
前回、追分駅から墨染駅まで歩いた。今回は墨染駅から淀駅まで歩こうと思う。「48.大津駅~三条大橋」からこの記事まで2025年7月に歩いたのだが、夏の京都の暑さをなめていたのでへばりながら淀駅まで到達した。
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1.墨染寺
今日は墨染駅から出発だ。

墨染駅から歩いて2分のところに墨染寺(ぼくせんじ)がある。

豊臣秀吉とその姉・瑞龍尼(ずいりゅうに)の帰依を受けていた日蓮宗の僧・日秀(にっしゅう)が貞観寺(じょうがんじ)の旧地に開創し、のちに現在地に移転した。
墨染桜は、関白・藤原基経の死を悼んだ上野朝臣峯雄(かみつけのあそんみねお)が「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染めに咲け」との和歌を詠み、その花びらが薄墨色に染まったというもので、貞観寺の旧地辺りにあったという。現在境内には、3代目といわれる薄墨桜が植えられている。
和歌を詠んだら桜が薄墨色になったなんてほんとかいな…とは思うがそれが由来らしい。
またしんみりした話の後にこの話をするのもあれだが、墨染寺の門前の道は旧東海道筋にあたり、この一帯には元禄年間(1688年~1704年)に開かれた墨染遊郭があり、賑わっていたそうだ。
実際、5分くらい行ったところに「橦木町廓入口」の石碑が残っていた。現在、遊郭は残っていない。

橦木町廓入口から20分くらい歩いたところに勝念寺がある。

浄土宗知恩院末の勝念寺は、織田信長が深く帰依した聖誉貞安上人(しょうよていあんしょうにん)により天正15年(1587年)に開創された。
本能寺の変で織田信長は本能寺で、嫡男の織田信忠は御池御所で自刃した。
貞安上人は織田信長・織田信忠父子の菩提を弔うため、信忠自刃の地である御池御所を正親町天皇(おおぎまちてんのう)から賜り大雲院を開創し、同時に豊臣秀吉の城下町である伏見丹波橋に一寺を開創、安養山勝念寺と名付けた。
勝念寺では貞安上人が織田信長からもらった仏像が伝わる。
勝念寺の境内には釜敷地蔵尊(かましきじぞうそん)がある。

釜敷地蔵尊は地獄で釜茹での責めに苦しむ亡者に代わり自分が釜のなかで苦を受ける身代地蔵尊である。「かましきさん」と呼ばれ江戸時代から信仰を集めている。
2.金札宮
勝念寺から10分くらい歩くと大黒寺がある。

大黒寺は薩摩寺ともよばれ、元和元年(1615年)島津義弘が薩摩藩の祈禱所としたものと伝える。
幕末の寺田屋騒動で死亡した有馬新七ら9人の藩士の墓があることで知られ、宝暦の三川治水工事の御手伝普請を命じられたときの薩摩藩家老・平田靱負(ひらたゆきえ)も葬られている。
平田は乱流荒れ狂う揖斐・長良・木曽3川合流部での堤防工事を、現地責任者として竣工へと導いたものの多大の費用と人身の犠牲のうえに立つものとして、完成後その責めをみずからに負わせて割腹した。
現在、その工事で竣工した分流堤は油島千本松締切堤(岐阜県にある。国の史跡。)とよばれ、今も水害から住民を守っている。
多大の費用や人身犠牲が出たという事実はあるにせよ、現在でも活用されている堤防を造った人物が割腹する必要はあったのかと思ってしまう。
大黒寺の通りを挟んだところに金札宮がある。

金札宮は伏見でも古い由緒を誇る社の1つで、旧東海道筋に面して立地する。
天太玉命(あめのふとだまのみこと)(別名、白菊大明神、白菊翁)ほか2柱をまつり、社伝では天平勝宝2年(750年)の創建という。観阿弥作という謡曲「金札」の舞台でもある。
伏見九郷のひとつ久米村の産土神(うぶすながみ)で、伏見城築城に際し豊臣秀吉が鎮守として城内に遷し、のちに現在地に遷されたという。
境内中央にクロガネモチの巨木が繁り、奥に小さな本殿が鎮座する。

本宮の創始伝承では旱魃(かんばつ)の際に翁が白菊を振るい、露が落ちて清水が湧出した奇瑞を喜んだ里人が天皇に奏上して社殿を営み、翁(天太玉命)をまつったという。
その湧出した清水を白菊井(しらぎくい)とよぶが、北に約130mの京都市立板橋小学校内には、子供たちの計画で同名の井戸が復活されているようだ。
そのまま歩いていくと伏見大手筋商店街を通り過ぎる。ちょうど12時頃だったため、ここで昼食にしようと思った。
入ったのはHolly's Cafe 伏見大手筋店。チェーン店っぽいが、関東では見ないチェーンである。調べてみたら大阪府、京都府、兵庫県、奈良県、滋賀県にしかないらしい。アイスコーヒーとカルボナーラを頼み、昼食とした。



3.伏見の日本酒
黄桜カッパカントリー前を通過する。

伏見といえば、日本酒である。
伏見は古くから京都の商業都市として栄え、木綿や呉服などの産地として知られていた。商業の中心地であったため酒の需要も高まり、酒造りが盛んに行われていた。
水運が発達しており木津川と宇治川が合流する地点に位置していたことから、酒造りにおける原料や製品の輸送が容易な土地だった。そのきっかけを作ったのが豊臣秀吉である。
文禄3年(1594年)豊臣秀吉が伏見城を築き大規模な城下町を開くと同時に、宇治川などの改修も行い、内陸の河川港である伏見港を造った。
また豊かな自然環境に恵まれ、清澄で柔らかな水が利用できたことも酒造りに適した環境だった。伏見の水は「伏水(ふしみ・ふしみず)」と称されるようになる。
日本酒作りでは水がものすごく大事なので、良い水が手に入る土地では美味しい日本酒を作ることができる。
さらに京都の文化的中心地としても栄え、伝統文化や祭り、儀式などにおいて酒が重要な役割を果たしていたため酒造業が発展、今では日本の三大酒処のひとつとなっている(ほかは兵庫県神戸市灘区の「灘」、広島県東広島市の「西条」)。
伏見の酒蔵は21社あるようだが、このなかでも全国的知名度を誇るのが「黄桜」と「月桂冠」の2社である。
黄桜といえば「カッパッパ~ルンパッパ~」の河童が出てくるCMで有名だが黄桜記念館という資料館や黄桜カッパカントリーで食事もできたらしい。知ってたらこっちで食事をとったのに…と少しだけ後悔した。
黄桜カッパカントリーからすぐのところに西岸寺がある。通称、油懸地蔵(あぶらかけじぞう)ともいう。

「京都府地誌」は「天正18年(1590年)僧・雲海の開基」と記し、地蔵尊は伏見天皇の舟戸行在所にあったと記す。その地蔵尊は高さ1.5mほどの石造仏で、祈願にかけられた油で黒ずんでいる。
「拾遺都名所図会」は「祈願ある者、燈油を此の像に灌ぐ(そそぐ)ときは、忽ち(たちまち)所願満足せり」と記している。
灯油をかけるだけで願いが叶います、なんてほんとかいな、と思うけどもしそれだけで願いが叶うならちょっとやってみたい気もする。
4.寺田屋
西岸寺からすぐのところに「我国に於ける電気鉄道事業発祥の地」の石碑がある。

明治28年(1895年)、伏見の下油掛から京都駅(正確には京都市下京区東洞院通東塩小路踏切南側)まで、日本最初の電気鉄道が敷設された。
油掛通までの敷設であったのはこの通り沿いの油掛町から魚屋町に至る一帯が、江戸時代以来伏見の商業の中心地として賑わっていたためである。
今は北側の大手筋通沿いに中心は移っているが、これは桃山御陵が築造された大正時代以降のことである。
なおこの路線は大正3年(1914年)に中書島まで延伸され、昭和45年(1970年)に廃線となった。廃止の要因としては路面電車だったので、道路交通の妨げになったことが理由らしい。もっとも、近所に京阪本線と近鉄京都線が走っているので、なくしたところでそれほど不便がないこともあったのだろう。
「我国に於ける電気鉄道事業発祥の地」から5分ほど歩いたところに寺田屋がある。

寺田屋は坂本龍馬の定宿、龍馬が幕府の警吏におそわれ寺田屋養女お龍(のちの龍馬の妻)の機転で難を逃れた慶応2年(1866年)の襲撃事件、薩摩藩士・有馬新七以下7名が死亡(のちに重傷を受けた2名も切腹)した文久2年(1862年)の寺田屋騒動などで有名だが、明治39年(1906年)の寺田屋伊助申立書は「戊辰ノ兵火ニ罹リ、家屋諸共ニ焼失シ」と記す。
東隣の空地には「薩藩九烈士遺蹟志」の石碑(明治27年(1894年)建立)や日露戦争開戦前夜に昭憲皇太后が坂本龍馬の夢をみて金一封を下賜したことを記念する石碑などがあり、往時を偲ばせる。「薩藩九烈士遺蹟志」の石碑には、「建銅表于寺田屋遺址」とある。

寺田屋の東隣の空地には「お登勢明神」がある。

江戸時代末期、弘化4年(1847年)頃に18歳で第六代寺田屋伊助に嫁入りしたお登勢は人の世話をすることを厭わない性格で、明治10年(1877年)に亡くなった。
「寺田屋騒動」で上意討ちされた薩摩藩九烈士の供養や、「寺田屋事件」での坂本龍馬など多くの尊王攘夷派の志士たちを保護、支援した生き様はお登勢の子、第七代寺田屋伊助の心に刻まれ、明治27年(1894年)の九烈士三十三回忌に有志一同と「寺田屋騒動」が起きた文久年間当時に一体であった寺田屋址地に記念碑を建立した。
明治37年(1904年)には、お登勢が坂本龍馬を支援した功に対し皇后陛下(昭憲皇太后)から恩賜を拝戴、その顛末を後世に伝え残す記念として下賜金で龍馬の墓前と寺田屋に記念碑を建立した。
大正2年(1913年)、江戸幕府最後の征夷大将軍・徳川慶喜が明治天皇陵の参拝後に寺田屋を訪れ、2階座敷で鳥羽伏見の戦いを回顧した。
昭和52年(1977年)、お登勢の没後100年を期に「お登勢明神」が祀られた。
女将お登勢と寺田屋の由来碑(明治37年(1904年)建立)。

なおこの土地は大正3年(1914年)当時の伏見町に寄付されたもので、ここがもとの寺田屋跡との説もある。
現在この寺田屋は資料を展示し、内部見学もできる。「どうせ戊辰戦争のときに燃えたんだろ」というツッコミはさておき、中に入ってみよう。
なかに入り、入場料を払うと入場券とパンフレットをいただける。

「雲」と書かれた部屋に入る。

薩藩九烈士遺蹟志の拓本がこちら。「熾仁親王」とは有栖川宮熾仁親王のことである。

今でも風情のある建物だ。

「龍馬の部屋」には坂本龍馬が放った弾痕と伝えられる跡がある。だから戊辰戦争後の再建なんだろ…?と突っ込んでは…多分だめだ…。

坂本龍馬の肖像画。龍馬が京都の絵師に描かせたもので、これが龍馬の生前最後に描かれた肖像画らしい。

坂本龍馬の肖像画を遠くから見てみる。

これも刀痕らしい…本当か?

「昔自刃の裏梯子」これだけならよいのだが、「お龍さん恋の通路の裏梯子」…地味に痛い感じの通称名。

1階に下りると、掛け軸がいろいろかけてある。

坂本龍馬関連書籍がこれでもかと収蔵されている。…これ全部読み終わるの時間かかりそうだなぁ…。

「京都」と書かれた古そうな地図。古そうに見えるが「桂町」と左から右に横文字が書かれているから戦後発行か?

ひととおり展示を見終わったので、寺田屋をあとにした。

5.京橋界隈
寺田屋を出てすぐに「伏見口の戦い激戦地跡」がある。

幕末の慶応4年(1868年)1月2日鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸、伏見御堂を宿陣として戦った。
伏見奉行所に陣を置いた幕府軍や新撰組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したので、このあたりの多くの民家が焼かれ大きな被害を出した。
京橋に着いた。宇治川派流の景色が美しい。


京橋は宇治川派流に架かる長さ40mほどの橋で、江戸時代はこの付近が伏見の水陸交通の中心であった。
旧東海道はこの橋を渡って宇治川右岸堤を淀へと向かい、高瀬舟や三十石船がこの付近の浜から大坂八軒屋や京都の木屋町二条とを結んだ。
その賑わいぶりを「都名所図会」は「京橋のほとりは、大坂より河瀬を引登る舟着きにて、(中略)かずかずこそりてかまびすしく、川辺の家には旅客をとどめ、驚忽なる声を出して饗応けるも」と記している。
京橋の東側、北岸一帯は南浜とよばれる浜地で伏見伝馬所がおかれ旅宿が立ち並んでいた。幕末維新史に名高い寺田屋もそのなかの1軒である。
京橋のそばに伏見長州藩邸跡がある。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利輝元は西軍の大将として参戦して敗戦。徳川家康は戦争責任を問い輝元を隠居させ、その子、毛利秀就(もうりひでなり)に周防と長門の2国、現在の山口県を与えた。
江戸時代中期の元禄12年(1699年)の「御香宮文書」には中書島の新地開発を許可されたことが記されており、この時期以降に藩邸がこの場所に移転してきたと考えられる。
幕末の元治元年(1864年)7月19日未明、長州藩家老の福原越後はここ伏見長州藩邸から武装した約500名の兵とともに、京へ進軍しようとした。
その途中、伏見街道の稲荷付近から竹田街道を守る大坂・会津・桑名・鯖江の藩兵と衝突、禁門の変が勃発した。
福原が率いる長州勢は敗走して伏見藩邸に立ち戻り態勢を整えて打って出たが、彦根藩や他の連合軍が京橋から伏見藩邸を砲撃、このため伏見長州藩邸は焼け落ちてしまった。
肥後橋から南に折れ、濠川に沿って歩く。写真は美しいが、結構暑い。

6.三栖閘門
伏見長州藩邸跡から15分くらい歩いたところに三栖閘門(みすこうもん)がある。

三栖閘門は昭和4年(1929年)に建設された。
明治時代以降鉄道の発達で水運は衰退傾向にあったが、まだ多くの川船が行き来していた大正時代、観月橋・三栖間の宇治川右岸堤防が整備されることとなり(大正11年(1922年))、宇治川との通船のため建設された。2本の塔で挟まれたゲートを南北に設けそこで水位差を調整し、船を通行させた。
当時は石炭船などが年間2万隻以上も通航したといわれ、京都・大阪間の輸送に重要な役割をはたした。
しかし、陸上輸送の発達とともにしだいにすたれ、昭和37年(1962年)に淀川舟運は廃止となり、また宇治川改修や天ヶ瀬ダムの完成(昭和39年(1964年))で宇治川の水位が低下し、閘門としての役割を終えた。
その後40年近く機能を停止していたが、「地域の歴史文化の継承と淀川が誇る歴史遺産の保全をめざす」ことを目的に保全整備され、平成15年(2003年)に三栖閘門資料館としてよみがえった。
今保全整備された閘門は濠川の水が引き込まれて、伏見十石舟の船着場に利用されている。
宇治川に望む南側ゲートの塔は展望スポットとなっており、宇治川の流れや上流に架かる近鉄澱川橋梁(きんてつよどがわきょうりょう)など一帯が一望できる。
また旧操作室を改修した三栖閘門資料館は、三栖閘門の役割や伏見の歴史などを紹介し、周囲の広場にはゲートの巻上げ機や説明板が設置されている。
暑いので、三栖閘門資料館に入った。

かつての伏見港と伏見の町のジオラマがあった。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにより天下を掌握した徳川家康は、豊臣秀吉のまちづくりを引き継ぎ、伏見は江戸時代になっても依然として日本最大の城下町であり、政治都市でもあった。
寛永12年(1635年)に参勤交代が制定されると、西国の大名は大坂から船で伏見港に上陸し、東海道を江戸へ向かうようになった。
このため伏見には多くの大名屋敷・倉庫・旅籠がならび、伏見港は「京都と大坂を結ぶ」から「西国と東国を結ぶ」重要な拠点へと発展した。
このジオラマは江戸中期の古地図をもとに制作したようだ。
三栖閘門の仕組みをわかりやすく説明する動く模型が設置されていた。

椅子とクーラーがある場所はありがたいので少しだけ涼んでから三栖閘門資料館をあとにした。三栖閘門から見た宇治川は絶景だ。

三栖閘門をあとにするとき、防舷材(ぼうげんざい)の歩道を見つけた。防舷材とは船が閘室の壁に接触するときに、クッションの役割をするもの。ここでは実際に使っていた防舷材を歩道に利用している。

7.淀の水車
三栖閘門をあとにし、先に進もうと思い「ホントに歩く東海道」を見ていたが、ここで衝撃の事実が判明した。「ホントに歩く東海道」で紹介されている東海道ルートが通行できなくなっていたのだ。
しばらくルートを探したが結局ないことに気づき、やむなく来た道を引き返して肥後橋まで戻り、そこから東海道に合流することにした。
府道124号線・三栖向納所線に沿って歩く。東高瀬川から宇治川沿いの道は街路樹もなく直射日光が降り注ぐ。本当に暑かった。
さらに衝撃を受けたのが国道1号・京阪国道との合流点で、車がひっきりなしに行き来していて横断できない。横断歩道や歩道橋を探すもだいぶ北に行くか、宇治川の南で探すしかない。
やむなく、かなり北まで行って横断歩道を渡るしかなかった。横断歩道の近くにマクドナルドがあったので吸い込まれていく。
三栖閘門資料館をあとにして1時間、ようやく椅子とクーラーにありつけた。特に説明するものもないのか、暑さで若干意識が飛んでいたのか、この1時間についてはあまり記憶がなく、写真も残っていなかった。


横断歩道を渡り、宇治川沿いに戻る。

京阪本線の踏切を渡るとき、ちょうど大阪・関西万博デザインの電車が通り過ぎて行った(撮影したのは2025年7月21日、まだ大阪・関西万博開催中だった)。これを狙っていたのかもしれない撮り鉄もいる。

しばらく歩くと、京都市伏見区 納所町(のうそちょう)に入る。この地名は淀川の水運を利用して米・塩・魚などが陸揚げされ、地内の倉庫に一時保管されたことに由来する地名である。
「唐人雁木旧趾」の石碑を見つけた。

唐人雁木とは、朝鮮通信使の船着場の階段を指す。
その故地を偲んで昭和2年(1927年)に三宅安兵衛が建立したものであるが、平成2年(1990年)に新調されている。
唐人雁木旧趾の近くに納所村道路元標を見つけた。

道路元標とは大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1基ずつ設置されたものだが、戦後の道路法改正により道路の付属物ではなくなったため撤去が進み、現在では全国で2,000基程度しか残っていない。
道路元標は「まちの中心」を定義するという性格上、都市の中心に設置されることが多い。今昔マップを見たところ、役場からほど近い交差点に設置されたと考えられる。

「東海道を歩く」では前回登場は「東海道を歩く 48.大津駅~三条大橋 1.大津市道路元標」で登場してくる大津市道路元標だ。
東海道とは関係ないのだが、「地図ラー13」で「道路元標を訪ねてー成田市・印旛郡編ー」という文章を書いており、これは千葉県成田市・印旛郡内の道路元標を特集している。「10月うさぎ」ではなく実名名義ですが私が書いた文章なので、読んでいただけると嬉しいです(唐突な宣伝)。
納所村道路元標の近くに妙教寺がある。

妙教寺は寛永3年(1626年)大坂の富豪商人・法華又左衛門尉貞清の発願により、豊臣秀吉の側室・淀殿が住んでいたと伝わる淀古城下の一角に建立された法華宗真門流の寺である。
18世紀初頭、付近の大火で山門、鐘楼を除き伽藍を焼失した。現在の本堂は天保11年(1840年)に再建されたものである。
慶応4年(1860年)戊辰戦争鳥羽伏見淀の戦いでは戦場となり、1月4日、本堂の壁等に砲弾が貫通したためその跡と砲弾を保存している。
平成25年(2013年)京都市により「京都市民が残したいと思う建物」に選定された。
「2025年淀フェスーびしょぬれパビリオンー」。…大阪・関西万博を意識している?

淀駅前に水車がある。

「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」で有名な淀の水車は、淀城の淀川沿いの城壁に2つあって、1つは淀小橋下流の宇治川と桂川の合流するあたり、もう1つはさらに下流の庭園近くに取り付けられていた。
もともと宇治川筋には古来より灌漑用の水車があったと言われており、淀においても淀城ができる以前に住んでいた河村与左右衛門の屋敷に水車があったと「淀下津町記録」に記されている。
「帝都を守護せむ地、淀にまされるはなし、汝今より淀に城築くべし」との徳川2代将軍・徳川秀忠の命を受けた松平定綱は寛永2年(1625年)に淀城を完成させ初代城主に就いた。
淀は宇治川、桂川、木津川、巨椋池、四方を川と池に囲まれた美しい水上の城下町となり、さらに2代目城主・永井尚政が寛永15年(1638年)、木津川を南に下げて城下を拡張し、庭園を新設した。
永井藩主の家老・佐川田昌俊によって作られたという説が残っていることから、どうやらこの頃までに2基の水車が整備されたらしい。
元禄5年(1692年)に江戸参府の途中、淀を通過したオランダ一行の医師ケンペルは「淀の町は美しく、水車小屋がその城の一部になっている」と書いている。また、江戸時代に来日した朝鮮通信使も絵と文章で淀の水車のことを伝えた。
宝暦年間(1753年以降)淀稲葉藩士・渡辺善右衛門はその著「淀古今真佐子」で次のように「淀の水車は日本国は言うに及ばず朝鮮、琉球、オランダまでも知れ渡ったものである。2つ2ヶ所にあって、二の丸居間の庭園用と花畑の茶屋の水鉢用に使用している。」等と記している。
安永9年(1780年)に刊行された「都名所図絵」や文久3年(1863年)に出版された「淀川両岸一覧」には淀城と水車が描かれ、淀城といえば水車が付き物となっていた。葛飾北斎も「雪月花淀川」で淀城と水車を描いた。明治時代の画家・冨田渓仙は淀城の水車が好きで作品を残している。
これだけ絶賛されている淀城の水車、現在残っているのだろうかと調べてみたら、残っていないらしい。
本日は淀駅で終了とする。

次回は、淀駅から御殿山駅まで歩く予定である。



歩いた日:2025年7月21日
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【参考文献・参考サイト】
京都府歴史遺産研究会(2011) 「京都府の歴史散歩 中」 山川出版社
風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第16集」
SAKE journal「日本三大酒どころ なぜ伏見・灘・西条が酒どころとして発展したのか?」
今昔マップ
(2026年2月8日最終閲覧)