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うさぎの気まぐれまちあるき 渋谷の凸凹地形体験の集い(第1回)

 「お写ん歩書房」の石井建志さんにお誘いいただき、「渋谷の凸凹地形体験の集い(第1回)」に参加してきた。渋谷といえば若者の街、もう若者でなくなりかけている私は社会人になって足が遠のきつつあったが、改めて見ると面白いものもいろいろあるのだなと感じた。

1.宮益御嶽神社

 集合場所は宮下パーク…だったのだが、待ち合わせ場所がわかりづらく、私は集合できないままイベントが開始してしまった。なので序盤の一部(合流する金王八幡神社まで)は抜けがあることをご了承願いたい。

 イベントに合流できず途方に暮れていたところ、「宮益御嶽神社にいます」と連絡があったので向かう。

宮益御嶽神社

 この神社の前の坂は宮益坂という。この坂はかつて富士見坂ともよばれ、矢倉沢往還(大山道)の江戸市中と郊外農村とを結ぶ要であり、付近には商人町が形成されていた。これを渋谷新町といったが、坂の途中にあった御嶽神社の霊験にあやかって、町名を渋谷宮益坂と改称したため、坂の名前も宮益坂になったという。宮益坂の由来はこの神社から来たということだ。

 御嶽神社は、奈良県吉野の金峰神社を分祭したもので、室町時代の創建といわれている。

 軽く参拝を済ませる。「宮益御嶽神社にいます」と連絡したところ、今回のイベントの参加者の飯塚さんと山脇さんが迎えに来てくれて、一緒に金王八幡宮まで向かう。道中、几号点や東海道の話もできたので、遅刻してなかったらこの話をする機会はなかったかもな、と思った。

2.金王八幡宮・豊栄稲荷神社

金王八幡宮

 金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)に着いたら、まだ主催者の石井さんが解説中でイベントに無事合流することができた。よかった。話し終わったタイミングで参加費を払った。

 地元では「こんのう様」とよばれて親しまれているこの八幡社は、社記では寛治6年(1092年)に渋谷氏の祖河崎基家が創建したと伝える。

 河崎一族は、秩父平氏の流れをくみ、平安時代の末ごろ、当時 谷盛庄(やもりのしょう)と称されていたこの一帯を領していた。基家の子重家の代に、堀川法皇のすすめにしたがって姓を「渋谷」と改めたことから、「渋谷」の地名がうまれたとの説がある。

 また、重家が八幡神に祈願して嫡男 金王丸(こんのうまる)(のちの重国)をさずかったことから、金王八幡の名がおこったという。

 現在の社殿と門は、この当時のものとされ、後世いくたびもの修理を経てはいるが、江戸時代前期から中期の様式をとどめる、渋谷区内最古の木造建築物である。

 渋谷駅から近くに、こんなに緑に囲まれた神社があるとは知らなかった。

豊栄稲荷神社

 金王八幡宮の隣には、豊栄稲荷神社(とよさかいなりじんじゃ)もある。

 もとは渋谷駅近くにあったが、首都高速3号線の建設に伴って現在地に移転してきた。

庚申塔たち

 境内の道路沿いに並べられた11基の庚申塔のうち、右から7基目のものには「めぐろ こんわう道」ときざまれていて、この塔が道標ともなっていたことがわかる。

 渋谷にこんなに庚申塔が集まっている場所があるなんて、知らなかった。

 次の目的地は、國學院大學博物館だ。そこに向かう途中に、五月みどりの家を見つけた。一世を風靡したらしいティッシュケースが展示されていた。「これが一世を風靡したティッシュケースだ!」とおじさまおばさま方ははしゃいでいたが、20代の私は「なんのこっちゃ」と思いながらティッシュケースの写真を撮った。

 

 國學院大學博物館に到着した。さあ展示物を見るぞ!と意気込んだら…

國學院大學博物館

 まさかの閉館。どうやら「共通テスト」の会場になるため、閉館していたようだ。今は「共通テスト」と言うらしい。「センター試験」と言ってしまう私は既に古い人間だ。

 「東京都の歴史散歩 中 山手」によると、國學院大學博物館の常設展示室は、考古・神道・校史の3ゾーンからなり、重要文化財の石枕や日本唯一の挙手人面土器などの考古資料、まつりに焦点を当てた神道関連の民俗資料などが一般に公開され、随時、企画展示も行っているようだ。機会があれば、また行ってみたい。

3.渋谷氷川神社

 國學院大學博物館の南側に、渋谷氷川神社がある。

渋谷氷川神社

 創建された時期は不明であるが、渋谷区内最古とされ、江戸時代には下渋谷村・下豊沢村(現在の恵比寿周辺)の惣鎮守であった。

 なぜか、境内に長野の野菜などを販売する移動販売車が来ていた。

 階段を降りると、氷川の杜公園に出る。そのすり鉢状の地形の底部に土俵が設けられている。

金王相撲跡

 これは、祭日に境内で行われていた「金王相撲」の名残りで、斜面は観客席となっていたらしい。江戸時代には「江戸郊外三大相撲」(ほかは大井鹿島神社と世田谷宮坂八幡神社)の1つとされ、本職の力士のほかに近郷の若者も加わって相撲をとり、江戸市中からの見物人も集めて大いに賑わったという。

 相撲の土俵を見たのは大学時代にゼミで行った奄美大島にある宇検村の宇検集落以来だったが、渋谷に相撲の土俵があるなんて思ってもいなかった。

4.旧朝倉家住宅

 渋谷の路地を進むと突然クジラが現れる。改良湯のクジラだ。

 日本では古くから「寄り鯨の到来で、七浦が潤う」(浅瀬に迷い込んだ鯨一頭で七つの漁村の暮らしが潤う)と言われ、鯨類は漁業の神である「恵比寿様」と同一視されていた。このことから恵比寿に近いここにクジラの絵が描かれているようだ。

 改良湯はサウナがいいらしいので、機会があれば行ってみたい。

 路地を進むと大きな松が現れた。この松に特に名前はないらしい。

 都道305号線に出て、セブンイレブン谷東3丁目店でトイレ休憩を済ませる。この近くにラーメンの自販機があった。美味しいのだろうか。気になる。

 

 東3丁目交差点で左折し、渋谷川を渡る。

 

 山手線を越え、突き当たりを左折すると尾根にたどり着く。

代官山の地形図

 図の中心あたり、ちょうど尾根になっている。

 西側の坂道を降りていくとまっすぐな道を見つける。これは東急東横線の線路があった場所に作られたログロード代官山である。

ログロード代官山

昭和56年(1981年)の地形図

現在の地理院地図

 東急東横線は平成25年(2013年)に渋谷駅~代官山駅の間が地中化された。その工事はなんと3時間で行われたらしい。

 代官山駅の駅前にだんごがあった。風力発電の機械らしい。

 

 今度はハスを見つけた。これは太陽光発電の機械らしい。

 

 都道317号線から少し入ったところに、古い建物がある。旧朝倉家住宅だ。

旧朝倉家住宅

 旧朝倉家住宅は、猿楽町の南西斜面を利用して東京府議会議長や渋谷区議会議長を歴任した朝倉虎治郎によって大正8年(1919年)に建てられた。その際、虎治郎は、材木店で働いた経験を生かし、自ら屋敷に使う材木を運んだという。

 その後、戦後の困難期に社団法人中央馬事会へ売却された旧朝倉家住宅は、旧農林省に譲渡されるなどの歴史を経て、昭和39年(1964年)から現在の内閣府の前身である経済企画庁の渋谷会議所として近年まで使用されていた。

木製レール

 旧朝倉家住宅のガラス戸は足元が鉄ではなく堅木のレールになっている。鉄錆による汚損がなく、1つ1つのレールが短いため交換も簡便だったためと思われるが、これが広く普及したということはなかったようだ。

応接間

 ここは応接間である。応接間は書院造となっている。書院造は、掛け軸などを飾る床の間、文具などを飾る段違いになった違棚、書院により構成される。朝倉家が一族で集まるときなどにこの部屋を使用したようだ。

広間

 2階に上がると広間があった。旧朝倉家住宅で最も格式高い書院造の座敷で、朝倉虎治郎が公職在職中に、公的接客で使用したと思われる。格天井、筬(おさ)欄間、壁には内法長押の上にも長押を二重に回し、格式を高めている。

 1階に戻り、杉の間に向かう。

杉の間

 杉の間は、東側の角の一間は書院風だが、奥の二間はくだけた意匠をもつ数寄屋風の座敷としている。特に南の部屋は、あらゆる杉材の木目を板目で見せる一風変わったものである。

第一会議室

 ここは第一会議室。朝倉家本邸として使っていたときは寝間、中の間、仏間だったが、中央官庁渋谷会議所として使用されていた時期に洋風の会議室に改造されたようだ。

洋間

 ここは洋間である。旧朝倉家住宅には洋式の大規模な宴を開く必要がなかったため洋館はなかった。しかし、来客用に洋式の接待ができるようにとの配慮から、1部屋だけ洋間を作った。この部屋は来客応対や執事の事務に使われていたようだ。

庭園

 朝倉家住宅の庭園は、大正時代の和風住宅に対応した庭の姿を随所に残している。

 主庭は、西渋谷台地の崖線部にあるため、斜面とその上部平地からなり、敷地外の眺望を借景として取り入れ、富士山や目黒川、田園風景が望めるような構成になっていた。

 この庭を通って、旧朝倉家住宅をあとにした。

5.猿楽塚古墳

 旧朝倉家住宅を出て都道317号線を北に進むと左手側に猿楽塚古墳がある。

猿楽塚古墳

 この塚の名前がこのあたりの町名、「猿楽町」の起源となった。

 塚は、6~7世紀頃に造られた高さ5mほどの円墳とみられるが、内部は未調査である。

 現在は、墳頂に祠が設けられ神社となっている。

6.西郷山公園・菅刈公園

 猿楽塚古墳をあとにして都道317号線を進み、代官山マンションスクエアのある交差点で左折して路地を北に歩いていくと、西郷山公園に着く。

西郷山公園

 ここから富士山が見えるらしいが、残念ながら見えなかった。

 公園名の由来はこの土地が旧西郷邸(西郷隆盛の弟で明治期の政治家・軍人であった西郷従道(じゅうどう)の敷地)の北東部分にあたり、付近の人々が「西郷山」という通称で親しまれていたところから決まった。

 台地の端の斜面を利用して造られた公園で、斜面には20mの落差をもつ人工の滝が作られているほか、ゆるやかな坂道の園路や展望台が設けられ、冬のよく晴れた日には遠くの富士山も望める。

 西郷山公園の山を下り、菅刈公園に向かう。

菅刈公園

 目黒区青葉台2丁目のこのあたりは、江戸時代には「荒城の月」で知られる豊後の岡藩の屋敷があり、滝や池がある回遊式の大名庭園として、江戸時代の地誌に江戸の名所として紹介されていた。

 その後、明治7年(1874年)に西郷従道がこの土地を購入し、洋館や和館を建造した。庭園についても、池・滝・大芝生地など大改修が行われ、「東都一の名園」と言われた。

 その後、旧国鉄の職員宿舎などとなっていたが、平成9年(1997年)の調査で、庭園調査を行い、在りし日の名園の姿を一部復原した公園として整備された。

 菅刈公園をあとにして、公園の北側を進む。下がって、上っているのがよくわかる。

 

 道なりに進み、ローソン渋谷鶯谷町店前の交差点を左折して急坂を登る。

赤丸の坂を登る

 

 さくら坂を下りる。

図の赤丸がさくら坂

さくら坂

 さくら坂を下り、渋谷駅C2出口付近に来ると渋谷川沿いの稲荷橋広場にイルミネーションがかかっていた。少し下水臭かったのが玉にキズだったが。

 稲荷橋広場は、イベントスペースとして活用されているようだ。

 ここの大階段で記念撮影をして、お開きになった。

 有志で飲み会があったので、参加した。

 やはり歩いた後のビールは美味しい。

 「渋谷は若者の街」といわれ、つい渋谷駅周辺のみに目がいってしまうが、そのさらに周辺には神社や、古墳や、古い建物が残っている。そんなことを知れた1日だった。

今回の地図

歩いた日:2023年1月15日

【参考文献・参考サイト】

東京都歴史教育研究会(2018)「東京都の歴史散歩 中 山手」山川出版社

目黒区 西郷山公園

https://www.city.meguro.tokyo.jp/shisetsu/shisetsu/koen/saigo.html

目黒区 菅刈公園

https://www.city.meguro.tokyo.jp/shisetsu/shisetsu/koen/sugekari.html

(2023年1月18日最終閲覧)