10月うさぎの部屋

10月うさぎがいろいろ語る部屋

道路元標⑦

学校やらなんやらでちょっと開きましたが続きます。

ちなみにあと書くべき道路元標は残り21個みたいです。

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草津町道路元標

41.草津町道路元標(2018年2月24日撮影)

現在は滋賀県草津市です。

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草津町道路元標地図

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道標

草津町道路元標の向かい側には道標があります。これは東海道と中仙道の分岐点であることを示す道標で、ここにかつては高札場もありました。

東海道と中仙道の分岐点という古くから重要だった交差点に道路元標があるのは納得がいきます。

ちなみに裏面には「滋賀縣」と刻まれています。

 

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奈良縣里程元標

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奈良市道路元標

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奈良市道路元標

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奈良縣里程元標旧設置場所




42.奈良縣里程元標(2018年2月25日撮影)

43.奈良市道路元標(2018年2月25日撮影)

現在は奈良県奈良市です。

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奈良縣里程元標・奈良市道路元標地図

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高札場

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奈良縣里程元標は上ツ道、中ツ道(飛鳥時代奈良盆地を南北に縦断するために整備された道)につながり、江戸時代に高札場があった場所に設置されました。また、現在設置されている場所と本来の設置場所はわずかに違い、もともと設置されていた場所には「奈良縣里程元標旧設置場所」と書かれたプレートがあります(地図は元設置場所に準拠)。おそらくこれも日本道路元標をモチーフにしたと考えられます。

高札場は1984年(昭和59年)に復元され、里程元標は2010年(平成22年)に復元されました。里程元標の土台の石は当時のもので、そのそばに道路元標も建っていました。道路元標は1920年(大正9年)に設置され、裏に「奈良縣」と刻まれていることから、道路元標は当時のものと思われます。

余談ですが、高札場には「奈良公園をすみかとせし鹿に申し渡す、人の捨てし如何様のごみをも思慮なく食すことならじ、特にビニール袋は未消化にて死に到らしむ仲間多かりし」など、ユニークな札が掲げられているので訪れたときには高札場の内容を読んでみるのも面白いと思います。

 

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京都市道路元標

44.京都市道路元標(2018年2月26日撮影)

現在は京都府京都市です。

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京都市道路元標

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烏丸通三条通の交差点にあります。「何でこんな場所に?」と感じますが烏丸通京都御所に通じ、三条通三条大橋に通じています。三条大橋東海道五十三次の終点で京都府里程元標が置かれていた場所です。今でこそそれほど目立たない交差点となっていますが通の先にあるものを考えると納得のいく立地となっています。

 

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大阪市道路元標

45.大阪市道路元標(2018年2月27日撮影)

現在は大阪府大阪市です。

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大阪市道路元標地図

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大阪市道路元標は国道1号(東京→大阪)、25号(四日市→大阪)、176号(宮津→大阪)の終点、2号(大阪→北九州)、26号(大阪→和歌山)、163号(大阪→上野(現・伊賀))、165号(大阪→津)の起点にあります。

大阪府里程元標(高麗橋)明治9年(1876年)~大正11年(1922年)

大阪市道路元標(大阪市役所前・中之島)大正11年(1922年)~昭和28年(1953年)

といった経緯を経て、1953年に梅田新道に設置されました。前年の1952年に大阪市内を通る国道の起終点が梅田新道に定められたからです。

この道路元標は1982年に作られましたが、「大阪市道路元標」の銘は1953年に作られた当時のものです。

このあと前の大阪市道路元標の置かれていた大阪市役所に行きましたが、残念ながら痕跡となるものは残っていませんでした。しかし、里程元標が置かれていた高麗橋には石碑がありました。これは次で紹介します。

 

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大阪府里程元標跡

46.大阪府里程元標跡(2018年2月27日撮影)

現在は大阪府大阪市です。

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大阪府里程元標跡地図

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大阪府里程元標跡は高麗橋の東詰にあります。ここはかつて京街道中国街道紀州街道などの諸国への道のりや車馬賃の基点となっていました。そこに1876年里程元標が建てられたのです。

また高麗橋は公儀橋(幕府経費で架けられた橋)の中でも格式の高い橋で、西詰は町奉行所の制札場がありました。このため1870年に大阪で最初に鉄橋に架け替えられたのも高麗橋です。

 

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府中町道路元標

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府中町道路元標


47.府中町道路元標(2018年3月16日撮影)

現在は東京都府中市です。

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府中町道路元標地図

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府中町道路元標はけやき並木通り(都道133号)の終点にあります。その突き当たりの先には大國魂神社があります。府中町道路元標がここに設置されたのは、大國魂神社境内は武蔵国国府跡であるためと推測できます。

ちなみにこの道路元標は裏に「東京府」と刻まれていますが、1990年(平成2年)の道路整備事業により復元されたものです。

 

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守谷町道路元標

48.守谷町道路元標(2018年3月27日撮影)

現在の茨城県守谷市です。

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守谷町道路元標地図

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守谷町道路元標は町役場前の通りの反対側に建っています。これは町役場前だから立地したと考えられます。

 

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野上村道路元標

49.野上村道路元標(2018年6月1日撮影)

現在は埼玉県秩父郡長瀞町です。

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野上村道路元標地図

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駅前通りと国道140号・秩父往還の交差点に立地しています。

 

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樋口村道路元標

50.樋口村道路元標(2018年6月1日撮影)

現在は埼玉県秩父郡長瀞町です。

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樋口村道路元標地図

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道路や線路を挟んでいますが、これは役場前に道路元標が立地したと考えられます。

 

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秩父町道路元標

51.秩父町道路元標(2018年6月1日撮影)

現在の埼玉県秩父市です。

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秩父町道路元標地図

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秩父町道路元標のある交差点の南北は中町通り・秩父往還です。一方、少し行くと行き止まりになる西からの道は東町通り・吾野通りです。よって、秩父町道路元標は交差点に位置していることになります。

 

ここで道路元標の立地理由についてまとめてみましょう。

交通中心地…9

役所・役場…12

参道…7

交差点…17

移動済み(判定不能)…5

不明…1

となります。

 

おそらく一気更新は次の記事が最後です。

あともうちょっと頑張ります。

 

読んでくださりありがとうございました。

2019年1月10日 うさぎ

道路元標⑥

ちょっと書いてる人も疲れてきましたが

これでも2018年に入ったばっかりなんですよね…

というわけでまだまだまだまだ続きます。

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垂水村道路元標

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村道路元標

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飯野村道路元標

31.垂水村道路元標(2018年2月1日撮影)

32.南村道路元標(2018年2月1日撮影)

33.飯野村道路元標(2018年2月1日撮影)

すべて、現在は香川県丸亀市です。

「いきなり3個も載せるとは手抜きか?」と思われるかもしれませんが、

すべてこの3個同じ博物館にあるため同時掲載した次第です。

この3個は全て丸亀市立資料館の屋外石碑展示スペースに展示されています。

ここには多くの石碑が展示されており、そのなかの3個が道路元標です。

おそらく、市内に撤去されかねなかった貴重な石碑を全て保管していると思われます。

もちろん廃棄されるよりは良いのですが、

もとの設置位置がわからないため立地論は割愛します。

しかし道路元標をはじめとした石碑マニアの皆さんは

間違いなく興奮すると思いますので、地図リンクは掲載します。

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圧巻の石碑展示

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奈半利町道路元標

34.奈半利町道路元標(2018年2月3日撮影)

現在は高知県安芸郡奈半利町です。

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奈半利町道路元標地図

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この道路元標はなぜここに建設されたのかわからないので、

もし知っている方がいらっしゃりましたら教えてくださると幸いです。

思い当たる範囲では全部探したんですけどね…四国お遍路や街道筋など…

ちなみに高札場はありますが、道路元標とは少し違う位置にあります。

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高札場

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一宮村道路元標

35.一宮村道路元標(2018年2月3日撮影)

現在は高知県高知市です。

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一宮村道路元標地図

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一宮村道路元標は一宮村役場前にあります。

群馬の一ノ宮町と違い土佐国一宮前にはありません。

ちなみに土佐国一宮は土佐神社といい、

この道路元標からは少し離れた場所にあります。

ただ一宮村の名前の由来となったことは事実です。

 

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高知市道路元標

36.高知市道路元標(2018年2月3日撮影)

現在は高知県高知市です。

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高知市道路元標地図

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高知市道路元標は県庁前の大通りと高知城の堀の丁字路に立地しています。

 

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一宮村道路元標

37.一宮村道路元標(2018年2月5日撮影)

現在は香川県高松市です。

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一宮村道路元標地図

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一宮村道路元標は幹線(名称不明、わかる人がいたら教えてください)沿いにあります。

交差点に立地しています。

村役場前でも神社参道前でもありませんが、すべてが幹線でつながっています。

群馬とも高知とも違う一宮村の道路元標です。

ちなみに、讃岐国一宮は田村神社です(書いてあるか)。

 

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志度町道路元標

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志度町道路元標


38.志度町道路元標(2018年2月5日撮影)

現在は香川県さぬき市です。

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志度町道路元標地図

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志度町道路元標は志度寺の前にあります。

志度町は志度寺門前町として発展してきた町なので納得の立地といえます。

ちなみに裏には「香川縣」と刻まれています。

 

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長尾町道路元標

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長尾町道路元標

39.長尾町道路元標(2018年2月5日撮影)

現在は香川県さぬき市です。

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長尾町道路元標地図

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長尾町道路元標は長尾寺の前にあります。

志度寺と同じく、長尾町も長尾寺門前町として発展してきたためと考えられます。

志度町道路元標と同じく、裏に「香川縣」と刻まれています。

 

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高松市道路元標

40.高松市道路元標

現在は香川県高松市です。

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高松市道路元標地図

 

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高松市道路元標は他の道路元標と比べて新しく、裏に「香川縣」の文字もありません。

地図を見ても高松市道路元標のあった場所は兵庫町・中央の商店街のある

東西軸だけが見えるのみです。

これらの事実から、高松市道路元標は複製・もしくは新しく作られたもので

南北軸の中央通りができてから新設されたものではないか?と推測します。

実際、中央通りの中央分離帯上に道路元標が立地していることからも

中央通りを重視したいことが伺えます。

他の考察とは時代的に異なりますが、これは

中央通りと兵庫町・中央商店街の交差点に立地した道路元標といえるでしょう。

なお、その十字路は1910年の旧版地形図にはありませんが

1928年の旧版地形図では完成しています。

 

ここでまた道路元標の立地理由についてまとめてみましょう。

交通中心地…5

役所・役場…10

参道…6

交差点…13

移動済み(判定不能)…5

不明…1

となります。交差点が最多です。

 

まだこれでも2018年2月上旬なんですよね。

高知と香川で頑張ったなぁ…あ、この記事の全部この旅行中の道路元標だ…

とりあえず今日の更新はここまでにします。

 

読んでくださりありがとうございました。

2019年1月7日 うさぎ

道路元標⑤

道路元標④のつづきです。まだまだ終わりません。

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七里村道路元標

22.七里村道路元標(2017年11月29日撮影)

現在は埼玉県さいたま市です。

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七里村道路元標地図

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立地理由としては七里村の役場があったからと推測されます。

現在ここは東門前第一自治会館となっています。

それにしても…石の形は確かに道路元標の形ですが

これ絶対わからないですよね…無情報でこれでわかる人がいたらすごいと思います。

 

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所澤町道路元標

23.所澤町道路元標(2017年11月29日撮影)

現在は埼玉県所沢市です。

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所澤町道路元標地図

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所澤町道路元標は県道337号と駅前通りの分岐点に建っています。

あとヒイラギに埋もれていてちょっと見つけにくいです…

 

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中丸村道路元標

24.中丸村道路元標(2017年12月3日撮影)

現在は埼玉県北本市です。

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中丸村道路元標地図

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中丸村道路元標は中丸村役場前に立地しています。

それにしても埼玉県の道路元標にしては「道路元標 中丸村」の書き方は

少し変わっている気がします。

 

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田面澤村道路元標

25.田面澤村道路元標(2017年12月12日撮影)

現在は埼玉県川越市です。

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田面澤村道路元標地図

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川越市立泉小学校内にあり、フェンス越しにしか近寄れない上に

文字が書いてある面は塀に向いているため文字を読み取ることは難しいです。

役場の位置からやや離れていることや校内にあることから

保存のために移動したと考えられます。

それにしても…もうちょっと良い置き方があるでしょと思うのは私だけ?

 

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倉賀野町道路元標

26.倉賀野町道路元標(2017年12月19日撮影)

現在は群馬県高崎市です。

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倉賀野町道路元標地図

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中山道と倉賀野町役場の交差点にあります。

ところで…GoogleMapで「倉賀野町道路元標」と検索したら

明らかに違う場所にポイント打たれたんですよね…なんでだろ

 

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町道路元標

27.萩町道路元標(2017年12月24日撮影)

現在は山口県萩市です。

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町道路元標

まずこの道路元標があまりにすばらしかったので少し語らせてください。

まず「萩町道路元標」と書かれた面の他の3面に

みっちりと情報が掘り込まれていたことです。

道路元標は都市間の距離を測るために設置されたものと考えると

とても有用だと思います。

側面2面に近隣道路元標までの距離、裏面に建造年月が書いてあります。

ただこれだけだと読みづらい…そこで。

キャプションに4面全部の拓本が貼ってあるんですよ。

それによると

「大井村元標 3.03 川上村同 3.65 美祢郡赤郷村同 5.29 大津郡三隅村同 4.59」

「山口元標 11.83 三見村同 2.60 明水村同 3.16 福川村同 3.04」

「萩町 大正12年4月建設」

と書いてあります。まあこれだけ書いてあるのにどこも残ってないんですけどね…

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町道路元標地図

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高札場

2010年に高札場が整備されたときに、その隣接した道路から萩町道路元標が

発見されました。

そこで保全するために元あった場所には正方形の石を埋め(萩町道路元標の写真の

最後の写真)、高札場広場に道路元標を移設しました。

拓本はそのときに取られたものと考えられます。

四方に刻まれた情報、拓本、元あった場所に印をつけて安全な場所へ移動…

ここまで恵まれた道路元標はなかなかありません。

また、これらのことから高札場の場所に道路元標が建設されたことがわかります。

この高札場(唐樋高札場)が起点とし防府市三田尻までは萩往還として整備され、

参勤交代や萩と瀬戸内海とを結ぶ道として機能していました。

こうした経緯からこの場所が道路元標の立地点となったことは妥当と考えられます。

 

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下関市道路元標

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下関市道路元標路上

28.下関市道路元標(2017年12月25日撮影)

現在は山口県下関市です。

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下関市道路元標地図

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下関市道路元標は少し変わった形状をしています。

おそらく日本国道路元標をモチーフにしているのだと思いますが、

四隅に市のシンボルマーク「フクフクマーク」を配し、

その周りには市の花木のサクラをデザインしています。

キャプションによると当時の道路元標もここに設置されたと書かれています。

位置としては現在は市役所前ですが

設置当時は市役所通りに設置されていたと考えられます。

 

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廣島市道路元標

29.廣島市道路元標(2017年12月26日撮影)

現在の広島県広島市です。

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廣島市道路元標地図

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廣島市道路元標は元安橋のたもとにあります。

西国街道、旧国道2号も元安橋を通り、太田川の水運の利もあって

広島城下町の中心となっていたため高札場もここにありました。

そのためここに道路元標が建てられたのは自然といえます。

広島県里程元標もここに建てられましたが

1889年に道路元標に変わりました。

 

…ところで。地図や年号を見てある事実に気づいた人は鋭いです。

…そう。ここは原爆の爆心地にとても近いです。

原爆が落とされたのは1945年。

つまり、この道路元標は原爆に遭っていることになります。

道路元標ははっきりとした被害には遭いませんでしたが(花崗岩強い)、

よく見ると他の道路元標よりも角が丸い印象があります。

これは原爆の熱線で焼けた跡だそうです。

原爆に被災したものといえば原爆ドームにスポットライトが当てられがちですが、

道路元標マニアとしてはもう少しこちらにも目を向けてほしいと思ってしまいます。

 

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一ノ宮町道路元標

30.一ノ宮町道路元標(2018年1月1日撮影)

現在は群馬県富岡市です。

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一ノ宮町道路元標地図

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上野国一宮、一之宮貫前神社の参道前、そして一ノ宮町役場前にあります。

どちらも理由になりえますが、一ノ宮町役場は一之宮貫前神社の参道内に立地したと

考えられますので、一之宮貫前神社の参道説を採用しようと思います。

 

9個の道路元標をここでは紹介しましたが、

ここで今まで出てきた30個の道路元標の立地理由についてまとめてみましょう。

交通中心地…5

役所・役場…9

参道…4

交差点…10

移動済み(判定不能)…2

となります。交差点が最多、役所・役場が次点となっています。

 

これだけ書いてもまだ2018年に入ったばかりです(ちょっと疲れてきた)。

読んでくださりありがとうございました。

 

2019年1月6日 うさぎ

道路元標④

道路元標③のつづきです。まだまだ取り上げます。

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名古屋市道路元標

11.名古屋市道路元標(2017年9月29日撮影)

現在は愛知県名古屋市です。

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名古屋市道路元標地図

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名古屋市の道路元標は元県庁通りの広小路通りと

名古屋城熱田神宮を結ぶ本町通の交差点にあります。

キャプションによるとこの道路元標は複製です。

 

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町道路元標

12.関町道路元標(2017年10月1日撮影)

現在は三重県亀山市です。

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町道路元標地図

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町道路元標は高札場跡に建っています。

この道路元標は東海道の宿場町である関宿のなかに立地しており、

その範囲の中心に位置しています。

 

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深谷市道路元標

13.深谷市道路元標(2017年10月27日撮影)

現在は埼玉県深谷市です。

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深谷市道路元標地図

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深谷市道路元標は駅前通りが中山道と接した丁字路に建っています。

 

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熊谷市道路元標

14.熊谷市道路元標(2017年10月27日撮影)

現在の埼玉県熊谷市です。

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熊谷市道路元標地図

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熊谷市道路元標は熊谷寺の参道前に建てられています。

中山道熊谷宿の中心にあった熊谷寺前に道路元標が立地したのは

妥当ともいえます。

道路元標前に通る国道17号中山道です。

 

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中之條町道路元標

15.中之條町道路元標(2017年10月31日撮影)

現在の群馬県吾妻郡中之条町です。

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中之條町道路元標地図

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現在の国道353号(日本ロマンチック街道)沿いにあります。

近くには中之條町役場、吾妻郡役所、吾妻第三小学校(現歴史と民俗の博物館ミュゼ)も

あります。

ちなみに吾妻郡にほかに残存している道路元標はありません。

ほかの吾妻郡の市町村は木材を使って道路元標が建てられたからです。

このような稀少さもあり、中之条町の町指定史跡となっており、

キャプションもついています(先ほどの木材道路元標の話はキャプションから引用)。

 

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浦和町道路元標

16.浦和町道路元標(2017年11月17日撮影)

現在は埼玉県さいたま市です。

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浦和町道路元標地図

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浦和町の道路元標は国道463号、中山道沿いに建っています。

浦和宿は中山道の宿場町だったためその名残と考えられます。

ちなみに県庁通りよりも一本北の道に道路元標はあり、

突き当たりは埼玉女子師範学校(現在の埼玉会館)の道となっています。

 

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宮原村道路元標

17.宮原村道路元標(2017年11月21日撮影)

現在は埼玉県さいたま市です。

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宮原村道路元標地図

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宮原村の道路元標は現在JAさいたま宮原の敷地内にあります。

ここは元役場に設置された可能性が高いと推測されます。

 

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淀橋町道路元標

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淀橋町道路元標


18.淀橋町道路元標(2017年11月22日撮影)

現在の東京都新宿区です。

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淀橋町道路元標地図

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淀橋町道路元標は青梅街道と豊多摩郡役所からの道の交点に立地しています。

この道路元標で特筆すべき箇所は、

東京23区内で現在まで残存する東京市道路元標以外の

唯一の道路元標である点です。

半分は亡失してしまったものの裏面には「東京府」と書かれていることが

確認できることから、当時都内にも道路元標が設置されていたことの証明となります。

特別な措置は施されておらず、もしかしたら道路拡張時になくなってしまう

可能性も否定できませんが、これは是非残してほしいと思う道路元標です。

 

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村道路元標

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ときがわ町役場第二庁舎

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19.平村道路元標(2017年11月28日撮影)

現在は埼玉県ときがわ町です。

ときがわ町役場第二庁舎」の写真の奥にある役場の車庫に放置されてます。

抜いたまま放置されているのでそのうち処分されてしまう可能性も高いです…

 

…ところで。

ときがわ町役場第二庁舎」の写真をもう一度よく見てください。

「おや?」と思った人は鋭いです。

「手前側に写っている石碑が道路元標に似ている、いや、道路元標じゃないか…?」

 

はい。その通りです。

これは「明覚村道路元標」です。

 

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明覚村道路元標

20.明覚村道路元標(2017年11月28日撮影)

現在は埼玉県ときがわ町です。

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明覚村道路元標地図

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これは大変わかりやすいですね。

明覚村の役場前に道路元標が設置されています。

この後明覚村は都幾川村ときがわ町と2回の合併を経験するのですが、

明覚村役場、都幾川村役場、ときがわ町役場第二庁舎は全て同じ敷地と

なっていますので、この道路元標は設置されてから移動が行われていない

可能性が高いです。

 

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玉川村道路元標

21.玉川村道路元標(2017年11月28日撮影)

現在の埼玉県ときがわ町です。

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玉川村道路元標地図

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明覚村同様、こちらも役場前の交差点に設置された可能性が高いです。

 

玉川村は明覚村と同じときがわ町だったので同時掲載しようと

11個の道路元標を特集しました。

③と合わせて21個の道路元標の設置傾向を改めて計算すると

交通中心地…3

役所・役場…6

参道…3

交差点…8

移動済み(判定不能)…1

となります。

 

まだまだ続きますが、読んでくださりありがとうございました。

2019年1月6日 うさぎ

道路元標③

 

この記事からはさらに道路元標について考えていこうと思います。

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丹荘村道路元標

2.丹荘村道路元標(2017年6月6日撮影)

 現在は埼玉県児玉郡神川町です。

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丹荘村道路元標地図

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JR八高線丹荘駅間にあります。右図の○が道路元標のあった位置ですが、ここに

丹荘村の役場があったことがわかります。

 

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布施村道路元標

3.小布施村道路元標(2017年6月29日撮影)

現在は長野県上高井郡小布施町です。

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布施村道路元標地図

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今昔マップで調べてみるとこれも役場前だったようです。

ただこれは道路元標西側を通っている国道403号が谷街道(信濃国稲荷山・現千曲市

から信濃国飯山・現飯山市)であることから、街道筋であったともいえます。

 

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長野市道路元標

4.長野市道路元標(2017年6月30日撮影)

現在は長野県長野市です。

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長野市道路元標地図

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善光寺

 

長野市道路元標はキャプションによると高札場の跡です。高札場は領主からの

制令を板札に書いて領民に知らせた場所です。当然人が集まるような中心地に

配置されることが多いため、高札場は街の中心に置かれ、その跡地に

道路元標が置かれるケースは全国いたるところに見られます。

また、ここは善光寺の参道脇です。長野は善光寺門前町として発生した都市である

ため、善光寺の参道脇に高札場や道路元標が置かれたのは自然であると言えます。

ちなみに1991年(平成3年)に改修されたものです。

 

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松本市道路元標

5.松本市道路元標(2017年6月30日撮影)

現在は長野県松本市です。

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松本市道路元標地図

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松本市道路元標は千歳橋のたもとにあります。

千歳橋は武家地と町人地の境界であり、高札場もありました。

本町通りは千歳橋で大名町通りに名を変え、突き当たりに松本市のシンボル、

松本城があります。

そういった意味では一種の境界点であった地に道路元標が設置されたといえます。

 

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大子町道路元標

6.大子町道路元標(2017年7月29日撮影)

現在は茨城県大子町です。

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大子町道路元標地図

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現在の県道28号と旧役場前の道路の交点に建っています。

わずかに離れているかもしれませんが、概ね旧役場前と言ってよいと思います。

 

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郡山市道路元標

7.郡山市道路元標(2017年8月6日撮影)

現在は福島県郡山市です。

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郡山市道路元標地図

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キャプションによると、

安積国造神社の表参道の正面に当たる場所に建てられていたようです。

道路元標から少し南側の県道と県道を結ぶ東西の細い道が

安積国造神社の表参道で、突き当たりが安積国造神社です。

 

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成東町道路元標

8.成東町道路元標(2017年8月11日撮影)

現在は千葉県山武市です。

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成東町道路元標地図

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成東駅と成東の町の背骨となる通りの交差点に位置しています。

 

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千葉市道路元標

9.千葉市道路元標(2017年8月11日撮影)

現在は千葉県千葉市です。

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千葉市道路元標地図

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千葉県庁の前に設置されました。

 

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高崎市道路元標

10.高崎市道路元標(2017年8月22日撮影)

現在は群馬県高崎市です。

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高崎市道路元標地図

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高崎市道路元標は三国街道(県道25号線)と高崎城から高崎駅までを結ぶ道路の

交差点にあります。

 

まだまだ道路元標はありますが読むのもしんどくなってくると思うので

ここで切り上げます。

ここまでの道路元標の傾向として

交通中心地…2

役所・役場…3

参道…2

交差点…3

となります。

 

読んでくださりありがとうございました。

2019年1月6日

うさぎ

道路元標②

さて、①では道路元標とはなにか?をだらだら説明していたわけですが
octoberabbit.hatenablog.com

 ここからは実践に入りたいと思います。

あ、多分これ読んでる人学者肌タイプの人が多いと思うので最初に非難されるかも

しれないけど説明しておきますがさっきの説明は

Wikipediaを参考にしている部分が含まれているので

「参考文献はなんなんだ!」とか言われても

「すみません」としかいえないんですね…

学術的な文章ではないのでちょっと大目に見てください…

学術要素を追求されてもやりづらい…

 

で、ここからが本題です。まずはこちら

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東京市道路元標

1.東京市道路元標(撮影:2017年3月17日・「道路元標地点」のみ2017年12月22日)

東京市道路元標です。

東京市道路元標は日本橋の中央に建てられていましたが

1972年に日本橋の脇の広場に移設されました。

その場所には現在日本国道路元標が埋め込まれています。

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日本国道路元標複製

同じ広場にある日本国道路元標の複製です。

先述した通り本物の日本国道路元標は道路の真ん中にあるので

安全上の理由で本物を見に行くことは推奨しません。

見に行きたい人は自己責任で。

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高速道路上にある「道路元標地点」

高速道路上に日本国道路元標がある位置に「道路元標地点」と書かれた

柱が立っています。ちなみにこれだけ夜なのは別の日に撮影したからです。

goo.gl

東京市道路元標はこちら。ちなみにこれが設置された場所の意義としては

日本橋の中心だったから」だと考えられます。

日本橋江戸幕府により五街道の起点として定められ、

現在も国道1号(東海道)、4号(日光街道奥州街道)、6号(水戸街道)、

14号、15号(旧東海道)、17号(中山道)、20号(甲州街道)の起点となっており、

東京の交通的中心地であったため、ここに道路元標が設置されたものと考えられます。

 

次回以降も続きますが、次回以降は小規模な道路元標と比較的大きな道路元標を

ごちゃまぜにして紹介することになると思います。

これは筆者の訪れた順番に準拠しており、書き落とし防止のためです。

 

読んでくださり、ありがとうございました。

2019年1月6日

うさぎ

道路元標① 道路元標とはなにか?

こんにちは。10月うさぎです。

都内大学で地理学を学んでいる大学生です。

今までTwitter(@Octoberabbit)でたびたびつぶやいてましたが、

140字という制約のなかでつぶやききれないと思ったことも多々あり、

このブログを開設しました。

Twitterで長くフォローしておられる方はわかるかもですが、

私はあまりマメではありません。

そのためブログ更新はTwitter以上に滞ることが予想されますが、

そこはどうにかお許しください。

 

前置きはこれくらいにして、本題に入ります。

昨日Twitterで友人が道路元標についてつぶやいていたので

道路元標について書こうと思います。

友人は道路元標をいくつかめぐっていますが私もめぐっています。

というか友人がめぐっているのは私の影響です(苦笑)

 

そもそも道路元標ってなんぞ?ということを説明すると、

道路上によく「○○ 10km」みたいな青い看板を見ますよね?

あれはその場所から○○の役所・役場までの距離です。

 

さて、昔の人も都市と都市の間の距離を測定しようとしました。

そこで必要なのは「距離を測るには起点と終点が必要だ、

それをどこにするのか」といった点ですよね。

これを指し示すものが「里程元標」「道路元標」です。

 

1873年に「里程元標」が設置されることになりました。

これは東京府日本橋京都府三条大橋

大阪府とその他の県は県庁所在地の交通枢要地に木標を建てて、

管内諸街道の起程とすることにされました。

ちなみに里程元標そのものの現存はまだ見たことがなく、

あっても再現された木標や石碑があるだけです。

明治時代に設置された木標なので残念ながら残っていないのでしょう…

 

1911年に日本橋に「東京市道路元標」が設置されました。

これが最初に設置された市町村の道路元標です。

1919年には各市町村に道路元標の設置が指示され、

1922年には形状などが定められました。

このため実際に使われたと思われる石碑の道路元標は

形が似ているものが多いです。

1952年に道路元標は道路の附属物となってしまったため、

意味をもった役目を失い、ただの石碑となります。

そのため開発などに伴い失われた道路元標も数多くあります。

ただ全国に大量に道路元標を建てた結果、

現在でも残存している道路元標も全国に数多くあることも事実です。

そのまま建てられているものや、文化財指定されたもの、

キャプションがつけられたものは最も保存状態が良いといえます。

一方で道路工事に伴い半分埋められたものも全体こそ見えないものの

設置点から動かされていなければまあまあの保存状態といえます。

なかには道路工事などで撤去を免れるために博物館に移動した道路元標もありますが、

これらも場所的な意義は失っても廃棄されるよりマシともいえます。

 

さらっと「場所的な意義」という言葉を使いましたが、

道路元標は「設置された場所」に意義があると私は考えています。

設置場所は府県知事が決定することになっていますが、

「市町村の位置を示す中心」である以上、

「どこでもいい」わけではないのです。

 

今回は長くなってしまったので説明だけで終了しますが、

次回以降は設置位置も含めた道路元標それぞれの説明をしていきたいと思います。

長文でしたが、読んでくださりありがとうございました。

 

2019年1月6日 うさぎ