
前回、加佐登駅から亀山駅まで歩いた。今回は亀山駅から関駅まで歩こうと思う。次回は鈴鹿峠越えで関を観光している時間がなさそうなのと、関は東海道のなかでも見どころなので、今回は関駅よりも西側も歩き、取り上げている。
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1.旧舘家住宅
今日は亀山駅から出発だ。

県道302号線と647号線の交差点から東海道を歩き始める。

ここは西町問屋場跡だ。

問屋場とは、江戸時代の各宿場において、主に公用の荷物などを運ぶ伝馬人足の継ぎたてのほか、一般の商品物資などの継ぎたて業務をおこなう施設で、町の重役である宿役人がこれを受け持った。
西町問屋場跡から3分ほどで飯沼慾斎生家跡に着く。

飯沼慾斎は日本の植物学の基礎を拓くなど、近代科学草創期の代表的な自然科学者だ。
旧舘家住宅では「亀山トリエンナーレ」をやっていた。

亀山トリエンナーレとは三重県亀山市で開催されている現代美術の祭典だ。

「月夜の仙ヶ岳」という作品。なぜ青い馬なのかはわからない。

それにしても…旧舘家住宅の壁には宿帳を使っているのだろうか?

特にタイトルはない作品のようだが、テトリスみたいだ。

押入の壁にも絵が所せましと貼りつけられている。

「お江戸謳歌」。大きなポリ状の着物に独特なタッチの絵が描かれている。

「願えば雨。願えば太陽。願えば風向。願えば言語生物。」なんか禍々しい。

「よくつとめ はげみませうと くるくると 透明な人の 透明な声が」

顔にキラキラが貼ってあるのはプライバシーの観点だろうか。
「Unconditional Love」。紙風船がいっぱい浮いている。

「菊と刀 in 亀山」。菊の一輪挿しと動画の作品。

私は「これは何を意味しているのだろう」と考えがちなので、現代アートとはそこまで相性が良いとは思えないが、時には感性でものを感じてみるのも大事なのだろう。
2.忍山神社
旧舘家住宅から5分ほどで亀山城西之丸外堀がある。

亀山城は丘陵状の地形を利用して、天正18年(1590年)に岡本良勝が築造し、その後は頻繁に城主がかわり、延享元年(1744年)に備中松山から石川総慶が入部し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで統治した。
なお江戸時代の城郭建造物の旧亀山城多聞櫓が現存しているが、今回は行かない。

ここは亀山宿の西端で、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に築かれた門だった。
梅厳寺に入ると祠が並んでおり、何だ?と思い端の祠を覗いてみると…「第一番 紀伊國 那智山 青岸渡寺」。これ、西国三十三観音の観音様をすべて祀った祠だった。いつか西国三十三観音もやってみたいなあ。関西圏で遠いけど。



梅厳寺から5分ほどで旧佐野家住宅に着く。

佐野家はここの大地主で商家だったらしい。
旧佐野家住宅にも現代アートが展示されていた。
これは「Around The World」。一緒に歩いていた友人が「クレヨンしんちゃんの「シロ」に似てる」と言っていた。確かに似ている。

「継承」シリーズより「Memories」「Leftover's War」そして「祈り」。
千羽鶴のほかにも、戦時中の戦士などの写真も展示されており、改めて戦争とはいけないものだし、今も戦争を行っている地域があることを思った。

森家住宅は国の有形文化財で、普段はカフェをやられているようだが「しばらく休みます」と書いてあった。残念。

森家住宅から5分ほどのところに慈恩寺がある。ここの本尊の阿弥陀如来は9世紀初頭に作られたものと言われており、国指定の文化財となっている。

慈恩寺の境内には薬師堂もあり、ここの薬師如来立像も鎌倉時代末から南北朝にかけて制作されたものと推定されている。

慈恩寺から10分くらいのところに忍山神社がある。

垂仁天皇の御代に皇女・倭姫命が御杖代となって、天照皇大神の鎮座の地をもとめて、大和国からここまで歩いてきた。そのときここに神宮を建て、半年間ここに天照皇大神を祀ったが「もっと良いところがあるだろう」と南に移り、伊勢神宮内宮に祀ることにしたという。半年間祀っていた後がここ、忍山神社だ。
忍山神社の社務所を覗いてみたところ人がいたので、御朱印をいただいた。社務所の方曰く、東海道を歩いている人で度々ここを訪ねる人がいるようだ。

3.昼寝観音
忍山神社から5分ほどのところに大きな塚がある。野村一里塚だ。

大正3年(1914年)に南側の塚が取り壊され、残った北側は、昭和10年(1935年)に補修して、石垣と鉄柵が設けられたため、一里塚としてはほぼ完全な形をとどめている。
高さ3mの塚上には、幹回り約6m、樹齢約400年のムクの巨木がある。
野村一里塚から10分ほどのところに亀山藩大庄屋打田権四郎昌克旧宅跡がある。

打田家は江戸時代初め頃、近江国(現在の滋賀県)から野尻村(現在の亀山市)に移住し代々いくつもの庄屋をまとめる大庄屋を務めた。
亀山藩大庄屋打田権四郎昌克旧宅跡から3分で布氣皇舘太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)がある。

布氣皇舘太神社は延喜式巻九に記載があり、垂仁天皇18年(紀元前12年に創始されたと伝えられている。
布氣皇舘太神社から10分ほどのところに昼寝観音がある。

「ここで昼寝をしろってか?」と友人がふざけたが、こういう伝説があるらしい。
この観音様は奈良東大寺の大仏を建て直すお金を全国から集めているときに、石山観音(現在の津市)から運ばれてきたらしい。
その昔、各地の観音様が集まり、西国三十三観音を決める会議を開いたとき、ここの観音様は昼寝をして会議に行かなかったため、西国三十三観音に選ばれることはなかった、と伝えられている。
西国三十三観音を決めたのは養老2年(718年)に徳道上人が決めたのであり、観音様が集まって決めたわけではないだろう、と突っ込むのは野暮なのだろうか。
関西本線を高架で越え、しばらく「太岡寺畷」をまっすぐ進んでいくと名阪国道のガード下に東海道の説明書きなどがある。これが東海道と周辺の古道の分岐だ。
関で東海道と伊勢別街道、大和街道が分岐しているのを、よく覚えておこう。

4.関宿
ガード下からまっすぐな道をひたすら進み、国道1号線を越えて旧道を進むと、ついに「関宿」の看板が見えてくる。

東海道47番目の宿場である関は、中世より「関地蔵宿」として繁栄してきたところで、天正年間(1573~1592年)に東海道の道筋が変更され、中町が新設されて、新所町・木崎町とともに関三町を構成する「関宿」が誕生した。
現在は、東の追分から西の追分に至る街道に沿った家並み約1.8kmと、その北側に接する寺社を含む地域が、「関町関宿伝統的建造物群保存地区」とされ、江戸・明治時代の建造物が約半数、第二次世界大戦前の建造物を含めると、約7割が伝統的要素をもつ木造建造物群となっている。
ちなみに東海道で往時の姿を残している宿場はここ、関宿のみであり、「伝統的建造物群保存地区」も「東海道を歩く 34.知立駅~鳴海駅」5.有松 に登場した有松地区だけである。
余談だが、「関宿」で調べると千葉県野田市の「関宿」と三重県亀山市の「関宿」のどちらもがヒットしてしまうので都道府県名か市町村名をつけて検索することをおすすめする。そして千葉県野田市は「せきやど」と読み、三重県亀山市は「せきじゅく」と読む。さらに言うと、千葉県野田市の「関宿」は城下町で、三重県亀山市の「関宿」は宿場町だ。
「やけに千葉県野田市の関宿に詳しいな」と思ったそこのあなた。実は、千葉県野田市の関宿については「地図ラー11」の「道路元標を訪ねて―野田市編―」で書いているのだ。千葉県野田市の関宿についてはこちらを参照してほしい。「10月うさぎ」ではなく実名名義ですが私が書いた文章なので、読んでいただけると嬉しいです(唐突な宣伝)。
千葉県野田市の関宿については「地図ラー11」を参照していただくとして、三重県亀山市の関宿についての話をはじめよう。
まず、足元のマンホールがかわいい。

関宿のまちなみを背景に、お地蔵さんと旅人をモチーフにして生まれた旧関町のイメージキャラクター「アスレ」を描いたデザイン蓋だ。
アスレの肩にとまっているのはキジ、笠につけているのはシャクナゲの花だ。
なぜお地蔵さん?これも後ほど判明する。
関宿の入口には石碑が建っていて、このような伝説がある。

九州久留米藩士・牧藤左衛門の妻は、夫の仇を討とうと志して旅を続け関宿の山田屋に泊まったが、小萬という女の子を産んだ後に亡くなった。
小萬は母の遺言により、成長して3年ほど亀山城下で武術の修行に励み、天明3年(1783年)に仇を討つことができた。
この場所は、亀山に通っていた小萬がほかの若者との接触を避けるために、姿を隠してもたれたという松があったことから「小萬のもたれ松」と呼ばれるようになったそうだ。
江戸時代はこの手の「仇討ちもの」好きだよなぁ…「東海道を歩く 21.金谷駅~ことのまま八幡宮バス停」5.夜泣き石 に出てくる夜泣き石伝説とか…と思った。
5.古民家かふぇ「きーぷ」
旧関町の町章がついた消火栓を見つけた。

関町は平成17年(2005年)に亀山市と合併したため廃止された。ちなみに千葉県野田市の合併前の名称は「関宿町」。
旧関町章は「セ」を水平に図案化し、円を表したもの。
東の追分には一里塚跡、常夜燈、鳥居がある。



鳥居があっても、この先に神社があるわけではない。
ここは東海道と伊勢別街道の分岐点で、鳥居は伊勢神宮の一の鳥居であり、遷宮の際に内宮の宇治橋から移している。
要は、江戸から伊勢神宮に向かう人は「東海道を歩く 40.富田駅~加佐登駅」10.日永の追分 に出てきた日永の追分を使い、京・大坂から伊勢神宮に向かう人はここから伊勢神宮に向かうのだ。そのため城下町ではなく、どちらの伊勢神宮行きでも使用しない石薬師宿・庄野宿は伊勢参りブームでも恩恵がなかったとか…。
関宿に入ったところで、古民家かふぇ「きーぷ」を見つけた。

「今週のランチ バターチキンカレー 豆腐のステーキ さつま芋のレモン煮 柿&大根のナマス サラダ スープ プチデザート ドリンク」

特に昼食を食べるところを決めていなかったので、ここにした。
「バターチキンカレーと豆腐のステーキから選ぶのかな~」などと考えていたら…まさかの全部出てきた。



ちなみにこれだけ出てきて1,400円。良心的すぎる。もちろん美味しかった。
お腹もココロも満たされたところで、関宿を散策する。
それにしても…風情のある街だなぁ。

古い銭湯だろうか。

6.関の山車会館
友人とのんびり写真を撮りながら歩いて、きーぷから20分ほどのところに関神社がある。

昔このあたりを治めていた「関氏」の祖、実忠が紀伊國熊野坐神社の分霊を勧請したものと伝えられている。
「ようこそ むカエルくんで~す」…もう少しかわいくしてくれよ。

この「でんわ でんぽう」の看板も懐かしさを感じる。今や電報は卒業式の祝電くらいでしか使わないし、実際今住んでいる家には固定電話はない。

「関の山車(やま)会館」が開いていたので、入ってみる。

関宿祇園夏まつりは、毎年7月下旬に執り行われる関神社の祭礼で、2日間に渡って御輿の渡御と山車の曳き回しが行われ、多くの見物客でにぎわう。
祭りで曳きだされる山車は「関の山車」と呼ばれ、江戸時代後期より地域の人々によって継承されてきた。
平成3年(1991年)には関町が、曳きだされる山車、山車に取り付けられる用具などを有形民俗文化財、山車の通行やお囃子などを無形民俗文化財に指定し、平成17年(2005年)には亀山市と関町の合併により、亀山市の文化財として引き継がれた。
現在の関の山車は、中町三番町、中町四番町、北裏、木崎の各自治会がそれぞれ1台の山車を所有し、祭りやお囃子の保存と継承に努めている。
最盛期には16台もの山車があり、見返り幕や横幕、提灯などで豪華に飾り付けられた山車が、狭い関宿内の家の軒先をかすめて巡行し、身動きも取れないほどであったことから、限度いっぱいを意味する「関の山」の語源になったのがここ、と言われている。
天井を見上げると、薄暗いなかから日が差している。これはあかりとりのために作られたそうだ。

この香炉は「関萬古(せきばんこ)」という焼き物だ。

江戸時代には東海道の宿場町として賑わいのあった関町も、明治23年(1890年)に関西鉄道(四日市~草津)が全通開業すると、旅人の往来は著しく減っていった。
そうしたなかで、関町の殖産興業として取り組まれたのが「関萬古」「鈴鹿萬古」と称された関産の萬古焼だった。
この関萬古の事業化に中心的にかかわったのが三谷耕一で、三谷は関宿付近に適当な陶土を発見し、有志5人とともに明治39年(1906年)に関萬古の製造に着手し、「七屋商店」を興した。
明治40年(1907年)には「第9回関西府県聨合共進会」において展示販売を行うなど販路の拡大に努めながら、三谷は新たな商品の開発にも腐心、明治45年(1912年)には金属のような光沢がある焼物「金虹焼」の特許出願を行い、大正2年(1913年)に特許が認められた。
しかし昭和10年(1935年)頃になると、陶土不足、職工の養成が進まないことから廃業してしまった。
ちなみに現在の関の山車会館は旧三谷家住宅を再利用している。
主屋は、一列三室に通り土間を設ける平面で、全面に摺り上げ戸の痕跡が残るなど、江戸時代末期から明治時代前期にかけて建築された関宿の典型的な伝統的建造物であるといえる。
土蔵は内部に「七星商店」と記した箱や関萬古製品が残されていたことから、関萬古製品の保管などに使用されていたと考えられているが、いつ建築されたかは不明。
離れ座敷は、屋根裏に残されていた端材の墨書から、大正10年(1921年)に建築されたことが判明している。

壁の木の色が一部変わっているが、これは「傷んだら接ぐ」という修理をしていたため。

土蔵には昔使っていた関神社の御輿が展示されていた。

山車収蔵展示棟には「木崎の山車」と「中町四番町の山車」が展示されている。

木崎の山車は4台の山車のなかで最も規模が大きく、山車の正面には囃手が座る囃場があり、「出囃子」と呼ばれている。
装飾に使用される提灯は、五七桐があしらわれた丸提灯のほかに、木崎地区四自治会の名が入った消防提灯を天場正面に、地区内十組の名と保存会の名が入った消防提灯を出囃子に取り付けている。

中町四番町の山車は、4台で唯一の漆塗の山車で、下場や内柱などの構造部分及び欄間彫刻などは白木造り・外柱・高欄などは黒漆塗。
山車の周囲を飾る丸提灯には、中町四番町の「四」の文字を図案化した模様を使用している。
これは木崎の山車の見送り幕で、図柄である「柳風景図」は、明治期の貿易用工芸作品図録に類似した額絵や壁掛の制作例がわずかに見られることから、明治初期の輸出用壁画装飾の刺繍画ではないかと考えられている。

これは中町二番町で所有されていた山車の部材で、これは戦後解体されてしまったらしい。

7.関まちなみ資料館
関の山車会館から5分ほど行ったところにある延命寺の山門。関宿の本陣、川北本陣の門として使われていたが、明治5年(1872年)に延命寺に移築された。

瑞光寺の中興、永隆和尚は三河国宝飯郡に生まれ、幼少期に徳川家康と親交があった。
徳川家康は上洛のとき永隆和尚を訪ね、庭先の柿を賞味したことから後世になってこの柿を「権現柿」と呼ぶようになった。

瑞光寺から東海道に戻る。

瑞光寺から5分ほどのところに関まちなみ資料館がある。

この建物は、昭和60年(1985年)に関町が元の持主・別所マサさんからもらい受け、昭和61年(1986年)から3年かけて解体修理を行い、昔日の姿に復元したものである。
いつ頃できたのか、正確な年は不明だが江戸時代末期にできたと推定されている。

「関の小山車(こやま)」が展示されていた。

関宿の家々では、「関の山車」の祭礼に合わせて、その家の子供たちのために「小山車」と呼ぶミニチュアの山車を作り家の前などで子供たちに曳かせる風習があったそうだ。
関の宿場の図が展示されていた。

天正18年(1590年)頃から慶長20年(1615年)頃までの関宿は徳川家康の所領だった。
「御茶屋御殿」は、関宿の中心部に所在した家康上洛時の旅館で、これは天正18年(1590年)に福蔵寺を西隣に移転させて築造したと伝えられている。
周囲に堀と土井をめぐらせ、旅館であるとともに代官が居住し徳川家の関支配の拠点になっていたが、寛永13年(1636年)に関が亀山領となってその役割を終えた。
関の宿場のミニチュアもあった。

この文書は、慶長6年(1601年)に、徳川家康の命により宿駅制度が開始された際に、宿送りする人馬の使用、継ぎ立てを行うために、その照合のために各宿に発給されたものである。もとの資料は川北家にあり、これは複製。

明治初期、有栖川宮が宿泊されたときの宿札が展示されていた。

橋爪屋という旅館跡の発掘調査で出てきた寛永通宝などが展示されていた。

8.旅籠玉屋
関まちなみ資料館をあとにし、東海道を歩く。

先ほどからたびたび名前に出てくる「川北本陣」の跡。川北本陣は延命寺の山門しか残っていない。

展望台があり、少し上から関のまちなみを眺める。

「東海道関宿」

伊藤本陣阯。現在は主屋建物のミセ部分だけが現存する。

起こり屋根という特徴的な屋根を持つ橋爪家。

古民家ゲストハウス「石垣屋」。また関に行く機会があれば泊まってみたい。

旅籠玉屋に到着した。

玉屋がいつ頃旅籠を営むようになったかについては、はっきりとしたことはわからない。
しかし、寛政12年(1800年)の宿場絵図には代々襲名していた「狸右衛門」の名前が記されており、すでにその頃にはこの場所で旅籠を営んでいたと考えられる。
東海道に面した主屋は、慶応元年(1865年)に建築された木造二階建で、外観は2階を漆喰で塗り籠める関宿でよく見られる形式だが、江戸時代の建物としては特別軒が高く、屋号にちなんで設けられた宝珠をかたどった虫籠窓が特徴的だ。
土蔵は棟木の墨書から元文4年(1739年)の建築とわかっている。
帳場には人形が置かれている。

徳利には「せき」「玉屋」と書かれたものもある。


定宿帳が展示されていた。

旅の隆盛により、当時の旅人が旅籠屋などで飯盛女を勧められたり、不当な扱いを受けることが多くなった。
このため、文化3年(1804年)に客の宿泊と安全を保証する旅宿組合「浪花講」ができ、旅宿組合名簿を兼ねた道中記が三都を中心に発行された。
ちなみに関宿では「あいづや」が書かれているのが見える…玉屋じゃないんかい。
旅行用心集と五街道中細見記。

旅行用心集は当時の旅のガイドブックで、旅の心得として、泊屋で蚤をさける方法、寒国旅行の心得のほか、道中所持すべき薬・用具類を絵入りで細かく紹介している。
五街道中細見記は、五街道の旅籠、名物、名産などを記した道中記で、関宿の項には、旅籠として「つるや吉兵衛」と並び、「玉屋利右衛門」の名が記されている。
欄間にウサギが彫られている。かわいい。

2階に上がったら食事と寝床が用意されていた。この2階部分は明治に入ってから増築されたとのこと。


障子の裏から宝珠が浮かび上がっている。

「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」
これは、伊勢参りの人々が関の旅籠を謡ったものである。
鶴屋は西尾脇本陣、会津屋は地蔵院前の旅籠で、それぞれ今でも建物が残る。
こうした大旅籠では多いときで200人近い宿泊客があったと思われ、玉屋の襖に残っていた宿帳には100人近い団体の記録がある。
玉屋のかまど。ここで食事が作られていたのだろう。

玉屋の土蔵のなかも展示スペースとなっている。

これは当時玉屋で使われていた食器で、宝珠のマークが描かれている。これはロゴマークだったのだろう。

宿帳は襖として再利用されていたそうだが、今なら個人情報保護の観点でアウト。

玉屋では「歴まちカード」を配布している。

歴まちカードこと、歴史まちづくりカードは国土交通省が作成している歴まち認定都市の象徴的な風景写真や歴史まちづくり情報を紹介したカード型パンフレットである。
前回登場したのは「東海道を歩く 34.知立駅~鳴海駅 5.有松」で名古屋市の歴まちカードを入手したときである。
9.関町道路元標
関郵便局の前に関町道路元標がある。

道路元標とは大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1基ずつ設置されたものだが、戦後の道路法改正により道路の付属物ではなくなったため撤去が進み、現在では全国で2,000基程度しか残っていない。
「東海道を歩く」では前回登場は「東海道を歩く 41.加佐登駅~亀山駅」7.亀山宿 で登場してくる亀山町道路元標だ。
東海道とは関係ないのだが、「地図ラー11」で「道路元標を訪ねて―野田市編―」という文章を書いており、これは千葉県野田市の道路元標の特集だ。「10月うさぎ」ではなく実名名義ですが私が書いた文章なので、読んでいただけると嬉しいです(唐突な宣伝)。
関町道路元標の隣には関宿の高札場がある。

高札場とは、幕府の法度や掟書、宿場の決まりなどを掲示した場所である。
関宿の高札場は、江戸時代に描かれた数々の絵図を見ても、関宿中町北側(現在の関郵便局)にあった。
当時この敷地は、「御茶屋御殿」と呼ばれ、江戸時代初期においては本陣の役割を果たす施設だったが、関宿に本陣が確立されてからは亀山藩の施設として番所などが置かれた。
関宿高札場はこの御茶屋御殿の街道に面した位置にあり、街道に面した間口十一間余のほぼ中央に枡形状の土塀に囲まれてあり、高札場の建設、高札の付け替えなどは亀山藩が行っていた。
「東海道宿村大概帳」によると関宿高札場には8枚の高札が掲げられており、その内容は、生活にかかわる様々な規範、キリシタン禁令や徒党・強訴などの禁止といった幕府の禁令、隣接宿場までの人馬駄賃の規定などだった。
明治に入ると各地の高札場は撤去されるが、関宿の高札場も明治10年(1877年)、関宿中町伊藤家の土蔵建築の際、旧高札場の石、土、瓦等を残さず処分したことが伊藤家の文書にあり、周囲の土塀なども含めすべて撤去された。
現在ある高札場は平成16年(2004年)に復元されたものである。
10.福蔵寺
旧落合家住宅がある。入ってみよう。

旧落合家住宅は関宿の中心部、中町の街道北側にある関宿を代表する伝統的建造物のひとつである。
落合家は「阿濃安(あのやす)」の屋号で煙草商を営んでいたが平成22年(2010年)1月、主屋建物が亀山市に寄贈され、平成21年(2009年)度から平成23年(2011年)度の3カ年で修復整備を行った。
旧落合家住宅の主屋建物は「関宿 伝統的建造物群保存地区調査報告」によると、天保年間(1830~1844年)以前の建築とされている。

ここでも「亀山トリエンナーレ」が行われていた。
「Ghosts in the Glass: Windows that Whisper」は見つけた素材とブルックリンにある頑丈な産業建築物を撮影した写真を組み合わせたコラージュである。
このコラージュは、宿場町が旅人に避難所や糧を提供するように、作者のリャン・ミラー氏にとって休息所になる…と書かれていたが、なるほど、わからん。

この写真は「Unforgettable Times -Early 2020's」。2020年ということで想像がつくが、コロナ禍に関する写真集である。

関宿に戻る。「ナガオ薬局」のうさぎのキャラクターが古そうだ。

「志ら玉」の暖簾がかかった建物を見つけた。

「志ら玉」はこしあんを米粉を原料にした皮で薄く包んだ上から赤、青、黄色でいろどりを添えた餅菓子である。今回は食べなかったが次回は食べてみたい。
「志ら玉」からほど近くに福蔵寺がある。

新しい墓石があるが、これは織田信孝のものだ。
織田信長の三男・織田信孝は本能寺の変で亡くなった信長の冥福を祈るため、旧家臣の大塚俄左エ門長政に命じこの寺を建てた。
しかし信孝は羽柴秀吉との信長後継者をめぐる争いに敗れ、天正11年(1583年)尾張国で自害させられたので長政がここに首を持ってきて、信孝の菩提寺とした。
この墓は信孝の墓石がわからないため、400年忌を迎えたときに建てられたものだ。
つまりここには信孝はいないということか…とりあえず手を合わせた。
11.九関山地蔵院
福蔵寺からほど近くに九関山地蔵院がある。

地蔵院は天平13年(741年)、行基が地蔵を安置したのに始まる。
本堂は、元禄13年(1700年)に建立された。
江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院がこの地蔵を熱心に信仰し、その結果、綱吉が生まれたからとされる。
地蔵院は関宿の中心で、アスレくんが地蔵なのはこの地蔵院の地蔵をモチーフにしているからといえる。
また本堂に向かって左側には、寛永7年(1630年)再建の旧本堂があり、愛染明王を安置したことから、のちに愛染堂ともよばれ、小堂ながら銀箔透彫りの扉を持つ豪華な造りだそうだが、確認するのを忘れてしまった。
堂前の鐘楼は17世紀中頃の建造物で、寛文11年(1671年)の梵鐘改鋳の際に修理された。

庭園も三重県内七名園のひとつで、築山のエゾザクラは藤原定家の歌にもみえるそうだが、開いていなかった。
ちなみに関地蔵院には明治天皇も来たようだ。

「会津屋」は蕎麦屋になっていた。ここで気になるのが、江戸から京方面から見ると「あいづや」、京から江戸方面を見ると「會津屋」と書かれていることだ。


これは「どっちが江戸だっけ、京だっけ」と旅人が思ったときの道案内用としての表記変えで、「江戸から京方面へ見るとひらがな、京から江戸方面へ見ると漢字」という、スマホがない時代の道標である。同じような表記変えは、「東海道を歩く 21.金谷駅~ことのまま八幡宮バス停 7.日坂宿」の川阪屋にも残っている。
会津屋の近くの土産物店「関見世 吉右衛門」で御宿場印を買った。「亀山宿」「関宿」「阪之下宿」の3種類だ。



「ちょっと!坂下宿はまだ行ってないじゃない!」と突っ込みをくらうかもしれないが、坂下宿では御宿場印が売ってそうな場所がなさそうなので、フライングしてしまった。
このお土産屋さんでは「関の戸」も購入した。

関の戸とは、赤小豆のこしあんを求肥餅で包み、和三盆をまぶした餅菓子である。もちもちしていて美味しかった。
旧田中家住宅があったが、お取込み中のようだったので次回に回す。

「関宿 西の追分 休憩施設」はもう閉まっていた。

「南無妙法蓮華経 ひだり いが・やまとみち」と書かれた道標がある。「西の追分」だ。

ここから東海道と大和街道が分岐する。大和街道はここから加太峠を越えて伊賀・奈良に向かう。
要は、大和街道を歩いてきた旅人が伊勢神宮方面へ向かいたいとき、西の追分から東海道に入り、東の追分で伊勢別街道に抜けていくのである。
東海道、伊勢別街道、大和街道が交わる関宿は、江戸時代の交通の要衝だったといえる。
関宿の西の端まで歩いたところで、関駅に戻ろう。夜の関宿もなかなか良い。

温かそうな光が喫茶店から漏れているが、あと10分で電車が来てしまうので関駅へ急ぐ。

関駅に到着し、ここから帰路についた。

次回は関駅から田村神社バス停まで歩く予定である。





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歩いた日:2024年10月27日
【参考文献・参考サイト】
風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第13集」
三重県高等学校日本史研究会(2015) 「三重県の歴史散歩」 山川出版社
亀山市歴史博物館 亀山のむかしばなし 昼寝観音
https://kameyamarekihaku.jp/kodomo/w_e_b/hanashi/omoshiroi/page006.html
(2025年1月29日 最終閲覧)