不動のひとつである目青不動を祀る。脇侍に閻魔大王と奪衣婆が安置されていて閻魔堂ともいう。教学院とともに移転してきたものであるが、もとは麻布谷町にあった観行寺の本尊だったようだ。

 教学院で御朱印をいただいた。御朱印とともに、素敵なしおりもいただいた。

 

  今は6月上旬、境内のあじさいが綺麗だった。

 

 教学院から歩いて30分ほどで、松蔭神社に着いた。

松蔭神社

 吉田松陰は幕末の思想家、教育者で私塾「松下村塾」を主宰し、明治維新を成し遂げた多くの若者を教育した。 しかし、安政の大獄連座し江戸の伝馬町の獄中で30歳の若さで刑死。その4年後の文久3年(1863年)に、松蔭の門下生だった高杉晋作伊藤博文などによって、当時長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の所領で大夫山と呼ばれていたここに改装された。

 明治15年(1882年)11月松蔭門下の人々が相談し、墓畔に社を築いて松蔭の御霊を祀り、神社が創建された。

 なお、吉田松陰が処刑された伝馬町牢屋敷跡は「江戸三十三観音をめぐる 2.人形町・両国・小伝馬町編」の7.大安楽寺 で登場している。

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 松蔭神社で御朱印をいただいた。

 

 境内には松下村塾が模造されている。

松下村塾

 吉田松陰の教育道場であった松下村塾は叔父の玉木文之進天保13年(1842年)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の由来である。

 松蔭は嘉永5年(1852年)23歳のとき半年ほど、安政2年(1855年)26歳の冬出獄してから安政4年(1857年)11月まで、杉家(松蔭の実家)で子弟を教育していた。この月の5月にはじめて八畳一間の塾舎が完成することとなり、松蔭はこのときから塾に起居し塾生に対し子弟同行の実際教育を指導した。

 塾生が増加して手狭になったので安政5年(1858年)3月、十畳半の増築が行われた。松蔭が名実ともに公に認められたのは、安政5年(1858年)7月20日、松蔭29歳のとき、藩主より家学教授を許可され、これから12月に安政の大獄連座し投獄されるまでの5ヶ月間のことである。

 松下村塾で薫陶を受けた塾生は90人前後といわれていて、久坂玄瑞高杉晋作、野村靖、山県有朋品川弥二郎伊藤博文など明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させたことは有名である。

 

 松蔭神社の奥には吉田松陰墓所がある。

吉田松陰墓所

 文久3年(1863年)正月、高杉晋作等は吉田松陰の亡骸を千住小塚原回向院からここ世田谷大夫山の楓の木の下に改葬し、松蔭の御霊の安住の所とした。その後9人の安政の大獄処刑者等がここに改葬された。

 吉田松陰の墓の前に徳川家が奉納した燈籠がある。

徳川家奉納燈籠

 吉田松陰は倒幕を企てた人物なのに徳川家が燈籠を奉納している…死んだら恨みっこなし、の精神なのだろうか?

 

4.世田谷代官屋敷・世田谷区立郷土資料館

 世田谷代官屋敷に行く途中に「幸福の招き猫電車」を見つけた。

幸福の招き猫電車

 この「幸福の招き猫電車」は沿線にある豪徳寺の招き猫伝説に基づくもので、「珍しい電車」と以前聞いたことを思いだし、つい写真に収めてしまった。

 

 松蔭神社から南に歩いて都道3号線に出て右折、カーブス世田谷上町店のある交差点で左折すると世田谷代官屋敷がある。松蔭神社から15分ほどのところにある。

世田谷代官屋敷

 世田谷代官屋敷は寛永10年(1633年)3月、彦根藩世田谷領ができてから、明治2年(1869年)6月の版籍奉還までの236年間、大場氏の代官所であった。

 大きな茅葺屋根の頑丈で質素な母屋、武家屋敷門といっても茅葺きで小型な片袖長屋門は、昭和27年(1952年)東京都史跡に指定され、昭和53年(1978年)1月、国指定の重要文化財に指定された。

 母屋は昭和22年(1947年)まで大場家が住宅として使用していたものだが、昭和42年(1967年)に当初のように復元したもので、式台型の玄関をはいると板床の次の間、その南に切腹の間、その東に代官居間、その東に一段低く板床の名主詰所、母屋の東3分の1は農家にあるような大きな土間で、南北に大戸がある。

 宝暦3年(1753年)に建築されたとなっているが、その後の研究で元文2年(1737年)の可能性が強くなった。

 世田谷代官屋敷は公開しており、なかに入って見ることができた。



 世田谷代官屋敷に隣接して世田谷区立郷土資料館がある。

世田谷区立郷土資料館

 昭和37年(1962年)、第一次区史編纂事業が完了したのを機会に、区制30周年を記念して、昭和39年(1964年)に建てられたもので、展示室などがあり、天正6年(1578年)の「楽市掟」、天正18年(1590年)の「豊臣秀吉禁制」をはじめ大場家文書約4,000点、太子堂の森家文書、大蔵の井上家文書、瀬田の長崎家文書、鎌田の橋本家文書、上野毛の田中家文書、船橋の鈴木家文書など、区内旧家の文書や、厖大な量にのぼる区内出土の古代遺物、武具・農具その他の民俗資料多数を蔵している。

 

 それでは、展示を見ていこう。

 世田谷で見つかっている最も古い段階の石器は、後期旧石器時代前半期の立川ローム層最下部から出土した、大型の打製石斧と局部磨製石斧、台形様石器、ナイフ形石器などである。

 磨製石斧の時代の後はナイフ形石器が主体の時期が長く続く。これは堂ヶ谷戸遺跡から出土したナイフ形石器である。

堂ヶ谷戸遺跡から出土したナイフ形石器

 

 石器に使われる石材は遺跡からそれほど遠くないところで入手できる石と、遺跡から遠く離れた場所でしかとれない石がある。

 砂岩・チャート・頁岩などは多摩川の河原で採取できる。黒曜石や硬質頁岩、安山岩は遠隔地からもたらされた石材で、黒曜石は中部高地・箱根・伊豆・栃木県高原山・神津島などから入手したと考えられている。この槍先形尖頭器と細石刃核はチャート、黒曜石、硬質頁岩などからできている。

槍先形尖頭器と細石刃核

 

 縄文時代に入ると土器が登場する。羽根木2丁目にある根津山遺跡から草創期前半に特徴的な隆起線文土器が出土しており、この土器が世田谷における最古の土器である。

隆起線文土器

 

 顔面把手付土器とは、深鉢形や樽形をした土器の口縁部に、人の顔を表現した装飾のつく土器のことである。

 この土器は、平成31年(2019年)2月に実施された堂ヶ谷戸遺跡の第61次調査において、「土壙墓」とよばれるお墓の底部から、口縁部を上にした正位に置かれた形で出土している。土偶装飾と動物装飾を表した抽象的な文様のみられる樽形の小型土器で、口縁部の一部が欠損しているが、ほぼ完全な形をしている。

顔面把手付土器

 

 縄文後・晩期になりムラが衰退するとともに、土器にも変化が見られる。中期には顔面把手や動物の装飾などの立体的で華やかな文様のついた土器が多く制作されたが、後期になるとJ字状や渦巻状の沈線で描く文様が増加し、次第にシンプルな土器へと変化していく。

 

 世田谷の弥生土器は朝光寺原式土器と東京湾岸系の土器とともに、埼玉県北西部を中心に分布する吉ヶ谷式土器、中部高地系の樽式土器、印旛・手賀沼系の土器などが見つかっている。ここに展示されているのは東京湾岸系の土器である。

東京湾岸系の土器

 

 古墳時代に入ると土器がさらにシンプルになり、土師器と呼ばれるようになる。

土師器

 

  古墳の墳丘平坦部には多様な埴輪が並べられた。墳丘には円筒・朝顔形埴輪、前方部と造出部には鳥形・家形などの形象埴輪や壺形埴輪が据えられ、造出部にはさらに柵形埴輪が並べられていた。

埴輪

 

 野毛大塚古墳は等々力渓谷の西側、野毛1丁目の国分寺崖線上に立地する、5世紀初頭に築造された世田谷最大の古墳である。

 全長82mの帆立貝形古墳で、3段築盛の後円部で高さ10m、短い前方部の脇に造出部が設けられている。

 墳丘の周囲には馬蹄形の周濠がめぐり、墳丘には一部で多摩川でとれる拳大の河原石が葺かれ、平坦部には埴輪が並べられていた。その野毛大塚古墳が1:110の模型になって展示されていた。

野毛大塚古墳の模型

 

 これは明治期に野毛大塚古墳で発掘された箱形石棺のレプリカだ。

箱形石棺のレプリカ

 石棺内部からは、明治30年(1897年)に甲冑・刀剣類・玉類・石製模造品などの副葬品が出土しており、東京国立博物館に所蔵されている。

 

 相之原遺跡は、喜多見4・7丁目から狛江市岩戸南2・3丁目にかけて、多摩川左岸の立川段丘面南縁に立地する集落遺跡である。

 第5次調査35号住居跡の床面直上から多数の土器が完形の状態で出土した。これは炭化材や焼土、被熱した床面が検出されたことから、イエを廃棄するときに土器を供えて建物を焼くような「まつり」が行われた可能性がある。

 

 等々力渓谷横穴墓群は、等々力渓谷内の斜面に築かれた横穴墓群で、少なくとも6基の横穴墓が存在していたと考えられる。

 1号墓から耳環、刀子、須恵器、2号墓から小刀、ガラス勾玉、須恵器、土師器、3号墓から耳環、須恵器、土師器が出土している。

等々力渓谷横穴墓群の出土物

 

 不動橋横穴墓群は、成城3丁目の国分寺崖線斜面に立地し、12基の横穴墓で構成されている。平成10年(1998年)の発掘調査によって、11号墓の壁面に線刻画が発見された。これは線刻画のレプリカで、人が描かれているように見える。

線刻画のレプリカ

 

 稲荷塚古墳は、喜多見4丁目に位置する、直径13m、高さ2.5mの円墳である。古墳が減少し終焉に向かう6世紀末から7世紀初頭頃に築造されたと考えられ、世田谷で確認されている最初期の横穴式石室墳となっている。

稲荷塚古墳の模型

 

 墨書土器は墨で文字などが書かれた土器類のことで、奈良時代に入り現れ、これは使用場所や器の性格を表しているものが多い。

墨書土器

 奈良時代に入り、畿内から次第に各地へ広まったとされる仏教概念を背景とした火葬は、奈良時代にすでに世田谷でも行われていた。

 火葬墓の構造は、地面に穴を掘って骨蔵器を納め、その周囲には木炭を詰め、最後に土を被せるという形態が大半で、その埋葬に使われた骨蔵器が展示されていた(骨蔵器もまさか博物館に展示されることになるとは思わなかっただろう、今で言えば骨壺が展示されているようなものだから)。

骨蔵器

  今でこそ青磁白磁はそこまで高級品でもないという印象だが、11世紀後半から14世紀頃にかけては高級品、ステイタスシンボルだったと展示されている。これは喜多見にいた鎌倉幕府御家人・江戸氏傍流の木田見氏の遺物と推察されていた。

青磁白磁

 14世紀末から15世紀初め頃、世田谷に居館を構えた吉良氏は、室町幕府将軍家の親族であり、東国武家最上位にあった公方・足利氏の御一家という源氏の名門だった。

 16世紀から関東に勢力を拡大した北条氏は、氏綱、氏康のいずれもが城を吉良当主に嫁がせ、強固な姻戚関係を結ぶことで吉良氏を勢力下に置いた。これは吉良氏や北条氏の判物の複製である。

吉良氏や北条氏の判物

 これは中世、各地で作られた板碑で、キリーク(阿弥陀如来)が刻まれている。

板碑

 吉良氏の有力家臣であった大場氏は寛永10年(1633年)、彦根藩世田谷領が成立すると、大場氏はその代官として取り立てられた。これは大場家の家系図である。

大場家の家系図

  彦根藩井伊家は、近江国を本国とする譜代筆頭の大名である。寛永10年(1633年)、2代藩主直孝は、新たに武蔵国下野国に領地を与えられた。このうち、武蔵国の2300石余りが彦根藩世田谷領と呼ばれる。

 世田谷領は、彦根藩領のなかでは最も江戸に近い領地だったため、江戸の彦根藩邸で必要とされるさまざまな物資や労働力の供給地として位置づけられる。

 世田谷領の支配を担った世田谷代官は、年貢米の上納や領内の治安維持、災害場所の見分といった仕事に加え、江戸藩邸の指示に従って村々を差配しなければならず、多忙を極めた。

 「世田谷領は20か村もあるため仕事が忙しく、特に江戸藩邸からいつも労働力の提供を求められ、その手配ばかりしているのに部下すらつけてもらえない」と嘆いたのは10代当主弥十郎であり、肖像画が残る。

 

 先ほど訪れた世田谷代官屋敷の最古の図面がこれで、文化元年(1804年)作成のもの。

世田谷代官屋敷の最古の図面

 代官屋敷北側の道は通称ボロ市通りと呼ばれ、毎年12月15・16日と1月15・16日に開催される「世田谷のボロ市」の主会場となっている。

 ボロ市の起源は天正6年(1578年)に遡るとされていて、文政8年(1825年)に発行された「今様職人尽歌合」でも取り上げられている。

「今様職人尽歌合」

 北条氏滅亡後、世田谷のほとんどの村は徳川氏の直轄地となり、北条氏に従っていた在地の有力者は、新たな支配体制のなかに組み込まれていく。

 吉良氏は上総国に領地を与えられ、旗本となった。吉良氏重臣の江戸氏(のち喜多見氏)は本拠とする喜多見の地を安堵され、のちに2万石の大名となる。

 喜多見陣屋は、鎌倉幕府の有力御家人だった武蔵江戸氏の末裔である喜多見氏の陣屋で、その遺跡からは陣屋に使用されたとみられる瓦が多数出土している。

 

 玉川上水は、江戸市中の飲料水を確保するために開削された上水道多摩川の水を羽村市で取水し、新宿の四谷大木戸まで堀ったもので、全長43kmにおよぶ。

 大木戸から先は、地下に埋められた木樋や石樋によって江戸城内や武家屋敷、町家などに水を供給した。これは玉川上水の木樋である。

玉川上水の木樋

 世田谷村の絵図が展示されていた。

 世田谷村は世田谷区のほぼ中央に位置した。その村域は、世田谷区世田谷、桜、桜丘、豪徳寺、宮坂まで広がり、羽根木と桜新町付近に飛地があった。

世田谷村の絵図

 世田谷をはじめとした江戸周辺地域は、将軍が鷹狩を行う鷹場となっていたため、生活上の様々な規制を受けた。駒場野といわれる現在の東京大学駒場キャンパス一帯では鷹狩だけでなく鹿狩も行われ、その陣立図が展示されていた。

 

 「江戸名所図会」に世田谷の名所、九品仏が紹介されている。九品仏は延宝6年(1678年)に珂磧上人が開いた浄土宗の寺院で、9体の阿弥陀仏像や、3年に1度行われる「お面かぶり」で有名である。九品仏にも行ってみたいが、今回訪れる場所からは遠いので行かなかった。

「江戸名所図会」

 

 近代(幕末~明治初期)の大蔵村ジオラマが展示されていた。こう見ると、世田谷もだいぶ緑が残っていた地域だったことがわかる。

大蔵村ジオラマ

 このジオラマのもととなった「板絵着色大蔵氷川神社奉納絵図」の複製も展示されていた。この絵図は、幕末から明治初期頃の氷川神社境内と旧大蔵村本村付近を描いた奉納額である。

「板絵着色大蔵氷川神社奉納絵図」

 

 幕末の事件といえば、桜田門外の変である。

 安政5年(1858年)、13代彦根藩主・井伊直弼大老に就任した。直弼は、懸案となっていた日米修好通商条約の調印を強行するとともに、13代将軍家定の跡継ぎ問題にも決着をつける。

 一方、自らのやり方に反対する公家や大名らに対しては厳しい取り締まりを行い、安政の大獄で反対派の人々を多数処罰した。先ほど登場した松蔭神社に祀られている吉田松陰もこのとき死罪となった一人である。

 こうした厳しい弾圧に憤激した水戸藩の浪士たちは、安政7年(1860年)3月3日、江戸城桜田門外で直弼を暗殺する(桜田門外の変)。

 井伊直弼の遺骸は、井伊家の菩提寺である豪徳寺にひっそりと葬られた。豪徳寺および井伊直弼の墓は、のちほど行く。

 この絵は大老の供回りと襲撃者の氏名を記し、桜田門外における襲撃の様子を描く「大老彦根俣ヲ襲撃之図」だ。

大老彦根俣ヲ襲撃之図」

 幕末に入り、百姓身分の者が治安維持や軍事を担うため、兵士として取り立てられるようになる(農兵)。

 彦根藩世田谷領では、文久4年(1864年)、村役人などの上層農民やその子弟を中心に、農兵隊が組織された。

 幕府領でも、和泉新田の焔硝蔵の警備を担っていた百姓に対して、銃隊訓練が行われた。これは銃隊訓練で使われたゲベール銃と胴乱(弾丸入れ。葵の御紋が入っている。)である。

ゲベール銃と胴乱

 近代国家が誕生し、新政府の財政を安定化させるために土地・税制の改革は重要課題である。

 明治5年(1872年)、すべての土地所有者に地券を発行し、翌6年7月の地租改正条例によって、地価の3%を地租として徴収することにした。これは地租改正の根本方針である土地の測量や所有者の確定、地価算定の要領を、人々に周知させるために各府県ごとに作成した「地租改正ニ付人民心得書」である。

「地租改正ニ付人民心得書」

  これは高札で、五か条の御誓文を発した翌日の慶応4年(1868年)3月15日、新政府が人民の守るべき心得を示した五種の高札のひとつで、五倫の道を勧め、殺人・放火・窃盗を禁じている。

 明治4年(1871年)7月の廃藩置県に伴い、「彦根藩」の文字が「彦根縣」に改められているのが注目ポイントだ。

 

  江戸時代から明治初年にかけて、庶民の教育機関として寺子屋があった。寺子屋は、読み・書き・そろばんを中心に教える私塾的なものだったが、教育の重要性を認識した新政府は、それを公的な学校に切り替えようと、全国各所に郷学所を開設した。

 この展示物の右側の本は、郷学所の規則を定めた「郷学規則」だ。

「郷学規則」

 世田谷において、明治24年(1891年)の騎兵第一大隊の移転を皮切りに、太子堂三宿など大山道沿いに各種の軍事施設が配置されていった。

 この「軍用旅舎」の旗は、三軒茶屋にあった石橋楼が、陸軍に召集された人々が入営前夜に宿泊する施設である軍用旅舎に指定されていたことから掲げられていた旗である。

「軍用旅舎」の旗

 近代(明治初期)の三軒茶屋ジオラマがある。現代と比べてずいぶんとのどかな風景だ。

 三軒茶屋の地名は江戸時代、旧矢倉沢往還が分かれる三叉路に「田中屋」「角屋」「しがらき」という三軒の茶屋があったことに由来する。

 このなかの一軒「しがらき」は明治2年(1869年)「石橋屋」と名を変え、旅館を兼ねるようになった。明治14年(1881年)には明治天皇が兎狩りを上覧したときに立ち寄り、休憩したようだ。明治31年(1898年)には「石橋楼」と改称し、軍用旅舎に指定された。

三軒茶屋ジオラマ

 これは石橋楼の絵で、ずいぶん大きな旅館だったことがわかる。

石橋楼の絵

 世田谷で最初に敷設された鉄道が、明治40年(1907年)渋谷~玉川(現在の二子玉川)間を結んだ玉川電気鉄道で、その行先プレートが展示されている。

 

 東京市内の発展に伴って土木・建築事業が盛んになり、そのための砂利を多摩川から採取・運搬することが玉川電気鉄道の当初の目的だった。

 大正2年(1913年)開業の京王電気軌道も同様の目的があり、ともにジャリ電と呼ばれた。

 その後、大正12年(1923年)には目黒蒲田線、昭和2年(1927年)には小田急線、大井町線東横線が開通し、電車は郊外から東京へ通勤・通学者を運ぶ役割を担うとともに、沿線地域の宅地化も進めた。

 

 明治中期から農地から宅地への転換が始まる。最初期の郊外住宅地となった玉川電気鉄道沿線の「新町住宅地」は大正2年(1913年)より分譲を開始している。

 こうした電鉄系企業による宅地開発が展開される一方、住民自身による耕地整理や土地区画整理も多数行われた。

 なかでも、玉川全円耕地整理は、玉川村全体の宅地化を目指した、東京近郊で最大規模の土地整理事業だった。玉川全円耕地整理の原形図・現形図が展示されている。

玉川全円耕地整理の原形図・現形図

 

 「大東京区分図三十五区之内世田谷区詳細図」の複製。

 昭和11年(1936年)、北多摩軍の千歳村と砧村が世田谷区に編入された頃の地図。実物は縦78cm×横54cmのサイズで、縮尺は1:20,000ほどである。

 情報統制下、戦時改描が行われる前の図のため、駒沢練兵場、騎兵第一連隊、陸軍自動車学校、読売飛行場などが記されている。

「大東京区分図三十五区之内世田谷区詳細図」

 大八車が展示されている。

大八車

 大八車は、江戸時代から荷物の運搬に使われた荷車で、1台で8人分の仕事ができることから、あるいは、車台の長さが8尺(約2.4m)だからなど、名前の由来は諸説ある。

 世田谷の農家は、主に神田や青山などの市場に向けて野菜を出荷するため、夜中に出発し、帰りは契約した家から下肥を肥桶に入れて積んでいた。

 

 東京市は、明治22年(1889年)に東京府東部の15区を市域として設置された。

 大正11年(1922年)、都市圏拡大のため、東京市外に拡がる「東京都市計画区域」が指定される。

 しかし、翌12年に関東大震災が発生したため、その復興事業の後に、東京市域拡張が具体化していく。

 昭和7年(1932年)、東京市は隣接する5郡82町村を編入して、これを20区に改編した。旧市域の15区とあわせて全35区となる、大東京市の誕生である。

 このとき、荏原郡下の2町2村(世田谷町・駒沢町・松沢村・玉川村)が合併し、東京市世田谷区が成立した。さらに昭和11年(1936年)に砧村・千歳村が世田谷区に編入、現在の区の形となった。

 これは桜小学校の学校日誌で、日誌によると桜小では10月1日に東京市合併記念式が行われ、全児童に記念品が贈られる。記念品は皇居や明治神宮などの写真入り栞だったようだ。

桜小学校の学校日誌

 日本は昭和6年(1931年)の満州事変を契機に、日中戦争・太平洋戦争へと続く15年にわたる戦争の時代に入る。

 これは千人針という出征兵士に送られた守り布で、女性が一人一針ずつ赤い糸で玉留めをしたもの。なぜ虎の意匠かというと「虎は千里を往き、千里を還る」といういい伝えにちなむ。

千人針

 「家庭防火群」のポスターと「消せば消せる焼夷弾」のポスター。

 

 「家庭防火群」のポスターは、防護団が警防団に改組となる昭和14年(1939年)以前のもので、家庭向けに防火対策を解説している。

 昭和16年(1941年)防空法の改正により、空襲から逃げず焼夷弾に突撃することが国民の義務とされた。

 それまでの防空手引の「焼夷弾は消火できない」が、「焼夷弾は簡単に消せる」に変わった。これを見て「被害者が増えただろうな」と思ったのは私だけではないはず。

 結果として、世田谷区では昭和19年(1944年)11月29日の玉川支所管内の空襲をはじめとして、翌20年6月11日までの間に計12回の空襲があった。

 

 昭和20年(1945年)8月15日、ポツダム宣言の受諾と連合国への無条件降伏が国民へ伝えられ、戦争は終結した。

 しかしその後も配給は滞り、日用品、なかでも食糧品の欠乏は深刻で、非合法の闇市や近郊農村への買い出しで食糧を賄わなくてはならなかった。

 これは家庭用品購入通帳で、米や醤油、味噌、塩、魚などの配給品を受け取るための通帳。スーパーで何でも買える現在を考えるといかに食糧に苦労したか想像できる。

家庭用品購入通帳

 朝鮮戦争(1950~1953年)を機に、日本経済はめざましい発展を遂げ、昭和30年(1955年)から高度経済成長期へと突入した。そしてついに電化製品が出回るようになってくる。

 

  関東大震災後に大幅な人口増加が見られた世田谷では、戦時中、一時人口が減少した。しかし、戦後は他区市町村から転入者が増えて人口急増期をむかえ、昭和30年代前半まで増加の一途をたどる。

 昭和40年代に入って増加率はやや鈍化するが、昭和44年(1969年)には人口が74万人を超え、区部第1位となった。

 この頃から、世田谷区は都心へ通勤する人々の生活基盤、いわばベッドタウンとしての性格が一段と強まり、23区内でも特に住宅地が多くを占める住宅都市となった。

 その後、バブル期の地価高騰で平成元年(1989年)以降人口は減少するが、平成8年(1996年)から増加に転じ、平成29年(2017年)には90万人を超えた。

 

 これで常設展示は終わりで、企画展示「世田谷の遺跡調査速報展」に移る。

 これは最近野毛2号墳・14号墳で発掘された埴輪のようだ。

 

 野毛15号墳では周辺覆土から土師器坏、広口壺と埴輪片が出土した。

 

 上神明遺跡では、世田谷区内初となる縄文時代草創期に特徴的な土器や石器が出土した。

 

 六所東遺跡では深鉢などのほか、縄文時代前期の住居跡1軒・中期の住居跡1軒・古墳周濠1基・中世の溝1条・近世の道路跡1本が確認された。

 

 下野毛遺跡では勝坂式土器のほか、旧石器時代遺物集中部1基・縄文時代の住居跡15軒・中世以降の溝3条・近代~現代の道路跡2本などが確認された。

 

  企画展示コーナーには「世田谷区の文芸」も展示されていた。

 これは佐竹永海の絵で、佐竹永海は、江戸で名声を博した谷文晁の高弟として知られた画人である。

 彦根藩・井伊家の御用絵師も務めており、そうした関係から彦根藩世田谷領代官・大場家ともかかわりがあり、大場家屋敷内の小襖絵を描き、また席画風の小品も大場家に伝えられている。

 これは嘉永6年(1853年)に描かれた「鯉幟図」。鯉のぼりの躍動感が伝わる。

「鯉幟図」

 これは明治4年(1871年)に描かれた「鴨図」。丸っこい鴨が愛らしい。

「鴨図」

 この「鶉(うずら)に茄子図」も優しい作品で好きだ。

「鶉(うずら)に茄子図」

 

 あとは、「ちょっと昔のくらしと道具」。たらいと洗濯板が展示されていた。割とどこの郷土資料館でも見る展示である。

 

 これは「大蛇お練り」のジオラマだ。

「大蛇お練り」

 江戸時代の中頃、奥沢で疫病が流行し、多くの村人が病に倒れた。ある夜、この村の名主の夢枕に八幡大神が現れ、「藁で作った大蛇を村人が担ぎ、村内を巡行させるとよい」とのお告げがあり、早速実行するとたちまち疫病が治まったという。このいい伝えから、奥沢神社の例大祭では今でも大蛇お練りが行われている。

 

 二十五菩薩練供養のジオラマもある。

「二十五菩薩練供養」

 奥沢の九品仏で3年に1度、5月5日に行われ、一般に「来迎会」とも「お面かぶり」とも呼ばれる。

 阿弥陀如来が菩薩を従えて、衆生を極楽浄土へ導くことを表した行事である。この世を表す本堂と極楽浄土を表す上品堂との間に架けられた橋を、信者は観音・勢至菩薩など25観音のお面をつけて往復する。

 

 展示を見終わり、外に出ると火災報知器と衛兵詰所が展示されている。

火災報知器

衛兵詰所

 かつては電信柱と同様に火災報知器が道路脇に設置されていたが、電話台数の増加にともなって徐々に火災報知器からの通報件数が減少したため、昭和49年(1974年)までにはすべての報知器が撤去された。この報知器は昭和48年(1973年)に世田谷消防署から寄贈されたもの。

 衛兵詰所は太平洋戦争中、ウテナ本舗・株式会社久保政吉商店の烏山工場地に置かれたもので、昭和62年(1987年)に世田谷区郷土資料館に移設された。

 

5.豪徳寺

 世田谷区立郷土資料館をあとにし、都道3号線まで戻り、そのまま直進する。突き当たりを左折すると世田谷城阯公園が見えてくる。世田谷区立郷土資料館からおよそ10分ほどだ。

世田谷城阯公園

 世田谷城は14世紀後半に吉良治家が居住したのに始まると伝える。

 吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、世田谷吉良氏はその庶流にあたる。はじめ鎌倉公方に仕え、15世紀後半に関東が乱れると関東管領・上杉氏やその家宰・太田道灌に与力し、16世紀には北条氏と結んだ。

 北条氏と上杉氏との勢力争いで、享禄3年(1530年)には世田谷城は攻略されたと伝えるが、のち吉良氏の手に復した。

 この間、吉良氏は北条氏と婚姻関係を結び、その庇護下にあったが、天正18年(1590年)、豊臣氏の小田原攻略により、世田谷城も廃城となった。

 世田谷城の濠・土塁の構造は天文6年(1537年)の再築とされる深大寺城のそれと類似しており、16世紀前半に防御のため、大改築がなされたことが窺える。

 

 世田谷城阯公園をあとにして、豪徳寺へ向かう。

 豪徳寺曹洞宗の寺院で、大谿山洞春院豪徳寺(だいけいざんどうしゅんいんごうとくじ)と号し、芝高輪泉岳寺の末寺で、文明12年(1480年)世田谷城主吉良政忠が、伯母の弘徳院殿久栄理椿大姉(こうとくいんでんきゅうえいりしゅんだいし)のため、弘徳庵という庵室を世田谷城内に建てた。

 開山は臨済宗の馬堂昌誉(ばどうしょうよ)、天正12年(1584年)門庵宗関のとき曹洞宗に改められる。

 天正18年(1590年)、北条氏の滅亡に伴って吉良氏が没落し、世田谷城も廃城となって弘徳院も衰微していた。

 寛永10年(1633年)3世雪岺和尚のとき、彦根藩世田谷領が成立してから井伊家の江戸における菩提寺となり、殿舎堂閣の新設や修復が行われ、藩主直孝が没してここに葬られると、その法号、久昌院殿豪徳天英大居士にちなんで、寺名を「豪徳寺」と改めた。

 主要な建物は禅宗伽藍配置の基本通りに、手前から山門、仏殿、法堂と一直線に建てられている、山門の額は「碧雲関(へきうんかん)」、仏殿の額は「弎世仏(さんぜぶつ)」である。

 一般には本堂と呼びたい位置にある法堂は、坐禅を専門にする禅堂と、学問所である講堂とを一つにしたもので、禅寺のもっとも大切なお堂である。それは他力本願の宗派とちがい、禅宗は参禅大悟することによりみずからが仏になろうとする教義であるからである。

豪徳寺 法堂

 仏殿の西に「招福庵」という小堂があって、招福観世音というが、俗にいうと招き猫観音が祀ってある。

招福庵

 伝説であるから経緯はいろいろあるが、雪岺和尚の愛猫が井伊直孝を招き寄せ、雪岺和尚の高徳に感じた直孝がこの寺を菩提寺と定めたため、寺運が隆盛に向かったので、猫は観世音菩薩の化身であったろうとして祀られたようだ。

 お堂の横に猫の墓があって、傍らに招き猫がたくさん納められている。招き猫がたくさんいる光景は壮観で、これがよく「豪徳寺」の紹介で写される光景である。

 

 招福庵の前を西に進むと、石塀に囲まれた井伊家の墓所がある。

井伊家墓所

 門をはいって突き当たりが直孝の墓で、その前を左に曲がって一番奥の左に、桜田門外の変で水戸の浪士らに殺された大老井伊直弼の墓がある。

 

井伊直弼の墓

 井伊直弼が殺されたのは、3月3日であるのに、墓碑には「閏三月二十八日」と刻まれている。

 これは当時大名ともあろうものが、路上で殺されるような油断があれば、その藩は断絶という定めであったので、幕府がとりあえず直弼急病ということにして、わざわざ将軍から見舞使を差し向けるなどして、表向きは翌月28日に病死として藩の取り潰しを免れさせたからで、江戸市民はこの間の事情を、「人参で 首をつなげと 御使い」と川柳にして、幕府の取り繕い方を揶揄している。

 

 「あれ、御朱印は?」と思った人もいるだろう。豪徳寺に訪れたのは16時過ぎ、すでに寺務所は閉まっていた。寺務所は早いところで16時、遅いところで17時まで開けていることが多い。

 しかし、豪徳寺はなんと15時に寺務所を閉めるようだ。このため、御朱印をいただくことができなかった。

 15時に閉めるなんていくらなんでも早すぎやしないか、とは思うが、閉まったものは仕方ないので、今日は縁がなかったと考えることにして後日もらいに行こうと思う。

 

6.世田谷八幡宮

 豪徳寺をあとにして、山門を右折、突き当たりを左折して世田谷線の踏切を渡るとすぐ、世田谷八幡宮がある。

世田谷八幡宮

 世田谷八幡宮の祭神は仲哀天皇神功皇后応神天皇後三年の役に、奥州の清原武衡(きよはらのたけひら)・家衡を平定した八幡太郎 源吉家が戦勝を祝して勧請したと伝えられる。

 初見される文献としては、「世田谷徴古録」に記載のある棟札で、吉良頼康が大檀那として社殿を造立し、鶴岡八幡宮の社僧・相承院快元を導師として招き、天文15年(1548年)8月20日斧立(斧入れ始め式)、同12月16日上棟、同20日遷宮がなされている。

 天正19年(1591年)、徳川家より社領11石を寄進され、朱印地は田畑約3町9反であった。

 明治5年(1872年)に郷社宇佐神社となったが、その後朱印状などの文献によって、世田谷八幡宮と社名を復元した。毎年9月15日の大祭に奉納される角力(すもう)が有名である。この相撲は江戸三相撲と呼ばれた。江戸三相撲の残りは渋谷氷川神社、大井鹿嶋神社で、渋谷氷川神社と土俵は「うさぎの気まぐれまちあるき 渋谷の凸凹地形体験の集い(第1回)」で登場している。

土俵

octoberabbit.hatenablog.com

 

 なお、世田谷八幡宮も16時に社務所を閉めていたので御朱印をいただけなかった。残念。

 

 世田谷八幡宮のあと、GoogleMapを見て行ってみたいと思う洋館を見つけてしまったので行ってみた。旧尾崎テオドラ邸である。

旧尾崎テオドラ邸

 

 旧尾崎テオドラ邸は明治21年(1888年)にイギリス生まれの令嬢テオドラのため、日本人の父である男爵が建てたと言われている。

 当初は港区にあったが、譲り受けた英文学者が一度解体し、昭和8年(1933年)に現在の場所に移築した。テオドラはのちに東京市長尾崎行雄の妻となった。

 この洋館は令和2年(2020年)夏に取り壊される予定だったが、この洋館を愛する近隣住民およびネットでの呼びかけに賛同し署名を寄せた4,000人を超える人々の応援を受けて存続が決まった。

 漫画家の山下和美が中心となり「一般社団法人 旧尾崎邸保存プロジェクト」を設立し、ほぼ全財産をつぎこみ土地家屋を取得、洋館は社団法人のものとなった。

 内部は撮影可能である。

 なかにはギャラリーとカフェがあり、ギャラリーでは文月今日子さんの展示が行われていた(展示は撮影禁止)。

 旧尾崎テオドラ邸をあとにして思ったのは、洋館と漫画家さんの展示を見られるのはよいが、1,500円の入館料はかなりお高めの値段設定だな、ということだった。

 

 旧尾崎テオドラ邸を出て、山下駅から世田谷線に乗る。

 

 三軒茶屋駅で乗り換え、駒沢大学駅へ。向かったのは「地理系ブックカフェ 空想地図」さん。

 空想地図さんはイベント等で何度か訪れたこともあり、店の人にも顔を覚えていただいている関係性だ。

 なかには地理系の書籍がたくさんあり、何か注文すれば自由に閲覧することができる。

 

 訪れたときは「どこから来たのマップ」というイベントがやっており、私と友人はそれぞれの家にシールを貼った。

 

 ちなみに空想地図さん、地理系書籍もさることながら食べ物もおいしい。私のお気に入りは「ジオムライス」だ。

ジオムライス

 

 ホットコーヒーを頼むとどこかの地図柄マグカップに入って提供される。この日は港区のカップだった。

 

 しばらく地図を見て友人と遊んだ後、オープンクレーププレートをデザートにいただいた。

 

 世田谷山観音寺は実業家が建てた珍しい寺院だった。三軒茶屋は大学時代たびたび飲み会で訪れていたが「喫茶セブン」は初訪問だったしまじまじと歴史を見たのは初めてだった。松蔭神社では吉田松陰の遺徳を偲んだ。世田谷区立郷土資料館は無料にしてはすごくクオリティが高く、充実していた。豪徳寺は「招き猫の寺院」として知っていたが実際に訪れたのは初めてで、招き猫の数に圧倒された。世田谷八幡宮では時間の関係で御朱印をいただけなかったのが残念で、また再訪したいと思っている。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2024年6月8日

【参考文献】

荻野三七彦・森安彦(1979) 「世田谷区の歴史」 名著出版

江戸札所会(2010) 「昭和新撰江戸三十三観音札所案内」

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

石井建志(2024) 「あなたも知らない世田谷城のむかし話―豪徳寺九品仏の物語―」