前回は日本橋を出発し、品川駅まで歩いた。今回は品川駅を出発し、川崎駅まで歩く予定である。しかし強風のため、途中の大森海岸駅で引き揚げてしまった。今回は品川駅から大森海岸駅まで歩いた記録とする。
- 1.髙山稲荷神社
- 2.品川宿
- 3.問答河岸跡
- 4.土蔵相模跡
- 5.街道松
- 6.品海公園
- 7.養願寺・一心寺
- 8.聖蹟公園
- 9.品川宿交流館
- 10.品川寺
- 11.青雲稲荷神社
- 12.鮫洲八幡神社
- 13.立会川の坂本龍馬像
- 14.浜川橋
- 15.天祖諏訪神社
- 16.しながわ区民公園
- 17.鈴ヶ森刑場跡
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前回終了した、品川駅から今回の散策を始める。
1.髙山稲荷神社
品川駅から少し南進すると見えてくるのが髙山稲荷神社だ。
髙山稲荷神社の創建年代は不明だが、明治元年に現在地へ遷座した。祭神は宇迦之御魂神(うかのみたま)となっている。
少し進むと、8kmポストが見えてくる。
ここからしばらく国道15号を離れるので、キロポストともお別れとなる。
2.品川宿
八ツ山交差点を左折し、線路を超えたら交差点を右折する。そのまま歩くと北品川本通り商店街に到着する。ここからが品川宿だ。
ここは第一京浜国道の拡幅の際、人家が多いため旧道が残され、震災・戦災も受けなかったため、古いたたずまいが今でも残る街である。
品川宿とは、東海道で日本橋を出て最初の宿駅である。宿駅指定は慶長6年(1601年)とされている。江戸に最も近い宿場だったため、江戸の玄関口として、宿駅というよりは社交の場として賑わっていた。品川宿は長期旅行者の宿泊所というよりは、江戸の人が近郷の神社・仏閣へ参詣に出かけたりした帰りに遅くなって休泊する利用者が多かった。そして品川御殿山の桜、袖ヶ浦の汐干狩り、海妟寺の紅葉狩りなどで、江戸市民が季節ごとに訪れた。
日本橋から二里(約8km)で、最も江戸に近い宿場だったため、この宿場では飯盛女(めしもりおんな。娼婦のこと。)が特別に許可されていた。そのため多くの旅籠屋は、貸座敷として旅人を宿泊させるだけでなく、江戸の人々にとって手近な遊興の場所にもなっていた。経済的に余裕が出てきた江戸市民の手頃な行楽地として、品川宿は発展したのである。
そして品川宿は芝高輪町から大井村までの間、南北約2kmにわたり続く、海沿いの細長い宿場町だった。そのため、しばらく品川宿の話になる。
3.問答河岸跡
少し進むと、「問答河岸跡」と書かれた石碑を見つける。
これは、徳川家光と東海寺の住職、沢庵のやりとりが行われた場所である。そのやりとりとは以下の通りである。
徳川家光が「海が近いのになぜ東海寺という名前なのか?」と沢庵に質問した。東海寺(とうかいじ)は遠海寺(とうかいじ)と音が同じだからだろう。
そこで、沢庵は「大軍を率いた将軍でも、将軍と言うでしょう?」と答えた。これも、将軍(しょうぐん)と小軍(しょうぐん)が同じ音だからである。
要は、駄洒落のやり取りである。
4.土蔵相模跡
少し進むと、「土蔵相模跡」と書かれた石碑を見つける。
これはかつてあった食売旅籠屋(めしうりはたごや)「相模屋」の俗称で、奥座敷が土蔵造りになっていたことから「土蔵相模屋」と呼ばれた。桜田門外の変での水戸浪士やイギリス公使館焼き討ちでの高杉晋作や伊藤俊輔(のちの伊藤博文)ら長州藩士の集合場所として使用された。昭和54年(1979年)発行の「品川区の歴史」には「二階の柱に幕末期につけられた刀きずという跡が残っている」と書かれているが、現在も残っているかは不明である。
5.街道松
品川宿には街道松が多く植えられている。
街道松とは東海道のほかの宿場との兄弟松で、袋井宿、藤沢宿、坂下宿、土山宿、枚方宿、浜松宿、三島宿、亀山宿の街道松が植えられている。街道松の分布は以下の通りである。
6.品海公園
しばらく進むと品海公園に到着する。
品海公園にある石垣石は、かつて品川宿の街道筋の土留めと目黒川の護岸を兼ねた石垣として組まれており、組まれた時期は幕末から明治時代と言われている。
7.養願寺・一心寺
しばらく進むと虚空蔵横町と書かれた札を見つける。
東海道北品川本宿から養願寺への横町を通称「虚空蔵横町」というらしい。これは養願寺境内の虚空蔵堂が「品川の虚空蔵さま」として親しまれたのに起源する。そのまま右に折れて養願寺へ寄ってみる。
養願寺は正安元年(1299年)に創建された天台宗の寺院である。このあたりを七福神巡りとする、「東海七福神」では布袋尊の札所になっている。
養願寺の向かい側には一心寺がある。
一心寺は安政2年(1855年)創建の真言宗の寺院である。こちらも「東海七福神」の札所で、寿老人が祀られている。
8.聖蹟公園
しばらく進むと聖蹟公園に到着する。
ここは品川宿本陣の跡で、江戸時代、東海道を行き来する諸大名や公家・門跡などの宿泊・休息所として賑わった。明治元年(1868年)に明治天皇行幸の際の行在所になったことにちなみ、聖蹟公園と名付けられた。
9.品川宿交流館
少し寄り道してみる。
品川宿交流館は「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」が管理・運営する施設で、1階は貸しギャラリー、2階に品川宿の展示、3階と4階は品川区民の多目的スペースとなっている。2階に品川宿の展示があったので少し見せていただいた。
品川宿交流館をあとにして南に進むと、すぐ橋がある。これは品川橋だ。
品川橋とは目黒川にかかる橋で、ここが北品川と南品川の境界である。
しばらく進むと青物横丁商店街に入っていた。
10.品川寺
しばらく南に進むと右手側に品川寺(ほんせんじ)がある。
品川寺とは大同年間(806~810年)に創立された寺院で、本尊は観世音菩薩となっている。この本尊は太田道灌が持ってきたものと伝えられている。ここも「東海七福神」の札所で、毘沙門天が祀られている。
江戸六地蔵の第一番目にあたる銅像地蔵尊も祀られており、これは武蔵坊正元が勧進して建立したもので、東京都指定文化財である。
御朱印をいただいた折に、寺の人といろいろ話をした。そこで印象に残っているのは「鈴ヶ森刑場跡には気を付けたほうがいい。あなたは若いから回り道をしてほしいくらいだ。あそこで霊に憑かれる人もいるから。」と言われたことだった。少しぞっとしたから、鈴ヶ森刑場跡は足早に通り過ぎることを決めた。
11.青雲稲荷神社
このあたりは鮫洲商店街である。鮫洲とは、建長3年(1251年)頃、品川の海上で大鮫の死体を漁師がとりあげ、腹をさいたところ、正観音の木造が出現したことから生まれた地名とされている。現在は鮫洲といえば免許試験場を連想する人が多い。
商店街と書かれているが住宅街が続いている。つまり、書くネタがない。そのとき、「青雲稲荷神社」の看板を見つけた。
この看板の位置で右折し、突き当たりを右折する。看板からすぐにあるのかと思ったら案外遠く、これ以上遠かったら諦めようと思った頃に到着した。
小さな、稲荷神社である。
12.鮫洲八幡神社
青雲稲荷神社に参拝してから東海道へ戻り、南へ進むとすぐに鮫洲八幡神社があった。
鮫洲八幡神社はかつての御林漁師町の鎮守である。「江戸砂子」に「鮫洲明神さみずの海辺にあり。今砂水と書く。むかし此浜へ丈余の鮫あがる。漁夫どもこれを殺してけり。その折ふし此辺疫病大にはやる。かの鮫のたたり也とて、鮫の頭を神にまつりて鮫頭明神というと也。」と記してある。
鮫洲八幡神社に頭を祀られた鮫は、先ほどの正観音像の出てきた鮫と同じ個体なのかはわからない。
13.立会川の坂本龍馬像
閑静な住宅街を歩いていると、小さな稲荷神社を見つけたので参拝しようと思った。仲町稲荷神社だ。
そして、仲町稲荷神社から周りを見たら銅像があるのが目に入った。近づいて確認したら、坂本龍馬の銅像だった。
なぜこんなところに坂本龍馬がいるのか?と思ってしまった。桂浜にいるならともかく、ここは品川だ。近くの説明版を見ると、こう解説されていた。
ペリーが初めて来航したとき、坂本龍馬は江戸で剣術の修行をしていた。ペリー来航後、土佐藩は立会川河口付近にあった下屋敷の警備のため、土佐藩の武士を動員した。そのなかに坂本龍馬もいた。このことから坂本龍馬の幕末が始まったことを記念して、この銅像が作られた。
威厳に満ちたように見えるが、コロナ禍故にこの銅像にもマスクがつけられており、それがどうしても可愛らしく映ってしまう。
そしてこのあたりは立会川商店街が東海道と交差している。
久しぶりに人の気配を感じ、つい歩きたくなったが進行方向とは違うので通り過ぎるだけとする。
14.浜川橋
立会川商店街と交差するとすぐに、立会川にかかる橋を渡ることになる。浜川橋だ。
立会川が海にそそぐあたりを浜川と呼ぶことから、浜川橋の名がついた。
浜川橋は通称、「涙橋」とも呼ばれている。それは、鈴ヶ森刑場で処刑される罪人が馬に乗せられて江戸から鈴ヶ森刑場に護送されるときに、罪人の親族が密かに見送りにきて、ここまで見送ることが許されて涙を流しながら別れたということからそう呼ばれるようになった。
15.天祖諏訪神社
浜川橋を渡るとすぐに大きな神社がある。天祖諏訪神社だ。
ここはもともと天祖神社と諏訪神社という別の神社で、天祖神社は浜川町と元芝の鎮守の神社だったが、昭和40年(1965年)に合祀され、ひとつの神社になった。
16.しながわ区民公園
しばらく進むと、しながわ区民公園に到着する。
しながわ区民公園は勝島運河を埋め立てて造られた区民公園である。入ってみようかと思ったが、地図を見たところあまりに敷地が広大だったため、入口で看板を見るだけとした。
17.鈴ヶ森刑場跡
そのまま進むと、鈴ヶ森遺跡が見えてくる。そう、これが鈴ヶ森刑場跡である。
鈴ヶ森刑場は慶安4年(1651年)に開設された江戸の処刑場である。現在は日蓮宗の大経寺の敷地になっている。近辺の人々は浜川の南、一本松にこの刑場があったので一本松獄門場といっていたが、隣村入新井にある磐井神社の鈴の森と混同し、江戸の方からみた「鈴ヶ森」の総称が定着してしまったようだ。
処刑に使用されたといわれる台石や首洗いの井戸、様々な供養塔が残る。何か嫌な気配を感じたので、品川寺の人の言葉通り、足早に通り過ぎた。
ここから川崎駅まではまだまだ距離があるが、この日は午前中天気が悪くスタート時間が遅かったことや、強風でまちあるきがやりづらかったこともあり、隣に大森海岸駅が見えたところで切り上げてしまった。
次回は、大森海岸駅からスタートする。
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歩いた日:2021年8月9日
【参考文献・参考サイト】
風人社(2020) 「ホントに歩く東海道 第1集」
https://shinagawa-kanko.or.jp/recommended_route/kyuutoukaidou/
(2021年8月14日最終閲覧)
しながわ観光協会 一心寺
https://shinagawa-kanko.or.jp/spot/issindera/
(2021年8月14日最終閲覧)
https://shinagawa-kanko.or.jp/spot/samezuhashimanjinja/
(2021年8月14日最終閲覧)
しながわ観光協会 しながわ区民公園
https://shinagawa-kanko.or.jp/spot/shinagawa-kuminpark/
(2021年8月14日最終閲覧)
しながわ観光協会 鈴ヶ森刑場跡・題目供養塔
https://shinagawa-kanko.or.jp/spot/suzukamorikeijouseki/
(2021年8月14日最終閲覧)
北品川商店街 品川宿交流館
http://www.k-shina.com/kouryu.html
(2021年8月14日最終閲覧)
別格本山 品川寺
http://www.evam.ne.jp/honsenji/
(2021年8月14日最終閲覧)
http://www.tensosuwa-jinja.jp/history.html
(2021年8月14日最終閲覧)