10月うさぎの部屋

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東海道を歩く 41.加佐登駅~亀山駅

 前回、富田駅から加佐登駅まで歩いた。今回は加佐登駅から亀山駅まで歩こうと思う。鈴鹿市を越え、亀山市に入る。亀山市といえば、鈴鹿峠がある市であり、この峠を越えたら滋賀県だ。滋賀県が近づいているような気がする。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.庄野宿資料館

 今日は加佐登駅からスタートだ。加佐登駅、今後の人生で降りるか謎だ。

加佐登駅

 

 加佐登町交差点まで来て、ここから右折して東海道を始める。

加佐登町交差点

 

 加佐登町交差点からそのまま道なりに進み、庄野町北交差点で右折、庄野町西交差点で左折すると庄野宿に着く。

庄野宿

 

 庄野宿は江戸から数えて45番目の宿場で、現在も残る格子造りの家と、ややカーブした狭い道が街道であったことを伝えている。

 「庄野」という地名は、昔は「荘野」と書いていたように荘園にちなむ地名である。庄野については、伊勢神宮内宮の庄野御園であったと伝わる。

 庄野宿ができたのは寛永元年(1624年)と東海道五十三次のなかでは最も遅く、石薬師宿と亀山宿の間に宿立された。

 隣の石薬師宿から庄野宿までは2.7kmほどしかなく、東海道では2番目に距離が短い(一番短いのは御油宿と赤坂宿)。200軒ほどの人家と15軒ほどの旅籠のある、東海道のなかでは小さな宿場だった。

 

 ちなみに庄野宿にはバス停があるが、加佐登駅からバスを使う距離でもない。

 

 「庄野白雨」の説明板があった。

 石薬師宿と亀山宿の間の小さな宿場、庄野宿を有名にしたのが、歌川広重が描いた保永堂版「東海道五十三次」の風景版画のなかで傑作といわれる「庄野の白雨」である。

 突然曇る空、客を濡らさないように坂を駆け上がる駕籠、そのなかの客は振り落とされないように必死に駕籠の枠をつかみ、体に菰を巻き付けた男がそれを追い越していく。左上がりの対角線に坂道を配置し、ほぼ直角にたたきつける雨の構図は、迫力と動きを強調して、この場の緊張感を表現している。

 

 庄野宿資料館にやってきた。

庄野宿資料館

 ここは問屋であった旧小林家住宅で、ここは「嘉永7年(1854年)」銘の棟札をもつ建築物で、館内には庄野宿の本陣・脇本陣文書や高札など、宿駅関係の資料が展示されている。

 庄野宿資料館の館内は撮影禁止だが、別館の農機具展示館は撮影可能である。ちなみにここ、常時は開いておらず案内人のおばちゃんに開けてもらった。

 「天保4年(1833年)」と書かれた箱のなかに食器が入っている。

 

 とっくりにはお店の名前や住所などが書かれている。

 

 大きい籠があり、昔はこれに入れて荷物を運んだのだろう。

 

 敷地内には「なんじゃもんじゃの木」など、さまざまな植物も植えられている。

なんじゃもんじゃの木

 「庄野宿」の御宿場印も、こちらで手に入る。

 

2.庄野宿いっぷく処

 「距 津市元標 九里拾九町」

 「石薬師へ壹里壹町 亀山へ貮里参町 庄野村」

 庄野村里程元標だ。

庄野村里程元標

 里程元標とは道路元標の前身となるものである(見た目が新しいので、おそらく復元だろう)。

 道路元標とは大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1基ずつ設置されたものだが、戦後の道路法改正により道路の付属物ではなくなったため撤去が進み、現在では全国で2,000基程度しか残っていない。

 「東海道を歩く」では前回登場は「東海道を歩く 40.富田駅~加佐登駅」12.石薬師宿 に登場してくる石薬師村道路元標だ。のちほど亀山町道路元標も登場する。

 東海道とは関係ないのだが、「地図ラー11」で「道路元標を訪ねて―野田市編―」という文章を書いており、これは千葉県野田市の道路元標の特集だ。「10月うさぎ」ではなく実名名義ですが私が書いた文章なので、読んでいただけると嬉しいです(唐突な宣伝)。

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 庄野村里程元標のある場所は庄野宿本陣跡で、江戸時代の中心が明治以降も中心になっていたといえる。

庄野宿本陣跡

 

 庄野村里程元標・庄野宿本陣跡があった場所は庄野町集会所となっている。「庄野宿いっぷく処」と書かれていたので、少し覗いてみることにした。

庄野町集会所

庄野宿いっぷく処

 

 なかに入ると冷たいお茶とコーヒー、梨を出してくれた(ちなみに無料)。

 

 ずっと東海道を歩いていることや、あとなぜか年齢の話(27歳と言ったら「見えない!17か18じゃないの?」と言われた。サバ読みすぎです)などをして、ノートに記帳するよう言われたのでサインを残しておいた。

 

 あと「庄野 寄っといで音頭(炭坑節の替え歌)」を披露してくれた。これを書いているのは3ヶ月後だが歌って踊っている様子は鮮明に思い出せる。なおこれ、踊っているおばちゃんは御年80歳らしい。とてもそうは見えない。

 

 「庄野~ええと~こ~ えやな~いか~(それそれ)

  みんなおいで~よ~ このま~ち~へ~

  えがお~で あつま~り おどろ~うよ~

  庄野~ええと~こ~ えやな~いか~(寄っといで 寄っといで)」

 

 20分ほど滞在して後にした。

 「庄野、なんもないところでごめんねぇ」と言われたが、「庄野宿資料館もあるし庄野宿いっぷく処もあるし、「なんもない」なんてとんでもないです」と返しておいた。

 

 いろいろお土産もいただいた。「庄野宿絵図」。今はなきお店も載っているらしい。

 

 「11月3日にお祭りあるのよ」とチラシを渡されたが、さすがにこの短期間でまた三重に行くのは難しいかな。

 

3.女人堤防碑

  川俣神社にたどり着いた。

川俣神社

 川俣神社の御祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)ほか。

 境内に川俣神社のスダジイがある。

 スダジイは、暖地に自生するブナ科の常緑高木であるが、このスダジイは、樹高15m、幹回り5m以上の巨木で、枝は東西に約19m、南北に約16mの広がりをみせている。

 太い幹には、注連縄が張られて柵も設置され、神木として保存されている。

 生命力を感じる大樹だ。

 

 そういえば、ここで初めて鈴鹿市のマンホールを見かけた。

 トンボが2匹、綺麗な水辺を飛んでいる。「すずかし のうしゅう」と書かれ、農業集落排水事業のマンホールの蓋であることがわかる。

 

 川俣神社から15分ほどのところに「いぼとり地蔵 この奥50m」とあるので行ってみる。

 

 昔からいぼと眼病に効くと伝えられ、地域の信仰を集めており、今も遠方からお参りに来る人も多いらしい。それなら皮膚科か眼科に行けばいい、と突っ込むのは野暮なんだろうか。

いぼとり地蔵

 

 いぼとり地蔵から5分ほど行ったところに「従是東神戸領」と記された領界石と女人堤防碑が建つ。

従是東神戸領

女人堤防碑

 このあたりは、鈴鹿川とその支流・安楽川の合流点で、昔から水害が頻発していた。

 江戸時代、領民は神戸藩に何度も川の修築を申し出たが「神戸が浸水しては困る」と藩主は許さず、強行したら打ち首となる。

 しかし、毎年のように水害を被る領民はこれに耐えがたく、どのような処刑になったとしても恐れず堤を建てようした。

 そこで菊女という女性は、「築堤がばれたら領内の男性全員の命を失い、生活に支障をきたします。なら、女性が死を覚悟して作るのです。」と言った。

 これに共感した女性200人あまりは6年ほどの歳月を費やして、堤を完成させた。

 もちろんこれが藩主にばれないわけがなく、女性たちは処刑されることになった。

 発起人の菊女が断頭台に座った瞬間、家老・松野清邦からの赦免の早馬が駆け付け、女性たち200人の命は助かるどころか、この築堤への褒章として金一封と絹5匹が贈られた。

 命を守るための築堤が許されないどころか、こっそり築堤して処刑されるなんて今ではありえない話である。結局許されたからよかったけれども。

 

4.百八十八番供養塔

 女人堤防碑から10分ほどのところに中富田一里塚跡がある。

中富田一里塚跡

 一里塚は慶長9年(1604年)に江戸幕府の事業として建てられた。

 中富田の一里塚は江戸から103里目の一里塚で、日本橋から412kmの距離にあるが、現在は石碑が残るだけである。

 

 中富田一里塚から5分ほどのところに常念寺がある。

常念寺

 常念寺は承応年間(1652~1654年)に智詮和尚の開基とされ、御本尊は阿弥陀如来だ。

 当時は現在地になく別の場所にあったが、安政元年(1854年)の大地震により倒壊した。

 明治32年(1899年)宇田川妙教上人の発願により、鐘楼堂が建立されたが、太平洋戦争の時代に軍の命令により供出を余儀なくされ、長年村人に親しまれた鐘の音が止んでしまった。梵鐘のなくなった鐘楼堂は昭和19年(1944年)の東南海地震で倒壊し、土台石を残すのみとなった。

 昭和48年(1973年)檀信徒の熱意により現在の本堂が新築され、平成3年(1991年)には地蔵堂と山門が新築された。

 

 「ひろせ道」…どこへ続いているのだろうか?

 

 二等水準点「1413号」がここにあるらしいが、草に隠れて見えない。

二等水準点「1413号」

 

 安楽川を和泉橋で渡る。

 

 「右 のぼ」…能褒野?

 

 道標のすぐそばに、百八十八番供養塔がある。

百八十八番供養塔

 百八十八番供養塔とは、江戸時代に西国三十三番、坂東三十三番、秩父三十四番の百観音霊場に加えて四国八十八か所弘法大師霊場の計188か所の霊場を巡礼してきた人たちが満願成就を記念に建立したもので、体の弱い人やお年寄りたちが地元にある百八十八番供養塔で礼拝をしたと伝えられている。

 この供養塔には霊場に巡礼に行けなかった人にも同じご利益が授かるように、という願いが込められている。

 現代でさえそれだけ回るのにはお金も時間も必要なのに、昔はもっとお金も時間もかかっただろう。でも、いつかやってみたい。

 

5.和田道標

 踏切を渡ろうとしたら、ちょうど関西本線がやってきた。

 

 踏切を渡り、足元を見ると「おや」と気づいた。特にカントリーサインはなかったが、亀山市に入っていたのである。

 このマンホールには亀山城多門櫓と亀山市の花・ハナショウブが描かれている。

 

 遠くに井田川駅が見えるが、終着点ではないので乗らない。

井田川

 

 ここでおなかが空いたので、すき家でチーズ牛丼を食べることにした。

 

 昼食を済ませ、東海道に戻ると足元に「旧東海道」の文字が。こういうのいいね。

 

 「旧井田川小学校跡」という石碑と二宮金次郎像。昔ここに小学校があったのだろう。

 

 歩道橋の上には亀の絵が。亀山だけに?

 

 「東海道 ←」(かすれかけて見えないけど)のある交差点を左折する。

 

 椋川を渡る。

椋川

 

 椋川を渡って5分ほど歩いたところに「南無妙法蓮華経」の石碑を見つけた。

 これは谷口法悦が建てた題目塔である。

 谷口法悦は京都在住だった日蓮宗を篤く信じていた人物で、17世紀末頃、一族とともに各地の寺院、街道筋や追分などに「題目塔」と呼ばれるこれらの塔を造立したことがわかっている。

 ただ谷口法悦が建てた題目塔を見たのは初めてなので、これから登場するということなのだろうか。

 

 「また里程元標か?」と思い説明板を見たら「和田道標」というらしい。

和田道標

 元禄3年(1690年)、東海道から神戸・白子・若松方面の分岐に建てられた道標である。

 正面に「従是神戸白子若松道」、左側面に「元禄三庚午年正月吉辰 施主度会益保」とある。

 「県内東海道の在銘道標のなかでは最も古いものである」と書かれていた。前回登場した「日永の追分に建てられていた道標 明暦2年(1656年)」のほうが古いのでは?と突っ込みたくなったが、あれには誰が建てたか書かれておらず、「誰が建てたのか書かれている道標で東海道最古」という意味では合っているのだろう。

 

 「シルビア プレセア バネット」…いつから変えてない?

 少なくともプレセアは私が子供のころ乗っていた車で、20年以上前の車だ。ちなみにシルビアは昭和40年(1965年)から平成14年(2002年)、プレセアは平成2年(1990年)から平成12年(2000年)、バネットは昭和53年(1978年)から平成29年(2017年)まで販売されていたから…設置時期としては最も短かったプレセアの時期か?だとしても20年以上前からそのままか…

 

6.和田一里塚跡

 「シルビア プレセア バネット」の車屋からほど近くに、石上寺がある。

石上寺

 延暦15年(796年)に大和国石上神宮の神託を受けた紀真龍(きのまたつ)が、那智熊野那智大社をこの地に勧請したと伝える。

 のちに鎌倉幕府の祈禱所となり、広大な土地が寄進されたが、戦国時代に織田信長勢の兵火に遭って衰微し、江戸時代初期に小堂を建てて再興したという。

 

 石上寺から5分ほどのところに和田一里塚跡がある。

和田一里塚跡

 亀山市内に所在する旧東海道の一里塚で、慶長9年(1604年)幕府の命により亀山城主であった関一政が築造した。

 かつてはエノキが植えられており、昭和59年(1984年)の道路拡幅までは塚の一部が残されていた。

 現在の塚は、塚跡地の東側に近接する場所に消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものである。

 要は当時からあった一里塚ではない、ということか。

 

 暑いなか1時間くらい歩いてへとへとになってしまったので、近くのマクドナルドでジュースを飲みつつポテトをつまんだ。こういうひと時に癒されることもある。

 

 マクドナルドから東海道に戻り、露心庵跡という説明板を見つけた。

 天正12年(1584年)神戸正武が亀山城を急襲したが、城を守る関万鉄斎はわずか13騎でこれを撃退した。この合戦の戦死者を2つの塚を築き葬った。

 関氏一門の露心はその近隣に仏庵を建立、戦死者を供養した。この仏庵が露心庵で、この庵から西が亀山宿だったという。

 亀山宿は江戸から数えて46番目の宿場である。

 

 これは平成17年(2005年)に廃止された旧亀山市章つき防火水槽で、この旧市章は「カメ山」を図案化したものである。

 

 この東海道と交差する道を巡見道というらしい(地理屋さんが好きな「巡検」ではないよ!)。

巡見道

 巡見道という呼称は、江戸時代にこの道を巡見使が通ったことによる。

 巡見使が最初に派遣されたのは3代将軍・徳川家光寛永10年(1633年)のことで、その後将軍の代替わりごとに、諸国の政情、民情などの査察や災害などの実情調査を行う目的で実施された。

 巡見道は、ここで東海道から分岐して北上、菰野を経て濃州道と合流、伊勢国を通過し中山道へと続いていたらしい。

 

7.亀山宿

 巡見道の説明板から10分ほどで「江戸口門跡」がある。

江戸口門跡

 江戸口門は延宝元年(1673年)、亀山城主・板倉重常によって築かれたようだ。

 

 亀山市街地に入ったようだが、なんとも寂れたアーケード街だ。

 

 福泉寺はこの地域有数の古刹で、昔は天台宗だったが15世紀後半に浄土真宗高田派に改宗した。

 この門は、正面軒唐破風付入母屋造、本瓦葺、一間一戸の楼門で、棟札などから寛政7年(1795年)の築造であることが明らかとなっており、亀山市の指定文化財になっている。

福泉寺の門

 

 亀山城大手門跡を見つけた。

亀山城大手門跡

 大手門は、東海道に直面する亀山城の正門として位置づけられる門で、大手門櫓と大手脇櫓から構成され、一の門が省略されたものとなっている。

 大手門櫓は総塗籠、幅3間、長さ12間で、明治初期に撮影された古写真から、東半分が櫓台となる石垣の上に載り、西半分の下が門となっていたことが判明している。

 明治初期に石垣にいたるまで破却され、往時の形状を見ることはできない。

 

 亀山城大手門跡の近くに亀山宿の高札場もあったらしい。

亀山宿高札場跡

 高札場とは、幕府や藩の法令などを木の板に墨書し、人目をひくように高く掲げておく場所のことである。

 

 亀山宿高札場のところに亀山町の道路元標もあり、ここが亀山宿の中心であったことがわかる。ちなみにこれが本物の道路元標だ。

亀山町道路元標

 

 亀山宿には城下町特有のクランクが残り、歩いていて楽しい。

 

 県道302号線を越えて東海道は続くが、今日はここまでとする。

 

 亀山駅到着、今日はここで終了だ。

亀山駅

 

 次回は、亀山駅から関駅まで歩く予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

歩いた日:2024年9月16日

【参考文献・参考サイト】

風人社(2015) 「ホントに歩く東海道 第12集」

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第13集」

三重県高等学校日本史研究会(2015) 「三重県の歴史散歩」 山川出版社