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東海道を歩く 44.田村神社バス停~水口石橋駅

 前回、関駅から田村神社バス停まで歩いた。今回は田村神社バス停から水口石橋駅まで歩こうと思う。鈴鹿峠を越え、穏やかな甲賀市内をぶらぶらと歩いていく。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.土山宿

 今日は田村神社バス停から出発だ。

田村神社バス停

 

 田村神社バス停からすぐ、土山宿に入る。

 土山は鈴鹿峠の西麓に位置し、古くから近江と伊勢を結ぶ交通の要地として開けた。

 慶長6年(1601年)に、東海道の整備にともない宿駅に定められ、水口宿まで2里半7町(約10.5km)、坂下宿まで2里半(約10km)の行程であった。

 宿は、西の松野尾川から東の田村川板橋までの22町55間(約2.5km)に連なり、天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によると、宿高1,348石余、家数351軒、人数1,505人、本陣2軒、旅籠44軒の規模とある。

 土山宿は約2.5kmにも及び、なかなか長いのだ。

 

 民家にも「東海道土山宿 ○○屋」とかつての旅籠名が記されているのが面白い。

 

 「吹ば吹け 櫛を買たに 秋の風」の句碑があった。

「吹ば吹け 櫛を買たに 秋の風」

 この俳句を詠んだのは上島鬼貫という人物で、東の芭蕉、西の鬼貫ともいわれ、独自の俳諧の境地を拓いた人だ。

 この俳句は上島鬼貫が貞享3年(1686年)の秋に東海道の旅の途中、土山に寄り、お六櫛を買い求め、鈴鹿峠に向かうときに詠んだもの。

 

 ところで「お六櫛」とは?という話だが、江戸元禄の頃、信濃国(長野県)の櫛職人が旅をしている途中、ここ土山宿で重い病気にかかったので養生させてもらったところ一命をとりとめ、京へと旅立っていった。

 その櫛職人は信濃へ帰ったあとで、「何か土山に恩返しをしなくてはならない」と思い、土山へ再訪して櫛の作り方を教えた。

 その後、その櫛は「お六櫛」と名づけられ土産物として大変人気があったそうだが、今は姿を消してしまった。残念なことである。

 

 扇屋伝承文化館があったが、開いていなかった。

扇屋伝承文化館

 

 東海道一里塚跡があり、ここは江戸から110里(約440km)の一里塚だが残っていない。

 

 東海道一里塚跡から10分ほどで、白川神社に着く。

白川神社

 白川神社の祭神は速須佐之男命(はやすさのおのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、豊受大御神(とようけおおみかみ)。

 現在の本殿は文久3年(1863年)に造営されたもの。

 7月第3日曜日に行われる「土山祇園祭花傘神事」は祇園祭の前宮祭と呼ばれ、氏子から奉納された花傘から花を奪い合う「花奪い行事」が行われる。

 本殿の前に願掛け神石があり、この神石をなでると健康長寿・祈願成就がかなうと伝えられており、なでて旅の無事を祈った。

 

 井筒屋は森鴎外の祖父、森白仙が亡くなった旅館で、森白仙は医師だった。

 万延元年(1860年)、津和野(島根県津和野町)藩士の参勤交代に従い江戸へ出向し、翌年5月に藩主は帰国することとなったが、白仙は病のためついていくことができず、江戸で養生した後に帰国することになった。その途中井筒屋で発病し、急死してしまったそうだ。

 明治33年(1900年)になり、陸軍小倉師団の医師だった森鴎外は東京への出張の途中ここを訪れ、荒れ果てていた白仙の墓を見かねて南土山の常明寺に改葬を依頼、改葬されたが、のちに昭和28年(1953年)に森鴎外の眠る津和野の永明寺に移葬された。

 

 一方、この旅で森鴎外が泊まった平野屋は井筒屋の隣にある。この時点で井筒屋は既に廃業していたらしい。

平野屋跡

 

 二階屋本陣跡を見つけた。

 本陣とは江戸時代に大名等、身分の高い人が休泊に利用した宿舎である。

 土山宿には土山家本陣と、堤家本陣(二階屋本陣)の2軒の本陣があった。

 二階屋本陣は幕末には衰微し、ここから約250m西にあった大旅籠・大黒屋がその代替として利用されていたようだ。

 

 さあ、土山宿のハイライト、東海道伝馬館に到着だ。

東海道伝馬館

 東海道伝馬館は江戸後期に建てられた建物となっている。

 

 まず別館にある大名行列の人形展示を見る。これ作ったの大変だっただろうな。

 

 東海道伝馬館に入ると、土山宿のジオラマが展示されていた。こう見ると長い。

 

 土山宿の御宿場印の頒布場所はここになっている。

 

 箱階段を登った先には、東海道の名物が展示されていた。箱根宿の甘酒、甘酒茶屋で飲んだことを思いだす。

 

 府中宿の安倍川餅、丸子宿のとろろ汁も食べたなあ。

 

 あ!マズいと噂の白須賀宿の柏餅だ!

 白須賀宿の柏餅のエピソードは「東海道を歩く 28.新居町駅二川駅 8.おんやど白須賀」で取り上げている。

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 有松絞りのハンカチ買ったなぁ。あと赤坂宿でもとろろ汁が名物だったとは知らなかった。

 

 桑名の焼き蛤はラーメンで食べました。

 

 前回の「東海道を歩く」でも登場した蟹が坂飴だ!

 

 姥が餅は今でも売っているようなので、楽しみにしておこう。

 

 隣の部屋には「東海道五十三次」をモチーフとしたミニチュアがあった。

 箱根の急坂感、すごいなぁ…ここまで急じゃなかった記憶もあるけどそこそこ大変だったな、箱根。

 

 由比の薩埵峠は名作だよね、現在でも面影を残しているのが良い。

 

 丸子も現在でも面影を残している。

 

 金谷は大井川の川越し。現在では橋が架かっているが大井川は雄大だった。

 

 赤坂の棕櫚の木、本物見たなぁ。

 

 庄野の白雨は有名だが、特に面影が残っているわけではない。

 

 ここ、土山がこちら。松尾川を雨の中渡る旅人が表現されている。

 

 京都は三条大橋だ。

 

 ここまで結構歩いてきたなぁ、と名物の展示と東海道五十三次のミニチュアを思い出しながら休憩していたら、スタッフの方がお茶を持ってきてくれた。土山のお茶だそうだ。

 

 「歴史系の方ですか?」と聞かれたので「いや、地理系です」と答えるなどの会話をして、東海道伝馬館をあとにした。

 ちなみに東海道伝馬館は問屋場跡にある。

 

 東海道伝馬館のすぐ近くに土山宿本陣跡がある。

 幕末から明治初期にかけては、宮家が東西の往来の途次、土山宿に休泊されることもあり、なかでも明治元年(1868年)9月の明治天皇行幸の際には、この本陣で満16歳の誕生日を迎えられ、近代日本としては初めての天長節が祝われた。

 このときには土山宿の住民に神酒と鯣(するめ)が下賜され、今なお土山の誇りとして語り継がれているらしい。

 このことを大正3年(1914年)、仏教哲学者の井上圓了が聞き、以下の漢詩をしたためた。

 鈴鹿山の西に、古(いにしえ)よりの駅亭あり。

 秋風の一夜、鳳輿(ほうよ)停(とどま)る。

 維新の正に是(これ)、天長節なり。

 恩賜の酒殽(しゅこう)を今尚 馨る(かおる)。

 

 「土山や 唄にもうたふ はつしぐれ」の句碑があった。

「土山や 唄にもうたふ はつしぐれ」

 この句を作ったのは高桑闌更(たかくわらんこう)。高桑闌更は加賀国(石川県)金沢に生まれる。

 蕉風の復興に努め、与謝蕪村らとともに俳諧中興に貢献した。

 

 ここは大黒屋本陣である。

 土山本陣は寛永11年(1634年)3代将軍家光が上洛の際設けたのがそのはじまりであるが、参勤交代制の施行以来大名の休泊者が増加し、土山本陣のみでは収容しきれなくなり、土山宿の豪商・大黒屋に控本陣が指定された。

 

 同じ敷地内に土山宿陣屋跡がある。

 陣屋とは、江戸時代勘定奉行の配下である代官が在住した屋敷である。

 天和3年(1683年)、当時の代官であった猪飼治郎兵衛のときに建造され、代々代官に引き継がれていたが、寛政12年(1800年)の土山宿の大火災で屋敷が類焼されて以後再建されなかった。

 

 橋に「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」の鈴鹿馬子唄の一節が刻まれていた。鈴鹿馬子唄については前回記事を参照してほしい。

 

 常明寺は臨済宗東福寺派の寺院で、和銅年間(708~715年)の建立と伝えられる。

常明寺

 

 土山宿の西端に来るまで、1時間半ほどかかった。ここでトイレ休憩も含め近所のローソンに行き、ついでにからあげクンを買った。昨日はコンビニすらなかったのでありがたい。

 

2.土山そば

 東海道に戻るとすぐに「高埜世継観音道」という道標があるが、これは旧御代参街道である。

「高埜世継観音道」

 御代参街道はここから笹尾峠を越え、鎌掛、八日市を経て、中山道愛知川宿手前の小幡までの10里あまりの脇往還である。東海道中山道を結ぶ道のひとつ、ということか。

 

 10分ほど進むと「これより東海堂は往時、野洲川を横切っておりましたが現在は通行できません」との看板が出てくるので、迂回することにする。野洲川を横切る地点に橋がないのだ。

 

 野洲川はこの橋、歌声橋を渡って先に進む。

歌声橋

 

 飛び出し坊やを見つけた。

 飛び出し坊やとは、児童が道路に飛び出して自動車などと接触する事故を防止する目的で、ドライバーへの注意喚起のために設置されている看板で、このタイプの飛び出し坊やが日本一設置されているのが滋賀県なのだ。

 

 これは…忍たま乱太郎のしんべヱの飛び出し坊やかな、珍しい。

 

 おなかもすいてきたので、土山そばで昼食とする。

 頼んだのはそばと天盛セット。

 あまり飲食店のない地域だからか、人気なのか、外で10分程度待ってからの入店で、店内は満員だった。ちなみにそばは美味しかった。

 

 ここで野洲川の迂回は終わりで、東海道に合流する。

 

3.瀧樹神社

 東海道合流点から10分ほどのところに瀧樹(たぎ)神社がある。

瀧樹神社

 瀧樹神社には瀧樹大明神宮と天満宮があり、瀧樹大明神宮には速秋津比古之命(はやあきつひこのみこと)・速秋津比咩之命(はやあきつひめのみこと)、天満宮には菅原道真が祀られている。瀧樹神社はいつからあるか不明だが、約2,000年前からあるらしい。

 

 それにしても、このへんは静岡か?と思うくらいに茶畑が多い。

 

 地安寺の開山・龍渓和尚は御水尾法皇から深く信仰されたため、法皇崩御のときは皇女から法皇の木像と位牌が下附された。

地安寺

 

 垂仁天皇の皇女であった倭姫命天照大神御神体を持って鎮座地を求める旅に出たとき、宿泊に使われた「垂水頓宮御殿」がここにあったらしい。

 

 ふたたび一里塚跡を見つけたが、ここもほぼ残っていない。

 

 少しだけだが松が残っていて、風情がある。

 

 シーボルトが土山を訪れた説明板があった。

 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトはドイツの医師・博物学者。

 当時オランダ商館長は4年に1度、江戸に赴き将軍に拝謁する義務があり、文政9年(1826年)の江戸参府にはシーボルトも医師として随行した。

 文政9年(1826年)3月26日に土山に宿泊、その途中でトキの剥製を買ったそうだ。

 そのトキの剥製はオランダに送られ、ライデン市の自然史博物館で展示されているらしい。

 

 この石碑は、以下のような意味である。

 「土山を過ぎて即興する。採茶の時節、事匁忙(ことそうぼう)す。

緑髓の青芽(せいが)壮(さかん)なり。僻郷に清風あり。

一瀹(いちれん)、君知るや否や、遠きに到る。

紅洋黒漠として香(かんば)し。 眞風軒」

 

 「茶摘みの季節に、土山を過ぎて大野という村へ来てみると、農家の人たちが大変忙しく働いておられた。

 茶園を見ると、茶の樹が整然と植えられており、その茶の樹には新芽が深緑の美しい色をしており、今、この村には初夏の清らかな風がさわやかに吹いていた。

 この茶の葉を蒸すと緑茶に、発酵させると紅茶になることを皆さんはご存知でしょうか。また、この茶が外国へも輸出されることもご存知でしょうか。

 お茶は、香りも色もよく、人々に愛されている。」

 なお、眞風軒という人は甲賀郡内をあちこち散策し、漢詩を作っていた江戸~明治時代の人である。

 明治に入ると紅茶も文化として受け入れられたということか。

 

 同じ敷地には以下の歌碑もある。

 「あらしふく 雲のはたての ぬきをうすみ むらぎえ渡る 布引の山」

 これを詠んだのは「方丈記」で有名な鴨長明である。

 

 歌碑から5分ほど歩いたところに「明治天皇聖蹟」と「旅籠 小幡屋跡」がある。

幡屋

 江戸時代にあった正式な宿場のほかに、宿場の間にあった休憩等がとれる集落のことを間の宿(あいのしゅく)または立場(たてば)という。

 この大野のあたりは土山宿と水口宿の中間なので、茶店や商店などがあった。

 間の宿では宿泊は許されていなかったがそれは名目上で、実際には旅籠が数軒あったようだ。

 明治元年(1868年)の明治天皇東幸の折には、ここにあった小幡屋という旅籠が小休憩として使用されている。

 

 三好赤甫の歌碑があった。

 三好赤甫は俳諧師であり、著書に「窓あかり」がある。その彼が住んでた家がここである。

 

4.水口宿

 「甲賀市土山」「甲賀市水口」のカントリーサインがあった。ここで旧土山町から旧水口町に入る。

 水口町は平成16年(2004年)に土山町甲賀町甲南町信楽町が合併して甲賀市になったことにより廃止された。

 

 旧水口町のマンホールを見つけた。

 水口曳山祭で巡航する「曳山の車輪」と町の花「さつき」をデザインしている。

 

 復元一里塚を見つけた。今在家一里塚だ。

今在家一里塚

 この一里塚は江戸から112里(約448km)のもので、本来の一里塚は明治元年(1868年)に撤去されてしまい、その後復元したものだそうだ。

 

 ローソンがあり、再びトイレ休憩を取り、肉まんでも買おうかとレジに並ぶと「肉まんは温め中なのであと15分は買えません」と言われ、諦めた。

 

 一瞬「道路元標!?」と思ったがこれは県道終点の碑であり、違うらしい。

県道終点の碑

 

 「水口町」表記のフン処理看板を見つける。

 

 旧水口町章の仕切弁を見つけた。「水」を図案化したデザインらしい。

 

 ここでY字路を右側に行く。

 

 水口町と甲賀市の「ゴミを捨てるな」看板が並んでいる。どっちもあるのが面白い。

 

 若干日が暮れてきた16時15分頃、水口宿の東見附(東端)に到着した。

水口宿東見附

 水口宿は品川を1番目とした場合50番目の宿場で、戸数は692軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒、人口2,692人ほどの宿場だった(天保14年(1843年)東海道宿村大概帳より)。

 

 旧水口宿脇本陣は19世紀前半の建築と推定されているが、開放していない。脇本陣は本陣に空きがない場合に使用された、本陣の次に格式の高い宿である。

旧水口宿脇本陣

 

 高札場はY字路に設置されており、Y字路の左側が東海道だ。

 高札場とは幕府の法度や掟書、宿場の決まりなどを掲示した場所で、その性質上まちの中心に設置された。

 

 曳山蔵を見つけた。

曳山蔵

 水口祭は、水口神社の春の例大祭で、毎年4月19~20日にかけて行われる。

 水口祭の特徴は、曳山巡行と水口囃子で、曳山は四輪の御所車をもつ車台部、囃子方が乗る屋台部、「ダシ」とよばれる人形を乗せる露天部からなり、祭が終わった後も分解せずに、そのまま町内の山蔵に格納している。

 水口囃子は横笛、大太鼓、小太鼓、鉦からなる囃子隊で、この囃子は東京の神田囃子の流れを汲むものらしい。

 

 ハイライトとAdidasのロゴ付き飛び出し坊や。かわいい。

 

 水口宿の東海道五十三次を飾ってある家を見つけた。

 水口宿の名物だったかんぴょうを作る絵だが、かんぴょうが売っている場所は見かけなかった。

 

 少しだけ東海道を離れたところに水口町道路元標がある。

水口町道路元標

 道路元標とは大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1基ずつ設置されたものだが、戦後の道路法改正により道路の付属物ではなくなったため撤去が進み、現在では全国で2,000基程度しか残っていない。

 「東海道を歩く」では前回登場は「東海道を歩く 43.関駅~田村神社バス停 3.坂下宿」で登場してくる坂下村道路元標だ。

 東海道とは関係ないのだが、「地図ラー11」で「道路元標を訪ねて―野田市編―」という文章を書いており、これは千葉県野田市の道路元標の特集だ。「10月うさぎ」ではなく実名名義ですが私が書いた文章なので、読んでいただけると嬉しいです(唐突な宣伝)。

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 東海道に戻ったら先ほどの水口町マンホールのカラー版を見つけた。

 

 この小さい橋が石橋で、水口岡山城の城下町と水口城の城下町とに分かれたらしい。

石橋

 ちなみに水口岡山城はここから東側にある山城で、慶長5年(1600年)に廃城となった。水口城は寛永11年(1634年)に建てられたここから西にある平城であり、こちらは明治6年(1873年)に廃城となった。要は水口岡山城時代から開発された地域と水口城が建てられてから開発された地域との分岐がここ、ということか。ちなみにどちらにも行かない。

 石橋があるということはこの近くに水口石橋駅もあるということで…今日はここで終了だ。

水口石橋駅

 昨日同様足がぐったりしているので、再び「水口温泉 つばきの湯」に行った。

水口温泉 つばきの湯

 もちろんビールと餃子も頼む。この組み合わせを考えた人は天才だと思う。

 次回は水口石橋駅から石部駅まで歩く予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

今回の地図⑤

歩いた日:2025年1月12日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献】

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第13集」

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第14集」

滋賀県歴史散歩編集委員会(2015) 「滋賀県の歴史散歩」 山川出版社