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関東三十六不動をめぐる 10.石神井公園編

 前回、第10番札所 總持寺に訪れながら西東京を歩いた。今回は第11番札所 三宝寺に訪れながら石神井公園周辺をぶらぶらしようと思う。石神井公園は、池袋駅から西武池袋線に乗ってすぐ行けるのに、あまり行ったことがなかったので新鮮な気持ちで歩けた。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.石神井火車站止所の碑

 今日は石神井公園駅から出発だ。

石神井公園駅

 

 現在時刻は10時過ぎ。昼食は食べない予定なので、モーニングをがっつり食べておこうと思う。向かったのは、石神井公園駅前の上島珈琲店。

上島珈琲店

 

 頼んだのはベーコンエッグ&厚切りバタートースト。普段は朝食は食べないか、ウィダーか、グラノラかの生活をしているので、これだけでも丁寧な暮らしをしている感じになる。

ベーコンエッグ&厚切りバタートースト

 

 上島珈琲店のモーニングでお腹いっぱいになったらまちに出かけよう。

 石神井公園駅前に石神井 火車站(かしゃたん)止所の碑がある。

石神井火車站止所の碑

 これは大正4年(1915年)、ここに武蔵野鉄道が開設され、ここに石神井公園駅ができた。これを喜んだ土地の人々が、お金を出し合って碑をつくった。

 なお、「火車站」とは、汽車の駅を意味する。中国流には、「フォーシュータン」と読むそうだ。

 

 石神井火車站止所の碑には近くにある石神井城などの見どころも紹介してあるそうだが、漢文だったので何が書いてあるのかわからないなぁ、と思いながら次の目的地に向かう。途中で、練馬区章の描かれたマンホールを見つけた。

練馬区マンホール

 練馬区の紋章は練馬区が平和で健康で、明るいまちに発展していくようにという願いをこめて、昭和28年(1953年)12月に制定された。

 デザインはカタカナの「ネ」の字と「馬のひづめ」を組み合わせ、図案化したものだ。

 

2.石神井公園ふるさと文化館~練馬大根~

 石神井火車站止所の碑から歩いて15分ほどで池淵遺跡がある。池淵遺跡は現在から約5,000年前の住居跡で、昭和47年(1972年)の発掘調査によって発見された。

池淵遺跡

 

 池淵遺跡の隣に旧内田家住宅がある。旧内田家住宅は練馬区中村にあった民家を、平成22年(2010年)に移築したもの。明治20年代初めの建築と推定されており、一部に江戸時代の古材も使われている。

旧内田家住宅

 

 欄間は寄木細工で作られている。江戸時代に流行した、雪華模様に似ている。

旧内田家住宅 欄間

 

 縁側の桁材は、なんと1本の丸太で作られている。1本の丸太で作るのはよいのだが、いかんせん1本の丸太なので太さが場所によって違い、玄関側は根本なので太く、だんだん細くなっていく。丸太の太さによってガラス窓の大きさが調整されており、大工の技術力の高さが伺える。

旧内田家住宅 桁材

 

 旧内田家住宅の隣に、石神井公園ふるさと文化館がある。石神井公園ふるさと文化館は練馬区の歴史や伝統文化、自然などについて解説されている。

石神井公園ふるさと文化館

 

 平安時代末期から秩父平氏の一派が豊嶋氏を名乗り始め、鎌倉時代の末頃から南北朝時代にかけて石神井城・練馬城を拠点として周辺の開発に力を注いだ。

 豊嶋氏は上杉氏に従って活躍したものの太田道灌と対立した結果、文明9年(1477年)に石神井城は落城、豊嶋氏は滅亡した。

 石神井城の模型が展示されていた。なお、石神井城跡はこの後訪問する。

石神井城の模型

 

 練馬といえば、練馬大根である。

 江戸時代の元禄期、すでに人口100万を超えていた江戸では膨大な野菜の需要があり、それにこたえるように練馬大根の栽培は発展していった。

 和食しかない当時でも、練馬大根ははりはり大根、汁物、ふろふき大根、たくあん漬け、切り干し大根などにされて消費されていった。

 はりはり大根だけ初めて聞いたので何か調べてみたら、生の大根で作る漬物のことらしい。

練馬大根の大根料理

 

 排泄はトイレで行う。これは当たり前のことだし、江戸時代の人も排泄は厠(かわや)で行っていた。

 しかし水洗トイレが普及した今は、排泄したあとに排泄物を下水に流すが、下水道が発達していなかった江戸時代は、排泄物はいったん溜めておくことになる。

 その溜めた排泄物を練馬の人たちは農作物と引き換えに回収して、練馬に持ち帰る。なんでそんなことをするのかというと、排泄物を農作物の肥料として使うためである。

 今では考えられないことだが、当時は下水が発達しておらず排泄物の処理に困っていたことや、排泄物すら肥料にして無駄にしない、そういう時代だったのである。

 中世ヨーロッパは「ベルサイユのばら」などで美しい世界だと思われがちだが、排泄をトイレで行うところまではよいのだが、その排泄物は路上に捨てられる。

 その結果伝染病が蔓延したり、排泄物を踏まないために女性のヒール靴が発達したりした。中世ヨーロッパは美しく見えるが、こう考えると日本の江戸のほうが余程衛生に気を遣っている印象がある。

 ここに樽と桶が展示されているが、左側の樽は練馬大根をたくあん漬けにするための四斗樽で、右側の桶は肥桶(こえおけ)、下肥(しもごえ)、つまり排泄物を運ぶのに用いていた。

四斗樽と肥桶

 

 「練馬大根にまつわるはなし」が展示されている。

 江戸幕府3代将軍・徳川家光が品川の東海寺に訪れたとき、沢庵和尚に「何か珍しい食べ物はないか?」と聞いた。

 沢庵和尚は「禅寺では贅沢をしないので、たくわえ漬けの香の物があるだけなのですが」と言ってたくわえ漬けを出した。

 家光はたくわえ漬けを食べて「これはうまい。以後、たくわえ漬けではなく、あなたの名前をとってたくあん漬けにしなさい。」と言い、以降たくわえ漬けはたくあん漬けになったという。

練馬大根にまつわるはなし

 

 徳川家光と沢庵和尚のやり取りとしては、以前こんな話も紹介している。

 家光が、沢庵和尚に対して「なぜ、ここは海から近いのにトウ海寺(東海寺。「遠い」とかけている。)と言うのかね?」と聞くと、すかさず沢庵和尚が「それは、大軍を率いるお方でもショウ軍(将軍。「小」とかけている。)と言うのと同じですよ。」と答えた、というエピソードがある。このやりとりが行われた場所が「問答河岸跡」として現在も品川に残っている。深く考える必要はない。ただのダジャレだから。

 このエピソードに関しては「東海道を歩く 2.品川駅~川崎駅 前編」や「江戸三十三観音をめぐる 13.品川編」で紹介している。

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 練馬大根が展示されている。その昔、練馬大根作りの名人とされた又六という人物が一尺八寸(約55cm)の巨大な練馬大根の栽培に成功したそうだが、それくらい大きく見える。

練馬大根

 

3.石神井公園ふるさと文化館~としまえん~

 練馬区は、実は23区のなかで一番の新参者であるということは御存知だろうか。

 まず、明治22年(1889年)に東京市が発足した。最初から政令指定都市のような扱いで、東京市発足と同時に麴町区、神田区などの15区が発足した。

 昭和7年(1932年)、東京市は周辺町村と大規模合併を行い、合併された地域も区が新設され、35区になった。このとき練馬区の地域であった大泉村、石神井村、上練馬村、中新井村、下練馬村は東京市に編入され、板橋区になった。昭和18年(1943年)に東京市は廃止、35区がそれぞれの行政区になる。

 昭和22年(1947年)3月、太平洋戦争の東京大空襲等により人口が減少したため、区の再編が行われ、35区あった行政区が22区に統合された。なお、この時点でまだ練馬区は登場していない。

 練馬区は、戦前期から板橋区からの分離運動を行っていたようだが、結局それが受け入れられるのは昭和22年(1947年)8月のことであり、練馬区の分離をもって現在の東京23区が完成した。

練馬区の変遷

 

 護符。旧内田家住宅の屋根裏に貼られていたもので、武蔵国御嶽神社(青梅市)、榛名神社(群馬県高崎市)、阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)、成田山(千葉県成田市)、富士山本宮浅間神社(静岡県富士宮市)の護符が並ぶ。このうち、榛名神社と阿夫利神社、成田山は割と最近行ったし、阿夫利神社はブログに取り上げている。

護符

榛名神社(改修中)

阿夫利神社

成田山

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 練馬区には、その昔「としまえん」という遊園地があったことを覚えている人は多いだろうか。

 としまえんは大正15年(1926年)から94年間営業して、令和2年(2020年)に惜しまれながら閉園した遊園地である。私も閉園間際のとしまえんに友人と行って、写真を撮ってきたことを思い出す。

としまえん

 これは昭和13年(1938年)および昭和16年(1941年)に刊行されたとしまえんの地図である。

 昭和12年(1937年)に日本企業株式会社による経営となったため、豆汽車や飛行船などのおもちゃが設置され、「スポーツランド」として整備された。

 昭和16年(1941年)頃、としまえんは練成会(特定の目的のために集まって共同生活を送りながら教えや技術を学んで心身を鍛錬する行事)に使われていた。いかにも戦時下っぽい行事である。

としまえんの地図

 

 昭和63年(1988年)のとしまえん園内案内図。

 園の中央で一躍存在感を示しているバイキングの顔が取り付けられた大きな船は、昭和59年(1984年)に誕生した「フライングパイレーツ」で、地上45mから全長20m、120人乗りの大船が急降下と急上昇を繰り返す「人間の快感の限界」を再現したアトラクションらしい。

 昔は若干強がりで「絶叫系大丈夫だから」と言って乗ることもあったが(と言ってもディズニークラス以上は乗ることなかったけど)、今の人間関係で無理をする必要もない気がするので、見かけてもおそらく乗らないと思う。

としまえん園内案内図

 

4.石神井公園ふるさと文化館~アニメのまち練馬~

 練馬といえば、アニメ会社の土地、有名なものでは東映アニメーション株式会社の大泉スタジオは練馬区にある。

 東映アニメーションといえば、私が好きで観ている「プリキュア」シリーズや「ワンピース」の制作で知られる。撮影禁止だったが、「おジャ魔女どれみ」や「ハートキャッチプリキュア」のポスターも展示されていた。

 こちらは東映動画スタジオの第1号カメラで、当初は実写用のカメラをそのまま利用していたが、次第にアニメ撮影用の工夫を加えていった。

東映動画スタジオの第1号カメラ

 

 この大規模な装置はアニメーション撮影台。

 この撮影台は東映アニメーションで日本アニメの草創期から使用されていたもので、この撮影台で昭和35年(1960年)の西遊記や昭和52年(1977年)の宇宙戦艦ヤマト、昭和54年(1979年)の劇場版 銀河鉄道999などが撮影された。

アニメーション撮影台

 

5.石神井公園ふるさと文化館~絵葉書で名所めぐり~

 石神井ふるさと文化館に訪れたとき、企画展「絵葉書で名所めぐり―明治期から昭和戦前期の風景―」が開催中だったので、そちらも記録しておく。

 まず「帝都名所」という絵葉書が紹介されていた。これは大正9年(1920年)から大正12年(1923年)、関東大震災前の東京を写したもの。いろいろな絵があるが、このなかだと芝増上寺の山門は行ったことがあるし、過去にブログで紹介している。

「帝都名所」

芝増上寺山門

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 「帝都名所」。大正12年(1923年)前後の絵葉書。上野の西郷隆盛の銅像や日比谷公園の池は行ったことがあるし、現代でもほぼそのままなのが分かる。上野の西郷さんも過去のブログで取り上げたことがある。

「帝都名所」

上野西郷銅像

日比谷公園

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 最新撮影大東京六十景。昭和11年(1936年)から昭和20年(1945年)にかけての東京の写真集で、このなかだと浅草観音堂は行ったことがある。浅草観音堂は空襲で燃えたらしいので、この写真のものと私が撮ったものは、おそらく違う。あと、ブログで浅草寺も徹底特集したことがある。

最新撮影大東京六十景

浅草観音堂

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 石神井今昔。石神井のまちの昔の写真と現代の風景を比較している。道場寺、三宝寺、石神井氷川神社、三宝寺池や石神井池は後ほど行くので、お楽しみに。

石神井今昔

 

 川崎大師の絵葉書(明治40年(1907年)から大正7年(1918年)頃)。川崎大師は神奈川県川崎市の寺院で、以前ブログでも取り上げたことがある。

川崎大師の絵葉書

川崎大師

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 熱海大湯と熱海人車鉄道。熱海は赤羽駅から一本で行けることは知っていたが、実は行ったことがない。

 熱海人車鉄道は明治29年(1896年)に熱海・小田原間で全通した路線で、急な上り坂では客も降りて一緒に車を押したそうだ。たいそう疲れるだろうし、私はいても戦力にならなそうな気がする。なお、熱海人車鉄道の話題は以前「東海道を歩く 8-3.平塚駅~箱根板橋駅③ 6.小田原宿」で触れたことがある。

熱海大湯と熱海人車鉄道

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 尾山神社。尾山神社とは石川県金沢市にある神社で、山門が非常に特徴的な神社である。何年か前に、尾山神社の山門の写真は撮っていた。

尾山神社

尾山神社 山門

 

 「久能山全景」。久能山東照宮は静岡県静岡市にある神社で、現在も久能山に鎮座する。ここも数年前に行っていた。

「久能山全景」

久能山東照宮

 

 名古屋市東山動物園の鷲放養場と名古屋城。東山動物園は行ったことがないが、名古屋城はある。名古屋城は廃城令後も現存していたが残念ながら空襲で焼失、現在の名古屋城は戦後の再建である。この絵葉書の名古屋城は江戸期に建てられたもの。そういえば名古屋城もブログ化していた。

名古屋市東山動物園の鷲放養場と名古屋城

名古屋城

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 大礼記念大阪城公園。大阪城は以前に行ったことがあるし、直前の記事「東海道を歩く 53.守口駅~高麗橋」でも横を通り過ぎている。

 江戸期の大阪城は幕末にほとんど焼失したが、昭和5年(1930年)に再建された。当時は「鉄筋コンクリートで城を再建するなんて…」という意見もあったそうだが、結果的に鉄筋コンクリートで再建したからこそ空襲でも大阪城は燃えなかった。

 空襲は今後なくとも地震で倒壊する可能性は普通にあるので、「城の再建なら木造にこだわらず、耐震性などに十分配慮したもののほうがよい」と私は考えている。

大礼記念大阪城公園

大阪城

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 松山城、宇和島城天守閣、高知市街。松山城も宇和島城も江戸時代の天守閣がそのまま残っている。何年か前に愛媛県に出張で行ったことがあり、そのときにどちらも訪れた。

松山城、宇和島城天守閣、高知市街

松山城

宇和島城

 

 「絵葉書で名所めぐり―明治期から昭和戦前期の風景―」を見終わり、ロビーに出ると練馬区の全体模型がある。水平面は6,000分の1だが垂直面は1,000分の1とやや高めに作られている。やはり鉄道沿線の建物が高い。

練馬区の全体模型

 

6.道場寺

 石神井公園ふるさと文化館をあとにし、道場寺に向かう。

道場寺

 道場寺は豊嶋氏と最も関係が深く、石神井城主・豊嶋左近大夫景村の養子・兵部大輔輝時が、応安5年(1372年)に菩提寺にしたと伝えられている。

 豊嶋氏が滅びたあと一時荒廃したが、その後永禄5年(1562年)北条氏康から税金を一切とらないという寅朱印状を受けて、再び栄えた。その寅朱印状はいまも道場寺の寺宝として残されている。

 山門と鐘楼は昭和45年(1970年)に造られ、昭和49年(1974年)に三重塔が造られた。いずれも総ヒノキ造りである。

 

 境内を歩いていると、「護美箱」というものを見つけた。「これは何か?」と5秒くらい思案を巡らすと、気が付いた。「…ゴミ箱か!」

「護美箱」

 

 道場寺は武蔵野三十三観音の第2番札所であるので、御朱印をいただける。いつか武蔵野三十三観音もやってみたい。

道場寺 御朱印

 

7.三宝寺

 道場寺をあとにし、三宝寺に向かう。

 三宝寺は応永元年(1394年)に開山した。その後、太田道灌が豊嶋氏を滅ぼしたあと、石神井城内だった現在地に移した。

 寛永2年(1625年)及び正保元年(1644年)に、徳川家光が狩猟の際に三宝寺を休憩所としたので、三宝寺の山門は御成門と呼ばれるようになった。

 この御成門は文政10年(1827年)7月26日に建てられ、この後2回火災があったがその難を免れている。

御成門

 

 大黒堂・子育千体地蔵堂。

 昭和4年(1929年)に大黒堂は創建され、そのときに子育千体地蔵尊が合祀された。

大黒堂・子育千体地蔵堂

 

 観音堂がある。ここに武蔵野三十三観音の第3番札所の観音様が祀られている。

観音堂

 

 火伏稲荷社。

 昔、三宝寺付近で火災が起こったとき、境内の稲荷社に祀られていた老いた狐が火災について寺に知らせたためことなきを得て、稲荷社は火伏稲荷社と改称された。

火伏稲荷社

 

 境内に石碑が建ち並んでいるが、これは四国八十八ヶ所お砂踏霊場である。

 明治29年(1896年)、当時の住職・清護真事師が発願して造り始めたもので、当時第17番札所まではできたがその後中断、70年間そのままになっていた。

 昭和48年(1973年)、弘法大師の誕生1,200年記念事業のひとつとして、途中になっていた四国八十八ヶ所お砂踏霊場について檀信徒に呼び掛けてその完成を目指し、残り71ヶ所の石碑と高野山奥之院を模した大師堂を建てた。

 完成は昭和48年(1973年)と結構新しいが、現代でも四国八十八ヶ所をすべて巡るのはお金も時間もかかるので、これをぐるりと一周してみることにした。ちょっと足場が悪いところもあるが、概ね10分程度で一周できる。

四国八十八ヶ所お砂踏霊場

 

 宝篋印塔は天明元年(1781年)6月に建てられたもので、当初御成門近くにあった。しかし大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊したため、大正14年(1925年)に現在地に移建した。

宝篋印塔

 

 大師堂はかつては小堂であったが、昭和42年(1967年)の弘法大師誕生1,200年記念のときに改築された。四国八十八ヶ所の最後に参拝する、高野山奥之院を模している。

大師堂

 

 三宝寺の本堂に祀られる御本尊は不動明王で、こちらが関東三十六不動・第11番札所の不動明王ということになる。

 江戸時代の本堂は文久3年(1863年)に焼失、その後すぐ再建されたが明治7年(1874年)にまた焼失したため、しばらく再建されることはなかった。

 大正11年(1922年)にようやく再建の着工をみたが、大正12年(1923年)の関東大震災で中断し、昭和16年(1941年)に太平洋戦争でまた中断、再建がなかなか進まなかった。

 昭和26年(1951年)に第34世頼典和尚が継続して再建工事を進めた結果、昭和28年(1953年)にやっと本堂が完成した。明治期の焼失から79年後の再建である。

三宝寺 本堂

 

 鐘楼の鐘は延宝3年(1675年)の鋳造であるが、鐘楼は明治28年(1895年)の再建である。

鐘楼

 

 通用門は勝海舟の屋敷門だったようだが、所有者の都合により手放さざるを得なかったため、当時の練馬区長の斡旋もあり昭和35年(1960年)に三宝寺に移建された。

通用門

 

 三宝寺で御朱印をいただく。関東三十六不動の御朱印、関東三十六不動の御影と童子像、あと武蔵野三十三観音の第3番札所の御朱印をいただいた。

関東三十六不動の御朱印

関東三十六不動の御影と童子像

武蔵野三十三観音の第3番札所の御朱印

 

8.石神井氷川神社

 石神井氷川神社に向かう。

 応永年間(1394~1427年)に豊嶋氏が、武蔵一宮氷川神社(現在の埼玉県さいたま市)から分霊を石神井城内に勧請したものだと伝えられている。

 豊嶋氏が滅んだのちも石神井郷の総鎮守であり、戦前は郷社として格式の高い神社であった。

石神井氷川神社

 

 「外国硬貨専用 賽銭箱」…両替の手間があるから分けてあるのだろうが、ここにそんなに外国人観光客、来るかね…?と思ってしまう。

「外国硬貨専用 賽銭箱」

 

 石神井氷川神社で御朱印をいただいた。御朱印をいただくときに使った御朱印帳について、先日佐賀県有田町の陶山神社で買った磁器の御朱印帳でいただいたところ、これを見て神社の方が「ところでこの御朱印帳って何でできてるんですか?」と聞いてきたので、「磁器です。珍しいでしょ?」と答えた。珍しい御朱印帳を使ったため話題が生まれた。

石神井氷川神社 御朱印

 

9.石神井公園

 石神井公園のなかに、石神井城址がある。

 石神井城は鎌倉時代末に築かれた豊嶋氏の居城で、北の三宝寺池と南の石神井川にはさまれた台地上にある平山城である。

 発掘調査によると、広さは東西約350m・南北約100~300mで、掘と土塁を合わせると比高10mほどとなり、堅固な防御施設であったことが判明している。

 文明9年(1477年)に豊嶋泰経が太田道灌に敗れると石神井城も落城し、廃城となった。現在、城の内部の土塁と空堀の一部が残っている。

 なお、石神井城址はフェンスで囲まれ、立入禁止となっている。

石神井城址

 

 石神井城址から坂を下りていくと、三宝寺池がある。

 三宝寺池は武蔵野台地の代表的な湧水池であるが、周辺の宅地化に伴って年々湧水が減少し、現在は地下水をくみあげて補給している。

三宝寺池

 

 三宝寺池は禁猟区で、自生水草類が多く三宝寺池沼沢植物群落として国の天然記念物に指定され、ミツガシワ・カキツバタなどが保護の対象となっている。この日はちょうど、カキツバタが咲いていた。

 カキツバタといえば、在原業平がかきつばたという5文字を句の上に据えて読んだ、「からごろも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」という句が有名だが、その句を詠んだ「三河国八橋」が現在の愛知県知立市にあり、それゆえに知立市はカキツバタを推している、という話を思い出した。

 なおこの話は「東海道を歩く 33.岡崎公園前駅~知立駅 6.知立市に入る」で取り上げている。

三宝寺池沼沢植物群落のカキツバタ

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 それにしても、「ここは尾瀬か」と錯覚したくなるほど美しい景色が広がっている。もっともここは尾瀬ではなく、練馬区である。

三宝寺池

 

 石神井公園には殿塚と姫塚がある。石神井城の落城のとき、城主・豊嶋泰経が家宝の黄金の鞍をおいた白馬にまたがり三宝寺池に入水し、娘の照姫も池に身を投じたという悲しい伝説があり、その後遺体を葬ったのが殿塚と姫塚らしい。

殿塚

姫塚

 

 石神井公園には石神井公園ふるさと文化館分室がある。

石神井公園ふるさと文化館分室

 

 石神井公園ふるさと文化館分室は練馬ゆかりの文化人に関する展示があるが、本館とは違い、漫画家コーナー以外は撮影禁止だった。

 漫画家コーナーだけ紹介させていただくと、この日展示されていたのはてしろぎたかし氏と森真理氏であった。

 てしろぎたかし氏は「スーパーフィッシング グランダー武蔵」「音速バスターDANGUN弾」などを発表している。

てしろぎたかし氏の原稿

 

 森真理氏は「銀のしっぽ」「くまモン」などを発表している。

森真理氏の原稿

 

 2階には作家・五味康祐氏が生前集めたオーディオ機器が展示されていたが、こちらに関しても撮影してよいかがわからなかったため載せないことにする。

 展示を見終え、ふとステンドグラスに目を移すと美しい光景があった。

 

 この後友人と会う約束があるので、石神井公園駅まで戻る。せっかくなので、石神井池の池畔を歩いて戻ることにした。石神井池は自然にできた池である三宝寺池と違い、昭和9年(1934年)に造成された池である。

石神井池

 

 石神井池のなかになんか白いものを見つけた。「聖衣」というイタリア産白大理石でできた彫刻らしい。

「聖衣」

 

 石神井公園駅まで戻ってきたので、この後友人と会い、帰路についた。

石神井公園駅

 

 石神井公園ふるさと文化館は無料でたくさんの情報に触れることができるため、おすすめである。私はそこに2時間滞在した。

 三宝寺は境内が広く、いろいろ見どころがあった。四国に行かずとも、四国八十八ヶ所巡りの御利益が得られるのもありがたい。

 三宝寺池は本当に美しく、「私は尾瀬に来たのか?」と錯覚してしまうほどだった。しかし池袋駅から電車で10分、歩いて20分ほどで行ける。リフレッシュしたいときにおすすめだ。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2026年5月10日

次回記事はこちら↓

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【参考文献・参考サイト】

練馬郷土史研究会(1977) 「練馬区の歴史」 名著出版

関東三十六不動霊場会(2017) 「関東三十六不動霊場ガイドブック」

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

練馬区 区章

https://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/kunogaiyo/aramashi/kusho.html

(2026年6月21日最終閲覧)