
前回、第1番札所大山寺に訪れながら大山をめぐった。今回は第2番札所最乗寺に参拝しつつその周辺をぶらぶらしようと思う。
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1.最乗寺
昨日は小田原に泊まったので小田原で朝食を食べる。食べたのは小田原駅前の喫茶店「MARRON」。
モーニングのトーストセットにあんこをつけた。あんバタトーストが食べたい気分だったからだ。


小田原駅から大雄山線に乗って終点の大雄山駅まで揺られていく。

大雄山駅からはバスに乗り換え、終点の道了尊バス停に向かう。

バス停を降りて、最乗寺に向かうが山門がでかい。

「道恩講 金参百圓」の石碑。

「講」とは結社または結社による行事・会合のことで、ここでも講が盛んだった。この講の呼び方、いろいろあって面白いがそれはのちに紹介する。
2つめの門をくぐると、本堂が見えてくる。

ここで最乗寺について説明しよう。
応永元年(1394年)に了庵慧明(りょうあんえみょう)禅師が開いた大雄山最乗寺は、曹洞宗の寺院として福井県の永平寺、横浜市鶴見区の総持寺につぐ格式をもつ。
大住郡糟屋荘(おおすみぐんかすやのしょう・現在の伊勢原市)出身の了庵は、晩年、上曽我に住んだが、ある日1羽のワシが袈裟をくわえて、ここにとんできたのを縁として寺を建てたそうだ。
また、創建に大変貢献した弟子の妙覚道了大薩埵(みょうかくどうりょうだいさった)は、応永18年(1411年)に了庵が亡くなると、大天狗になり身を山中に隠したという言い伝えがある。
このため地元では「道了尊」ともよばれ、境内には道了にちなんで多くの下駄が奉納されている。
文明年間(1469~1487年)には大森氏頼により大増築が行われ、16世紀後半には、北条氏康や小田原平定後の豊臣秀吉らが厚い保護を加えている。
まず本堂の本尊、釈迦牟尼仏に挨拶をする。
金剛壽院には了庵慧明禅師ほか歴代の住持の位牌が祀られている。

金剛水堂は妙覚道了大薩埵が掘った井戸で、今も水が湧き出している。

「由比道了講」。箱根関所・矢倉沢関所を越えれば伊豆・駿河国なので静岡方面の参拝者も多くいたことがわかる(由比は今の静岡県静岡市清水区)。

「藤沢雄山講 登山三十周年記念」。藤沢では「雄山講」と呼ばれていたらしい。

多宝塔には多宝如来が安置されており、文久3年(1863年)に江戸音羽の住人・高橋清五郎が奉納したものらしい。

「関東三十六不動尊霊場 第二番 清瀧不動明王」。ここにお不動様がいるようだ。

滝の上に不動堂があり、この不動堂は昭和6年(1931年)に建てられたものらしい。残念ながら、お不動様は隠れて見ることができなかった。
妙覚宝殿には妙覚道了大薩埵が祀られている。

妙覚道了大薩埵は了庵慧明禅師が亡くなった後に天狗になったという伝説から妙覚宝殿の近くにはたくさんの下駄が奉納されていた。

人が履けないような大きな下駄から、履けそうな小さな下駄まで、大きさは様々。履けそうなサイズでも勝手に履いちゃダメだぞ!(履いちゃダメと書かれている)

天狗伝説の地らしいものも。これは烏天狗だろうか。

ここから、奥之院まで登っていく。奥之院には妙覚道了大薩埵が祀った十一面観世音菩薩が祀られている。ここから奥之院まで350段の階段。

階段がどこまでも続く。正直…しんどい。

「ここでバテるな!」と天狗に言われた気がした。

息も切れ切れになりながら奥之院到着。涼しげな風鈴の音がするが、階段が急すぎて11月にもかかわらず汗だくになり、私は全然涼しくなかった。

しばらく奥之院のベンチで息を整えてから、階段を下りていった。それにしてもこの急階段、誤って転んだりしたら…と考えただけでぞっとする。

階段を下りながら、私の膝はカタカタと笑っていた。
三面殿の前にいる狛犬は悪魔をしりぞく効果があるらしく、念入りにお参りしておいた。

奥之院の入口の扉にも天狗の持つうちわのマークが。

奥之院入口にいる天狗。なかなか猛々しい。


これで一通り最乗寺を回り切ったので、寺務所で御朱印をいただく。
こちらが関東三十六不動尊用の御朱印。前回同様、御本尊と童子の御影(おすがた)付き。



そして「道了尊」の御朱印の墨がなかなか乾かなかったので、5分くらい広げて干していた。
最乗寺参拝はこれで終わりだが、少しおなかがすいてきたので道了尊売店で天狗そばを食べた。しいたけ、まいたけ、にんじん、ぜんまい、紅葉の麩が入ったお蕎麦で、味は濃いめだと感じたが食べなれてくるとおいしく感じてきた。

2.南足柄市郷土資料館
最乗寺をあとにして、森の中の道を進む。ここは「てんぐのこみち」というらしい。

杉木立を歩いていく。これ、花粉の時期に通ったら辛そうだなぁ(花粉症持ち)。

「てんぐのこみち」とはこの案内板のある交差点で分かれて左折する。

足柄山を背景に、マサカリをかつぎ熊にまたがる金太郎を中心に周りを南足柄市の木・サザンカ、市の花・リンドウで囲んだデザインの、南足柄市デザインマンホール。後述するが、南足柄市は金太郎伝説の地でもある。

さつまいもが無人販売されていたが、ここを通っている間2~3台しか車が来なかったので売れているのか心配になる。

最乗寺から森の中を歩いて30分ほどで南足柄市郷土資料館に着く。

このときは、企画展示「羽子板展」がやっていた。これは鏡獅子・京鹿子娘道成寺。押し絵の羽子板だ。

これは平安時代の菅原道真が、その政敵である藤原時平の陰謀によって左遷された事件を題材に、道真に恩を受けた梅王丸、松王丸、桜丸の三つ子の物語「菅原伝授手習鑑」の押し絵の羽子板だ。

これは鎌倉時代の建久4年(1193年)5月28日、領地争いから父・河津三郎祐泰を工藤祐経に殺害された曽我十郎、五郎兄弟の仇討ちを題材にした軍記、「曽我物語」を題材にした押し絵羽子板。

これは勧進帳の弁慶・義経・富樫をモチーフにした押し絵羽子板。迫力がある。

南足柄市は今でこそ海に面していない市町村だが、市内からハマグリの化石が発見されたことから、大昔(今から70~100万年前)は浅い海だったことが判明している。

地元の石器コーナー。左下の人面把手付土器は、南足柄市内の塚田遺跡から出土したらしい。

土師器や耳輪など。


末法思想(人も世も最悪となり釈迦が説いた教えが実践されなくなる時代が来るという思想)の影響で、貴族たちは、経文を容器に入れ、土中に埋置する経塚を作った。その経塚に使われた壺が展示されている。

この絵図は、酒匂川が大洪水となり、岡野、千津島などの村に水が流れ込み、酒匂川の新流路となった様子を描いたもの。今では治水技術が発達しているからそうそうなさそうだが、大洪水が起こると流路が変更することが、昔はままあったのだろう。

享保11年(1726年)に田中丘隅によって完成した土手を文命堤という。
この治水工事により酒匂川は宝永5年(1708年)以前の流路に戻り、流域の村々の復興につながった。
丘隅は完成した大口(南足柄市)・岩流瀬(がらせ。山北町)の両土手に、中国夏王朝の祖師で治水の神とされる禹王(うおう)を祀り、禹王の別名である「文命」の名をとり、「文命社」を建てた。
こちらは「弁慶枠」とよばれ、大口土手締め切りで使われた河川工法のひとつが再現されていた。

江戸時代に東海道の裏街道として相模西部の道のなかで栄えたのが「矢倉沢往還」。この名称は公の文書にも盛んに出てきて、東海道が大名等の通行が多かったのに対し、矢倉沢往還は一般農民や物資の輸送に多く利用された。こちらは矢倉沢関所の通行手形。

なお、矢倉沢往還を通る人たちに白装束の人が多かったのは、富士登山、最乗寺、大山阿夫利神社の3か所に参詣するためだったようだ。
江戸時代から最乗寺の参詣客は飛躍的に増加し、関本という宿場町はその門前町として繁栄していたようだ。
明治22年(1889年)に東海道線(現在の御殿場線)が開通するまでは旅籠は宿泊客で賑わっていたようだが、今では東京からも日帰りで来られるので、最乗寺の前に旅館は1軒もなかった。
大正15年(1926年)の最乗寺の火災で妙覚宝殿から持ち出された、安政5年(1858年)に作られた龍の彫刻。かなり彫り込まれた彫刻だ。

「富士山 道了山 大山 御登山帳」。やはりこの3つはセットだったようだ。

最乗寺のおみやげの袋。天狗がさまざまな表情をしていて面白い。

大雄山最乗寺周辺の交通案内。博物館でよく見る、吉田初三郎の作品だ。

南足柄市のジオラマ。海から作られているので小田原市も入っている。

南足柄市内にも箱根ジオパークのジオサイトが8か所あるらしいが、今回行ったのは最乗寺だけ。いつかほかのジオサイトにも行ってみたい。

ジオパークコーナーにはジオパークらしく、貝の化石などが展示されていた。

南足柄市といえば金太郎伝説。ということで資料館の一角に金太郎コーナーができている。

足柄山で山姥の子として生まれた金太郎は、怪力の持ち主で、全身赤色、手にはまさかりを持ち、熊などの動物を友達として育った。
やがて東国から上洛する途中の源頼光に見いだされ「坂田金時」と名乗り、渡辺綱(わたなべのつな)、碓井貞光(うすいのさだみつ)、卜部季武(うらべのすえたけ)とともに「頼光の四天王」のひとりとして、大江山の酒呑童子退治などで大活躍をした。というのが金太郎の筋書きである。
金太郎の活躍についてのコーナー「土蜘蛛退治」「鬼童丸を討つ」「酒呑童子退治」が紹介されていた。どれも源頼光を襲ってくる妖怪を四天王たちが退治する話だ。


ちなみに南足柄市には22か所も金太郎伝説のある場所があるらしい。機会があれば回ってみてもよいかもしれない。

金太郎コーナーの奥には、民俗・生活のコーナー。
少し古い炊飯器と釜。ちなみに私は炊飯器でごはんを炊くことはできるが釜で炊いたことはない。

南足柄の民家。かやぶきの平屋が普通だったらしいが、今も残っているのだろうか。

「南足柄のくらし」のビデオコーナーもあった。
春は牛をつかって代掻きをしつつ田植えをし、夏は雑草を手作業でとり、秋も手作業で稲刈り、冬はむしろを編む…といった内容だったが、現在もこれを続けているのであればすごいと思う(多分何十年か前の情報で、今はコンバインとか機械を多用していると思う、多分)。
民俗・生活のコーナーの先に、再度、羽子板コーナーがあった。
こちらは三代・京極琴山の羽子板作品。埼玉県の伝統工芸士だったようだが、2年前に亡くなってしまったらしい。

こちらは西山鴻月の作品。初代は10年前に亡くなってしまい、現在は2代目が作っているそうだ。こういう伝統工芸は親子で作る人が多い。

ちょっと変わった羽子板も展示されていた。これは左からゲゲゲの鬼太郎、だんご三兄弟、バカボンのパパ。

各地の郷土玩具の羽子板も展示されていた。こちらは鳥取県倉吉市の倉吉羽子板。

これは一番左は大阪府吹田市の片山神社の羽子板、それ以外は熊本県人吉市の人吉羽子板。吹田市は行ったことがあるが、倉吉市や人吉市は行ったことがないので知らなかった。

絹絵羽子板は羽子板の表面に薄く絹を入れた絵絹を張り、それに絵を描いたもののことをさすらしい。

港区の愛宕神社では毎年正月に干支の羽子板が配られているらしい。これは知らなかったので、もらいに行ってみようかな。

南足柄では、良縁を願い男女の羽子板を対にして贈る風習があるらしい。

キャラクターの羽子板も展示されていた。ドラえもん、オバケのQ太郎、パーマン…ドラえもん以外は少し古い作品では?

なんだかんだ面白くて、南足柄市郷土資料館には1時間も滞在していた。滞在中に天気が変わり、雨が降っていたので驚いた。
それにしても…展示はなかなか面白いのに、客は終始私1人だけだった。その理由はすぐにわかった…立地だ。ここ、山の中にあるのだ。
せめて大雄山駅のあたりにでも建てておけばもう少し客も来るのにな、と思ってしまった。
3.おんりーゆー
南足柄市郷土資料館から、早足でおんりーゆーに向かう。雨がなかなか激しく降っているからだ。

おんりーゆーは日帰り温泉で、泉質はアルカリ性単純温泉でpHは9.5、しかしぬるぬるはしてなくて驚いた。
ここで感動したのは水風呂。水風呂は森の天然水を使っており肌触りがなめらかで、今まで入った水風呂のなかではサウナしきじの次くらいに好きかもしれない。
ただここに再訪するかは微妙である…というのも、山奥にあって到達難易度が高く、公共交通のバスは通っているが本数も少ない。実際、公共交通バスの最終がほぼ到着時点だったため、おんりーゆーの無料送迎バス(予約制)で帰ることになった。受付をしたときに「無料送迎バスの予約はできますか?」と聞いたところあっさりできたため問題にはならなかったが、もしできなかったらタクシーで帰る羽目になっていた。ちなみに無料送迎バスは利用の1時間前まで予約できる。ちなみに、私はペーパードライバーなので車で行って帰る、という選択肢は最初からない。入場料も高いし(2,420円)、再訪は微妙だ。
ただ、水風呂は本当に気持ちよかったので、機会があればまた来るかも…しれない。
おんりーゆーから無料送迎バスで大雄山駅まで戻ってきた。

次の日は会社なので小田原駅で小鯵押寿司とビールを買い、グリーン車で晩酌しながら帰路に就いた。

最乗寺はとても広い寺院で、まわりきるのに1時間かかった。森の中にあるので気持ちがよく、奥之院までの階段もちょっとしんどかったけど運動になった。南足柄市郷土資料館、公共交通機関でのアクセスはよくないが展示は充実していた。肉体的にも頭脳的にも刺激を与えた後の温泉も気持ちがよかった。
私の知らない神奈川が、まだまだありそうだ。

歩いた日:2024年11月10日
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【参考文献】
神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011) 「神奈川県の歴史散歩」 山川出版社