10月うさぎの部屋

10月うさぎがいろいろ語る部屋

うさぎの気まぐれまちあるき 川越編

 関西から友人がやってくることになったので、観光案内をお願いされた。「どこか行きたいところはありますか?」と聞いたところ、「蓮馨寺、旧山崎家別邸、大正浪漫夢通り、一番街通り、時の鐘、川越蔵造り資料館、川越まつり会館、大沢家住宅、菓子屋横丁、川越城跡、川越氷川神社仙波東照宮、中院、喜多院」と答えられた。「ほぼ全部じゃないか」と内心ツッコミを入れた。友人は2日にわけて川越をめぐるようで、私が仕事の日に川越城、川越氷川神社仙波東照宮、中院、喜多院は行ったようなので、それ以外を一緒にめぐった。今回はそのことについて語りたいと思う。

1.川越熊野神社

 川越駅に集合し、クレアモールを北上する。

クレアモール

 平日、休日ともに商店街の通行量、埼玉県1位のクレアモールといえど、まだ朝の9時だったので人通りは多くない。ちなみにクレアモールの名前の由来は英単語のCreate(創造する)とMall(遊歩道)である。

 

 クレアモールをひたすら北上していくと、大正浪漫夢通りに着く。大正浪漫夢通りの入口にある川越熊野神社に寄る。

川越熊野神社

 川越熊野神社は、室町時代紀州熊野本宮大社から分祀された開運・縁結びの神社である。川越熊野神社の祭神は熊野大神で、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉册命(いざなみのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)の4柱が祀られている。

 そして境内には足踏み健康ロードがある。全国各地の神社を巡っていても、足つぼがある神社はここ以外に知らない。

足踏み健康ロード

2.蓮馨寺

 熊野神社の裏から県道229号線に出る。少し進むと蓮馨寺がある。

蓮馨寺

 蓮馨寺は室町時代に蓮馨大姉が安らぎの場を民衆にもたらすべく創建した浄土宗の寺院である。

 蓮馨寺といえば、おびんづる様である。

おびんづる様

 おびんづる様とは、病にかかっているところをなでると病気が治るとされている仏様である。そういえば、最近見た仏様では跨木撫で観音さまに似ていると思った。跨木撫で観音さまについて詳細はこちらをご覧いただきたい。

octoberabbit.hatenablog.com

3.大正浪漫夢通り

 蓮馨寺の前の道を直進して、大正浪漫夢通りに戻る。大正浪漫夢通りはかつて「銀座商店街」と呼ばれアーケードが取り付けられていたが、アーケードは平成7年(1995年)に撤去された。その後、商店街をあげての大正浪漫の街づくりがスタートした。現在ではテレビや映画の撮影に使われることもある。ちなみに、ここでは一年中鯉のぼりが上がっている。この商店街と鯉のぼりは絶妙にマッチしていると思う。

大正浪漫夢通り

 ここで、少し遅めの朝食をいただく。訪れたのは、シマノコーヒー大正館。

シマノコーヒー大正館

 ハムチーズエッグのヤキサンド(ホットサンド)を注文した。店内はレトロでなかなか趣がある。しばらく待つと、ヤキサンドが出てきた。

ヤキサンド

 ヤキサンドはサクサクしていて美味しかった。

 

 お腹が満たされたところで旧山崎家別館に向かう。大正浪漫通りの角にある川越商工会議所は国指定有形文化財で、武州銀行川越支店として前田健二郎が設計した。この建築は、昭和2年(1927年)に建てられた鉄筋コンクリート造建築だが、ギリシア神殿を想起させる荘重で威厳のあるドリス式オーダーのエンタブラチュアとフルーティング付円柱が用いられている本格的な様式主義の建築である。昭和45年(1970年)に川越商工会議所が譲り受け、現在も使用されている。

川越商工会議所

 旧山崎家別邸に行くまでにも古い建物が並ぶ。そのうちの一つ、原田家住宅は明治27年(1894年)に建築された。

原田家住宅

 巨大な鬼瓦と重厚な観音開扉が目を引く。この鬼瓦は川越市内でも最大規模だそうだ。

4.旧山崎家別邸

 大正浪漫夢通りから右折して、次の交差点を左折すると旧山崎家別邸に到着する。恥ずかしながら、ここの存在は初めて知った。受付を済ませると、ボランティアガイドのおじさんがガイドしてくれた。ガイドがあると理解が一層深まる。

旧山崎家別邸

 旧山崎家別邸は、川越の老舗菓子屋「亀屋」の5代目である山崎嘉七の隠居所として建てられた。旧山崎家別邸の設計を行ったのは保岡勝也で、保岡勝也は旧国立八十五銀行本店なども設計している。この旧山崎家別邸には川越付近に訪れた皇族方が宿泊されることもあり、川越の迎賓館として使用された。建物は洋館部と和館部からなる和洋館並列住宅で、洋館部だけが二階建てで、切妻造フランス瓦風洋瓦葺の屋根に、ドイツ壁と呼ばれる色モルタルの掃付け壁の外壁として和館部と差別化させている。そして薄暗い階段から見えたステンドグラスが美しかった。

5.一番街

 旧山崎家別邸を堪能してから一番街に向かう。この古い建物は旧山吉デパートである。ここも保岡勝也が設計した。

旧山吉デパート

 ここで開店したのが、川越初のデパート、山吉デパートである。ちなみに山吉デパートは丸広百貨店となり、現在クレアモールにある。山吉デパートは現在、保刈歯科医院として利用されているが、鉄筋コンクリート造3階建ての外観は、一番街の街並みで最もモダンで、威厳のある建築といえる。

 

 少し脱線するが、丸広百貨店の屋上には昔、屋上遊園地があった。観覧車やモノレールもある遊園地だったが、令和元年(2019年)9月1日に閉園した。現在、屋上遊園地のあった場所は「エンジョイ広場」になっている。

エンジョイ広場

 少し進むと右手側に埼玉りそな銀行川越支店がある。

埼玉りそな銀行川越支店

 ここは川越に残る洋風建築の代表的な場所で、時の鐘と並ぶ川越のランドマーク的存在である。大正7年(1918年)に旧国立八十五銀行本店として建てられ、国の登録有形文化財の指定も受けている。外壁はタイルと石が張られ、外部意匠としては簡素で平滑な外見だが、外壁の窓と窓の間にイスラム風縞模様のバットレスを施して壁面をリズミカルに飾り、正面隅部にルネサンス風ドームを頂いた塔屋が一際目立つ様式主義の建築である。ここも保岡勝也の設計で、ここと山吉デパート、旧山崎家別邸、川越貯蓄銀行(残念ながら取り壊された)で川越4部作と呼ばれている。

 

 このあたりは蔵造りの街並みが残っている。

蔵造りの街並み

 蔵造りは類焼を防ぐための耐火建築で、江戸の町家形式として発達したものである。蔵造りの建物のうちのひとつ、大澤家住宅は寛政4年(1792年)に呉服太物商、西村半右衛門が建てたもので、川越町の3分の1を焼失した明治26年(1893年)の川越大火の際も焼け残り、川越商人に蔵造りを建てさせるきっかけとなった。蔵造りの街並みは平成11年(1999年)に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、平成19年(2007年)には「美しい日本の歴史的風土100選」に選定された。

 蔵造りの街並みの通りから一本入ったところに長喜院がある。

長喜院

 長喜院は鎌倉時代後期に創建した寺院である。観光の寺院ではないため、境内は蔵造りの街並みとは違い、ひっそりとしている。私はここに何度か来たことがある。実は母方の菩提寺だからだ。ご先祖様に対して、そっと手を合わせた。

6.時の鐘

 そのまま進んでいくと時の鐘入口交差点があるので、右折するとすぐに時の鐘が見える。

時の鐘

 時の鐘は寛永4年(1627年)から寛永11年(1634年)の間に川越城酒井忠勝が建てたものが最初と言われている。現在建てられているものは明治26年(1893年)に起きた川越大火の翌年に再建されたものである。平成8年(1996年)には「残したい"日本の音風景100選"」に選ばれた。

 時の鐘の下には薬師神社がある。

薬師神社

 薬師神社は以前常蓮寺という寺院だったが、明治維新のときに薬師神社になった。ご本尊は薬師如来で、ご利益は五穀豊穣や病気平癒、特に眼病にご利益があるらしい。そして隣の稲荷神社は出世、開運、合格に著しいご利益があるそうだ。

稲荷神社

「著しいご利益」と書かれていた説明板

 友人が「著しいご利益があるならお参りしよう」と笑っていたので、一緒にお参りした。

 

 時の鐘の近くには景観配慮型スターバックスがある。売っているものは普通のスターバックスと変わらない。

景観配慮型スターバックス

 市民会館入口交差点で左折して、川越市役所方面に向かう。川越市役所前の「手打そば百丈」でかけそばを食べた。

 そこまで見てなかったので写真を撮り忘れてしまったが、ここは看板建築でも有名な場所らしい。昭和7年(1932年)に釣具店として建てられたらしい。もちろん、お蕎麦の味も美味しかった。

7.一番街に戻る

 市役所前交差点を左折、札の辻交差点を左折して蔵造りの街並みに戻る。向かうのは大澤家住宅である。

大澤家住宅

 大澤家住宅は前述したが、川越大火のときに焼け残ったため蔵造りの街並みができるきっかけとなった蔵造りの建物である。なかでは民芸品が売られていた。

 

 少し南に進むと、川越まつり会館がある。

川越まつり会館

 川越まつり会館は川越まつりについて取り上げた博物館で、川越まつりの映像や山車の展示などを見ることができる。

 川越まつりは、慶安元年(1648年)に当時の川越藩主、松平伊豆守信綱が氷川神社に神輿・獅子頭・太鼓等を寄進し、祭礼を奨励したことが始まりである。その後慶安4年(1651年)から華麗な行列が氏子域の町々を巡行し、町衆も随行するようになった。川越まつりは山車が町中を行き交い、出会ったら曳っかわせを行う。そこで囃子の勝負を行うが、勝ち負けはない。この曳っかわせが川越まつりの見どころである。平成29年(2017年)に川越まつりに行ったので、そのときの写真を貼っておく。

 川越まつり会館を見て、川越まつりに来てみないかと友人を誘ったが、この展示を見ただけでお腹いっぱいになったようだ。

8.菓子屋横丁

 札の辻交差点に戻り、左折して菓子屋横丁に向かう。

菓子屋横丁

 菓子屋横丁では、明治の初めから菓子を製造していた。関東大震災で被害を受けた東京に代わって駄菓子を製造供給するようになり、昭和初期には70軒ほどの業者が軒を連ねていた。現在は20数軒の店舗が連なる。平成13年度(2001年)には「かおり風景100選」に選ばれた。菓子屋横丁の石畳にはガラスブロックが埋め込まれており、これは昔、菓子屋横丁では飴屋が多かったのでその飴をイメージしているらしい。

 菓子屋横丁のなかの1店舗、玉力製菓に寄ってみる。玉力製菓は大正3年(1914年)創業の老舗で、入ると飴が売っているだけでなく飴の試食や飴の製造工程の見学もできる。友人は飴があまり好きではなかったようだがここの飴は美味しかったのと、飴の製造工程の見学は面白かったようだ。

 何か食べようと思ったら、そういえば紫いもソフトクリームをまだ食べていなかったので食べることにした。芋けんぴが刺さっているのが面白い。

紫いもソフトクリーム

 菓匠宇門のいも恋も食べた。

いも恋

 いも恋はさつまいもとつぶあんが入ったお饅頭で、優しい甘さがした。こしあんが苦手な母でもこれなら食べられそうな気がした。

 川越といえば「さつまいも」だが、なぜこうなったのかというと、江戸で焼き芋が流行り、その焼き芋用のさつまいもを供給するにあたり、適地は江戸近郊で舟運が使える場所、となり川越でさつまいもが栽培されるようになった。ほかにも馬加村(千葉県千葉市美浜区幕張)でもさつまいもが育てられたようだが、江戸っ子は川越いもを好み、「本場ものは川越」とした。さつまいもは味はよいが高い「あかづる」と味はあかづるに劣るが安い「あおづる」を作っていたが、あかづるの突然変異の「べにあか」が出現したことにより、「べにあか」に転換された。その後洋菓子の普及による焼き芋人気の低迷や戦時中の多収いもへの転換(質より量がとれるさつまいもで、美味しくない)、ホウレンソウや小松菜などの栽培の普及による危機を迎えるが、川越はさつまいもの生産から加工や販売の町になった。全国でもさつまいもが名物の街は川越くらいなので、全国からさつまいもが好きな人がいっぱい来てくれるのだ。

 私はそこで、小学生時代に給食で出た「小江戸カレー」を思い出した。「小江戸カレー」はじゃがいもの代わりにさつまいもが入ったカレーだった。正直カレーにはさつまいもよりじゃがいものほうが合うと思う、と言ってはいけないのだろう。

9.川越八幡宮

 蔵造りの街並みに戻り、南下していく。本川越駅前でクレアモールに入ったら、朝と違い多くの人が行き交っていた。

 紀伊国屋書店の前で左折し、川越八幡宮へ向かう。

川越八幡宮

 川越八幡宮は第68代後一条天皇の時代の長元3年(1030年)に甲斐守源頼信によって創祀されたと伝えられている。祭神は第15代天皇応神天皇である。

 境内の狛犬もマスクをするご時世か、と狛犬を見て感じた。

 御朱印をもらったら今はなき丸広百貨店の観覧車がデザインしてあった。

10.仙波河岸史跡公園

 仙波河岸史跡公園に向かう。仙波河岸史跡公園に愛宕神社があったので参拝する。

愛宕神社

 平安時代に京都の愛宕山から分霊を奉斎して創建、祭神は火産霊命(ほむすびのみこと)である。愛宕神社は丘の上にあるのだが、ここは丘ではなく古墳らしいことが説明板にあった。

 愛宕神社の裏には延命地蔵尊がある。このお地蔵様は延命・利生を請願しているようだ。

延命地蔵

 仙波の滝の跡があったが、現在滝は流れていなかった。

仙波の滝の跡

 そしてここが仙波河岸である。

仙波河岸

 仙波河岸ができたのは明治の初めで、新河岸川の舟運に使われた。仙波河岸は新河岸川の最も上流に位置し、一番新しくできた河岸場だった。仙波河岸が開設されたことで、ゆるやかな坂を上がっていけばあとはそのまま平らに蔵造りの街並みのほうまで荷物を運ぶことができるようになった。しかし明治の初めには新河岸川の舟運も終わりを迎えた。現在は史跡公園として整備されている。

 

 この後は本川越駅まで戻り、ばぁ~ぐば~ぐで夕食を食べた。

 和牛ハンバーグの専門店で、やはりハンバーグが美味しかった。

 この後は友人としばらく話してから、川越駅で解散した。川越の魅力を再発見できた1日となった。

今回の地図①

今回の地図②

歩いた日:2022年4月2日

【参考文献・参考サイト】

山野清二郎・松尾鉄城・寺島悦恩・小林範子(2019)「うつくしの街 川越―小江戸成長物語」一色出版

クレアモール川越新富町商店街振興組合 クレアモールとは?

http://www.creamall.net/union-info/index.html

川越市 川越熊野神社

https://www.city.kawagoe.saitama.jp/welcome/kankospot/kurazukurizone/kumano.html

蓮馨寺

https://renkeiji.jp/

大正浪漫夢通り

https://www.koedo.com/index.html

カワゴエール 川越商工会議所

https://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/shokoukaigisho/

カワゴエール 原田家住宅

https://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/haradake/

川越市 旧山崎家別邸

https://www.city.kawagoe.saitama.jp/smph/welcome/kankospot/kurazukurizone/kyuyamazakike.html

カワゴエール 旧山吉デパート

https://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/yamakiti-department/

カワゴエール 埼玉りそな銀行川越支店

https://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/resona/

川越市 蔵造りの町並み

https://www.city.kawagoe.saitama.jp/welcome/kankospot/kurazukurizone/kurazukuri.html

カワゴエール 長喜院

https://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/chokiin/

川越市 時の鐘

https://www.city.kawagoe.saitama.jp/smph/welcome/kankospot/kurazukurizone/tokinokane.html

川越まつり公式サイト 川越まつりの概要・歴史

https://www.kawagoematsuri.jp/about/about_history.html

川越市 菓子屋横丁

https://www.city.kawagoe.saitama.jp/welcome/kankospot/kurazukurizone/kashiya.html

川越八幡宮 ご由緒・ご神徳

https://kawagoe-hachimangu.net/history.shtml

カワゴエール 仙波河岸史跡公園

https://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/senbagasi-sisekipark/

(2022年4月24日最終閲覧)

東海道を歩く 9.箱根板橋駅~箱根神社入口バス停

f:id:Octoberabbit:20220411193423j:plain

 前回、2回にわけて平塚駅から箱根板橋駅まで歩いた。今回は箱根板橋駅から静岡県三島市三島広小路駅まで歩く。江戸時代の人は小田原宿から三島宿まで1日で歩いたようだが、現代人にはしんどかったので箱根板橋駅箱根神社入口バス停、箱根神社入口バス停~三島広小路駅の2日間に分けて歩いた。今回はその前編、箱根板橋駅箱根神社入口バス停を紹介する。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

1.板橋延命子育地蔵尊

 今日は箱根板橋駅から出発だ。

f:id:Octoberabbit:20220411193856j:plain

箱根板橋駅

 駅から右に歩き、板橋見附交差点を左折する。しばらく歩くと古い家がある。内野邸だ。

f:id:Octoberabbit:20220411194013j:plain

内野邸

 内野邸は醤油醸造業を営んできた内野家の店舗兼住宅として明治36年(1903年)に建設された。当時流行していた土蔵造り風の町屋で、「なまこ壁」や「石造アーチ」など和洋折衷的な意匠が取り入れられている。

 

 少し進むと板橋延命子育地蔵尊がある。

f:id:Octoberabbit:20220411194245j:plain

板橋延命子育地蔵尊

 本尊は弘法大師の作といわれる延命子育地蔵菩薩で、仏殿正面に安置される身丈8尺(2.4m)の大坐像の腹中に鎮座している。そのため胎籠もりのお地蔵さまとも呼ばれている。小田原を出た旅人はこの地蔵堂で箱根越えの無難を祈り、無事に箱根を越えた旅人はお礼参りに参詣したので、東海道五十三次の一大霊場として賑わっていたという。今でも正月や8/23,24の縁日には多くの参詣者で賑わい、この日にお参りすると必ず故人に似た人と行き会えるという言い伝えもある。

 

 上板橋交差点で国道1号に戻る。すぐ左手側に小田原用水(早川上水)取入口がある。

f:id:Octoberabbit:20220411194704j:plain

小田原用水(早川上水)取入口

 ここで早川の川水を取り入れ、板橋村は旧東海道の人家の北側を通水し、板橋見付から旧東海道を東に流水して古新宿を通り、江戸口見付門外蓮池に流れ出たもので、途中の所々で分水されて小田原城下領民の飲料水に供されていたものである。近くに少し葉桜になった河津桜が咲いていて綺麗だった。

f:id:Octoberabbit:20220411195004j:plain

2.日蓮聖人霊跡

 早川沿いを進むが、小田原厚木道路の下で箱根登山鉄道の踏切を越える。そこに日蓮聖人霊跡がある。

f:id:Octoberabbit:20220411195137j:plain

日蓮聖人霊跡

 文永11年(1274年)に日蓮がここを訪れ故郷の房総半島を見て両親を偲び、ここに石の宝塔と首題釋迦牟尼佛多宝如来四菩薩(しゅだいしゃかむにぶつたほうにょらいしぼさつ)を刻し衆生済度の病即消滅を祈願した。

 そこからしばらく旧道を進むが、入生田駅を少し過ぎたところにある踏切を渡って国道1号に合流する。右手側に「交通安全之碑 止まります 待ちます 車のきれるまで」と達磨の絵が描かれた碑がある。この達磨は日本人離れした顔をしていると思った。

f:id:Octoberabbit:20220411195537j:plain

交通安全之碑

 旧道に入るところに「箱根町 交通安全都市」と書かれたモニュメントがある。

f:id:Octoberabbit:20220411200258j:plain

箱根町 交通安全都市

 カントリーサインがないから気づかなかったが、箱根町に入ったようだ。全国津々浦々旅しているが、箱根町に来たのは初めてである。

 

 しばらく進んだら国道1号に戻る。横を見ると車が大渋滞を起こしていた。

f:id:Octoberabbit:20220411200615j:plain

 今日は3連休の2日目、関東近郊のレジャースポットである箱根にみんなこぞって行くのだろう。

3.早雲寺

 三枚橋国道1号から離れ、道なりに進む。

f:id:Octoberabbit:20220411200850j:plain

三枚橋

 かつての三枚橋は長さ22間(40m)、幅2間(3.6m)の土橋だった。三枚橋という名の由来については、中洲が2つあって橋が3つ架かっていたから、3枚の橋を横に並べて架けてあったから、付近に法華三昧堂があったからなど諸説ある。小田原方面から来ると、この橋で左手に曲がると東海道、まっすぐに行けば「箱根七湯」の温泉場へ通じていた。この「箱根七湯」は病気療養を目的とした湯治客を集めていた。湯治を目的にした人たちは「七湯道」と呼ばれた道をたどり、それぞれ湯本、塔ノ澤、堂ヶ島、宮ノ下、底倉、木賀、芦之湯の温泉場に到着、3廻り21日間の湯治を行った。

 

 しばらく進むと右手側に大きな寺院を見つけた。早雲寺だ。

f:id:Octoberabbit:20220411201417j:plain

早雲寺

 早雲寺は小田原北条氏二代氏綱が、父早雲の遺言により大永元年(1521年)に建立した臨済宗の寺院である。創建時の早雲寺は、関東における臨済宗大徳寺派の中本山として、湯本の地全体を境内地とし、500人を超える僧がいて活気に満ちていたという。通常は拝観できないが、北条早雲像、北条氏綱像、北条氏康像などの国重要文化財を所蔵している。

 境内には北条五代の墓と連歌師宗衹の墓と俳諧師衹空の墓がある。そっと手を合わせ、早雲寺をあとにした。

f:id:Octoberabbit:20220411201835j:plain

北条五代の墓

f:id:Octoberabbit:20220411201859j:plain

連歌師宗衹の墓

f:id:Octoberabbit:20220411201919j:plain

俳諧師衹空の墓

 少し進むと左手側に正眼寺がある。

f:id:Octoberabbit:20220411202256j:plain

正眼寺

 正眼寺鎌倉時代箱根山に広まっていった地蔵信仰のなかで生まれた寺で、創建年代は定かではない。境内に曽我兄弟の化粧地蔵がある。

f:id:Octoberabbit:20220411202355j:plain

曽我堂

 今日はお彼岸だったので曽我堂が公開されていた。この地蔵の胎内から地蔵阿弥陀観音混合印仏が発見され、「康元元年(1256年)」の年号が記されていることから、鎌倉時代中期の造像であることがわかる。またこの地蔵は曽我兄弟の像ともいわれ、2人の位牌も堂内に安置されている。江戸時代には、箱根の道中安全を祈願する旅人たちで賑わった。曽我兄弟について詳細は8-1.平塚駅箱根板橋駅①の化粧井戸で取り上げているので、そちらも参照してほしい。

octoberabbit.hatenablog.com

 少し進むと双体道祖神を見つけた。とても仲の良さそうな道祖神である。

f:id:Octoberabbit:20220411203324j:plain

双体道祖神

 道祖神の道路の向かい側に旧箱根街道一里塚の碑がある。

f:id:Octoberabbit:20220411203422j:plain

旧箱根街道一里塚

 ここには一里塚は残っておらず、碑のみが立っている。一里塚の隣に寄木細工職人、白川洗石の生家があったらしく、その案内板が立っている。

f:id:Octoberabbit:20220411203549j:plain

白川洗石の生家

 その少し先に石畳の入口がある。これが初めての石畳だ。江戸時代の石畳を歩くのは初めてなのでワクワクしていたが、歩いた感想としては「歩きにくい」だった。

f:id:Octoberabbit:20220411203730j:plain

 石畳を抜けた先には福寿院がある。ここには少し変わった跨木撫で観音さまがいる。

f:id:Octoberabbit:20220411203856j:plain

跨木撫で観音さま

 これは手を合わせてお祈りした後、またいで仏様に向かって座り、自分の悪いところと仏様の同じところをさすると効果があるそうだ。私は歩き疲れてきたので、足を撫でてみた。効果があったかはわからない。

 

 坂を登ると「葛原坂」の案内板があった。

f:id:Octoberabbit:20220411204052j:plain

葛原坂

 このあたりは葛の葉が生い茂っていたらしい。今も木々が生い茂っている。葛かどうかはわからない。

 

 坂を登ると浄土金剛宗天聖院がある。

f:id:Octoberabbit:20220411204221j:plain

天聖院

 中に入るとすごくきらびやかで思わず写真を撮ってしまったが後ろから「ここは写真を撮ってはいけません」と言われてしまった。今頃珍しい寺院である。どうやらここは昭和55年(1980年)に開山された宗教法人箱根大天狗山神社の寺院であるようだ。御朱印もあったらしいが、もらう勇気がなかった。

4.鎖雲寺

 天聖院の先に鎖雲寺がある。もとは早雲寺内の塔頭で、寛永年間に須雲川村に移されたが、その後の洪水で流失し、この場所に移されたそうだ。ここには浄瑠璃の「箱根霊験記」の勝五郎と妻初花の墓がある。

f:id:Octoberabbit:20220411204723j:plain

勝五郎と初花の墓

 足の悪い勝五郎を車に乗せて、東海道の要衝箱根の街道で敵を待ち受け、自らは返り討ちになるものの、夫勝五郎は初花が滝に祈った霊験を得て、みごと仇討を果たすという物語である。

 

 鎖雲寺を過ぎると右手側に箱根大天狗山神社がある。

f:id:Octoberabbit:20220413200459j:plain

箱根大天狗山神社

 ここも天聖院同様、昭和55年(1980年)に開山された。ここも撮影禁止だったので、鳥居だけ載せる。

 

 少し進むと左手側に箱根天聖稲荷大権現神社がある。

f:id:Octoberabbit:20220413200808j:plain

箱根天聖稲荷大権現神社

 ここも箱根大天狗山神社の系列である。神社は少し坂を下りたところにあるようだったので、ここは鳥居だけ撮影して素通りすることにした。

 

 箱根天聖稲荷大権現神社の道路挟んで反対側に割石坂の入口がある。

f:id:Octoberabbit:20220413201005j:plain

割石坂

 ここは曽我五郎が富士の裾野に仇討に向かうとき、腰の刀の切れ味を試そうと路傍の巨石を真二つに切り割ったところと伝えられている。その巨石を探してみたが、見つからなかった。

 

 石畳を進むと、「箱根路のうつりかわり」という案内板を見つけた。

f:id:Octoberabbit:20220413201248j:plain

箱根路のうつりかわり

 これによると、最も古い峠道が碓氷道で、奈良・平安時代に利用されたのが湯坂道、江戸時代に開かれた道が旧東海道、現在の東海道国道1号線と紹介されている。現在歩いているのは旧東海道だ。

 

 近くに接待茶屋の説明板もあった。

f:id:Octoberabbit:20220413201517j:plain

接待茶屋

 ここに茶屋があったが経営に行き詰まり、幕府の協力を得て経営を続けることができたと書かれており、その茶屋(施行所)のひとつがここにあったらしい。

5.畑宿

 少し進むと左手側に「箱根旧街道」と書かれた石畳の入口が見える。

f:id:Octoberabbit:20220413201747j:plain

箱根旧街道

 石畳の坂を下りると細い橋があった。

f:id:Octoberabbit:20220413201852j:plain

 少し不安が残るが、先に進むしかない。

 

 石畳の構造の説明板があった。

f:id:Octoberabbit:20220413201951j:plain

 それによると、石畳は小石と石を突き固めた地面の上に、石と石とを組み合わせて並べており、さらに石畳の横に縦の排水路を持っている。

 

 坂の途中に「大澤坂」という説明板があった。

f:id:Octoberabbit:20220413202154j:plain

大澤坂

 幕府の下田奉行小笠原長保の「甲申旅日記」に「大沢坂は坐頭転ばしともいうとぞ、このあたり、つつじ盛んにて、趣殊によし」と書かれている。残念ながら今はつつじは見当たらなかった。苔むした石畳は大変風情があるが、少し滑って歩きにくい。アスファルトの道に出るとほっとするほどだった。

f:id:Octoberabbit:20220413202556j:plain

 大澤坂を過ぎると、畑宿の集落に出る。畑宿では伝統工芸箱根細工が古くから盛んに作られており、箱根細工の工房が軒をつらねていた。

f:id:Octoberabbit:20220413202844j:plain

 少し余裕があれば箱根細工を見たかもしれないが、そのような余裕はなく足早に通り過ぎてしまった。

 

 箱根旧街道の入口付近に守源寺がある。

f:id:Octoberabbit:20220413203123j:plain

守源寺

 守源寺は寛文元年(1661年)に乗善院日連上人によって建立された日蓮宗の寺院で、現在の本堂は昭和5年(1930年)の豆相大地震の後に再建されたものである。

 

 箱根旧街道に入ってすぐ、畑宿の一里塚がある。

f:id:Octoberabbit:20220413213259j:plain

f:id:Octoberabbit:20220413213324j:plain

 これは日本橋から23番目の一里塚で、平成10年(1998年)に復元されたものである。山の斜面にあった塚は周囲を切土と盛土、石貼りで平坦面を作り、礫を積み上げ表層には土を盛って頂上に樅と欅を植樹したものであることが発掘調査から判明した。

6.橿木坂

 また石畳を進む。すると「箱根旧街道」と書かれた案内板があった。

f:id:Octoberabbit:20220413213617j:plain

f:id:Octoberabbit:20220413213641j:plain

 江戸幕府は延宝8年(1680年)箱根道を石畳道に改修した。それ以前のこの道は、雨や雪の後は大変な悪路になり、旅人は膝まで埋まる泥道を歩かなければならないため、竹を敷いていたものの、竹を調達するのに大変な労力と費用がかかっていたため石畳にしたようだ。幕府は石畳を敷きながらも江戸の要害である箱根山が歩きやすいものになっては困ると懸念したようだが、実際は人や馬が滑って転んで死ぬことが多かったようなのでその心配は無用だったようだ。アスファルトに歩きなれた現代人には歩きにくい道である。

 

 ここは西海子坂と言うらしい。ここは一歩間違えば千尋の谷底に落ちると言われていたが、幸い落ちなかった。

f:id:Octoberabbit:20220413214025j:plain

西海子坂

 舗装路に戻り、階段を登る。

f:id:Octoberabbit:20220413214119j:plain

 いくつかヘアピンカーブを曲がると、橿木坂の案内板があった。そこには「橿の木の さかをこゆればくるしくて どんぐりほどの 涙こぼるる」と書かれていた。確かに橿木坂の階段を登っている途中でしんどくなり、どんぐりほどの涙をこぼしそうになった。

f:id:Octoberabbit:20220413214307j:plain

橿木坂

 橿木坂を登ると、「雲助とよばれた人たち」と書かれた案内板があった。

f:id:Octoberabbit:20220413214411j:plain

雲助とよばれた人たち

 雲助とは、江戸時代に宿場や街道で駕籠舁や荷物の運搬などを行った人足のことで、定まった住所がなくあちこちをさまよっているからとも、網を張って客を待つところから蜘蛛のようだともして、雲助と呼ばれていた。

 

 しばらく進むと藪が深くなり、竹をかきわけながら進む。

f:id:Octoberabbit:20220413214626j:plain

 親からは「山道に一人で行くな」と言われており、一人でこのような道を通っていると知ったら怒られそうである。

 

 車道を横断する少し前に「猿滑坂」という案内板がある。

f:id:Octoberabbit:20220413214747j:plain

猿滑坂

 「新編相模国風土記稿」には、「殊に危険、猿猴といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす。」と書かれている。猿でも登れないと書かれていたが、幸いにして転ぶことなく坂を登り終えた。

7.甘酒茶屋

 車道のヘアピンカーブを曲がると、右手側に追込坂がある。

f:id:Octoberabbit:20220413220140j:plain

追込坂

 「新編相模国風土記稿」のふりがなによると「フッコミ坂」といったのかもしれないと書かれているが、この説明板のルビは「おいこみざか」である。

 

 追込坂の隣に親鸞上人と笈ノ平の説明板がある。

f:id:Octoberabbit:20220413220342j:plain

親鸞上人と笈ノ平

 これによれば、親鸞と弟子が東国への浄土真宗の布教を終えて箱根路を登ってここに来たとき、親鸞上人が弟子の性信房と蓮位房に向かい、「師弟打ちつれて上洛した後は、誰が東国の門徒を導くのか心配であるから、御房がこれから立ち戻って教化してもらいたい」と頼み、別れた場所がここであると説明されている。ちなみに前回8-3.平塚駅箱根板橋駅③にこの浄土真宗布教に使った御勧堂が紹介されている。

octoberabbit.hatenablog.com

 この近くに、甘酒茶屋がある。かつては13軒の甘酒茶屋があったようだが、現在営業しているのはここだけである。

f:id:Octoberabbit:20220413220749j:plain

甘酒茶屋

 この甘酒茶屋には赤穂浪士神崎与五郎が馬を断ったために馬方丑五郎に難癖をつけられ、大事の前ということでじっと我慢をして「詫び証文」を書かせられたという逸話が残っている。

 ともかく、疲れたので甘酒茶屋に入って休憩する。私は甘酒と、うぐいすの力餅を注文した。

f:id:Octoberabbit:20220413220947j:plain

 甘酒は江戸時代から続く製法で作られるもので、優しい甘さがした。力餅は備長炭でふっくら焼いたお餅で、いそべ、うぐいす(きなこ)、黒ごまの3種類がある。ちょうどお昼ごはんを食べていなかったので、お腹が満たされた。とても美味しかったのでまた来たいが、次来るときはバスで来るだろう。

8.於玉坂

 甘酒茶屋で一休みして、また石畳の道を歩く。於玉坂は、お玉という少女が箱根の関所を破ったとして処刑された場所がこの坂のあたりだったためにその名がつけられた。お玉は伊豆の生まれで、江戸の従兄弟の家に奉公に出ていたが、何かの理由で帰ろうとしたのか、通行手形も持たずにここに来て、夜に紛れて関所の裏山を越えようとしたものの、捕らえられて処刑されてしまった。お玉処刑の話は世間に伝わり、江戸市中にも広まって幕府の冷酷非情さを非難する大きな声にまでなった。現在、箱根関所は廃止されているため、通行手形を持っていなくても捕まえられることはない。

f:id:Octoberabbit:20220413221435j:plain

於玉坂

 車道を通り抜け、石畳の坂を上がると、「二子山について」という案内板がある。

f:id:Octoberabbit:20220413221536j:plain

 二子山は箱根の火山活動のうち一番最後にできたものです、と説明されているが、木に遮られて二子山はあまりよく見えなかった。ちなみに箱根の石畳に使われた石は、その大部分が二子山から採取されたものらしい。

f:id:Octoberabbit:20220413221658j:plain

二子山

 石畳は急坂で、息が上がってくる。

f:id:Octoberabbit:20220415212116j:plain

 私は花粉症なので、杉並木を歩くにあたってマスクと防護メガネをしていたのだが、あまりに荒く息をするので防護メガネが曇り、視界がよろしくない。仕方なく、防護メガネを外すことにした。夜になっても目があまり痒くならなかったのが幸いだった。

 花粉症にとっては憎き杉であるがこの杉並木も命がけで守った人がいたからこそ残ったのだ。第二次大戦末期、海軍が箱根の杉に目をつけて大きな木造船を作ることを考えた。軍は知事を通して箱根町ほか二か村組合に杉の供出を命じた。当時の役場担当者、田中隆之は県庁に呼び出されて杉の供出を催促されたものの、様子を見て関係する書類を持ち出して焼却、そのまま従軍僧として戦地に赴いてしまった。その後県庁では大騒ぎになるも、そのうち敗戦になって事件はうやむやになってしまった。この田中隆之の行動がなければ、今頃杉並木はなくなっていたかもしれない。

 

 権現坂に入ると、下り坂でようやく芦ノ湖が見えてきた。

f:id:Octoberabbit:20220415213608j:plain

 案内板にも「目前に芦ノ湖を展望し、箱根山に来たという旅の実感が、体に伝わってくるところです」と書かれていた。

 

 坂を下ったところにケンペル・バーニー碑がある。

f:id:Octoberabbit:20220415213750j:plain

ケンペル・バーニー碑

 ケンペルは元禄3年(1690年)、長崎のオランダ商館の医師として来日した人で、箱根では芦ノ湖の魚類や多数の草木を観察して、箱根の美しさを絶賛していた。彼の死後、イギリスで最初に出版された「日本誌」は世界に日本の文化や自然などを広く紹介したことで知られている。

 ケンペル・バーニー碑は大正11年(1922年)、イギリス人貿易商で芦ノ湖畔に別荘を持っていたバーニーが、箱根を愛し箱根の美しさを世界に紹介したケンペルの言葉を引用して、箱根の自然の大切さと土地の人々への友情のお礼として建てたものである。

 

 ケンペル・バーニー碑の脇の坂を下りて国道1号に合流したところで、箱根神社入口バス停に到着する。すぐにバスが来たので、それに乗って小田原まで帰ることにする。

f:id:Octoberabbit:20220415214327j:plain

箱根神社入口バス停

 次回は箱根神社入口バス停からスタートである。

 

【おまけ】

f:id:Octoberabbit:20220415214442j:plain

 箱根の山を登り、汗だくになっていた。せっかく箱根まで来たのに箱根らしいことを何もせずに帰るのもイヤだったので、小田原に帰る途中で日帰り温泉、箱根湯寮に寄り道した。泉質はアルカリ性単純温泉でpHは8.9。ほどよくぬるぬるした良い温泉で、汗を流すことができた。温泉で疲労回復したところで、明日は三島まで向かう。

f:id:Octoberabbit:20220415231157p:plain

今回の地図①

f:id:Octoberabbit:20220415231222p:plain

今回の地図②

f:id:Octoberabbit:20220415231237p:plain

今回の地図③

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

歩いた日:2022年3月20日

 

【参考文献・参考サイト】

 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川の歴史散歩」 山川出版社

風神社(2013)「ホントに歩く東海道 第3集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016)「神奈川の宿場を歩く」神奈川新聞社

(2022年4月15日最終閲覧)

東海道を歩く 8-3.平塚駅~箱根板橋駅③

 前回、平塚駅から二宮駅まで歩いた。箱根板橋駅まで歩くつもりだったが歩ききれなかった。今回は二宮駅から箱根板橋駅まで歩く。11時前に出発して箱根板橋駅に到着したのが16時前だったので、結局1日では平塚駅から箱根板橋駅まで歩くのは無理だったということがわかった。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

1.押切坂の一里塚

 今日は二宮駅から出発だ。

 二宮駅南口から出て、二宮駅入口交差点を右折する。しばらく国道1号沿いを歩くが、吾妻神社入口交差点の少し前で旧道に入る。分岐点に「旧東海道の名残り」と書かれた案内板があるので、それを目印にする。

 分岐点からすぐのところに吾妻神社の鳥居がある。少しそそられたが、吾妻神社までは標高差100mほどの山を登る必要があるためパスした。

 少し進むと「梅澤橋」と書かれた石柱がある。耳を澄ますと水の音が聞こえる。暗渠だろうか、と調べたらここは梅沢川が暗渠で通っているらしい。

梅澤橋

 少し進むと等覚院がある。藤棚が有名で、藤巻寺の別名もあるらしい。今は梅の花が綺麗だった。

等覚院

 そのまま進むと山西交差点で国道1号と合流する。魚介料理の店から漂ういい匂いを嗅ぎながら、道祖神たちに挨拶をする。

 押切橋上交差点で今度は左側から旧道に入る。また「東海道の名残り」の案内板があるのでそれを目印にする。

 分岐点からすぐのところに押切坂の一里塚がある。ここの一里塚は「史蹟 東海道一里塚の跡」と刻まれた石柱と、案内板が残るのみである。

史蹟 東海道一里塚の跡

 少し進むと押切坂の急坂があり、そこを下る。

2.車坂

 中村川を押切橋で越えると、すぐ小田原市である。小田原市に来た、と思ったらすぐに二宮町カントリーサインが見え、また二宮町に戻る。また小田原市カントリーサインの下をくぐって、ようやく小田原市に入った。

 小田原市のマンホールには酒匂の渡しと小田原城、箱根連山、富士山がデザインされている。酒匂の渡しについては、酒匂川についたときに説明する。

小田原市のマンホール

 浅間神社に参拝する。

浅間神社

 境内に「震災復興紀念碑」があった。「大正十二年九月一日」と刻まれており、これは関東大震災の発生日に一致する。自然災害伝承碑に登録されているのでは?と思い地理院地図を見たが、登録されていなかった。

震災復興紀念碑

 浅間神社を出たら魚が描かれたマンホールがあった。童謡「メダカの学校」は小田原市荻窪用水で見たメダカを元にできたことから、メダカの学校をイメージしたマンホールだそうだ。

「メダカの学校」マンホール

 車坂を下るときは、左側から下ることをおすすめする。なぜなら、左側を見ると相模湾が広がっていて大変美しいからだ。

 車坂を下ると「史跡 車坂」の碑がある。そこには「鳴神の 声もしきりに 車坂 とどろかしふる ゆふ立の空 太田道灌」「浜辺なる 前川瀬を 逝く水の 早くも今日の 暮れにけるかも 源実朝」「浦路行く こころぼそさを 浪間より 出でて知らする 有明の月 北林禅尼」の3句が刻まれている。どれも車坂で詠まれたとされている句である。

車坂

 車坂を下ると「従是大山道」と刻まれた石碑の上に不動明王が載っている。これは羽根尾通り大山道の入口である。「東海道で歩く」で取り上げる3ヶ所目の大山道である。ほかにも「5.保土ヶ谷駅~戸塚駅 後編」の「大山前不動」、「7.藤沢本町駅平塚駅」の「四谷不動」も東海道からの大山道の分岐点だった。それだけ大山信仰が盛んだったのだろう。

羽根尾通り大山道入口

octoberabbit.hatenablog.com

octoberabbit.hatenablog.com

3.御勧堂

 坂下道祖神を右に見て、近戸神社入口交差点の角に近戸神社の石柱が立つ。地図を見てそれほど近くないなと思ったが、後で調べたら東海道から300mほどだった。

坂下道祖神

 国府津駅前交差点の左側に、親鸞が民衆を教化した御勧堂がある。親鸞浄土真宗の宗祖で、この御勧堂には7年間住んだそうだ。

御勧堂

 この近くにある真楽寺には、親鸞が指で描いた経文が刻まれた帰命石がある。真楽寺は浄土真宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来である。元は天台宗の寺院だったものの、鎌倉時代の住僧性順が専修念仏の教えを説く親鸞に感銘し、ここに滞在して民衆を教化することを願い、みずからも弟子となり真楽寺と命名してもらったという。

真楽寺

 親木橋東海道の森戸川に架かる橋で、江戸時代は長さ12間4尺(23m)、幅2間半(4.6m)の土橋だった。親木橋歩道橋には、国府津海岸でよく獲れる魚が描かれたタイルが埋め込まれている。このへんはアナゴ、アジ、イナダ、クロダイがよく獲れるそうだ。

 79キロポストの少し先に小八幡の一里塚がある。この一里塚は案内板が立つのみである。

小八幡の一里塚

4.小八幡八幡神社

 「八幡神社」の角を曲がると八幡神社があるのだが、東海道から少し離れているので一度は通り過ぎた。しかし地図に「道路元標」と書いてあったので、Uターンして向かった。なぜなら神奈川県の道路元標は横須賀市三浦市にしかなく、小田原市にあるとは知らなかったからだ。

 そしてその道路元標がこちら。

八幡村の道路元標

 どう考えても道路元標の形ではない。普通、道路元標はこのような形をしている。

例:宮崎市道路元標

 ちなみに道路元標とは大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1個ずつ設置されたものである。設置主体は都道府県か市町村であり、「明治政府地理寮設置」と書いてあることもおかしい。調べたところ、これは外国人遊歩規程測点らしい。外国人遊歩規程測点とは、明治時代に外国人の居留地からの外出範囲を規定した基準点で、神奈川県内に残存する。多くは山の上にあるため、実物を見たのは初めてだった(実は大磯町郷土資料館前にもあったらしいのだが、見逃してしまった)。それにしても、道路元標は間違いである。もう少し調べてから案内板を設置してほしかった。

 なお、この小八幡八幡神社の建立は定かではないが、鎌倉時代以前からあったとされている。祭神は応神天皇仁徳天皇神功皇后の3柱である。境内には外国人遊歩規程測点のほかにも、道祖神庚申塔が多く残っている。

 

 東海道に戻り、少し進むと小さな松林がある。松林の反対側にあった河津桜が満開で綺麗だった。この時期は綺麗な花が多くて嬉しくなってくる。

5.酒匂の渡し

 歩いていたら二宮金次郎の石像を発見した。二宮金次郎とは江戸時代後期の経世家、農政家、思想家で、小田原出身。14歳で父を、16歳で母を亡くし、叔父方に寄食して日中は農業の手伝いを、夜は夜更けまで縄をない、さらには荒地に菜種を栽培、それを売って夜なべ後の勉学の灯にしたという。このエピソードから薪を背負いながら本を読んで歩く二宮金次郎像は、各地の小学校に残る。

二宮金次郎

 「小田原コロナ」というパチスロ屋の看板を見つけた。おそらくこの看板はコロナウイルスが流行る前から設置されていただろう。

小田原コロナ

 大見寺は酒匂の旧家、川辺家の墓などがある。天文3年(1534年)の創建というから、ちょうど織田信長の生まれた年、小田原でいえば北条二代氏綱の頃である。

大見寺

 大見寺の隣が川辺家で、現在はゆりかご園という社会福祉法人になっている。

川辺家

 向かい側には酒匂不動尊もある。

酒匂不動尊

 少し進むと法船寺という日蓮宗の寺院がある。境内にはお手引き地蔵尊を祀る地蔵堂があり、参詣の人が絶えないという。境内に咲いていた花が綺麗だったが、この花は何だろう。梅か、桃か。

法船寺

この花はなんだろう

 そのまま進むと酒匂橋で酒匂川を渡ることになる。酒匂橋は400m弱ある長い橋である。

酒匂橋

 酒匂川は江戸時代、徒歩渡しであり、手を引いて渡る手引き渡し、肩に乗せて渡る肩車渡し、輦台(れんだい)に乗せて人足が担いで渡す輦台渡しで人々は酒匂川を越えた。料金は水位によって違っていたようで、安孫子周蔵という人の旅日記では「こしかたぐるま47文」と書かれ、馬入川の船賃10文と比べて相当割高だったようだ。

 酒匂橋を渡ると、少々わかりづらく細い道を右折して北側に出る。左に進んで右手側に八幡神社があれば正解だ。

八幡神社

 八幡神社から南進し、土木センター入口を南進。次の交差点を右折して、常剱寺入口交差点でまた国道1号に合流する。複雑だが、この区間に見るものがあるかと言われたらそれほどないため(新田義貞首塚が奥にあるくらいか)、国道1号直進でもいいかもしれない。

 

 そのまま国道1号を進み、山王橋で山王川を越えると山王神社がある。山王神社は山王原村の鎮守で、祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)、大山祇命(おおやまずみのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)である。山王神社は境内に星影が映る井戸があることから、星月夜ノ社とも呼ばれていた。ロマンチックな名前である。

山王神社

 境内には水準点もある。一等水準点第45号、標石と保護石が立派である。

一等水準点第45号

6.小田原宿

 「東海道小田原宿」と書かれた石灯籠がある。小田原宿はすぐそこだ。

 すぐに「小田原城江戸口見付」を見つけた。ここは小田原宿および小田原城下町の東端である。小田原宿の場合、ここから板橋にあった上方見付までの宿内の距離は18町半余(約2km)あった。この近くに小田原の一里塚もあったようだが、案内板のみである。

小田原城址江戸口見付

 新宿交差点で左折する。少し進んだら、「小田原かまぼこ通り」の角を右折する。小田原かまぼこ通りだ。

小田原かまぼこ通り

 早速かまぼこ屋が並ぶ。小田原かまぼこの歴史は古く、天明年間(1781~1789年)に沿岸漁業が栄え漁獲量が急増し、当時は魚を長期保存することはできなかったため商人たちが魚の売れ残りを処理する方法としてかまぼこを考え出したという。今のような小田原を代表する「板付かまぼこ」が生産されるようになったのは、140年ほど前、江戸末期から明治の初め頃のようだ。いせかね、山上蒲鉾店、丸う田代など立派な店構えのかまぼこ屋が並んでいる。

 

 青物町交差点の少し前に下の問屋場跡の看板を見つける。問屋場では定められた量の人足や伝馬を備えていた。

下の問屋場

 片側アーケードの商店街を進んでいくと、脇本陣古清水旅館を見つける。そこには小田原空襲の説明板があった。小田原空襲は昭和20年(1945年)8月15日に起こった空襲で、400軒の家屋を焼失し、12名の犠牲者を出した。現在の日本では空襲はないが今後も起こらないでほしいし、現在戦争中の国があると思うと胸が痛む。

脇本陣古清水旅館

 少し先に小田原宿清水金左ヱ門本陣跡と明治天皇宮ノ前行在所跡がある。清水金左ヱ門本陣は尾張徳川家や薩摩島津家、熊本の細川家など西国の有名な大名が定宿としていた。平屋で建坪240坪(792㎡)、部屋数20余室、現在明治天皇行在所碑のある辺りに宿泊の大名の部屋、上段の間があったそうだ。また、明治天皇明治元年(1868年)の東京遷都や全国巡幸の折に5回も宿泊している。明治天皇は清水本陣がよほどお気に入りだったのだろう。

小田原宿 清水金左ヱ門本陣跡

明治天皇宮ノ前行在所跡

 そのまま進むと小田原宿なりわい交流館がある。

f:id:Octoberabbit:20220330210604j:plain

小田原宿なりわい交流館

 この建物は関東大震災により被害を受けた建物を昭和7年(1932年)に再建したもので、小田原の典型的な商家の造りである「出桁造り」という建築方法が用いられている。平成13年(2001年)から小田原宿なりわい交流館として開放している。

 何か展示物でもあるかと思い覗いてみたが、特になかった。せっかくなのでマンホールカードをもらった。

f:id:Octoberabbit:20220330210710j:plain

 このマンホールは小田原城の近くにあるらしいが、残念ながら今回は小田原城に行く予定はない。

 

 小田原宿なりわい交流館の反対側に、松原神社がある。

f:id:Octoberabbit:20220330210841j:plain

松原神社

 松原神社は小田原の総鎮守で、祭神は日本武尊など3柱、創始は不明だが、もともとは後醍醐天皇の頃(1288~1339年)、海辺の松原の中にあって真鶴が住んでいたところから「鶴森神社」と称していた。

 

 「小田原蒲鉾缶バッジガチャ」「杉兼オリジナル缶バッジガチャ」「小田原おでんストラップガチャ」という癖の強いガチャガチャが3つ並んでいたので思わず写真を撮ってしまった。

f:id:Octoberabbit:20220330211028j:plain

 こんなところに小田原城!?と思ったら外郎の本店だった。ういろうは名古屋名物として有名だが、この店で最初に作ったういろうは丸薬のことである。胃痛やのどの痛み、船酔いによく効くといわれ、道中の常備薬だった。後に菓子のういろうも作り、現在も両方販売している。小田原土産でういろうを持ち帰ろうと思っていたが忘れてしまった。

f:id:Octoberabbit:20220330211251j:plain

外郎本店

 少し進むと右手側の小高い丘の上に山角天神社がある。山角天神社の創建年代は不明で、北条氏康が奉納した「菅原道真画像」がある。菅原道真が梅を好んだことから天神社には梅が植えられていることが多いが、今は花が咲いていて綺麗だった。

f:id:Octoberabbit:20220330211449j:plain

山角天神社

 東海道本線のガードの少し前に、人車鉄道軽便鉄道小田原駅跡がある。ここから熱海までの約25kmを「人力」で客車を押していたという。25kmも車両を押すなんて、大層疲れたことだろう。

f:id:Octoberabbit:20220330211657j:plain

人車鉄道軽便鉄道小田原駅

 東海道本線のガードをくぐって右側に居神神社がある。居神神社は山角町と板橋村の鎮守で、祭神は三浦荒次郎義意、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と火之加具土神(ひのかぐつちのかみ)である。居神神社には次のような伝説がある。

 三浦道寸とその子荒次郎は北条早雲と戦ったが負け、自刃した。このとき荒次郎の首だけがここまで飛んできて3年間目を見開いて人々を苦しめた。久野総世寺の和尚の供養により守護神となり、武門の神として人々に崇められるようになった。

f:id:Octoberabbit:20220330212121j:plain

居神神社

 居神神社の向かい側には小田原城主の大久保氏一族の墓所がある大久寺がある。

 

 板橋見附交差点に板橋見附跡の案内板がある。江戸時代、ここが城下府内の山角町と城下府外の板橋村の境界で、遠くは京都(上方)に通じたので板橋口または上方口と呼ばれ、主要な出入口として厳重な構造を持っていた。現在は案内板が残るだけとなっている。

f:id:Octoberabbit:20220330212402j:plain

板橋見附跡

 東海道はここで右折して箱根の山を登っていくが、このまま直進する。すぐに左手側に箱根板橋駅がある。今回はここで終了だ。

f:id:Octoberabbit:20220330212608j:plain

箱根板橋駅

 次回はついに箱根の山越え、山を越えたら静岡県。頑張るしかない。

f:id:Octoberabbit:20220330215318p:plain

今回の地図①

f:id:Octoberabbit:20220330215336p:plain

今回の地図②

f:id:Octoberabbit:20220330215349p:plain

今回の地図③

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

歩いた日:2022年3月6日

【参考文献・参考サイト】

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川の歴史散歩」山川出版社

風神社(2013)「ホントに歩く東海道 第3集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016)「神奈川の宿場を歩く」神奈川新聞社

日本の測量史 外国人遊歩規程の測量

http://uenishi.on.coocan.jp/j510yuuho.html

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

(2022年3月30日最終閲覧)

東海道を歩く 8-2.平塚駅~箱根板橋駅②

f:id:Octoberabbit:20220323194533j:plain

 前回は平塚駅から大磯駅まで歩いた。今回は箱根板橋駅まで…と言いたいところだが、結局二宮駅までしか歩くことができなかった。今回は大磯駅から二宮駅まで歩いた記録を紹介する。あと大事なことなのでもう一度言う。「大磯はいいぞ」。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

1.鴫立庵

 新島襄終焉の地からそのまま進むと、鴫立庵がある。310円払うと中に入ることができるので入ってみよう。

f:id:Octoberabbit:20220323200526j:plain

鴫立庵

 鴫立庵は寛文4年(1664年)、小田原の外郎の子孫であった崇雪が、西行法師の歌「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮」の沢らしい面影を残し、しかも景色の優れている場所ということで草庵を結んだのが始まりといわれている。その後元禄8年(1695年)に俳人大淀三千風が庵を再興して入庵、鴫立庵一世となった。大淀三千風は堂を造って西行の像を安置し、歌人俳人から作品を求めるなどしたためこの場所が有名になり、その後、鳥酔、白雄、葛三など著名な俳人が跡を継いで、今日の22世庵主まで続いている。鴫立庵の庵主は各地から入庵してきているが、彼らの活動を支えたのは地域の俳人や有力住民だった。敷地内には京都の「落柿舎」、滋賀の「無名庵」と並ぶ日本三大俳諧道場のひとつである俳諧道場があるほか、等身大の西行法師の像が安置されている円位堂や有髪僧体の虎御前の木像が安置されている法虎堂とともに、多数の墓碑、句碑、記念碑などがある。

f:id:Octoberabbit:20220323195743j:plain

円位堂

f:id:Octoberabbit:20220323195947j:plain

法虎堂

f:id:Octoberabbit:20220323200311j:plain

石碑群

 また、崇雪はここに景勝をたたえて「著盡湘南 清絶地」と刻んだ。これは中国湖南省にある洞庭湖のほとりを湘南といい、大磯がこの地に似ていることから刻まれた。ここから「湘南」と呼ばれるようになったので、鴫立庵前には「湘南発祥の地 大磯」という石碑がある。

f:id:Octoberabbit:20220323200201j:plain

湘南発祥の地 大磯

 

 鴫立庵から少し進むと右手側に「旧島崎藤村邸」と書いてあるのを見つける。少し東海道から外れるが、行ってみよう。

f:id:Octoberabbit:20220323200654j:plain

島崎藤村

 島崎藤村は詩人・小説家で、昭和16年(1941年)に大磯の左義長を見に来たときに大磯を気に入ったためここに住むことにした。昭和18年(1943年)に静子夫人が当時執筆していた「東方の門」の原稿を朗読中に倒れ、翌日「涼しい風だね」と言い残して亡くなったそうだ。藤村が書斎として使っていた小座敷は、最もお気に入りの場所だったようで静子夫人は「ひとすじのみち」で「ここの大磯の住居は、僅か三間の古びた家に過ぎないが、おそらく50年に及ぶ主人の書斎人としての生活の中で最も気に入られたものだったろう」と述懐している。ここは中に入れるが少ししか見ることができないため、無料で入れる。

 

 ここに大磯宿の上方見附があり、大磯宿はここで終了である。

f:id:Octoberabbit:20220323201106j:plain

大磯宿の上方見附

2.明治記念大磯邸園

 松並木を進む。このあたりは立派な松が茂っている。

f:id:Octoberabbit:20220323201224j:plain

 慶長9年(1604年)、家康の命によって街道に植樹された並木は、その美しい景観のほか、街道を歩く人の道しるべ、強い夏の日差しから身を守る日除け、強い風雨から身を守る風除け、火災から人家を守る火防、道路の保全など数多くの役割を果たしてきた。

 

 左手側に、明治記念大磯庭園が見えてくる。この園内には陸奥宗光別邸跡と大隈重信別邸がある。どちらも古河家がその後取得、別邸としている。

f:id:Octoberabbit:20220323201547j:plain

陸奥宗光別邸跡

 陸奥宗光別邸跡は明治29年(1896年)に建設され、明治30年(1897年)、陸奥宗光の死後に古河家が取得した。その後関東大震災で大破し、以前の建物は栃木県日光市足尾銅山に移設された。昭和5年(1930年)に古河虎之助が別邸として再建、平成30年(2018年)まで迎賓館として使用された後、現在は一般公開されている。

f:id:Octoberabbit:20220323201827j:plain

大隈重信別邸

 大隈重信別邸は、明治30年(1897年)に建設、明治34年(1901年)に古河家が取得した。木造平屋建て和風、平面はほぼ創建当時のまま、屋根は改築され軽量化されていると思われる。

 外には五右衛門風呂もある。

f:id:Octoberabbit:20220323202015j:plain

五右衛門風呂

 浴室は大隈邸から離れたところにあったとされており、これは海水温浴の治療のためだったとも推察されている。

 さらに、陸奥宗光別邸跡・大隈重信別邸の南側には松林が広がっており、これは防風・防砂のために植えられたと伝わっている。

f:id:Octoberabbit:20220323202324j:plain

 

 明治記念大磯庭園の隣には伊藤博文の居宅、滄浪閣がある。

f:id:Octoberabbit:20220323202438j:plain

滄浪閣

 明治30年(1897年)伊藤博文は気候温暖な大磯が気に入り、病弱だった夫人を気遣うこともあり東京から大磯に住居を移した。伊藤博文は住民票も移転し、大磯町民となり、本籍も大磯町に移した。伊藤博文は滄浪閣建築だけではなく、大磯小学校の建設や完成後統監道と呼ばれるようになる道路建設への寄付を始め大磯町の発展に直接的、間接的に寄与していた。統監道は大磯駅から滄浪閣への直通道路で、開通当時、伊藤博文が初代朝鮮統監の任にあったことによる。

 滄浪閣の建物は質素で落ち着いた邸宅で、門前には日清戦争後の講和条約で清国全権大使として伊藤博文と交渉にあたった李鴻章が書いた「滄浪閣」の扁額が掲げてあった。伊藤博文がここに居を構えて以来、大磯は日本の政治経済の中心的な場所となった。道を一つ隔てた左隣が西園寺公望の旧屋敷、右隣は旧鍋島邸で、この辺り一帯には山県有朋、大隈、陸奥、徳川、三井、三菱、住友、安田といった当時の日本を代表する人たちの別荘が立ち並ぶ、超高級別荘地だった。

 滄浪閣は工事中で入ることができなかった。そもそも一般公開されず放置されていたらしいが、現在工事中でそれが終わったら公開する予定らしい。

 

 滄浪閣の向かい側には宇賀神社がある。

f:id:Octoberabbit:20220323203129j:plain

宇賀神社

 鳥居がたくさんあることと、稲荷神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)に似ている社名であることから稲荷系かと思いきや、祭神は大食津姫命(おおみけつひめのみこと)なのでどうやら稲荷系ではないらしい。

 

 少し進むと八坂神社がある。素盞嗚命(すさのおのみこと)を祀る小さな神社である。

f:id:Octoberabbit:20220323203357j:plain

八坂神社

 八坂神社の近くには西國三十三所順禮講供羪と書かれた石碑と道祖神がある。西国三十三箇所の講組織がこのあたりにあったのだろうか。

f:id:Octoberabbit:20220323203519j:plain

西國三十三所順禮講供羪

3.旧吉田茂

 しばらく行くと左手側に公園があり、「旧吉田茂邸」と書いてある。入ってみよう。

 吉田茂は第45・48~51代内閣総理大臣を務めた人物である。そして明治17年(1884年)に養父が大磯に別荘を建て、養父の死後別荘を引き継いだ後で昭和20年(1945年)からここを本邸として住み始めた。「松籟荘」と名付けられた邸宅は、芸術院会員であった建築家の吉田五十八の設計によるといわれ、延べ面積1,000㎡の総ヒノキ造り純日本風二階建てだった。昭和38年(1963年)に政界を引退した後も多くの政治家が吉田茂邸を訪れ「大磯参り」と言われていた。1967年(昭和42年)にこの屋敷の銀の間で亡くなった後も大平首相とカーター大統領の日米首脳会談が実施されるなど近代政治の表舞台となった。しかし吉田邸は平成21年(2009年)に焼失、その後再建され、現在は大磯町郷土資料館別館として公開されている。

 まず兜門をくぐる。これはサンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられた門で、別名「講和条約門」とも言われている。

f:id:Octoberabbit:20220323204208j:plain

兜門

 兜門の先には日本庭園があり、これは中島健が設計した池泉回遊式の庭園である。

f:id:Octoberabbit:20220323204348j:plain

日本庭園

 吉田茂邸のなかに入ると楓の間(応接間)がある。ここには吉田茂の執務机があった。

f:id:Octoberabbit:20220323204513j:plain

楓の間

 2階に上がると書斎がある。ここには首相官邸直通の黒電話が置かれていた。

 1階に降り、展示ビデオが流れているテレビの先にはローズルーム(食堂)がある。流石元総理大臣宅の食堂、広い。

f:id:Octoberabbit:20220323204807j:plain

ローズルーム

 その先にはまた階段があり、居間(金の間)に通じている。ここは客をもてなす応接間で、箱根の山々と富士山、相模湾を一望できる。今日は晴れていたので、吉田茂が眺めた風景と同じ風景を見ることができた。

f:id:Octoberabbit:20220323205001j:plain

金の間

f:id:Octoberabbit:20220323205147j:plain

 金の間の隣には寝室、銀の間がある。ここで吉田茂は最期を迎えたようだ。

f:id:Octoberabbit:20220323205327j:plain

銀の間

 なお、吉田茂邸の隣にはサンルームがあり、ここは火災でも燃えず当時の姿のままだが、耐震上の問題から入ることはできず、外観保存としている。

f:id:Octoberabbit:20220323205738j:plain

サンルーム

 吉田茂邸を出て、園内を散策する。相模湾に面した小高い丘に、吉田茂銅像がある。この銅像は日米講和条約締結の地、サンフランシスコと首都ワシントンの方角に顔を向けている。

f:id:Octoberabbit:20220325204349j:plain

吉田茂

 丘を降りると七賢堂がある。

f:id:Octoberabbit:20220325204519j:plain

七賢堂

 これは伊藤博文岩倉具視大久保利通三条実美木戸孝允の4人を祀った四賢堂を滄浪閣に建てたもので、伊藤博文の死後、伊藤博文が加えられて五賢堂となった。昭和35年(1960年)に吉田茂邸に五賢堂を移築、2年後に西園寺公望を合祀した。吉田茂の死後、昭和43年(1968年)に佐藤栄作によって吉田茂が合祀され、七賢堂となった。これも火災による焼失を免れた。

 

 吉田茂邸を出て、道路の反対側の大磯城山公園に行く。今日は天気がいいので、展望台に登った。展望台からは富士山や相模湾を望むことができ、今日は天気がよくて本当によかったと思った。

f:id:Octoberabbit:20220323194533j:plain

f:id:Octoberabbit:20220325204927j:plain

 園内の大磯町郷土資料館に向かう。大磯町郷土資料館は北三井家の別邸「城山荘」をモチーフとしている。

f:id:Octoberabbit:20220325205044j:plain

大磯町郷土資料館

 館内は歴史や文化、動植物など様々な展示があった。無料で入館できるので、近くに行く機会があればぜひおすすめしたい。大磯町のことが気に入ったので、「おおいその歴史『大磯町史』11別編ダイジェスト版」を購入してしまった。

 園内の横穴墓群も見た。これは古墳時代後期の横穴墓群である。

f:id:Octoberabbit:20220325205259j:plain

横穴墓群

 ほかにも園内には昭和16年(1941年)頃に建てられた蔵がある。

f:id:Octoberabbit:20220325210217j:plain

 茶室「城山庵」もある。これは旧三井財閥別邸の一部として置かれていた国宝の茶室「如庵」を模した茶室である。時間の都合で今回は行っていないが、機会があれば行ってみたい。

4.二宮駅に向かう

 だいぶ道草してしまったので、現在15時半。小田原まで行くのは無理なので、今日は次の駅、二宮駅で切り上げることにして先に進む。

 大磯城山公園の前の道を西に進む。川を渡り、住宅街のなかの道を進む。足元に「江戸から十七里」と刻まれたプレートがあった。

f:id:Octoberabbit:20220325210526j:plain

 そのプレートから少し進むと「一里塚」という案内板がある。この国府本郷の塚は現存しておらず、案内板があるのみである。

f:id:Octoberabbit:20220325210638j:plain

 その近くに水準点がある。一等水準点第42号だ。角が丸くない水準点標石は初めて見た。

f:id:Octoberabbit:20220325210743j:plain

一等水準点第42号

 国府新宿交差点の歩道に大きな石が6つ置かれ、相模国6社の神社名のプレートが建てられている。これは神揃山で行われる座問答を表現している。

f:id:Octoberabbit:20220325211157j:plain

 国府新宿交差点からしばらく行くと右手側に六所神社の鳥居が見える。

f:id:Octoberabbit:20220325211251j:plain

 六所神社は第十代崇神天皇の頃の創建と伝えられる古社で、相模国の総社である。祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)、素戔嗚命(すさのおのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)である。

 総社とは、国内の神器祭祀を国衙機能としての祭祀に統括執行するために、国内諸神を国衙付近に勧請して一社としたもので、12世紀前半頃までに諸国に成立したものと考えられている。

 毎年5月5日に行われる寒川神社・川勾神社・比々多神社・前鳥神社・平塚八幡宮との合同祭儀は「国府祭(こうのまち)」と呼ばれ、分霊を祀る5社の神輿が神揃山に集まり、「座問答」という神事を行った後、六所神社が加わって京の文化を伝える「鷺の舞」などの古くからの伝統行事が執り行われる。

 今回は先を急ぐため鳥居の前を素通りしてしまったが、機会があれば行ってみたいと思う。

 

 歩いていたら「GOBO」と書かれたマンホールを見つけた。調べたところ和歌山県御坊市のマンホールらしい。大磯町と御坊市姉妹都市なのだろうか?と思ったが、そうではないらしくなぜあるのか謎である。

f:id:Octoberabbit:20220325212010j:plain

御坊市のマンホール

 二宮町カントリーサインを見つけた。やっと二宮町に入った。

f:id:Octoberabbit:20220325212126j:plain

f:id:Octoberabbit:20220325212149j:plain

 二宮町のマンホールは町の木、ツバキと「MY TOWN NINOMIYA」。「わがまち二宮」とでも読んでおこうか。

f:id:Octoberabbit:20220325214811j:plain

 二宮郵便局に「7けたの新郵便番号の記入に、ご協力をお願いします。」と貼られていたが、郵便番号が7けたになったのは平成10年(1998年)のことである。つまり20年以上この貼り紙は貼られている。どうりで色あせているわけだ。私が物心ついた頃には既に郵便番号は7けただった気がする。

f:id:Octoberabbit:20220325215014j:plain

 塩海橋で葛川を越える。「塩海の名残」の標柱があるが、二宮は古くから製塩が盛んで、これに由来する名だという。

f:id:Octoberabbit:20220325215126j:plain

 塩海橋の東詰に水準点がある。一等水準点第42-1号だ。「大切にしましょう水準点」の標柱があるが、石蓋が曲がり、欠けているのが気になる。

f:id:Octoberabbit:20220325215242j:plain

一等水準点第42-1号

 少し進むと守宮神社がある。創建は不明、大国主命を祀っている。

f:id:Octoberabbit:20220325215358j:plain

守宮神社

 二宮駅入口交差点を右折すると二宮駅がある。駅前に伊達時彰徳碑とガラスのうさぎ像がある。

f:id:Octoberabbit:20220325215556j:plain

伊達時彰徳碑

 伊達時は医師として神奈川県の医療の発展に努めるとともに、衆議院議員としても憲政の発展と地方自治の進行のために活動し、二宮駅の開設やその周辺の交通網の整備などを行った人物である。

f:id:Octoberabbit:20220325215713j:plain

ガラスのうさぎ

 ガラスのうさぎとは太平洋戦争の戦争体験記である。作者の父が疎開先の二宮町の空襲で亡くなっていることから、ガラスのうさぎ像が二宮駅前に建てられた。

f:id:Octoberabbit:20220325215839j:plain

二宮駅

 現在16時半。今日の東海道歩きは二宮駅で終了とする。次回こそ、二宮駅から箱根板橋駅まで歩く予定である。

f:id:Octoberabbit:20220325222417p:plain

今回の地図

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

歩いた日:2022年2月27日

【参考文献・参考サイト】

大磯町(2009)「おおいその歴史 『大磯町史』11別編ダイジェスト版」

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川の歴史散歩」山川出版社

風神社(2013)「ホントに歩く東海道 第3集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016)「神奈川の宿場を歩く」神奈川新聞社

神奈川県神社庁

https://www.kanagawa-jinja.or.jp

磯城山公園

http://www.kanagawa-park.or.jp/ooisojoyama/index.html

吉田茂

http://www.town.oiso.kanagawa.jp/oisomuseum/index.html

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

(2022年3月25日最終閲覧)

東海道を歩く 8-1.平塚駅~箱根板橋駅①

 

f:id:Octoberabbit:20220316194250j:plain

 前回、平塚から小田原まで歩くと書いた。結論から言うと、1日で平塚駅から小田原の箱根板橋駅まで歩ききることはできなかった。なぜなら、途中の大磯があまりにも魅力的だったからだ。主に「大磯はいいぞ」といった記事になってしまったが、お付き合いいただきたい。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.平塚の塚

 平塚駅北口を出て、平塚駅前交差点を左折する。

f:id:Octoberabbit:20220316194542j:plain

湘南スターモール

 目の前に商店街がある。湘南スターモールという。この名前の由来は、「湘南ひらつか七夕まつり」のメイン会場になっているからだと思われる。

 しばらく行くと、平塚宿の江戸見附を見つける。

f:id:Octoberabbit:20220316194723j:plain

平塚宿の江戸見附

 平塚宿は平塚駅から離れた場所にあったようだ。資料によると、長さ3.6m、幅1.5m、高さ1.6mの石垣を台状に積んで、頂部を土盛りにし、東海道の両側に、東西に少しずれた形で設置されていたという。

 歩いていくと、平塚宿脇本陣跡、平塚宿高札場の蹟、平塚宿本陣旧跡、平塚宿西組問屋場の蹟を見つける。どれも案内板があるだけだ。

f:id:Octoberabbit:20220316195024j:plain

平塚宿脇本陣

f:id:Octoberabbit:20220316195112j:plain

平塚宿高札場の蹟

f:id:Octoberabbit:20220316195150j:plain

平塚宿本陣旧跡

f:id:Octoberabbit:20220316195243j:plain

平塚宿西組問屋場の蹟

 平塚宿の本陣は、代々加藤七郎兵衛と称し、建物は間口30m、奥行68m、163坪の総欅造りで、東に寄って門と玄関があったという。

 平塚宿西組問屋場の蹟で右折すると要法寺に突き当たる。そこを左折するとすぐ右手側に平塚の塚がある。

f:id:Octoberabbit:20220316200841j:plain

平塚の塚

 ここで天保11年(1840年)に編纂された「新編相模国風土記稿」を見てみよう。そこにこう書いてある。「昔、桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向かう旅をした折、天安元年(857年)2月この地で逝去した。柩はここに埋葬され、墓として塚が築かれた。その塚の上が平らになったので里人はそれを「ひらつか」と呼んできた。」これが「平塚」の地名の由来である。確かに平塚の塚は平らだった。

 ところで高見王の子、高望王は「平」姓を与えられて東国に下り、その子孫が坂東八平氏として栄え、一つの流れは北条氏の始祖につながり、一つの流れは伊勢平氏として清盛の武家政権につながる。このため、平氏の起源にゆかりを持つ場所、古塚であるともいわれている。

 平塚の塚の上には三角点がある。その名も三等三角点「平塚」。そのままである。

f:id:Octoberabbit:20220316201406j:plain

三等三角点「平塚」

 平塚の塚の隣には西仲町公園、その隣には春日神社がある。

f:id:Octoberabbit:20220316201524j:plain

春日神

 春日神社は平塚宿の鎮守である。縁起によれば、建久2年(1191年)、源頼朝が馬入川の橋供養の祈願をし、橋の完成の後創建した神社と伝えられ、その当時は黒部宮といって、今のこの地よりずっと南にあったものの、その後津波で社殿が流されたためここに移ってきたそうだ。

2.高来神社

 来た道を戻り、東海道に戻る。古花水橋交差点を左折し、国道1号に合流する。そこに、平塚宿京方見附がある。

f:id:Octoberabbit:20220316202003j:plain

平塚宿京方見附

 そこには「從是東 東海道平塚宿」と刻まれた石碑がある。古花水橋交差点の辺りが京方見附のあった場所といわれている。その名のとおり、かつては近くを花水川が流れていたというが、高麗山がすぐ目の前にあって、その姿は歌川広重の絵に取り上げられた情景とあまり変わらない。

 平塚宿京方見附の近くに平塚市と大磯町のカントリーサインもある。平塚宿の西の端は、平塚市の西の端でもあったのだ。

f:id:Octoberabbit:20220316202327j:plain

f:id:Octoberabbit:20220316202355j:plain

 ここで大磯町のマンホールを見てみよう。町の木クロマツサザンカ、町の鳥カモメ、そして海が描かれている。

f:id:Octoberabbit:20220316202510j:plain

 そのまま進むと「平成の一里塚」がある。東海道の新しい道しるべとして、歩行者の休憩場所として整備された。ちなみに15番目の一里塚は馬入(前回紹介)、16番目の一里塚は化粧坂なので、この一里塚は江戸時代に整備されたものではない。

f:id:Octoberabbit:20220316202705j:plain

平成の一里塚

 花水橋で花水川を越える。花水川の名前の由来のひとつとして、源頼朝が桜を見に来たが風雨で散っており、結局「花を見ず」としてその名がついたという伝説がある。

f:id:Octoberabbit:20220316204500j:plain

花水川

 そのまま進むと、高来神社がある。

f:id:Octoberabbit:20220316204611j:plain

高来神社

 高来神社の創建は神武天皇朝、神皇産霊神(かみむすびのかみ)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、神功皇后(じんぐうこうごう)、応神天皇が祀られている。伝承では神功皇后三韓征討のこと、竹内宿禰(たけのうちのすくね)が三韓の神を移したのが始まりというが、実際には高句麗からの渡来人高麗若光(こまのじゃっこう)らが大磯に移り住んだときに創建されたと考えられ、7月18日の大祭はそのときの様子をしのばせるという。また、高麗山山上にあった高麗権現社を中心に神仏集合の高麗寺であった。高麗寺は「吾妻鏡」建久3年(1192年)の記事に北条政子の安産祈願寺の一つとしてみえ、鎌倉~江戸初期には20余の僧坊を構えて栄えた。徳川家康の関東入国のときは寺領100石を与えられた。「新編相模国風土記稿」によれば、祭神は社伝では神皇産霊尊(かんむすびのみこと)、応神天皇神功皇后の相殿、箱根山縁起では神功皇后が高麗の神を勧請したものなど諸説あることが記載されている。明治に入って郷社高麗神社となり、明治30年(1897年)に高来神社と改称した。

 今日はいい天気だったので、高麗山に登るハイカーで高来神社は賑わっていた。お参りをすませ、鳥居で一礼して帰ろうとしたとき、おじさんに声をかけられた。「どこから来たの?」から始まり、小田原まで歩いていくと言うと「小田原までは遠いなあ。大磯駅から電車に乗るといいよ。大磯駅前にピザ屋があって、若者はみんなそこに行く。大磯駅前には、澤田美喜さんが建てたエリザベス・サンダース・ホームもあるよ。」などといろいろ教えてくれた。

 高来神社をあとにすると虚空蔵堂を見つけた。

f:id:Octoberabbit:20220316205529j:plain

虚空蔵堂

 ここには虚空蔵と熊野権現を祀ったお堂があり、ここに下馬標が立っていた。大名行列もここで下馬し、高麗寺に最敬礼をして通ったそうだ。

 化粧坂(けわいざか)交差点を右に入り、旧道に入る。すぐそこに、化粧井戸がある。

f:id:Octoberabbit:20220316205736j:plain

化粧井戸

 化粧井戸は虎御前がここの井戸水を汲んで化粧をしたのでその名がついたとされている。

 山下の長者がなかなか子宝に恵まれず、そのため近くの虎池弁財天に願を掛けたところ、女の子が寅の年、寅の日、寅の刻に生まれ、それにちなんで「虎」と名付けられた。虎は大変美しかったので大磯の長者菊鶴の養女となり大磯に住み、そこで曽我十郎祐成と出会い結ばれた。曽我十郎祐成と弟五郎は富士の狩場で父の仇を討つが、捕らえられて殺される。それを知った虎御前こと虎は髪を下ろして兄弟ゆかりの各地を旅し、生地に帰って高麗山北麓に小さな庵「法虎庵」を営んで兄弟の菩提を弔った。

 化粧坂は江戸時代においてはほとんど人家もなく、道の両側に木々が立ち並ぶ並木道だった。しかし、鎌倉時代の大磯の中心はこの化粧坂付近であったといわれ、鎌倉や京都の上洛、下向の道筋には鎌倉武士を相手とする遊女もいて大変賑わったそうだ。

 少し行くと、化粧坂の一里塚がある。ここは案内板があるだけだ。

f:id:Octoberabbit:20220316211411j:plain

化粧坂の一里塚

 ここにも大磯町のマンホールがある。基本のデザインは変わっていないが、「大磯」が「OISO」になっている。

f:id:Octoberabbit:20220316211537j:plain

OISOマンホール

 すぐそこに歌川広重の描いた「東海道五拾三次之内大磯虎ヶ雨」の説明板があった。

f:id:Octoberabbit:20220316211717j:plain

東海道五拾三次之内大磯虎ヶ雨」

 今では穏やかな別荘地のイメージの大磯だが、この絵のなかでは雨が降っている。これは虎御前が曽我兄弟の死を悼んで流した涙が雨になったという故事から梅雨時の雨「虎ヶ雨」を切り取ったらしい。近くには「大磯八景の一 化粧坂乃夜雨 雨の夜は 静けかりけり 化粧坂 松の雫の 音はかりして」と刻まれた歌碑もある。

f:id:Octoberabbit:20220316211950j:plain

3.大磯宿を歩く

 地下道をくぐると、すぐに大磯宿の江戸見附がある。平塚宿の京方見附から大磯宿江戸見附までは27町(約3km)、本当に近かった。

f:id:Octoberabbit:20220316213328j:plain

大磯宿江戸見附

 そのまま進むと国道1号に合流する。大磯駅入口交差点で右折し、大磯駅方面に寄り道する。

 進行方向左側に瀟洒な洋館があった。大磯駅前洋館だ。

f:id:Octoberabbit:20220316213607j:plain

大磯駅前洋館

 大磯駅前洋館は貿易商木下建平が大正元年(1912年)に別荘として建築したもので、平成24年(2012年)には国登録有形文化財に指定された。中に入ろうとすると「本日のランチは満席です」と書かれていた。見たところピザを提供しているようなので、おじさんが言っていたピザ屋はここのことだろう。満席らしいので残念だが今回は見送った。

f:id:Octoberabbit:20220318214817j:plain

エリザベス・サンダース・ホーム

 大磯駅の南西側には澤田美喜記念館がある。おじさんが言っていた澤田美喜さんとはこの人だ。澤田美喜は戦後に孤児院を作った人で、彼女は隠れキリシタンの遺物を蒐集していたので記念館にはそれが展示されている。現在もエリザベス・サンダース・ホームは児童養護施設として運営を続けている。ちなみに、澤田美喜記念館はコロナの影響で閉館していた。

 澤田美喜三菱財閥本家の岩崎久弥の長女に生まれ、外交官と結婚して華やかな海外生活を送っていたが、戦後混乱期の混血児の痛ましい状況を知り、孤児院「エリザベス・サンダース・ホーム」を創った。孤児院名は、設立後最初に寄付してくれた聖公会の信者エリザベス・サンダースにちなみ名づけられた。

 ピザも食べ損ねたことだし、お腹がすいた。大磯駅前のカフェに入り、トーストを食べた。

f:id:Octoberabbit:20220316214237j:plain

 トーストを食べながら、大磯駅を見た。

f:id:Octoberabbit:20220316214336j:plain

大磯駅

 大磯駅の開設は明治20年(1887年)7月、東京新橋から国府津まで開通したときである。大磯駅の現在の駅舎は大正14年(1925年)に建てられた古い駅舎だ。スペイン風のオレンジ瓦が洒落ている。

 東海道に戻る。北組問屋場、小島本陣旧蹟を見つけた。

f:id:Octoberabbit:20220316214604j:plain

北組問屋場

f:id:Octoberabbit:20220316214637j:plain

小島本陣旧蹟

 小島本陣は小島家に残された当時の資料によると、間口は16間3尺1寸(30m)、奥行26間3尺(48m)、本陣建坪は246坪(812㎡)あったと書かれている。

 小島本陣を少し過ぎたところから人が出てきたので、見ると地福寺があった。

f:id:Octoberabbit:20220316220324j:plain

地福寺

 地福寺は京都東寺につながる真言宗の寺院で創建は承和4年(837年)、開基は弘法大師の弟子でもあった杲隣大徳(ごうりんだいとく)で、本尊は不動明王である。境内には島崎藤村の墓がある。

 境内の梅がいい味を出している。

f:id:Octoberabbit:20220316220530j:plain

 尾上本陣跡は、小島本陣同様本陣跡である。

f:id:Octoberabbit:20220316220638j:plain

尾上本陣跡

 大磯照ヶ崎海水浴場と書かれた古い石柱を見つけた。裏には大正4年(1915年)5月に建てられたと刻まれている。

f:id:Octoberabbit:20220316220809j:plain

f:id:Octoberabbit:20220316220832j:plain

 ちなみに照ヶ崎海水浴場は日本最初の海水浴場である。医者の立場から、健康と体力増進のためには海水浴が一番と考えた松本順がこの地を推奨して、明治18年(1885年)に話がまとまったものである。東海道本線の開通で京浜からの日帰り保養客を可能にしたが、海水浴の効用を説き自身大磯の別荘に居住した松本順の貢献は、その後保養地・別荘地として湘南大磯の発展をもたらしたことだった。

 南組問屋場の近くに、新島襄終焉の地がある。

f:id:Octoberabbit:20220316221146j:plain

南組問屋場

f:id:Octoberabbit:20220316221218j:plain

新島襄終焉の地

 新島襄は明治7年(1874年)に同志社大学のもととなる同志社英学校を設立したが、明治23年(1890年)に病気の療養をしていた大磯の百足屋旅館で生涯を閉じた。

 まだまだ大磯の旅は続くが、長くなるので一旦ここで切ろうと思う。

 次回は鴫立庵(しぎたつあん)から始める。

f:id:Octoberabbit:20220316222909p:plain

今回の地図

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

歩いた日:2022年2月27日

 

【参考文献・参考サイト】

大磯町(2009)「おおいその歴史 『大磯町史』11別編ダイジェスト版」

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川の歴史散歩」山川出版社

風神社(2013)「ホントに歩く東海道 第2集」

風神社(2013)「ホントに歩く東海道 第3集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016)「神奈川の宿場を歩く」神奈川新聞社

大磯町 大磯駅前洋館(旧木下家別邸)

http://www.town.oiso.kanagawa.jp/sangyo/keikan/kenzoubutsu/youkan/13662.html

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

(2022年3月16日最終閲覧)

東海道を歩く 7.藤沢本町駅~平塚駅

f:id:Octoberabbit:20220221201350j:plain

 前回は戸塚駅から藤沢本町駅まで歩いた。今回は藤沢本町駅から平塚駅まで歩く。藤沢宿から平塚宿までの間は3.5里、約13.7kmとされている。実際今回歩いたGPSログを確認したら16kmと示していた。これまでで最長距離で、帰りの電車は疲れて寝てしまったほどだった。それでは今回の旅の記録を始める。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

1.おしゃれ地蔵

 藤沢本町駅から今日はスタートする。

f:id:Octoberabbit:20220221201917j:plain

 そのまま伊勢山橋を渡り小田急江ノ島線を越えるとすぐに藤沢宿の京見附がある。

f:id:Octoberabbit:20220221202104j:plain

藤沢宿京見附

 藤沢宿の西の端まで来たということだ。

 そのまま県道43号線を西に進む。「街道や」という店の西側の通りを右側に入る。旧道に入るのだ。

f:id:Octoberabbit:20220221202325j:plain

 旧道は引地橋で県道43号線に合流する。

f:id:Octoberabbit:20220221202438j:plain

 この旧道は特に何もなく、見過ごしてしまっても特に大きな影響はない。

 引地橋で引地川を渡る。

f:id:Octoberabbit:20220221202615j:plain

 そのまま西へ進み、トライアルの西隣に少し変わったお地蔵さんがある。おしゃれ地蔵だ。

f:id:Octoberabbit:20220221202728j:plain

おしゃれ地蔵

 おしゃれ地蔵は「女性の願い事なら何でもかなえてくださり、満願のあかつきにはおしろいを塗ってお礼をする」と伝えられている。このことから「おしゃれ地蔵」と呼ばれるようになったらしい。形態的には地蔵ではなく、双体道祖神ではないか、とも説明板に書かれており、確かにそうだと思った。そして、世の中には変わった信仰もあるものだなあと感じた。

 おしゃれ地蔵の向かい側には寺院がある。養命寺だ。

f:id:Octoberabbit:20220221204402j:plain

養命寺

 養命寺は元亀元年(1570年)創建の寺院で、本尊は木造薬師如来坐像。国の重要文化財に指定されている。この薬師如来は廃絶した「大庭薬師堂」の本尊で、藤沢に勢力を張っていた大庭景義の子、景兼の発願によるものと伝えられている。

 養命寺ではなにやら人で賑わっていた。よく見ると「藤沢七福神めぐり スタンプポイント」と書かれた看板があった。どうやら「藤沢七福神めぐり」のイベント開催中であり、養命寺は布袋のスタンプポイントだったらしい。興味はあるが、このイベントに参加したら東海道は歩けなくなってしまうので参拝だけした。

 そのまま県道43号線を進む。途中立派な水準点を見つけたので写真を撮った。一等水準点37-1だ。

f:id:Octoberabbit:20220221204827j:plain

一等水準点37-1

2.四谷不動

 そのまま県道43号線を進むと四ッ谷交差点で国道1号に合流する。

f:id:Octoberabbit:20220221204959j:plain

 左折してそのまま進む。するとすぐそこに四谷不動がある。

f:id:Octoberabbit:20220221201350j:plain

四谷不動

 四谷不動は東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられていた道標で、大山不動尊の下、正面に「大山道」、両側面に「これより大山みち」とある。江戸時代、四谷辻には多くの茶屋が並び参詣客を誘っていた。現在でも7月1日の大山開きには、辻堂元町の宝珠寺の住職のもと護摩供養が行われている。東海道の大山道の分岐といえば5.保土ヶ谷駅~戸塚駅 後半で紹介した「大山前不動」もある。

octoberabbit.hatenablog.com

 少し行くと、一里塚跡がある。ここはただ案内の柱が立っているだけだ。

f:id:Octoberabbit:20220221214556j:plain

一里塚跡

 また少し行くと、二ツ家稲荷神社がある。

f:id:Octoberabbit:20220221214715j:plain

二ツ家稲荷神社

 ここの庚申塔藤沢市指定重要文化財となっている。

f:id:Octoberabbit:20220221214831j:plain

庚申塔

 説明板によると、ここの庚申塔は寛文10年(1670年)に作られ、基礎部の上に台座を作り、その上部に三猿像を載せる構造となっている。庚申塔については5.保土ヶ谷駅~戸塚駅 前編の「帝釋天王」の庚申塔の部分で説明しているので詳しくはそちらを参照してほしい。

octoberabbit.hatenablog.com

 藤沢市茅ヶ崎市カントリーサインを発見した。

f:id:Octoberabbit:20220221220224j:plain

f:id:Octoberabbit:20220221220256j:plain

 横浜市は入ってから出るのに4回もかかったのに、藤沢市区間は前回入ってもう終了である。なお、茅ヶ崎市区間は今回だけで終了、茅ヶ崎市を横断して平塚市まで行く。

 55kmポストの少し前に、明治天皇御小休所阯があった。

f:id:Octoberabbit:20220221220505j:plain

明治天皇御小休所阯

3.牡丹餅立場跡

 しばらく進むと、牡丹餅立場跡がある。

f:id:Octoberabbit:20220221220653j:plain

牡丹餅立場跡

 ここは宿場と宿場の間に旅人が休んだりする施設、立場の跡である。ここの立場は牡丹餅が名物だったので「牡丹餅立場」と呼ばれるようになった。また、牡丹餅立場には紀伊藩が江戸屋敷と国元を結んだ専用の飛脚中継所、七里役所も設置されていた。徳川御三家尾張藩紀伊藩は江戸屋敷との連絡を藩専属の飛脚によって直接行うことが許され、そのための中継所を七里ごとに置いていた。

 それにしても、このあたりは松並木が立派である。

f:id:Octoberabbit:20220221221019j:plain

 松並木についての説明板があった。

f:id:Octoberabbit:20220221221129j:plain

 茅ヶ崎市内の松並木は幹回り2.2m、推定樹齢400年の松だという。前回紹介した大坂の松並木は第二次世界大戦時に伐採されたり、松くい虫の被害に遭ったりで失われたが、ここの松並木はそのような被害は受けなかったのだろう。

 歩いていたらまた水準点を見つけた。一等水準点38-1だ。立派な標石タイプだ。

f:id:Octoberabbit:20220221222211j:plain

一等水準点38-1

 少し行くと三角点を見つけた。三等三角点「茅ヶ崎」だ。

f:id:Octoberabbit:20220221222336j:plain

三等三角点「茅ヶ崎

 ここの三角点は建設省ロゴマークのマンホールに入っている。建設省マンホール入りの三角点は初めて見た。

4.茅ヶ崎一里塚

 そのまま西へ進む。すると進行方向左側に塚が見える。茅ヶ崎一里塚だ。

f:id:Octoberabbit:20220221222607j:plain

茅ヶ崎一里塚

 茅ヶ崎一里塚は日本橋から14番目の一里塚である。かつては道の両側にあったが、江戸時代から残っている一里塚は片側だけだ。高さ1.5m、直径7~8mの塚に松が植えられている。神奈川の東海道でも一里塚が現存しているものは少なく、品濃坂、箱根畑宿の一里塚とともに貴重なものである。品濃坂の一里塚については5.保土ヶ谷駅~戸塚駅 後半で紹介している。平成22年(2010年)、反対側もポケットパークとして整備され、「平成の一里塚」としてエノキが植えられた。

f:id:Octoberabbit:20220221222932j:plain

平成の一里塚

 足元を見ると茅ヶ崎市のカラーマンホールがあった。

f:id:Octoberabbit:20220221223051j:plain

 このマンホールは相模湾に浮かぶ烏帽子岩とカモメがデザインされている。残念ながら、今回のルートで烏帽子岩が見えるポイントはない。

 このあたりは茅ヶ崎駅近くである。もし疲れたら、ここで離脱してもよい。ちなみに今日の目的地にはまだ着いてないので、まだまだ進む。

 少し歩くとクロマツの切り株を見つけた。

f:id:Octoberabbit:20220221224240j:plain

 これは樹齢200年ほどのクロマツの切り株で、このクロマツは平成21年(2009年)に腐朽のため伐採されたものの、このクロマツの切り株はモニュメントとして残された。

5.第六天神

 少し進むと第六天神社がある。

f:id:Octoberabbit:20220221224459j:plain

第六天神

 創立年代、創立者等は不詳だが、江戸幕府編集の新編相模風土記(天保12年・1841年)には登場しているため、それ以前となる。祭神は淤母陀琉命(おもだるのみこと)と妹阿夜訶志古泥命(いもあやかしこねのみこと)である。

 鳥居をくぐってすぐのところにまた水準点を見つけた。一等水準点39号だ。

f:id:Octoberabbit:20220221224716j:plain

一等水準点39号

 しばらく歩くと鳥井戸橋の上から進行方向左側に富士山が見える。「南湖の左富士」だ。これは、江戸から京に向かうとき、富士山は通常右側に見えるが、ここは道が北を向いているため富士山が左側に見える。これが珍しいということで、江戸時代名所になっていた。

f:id:Octoberabbit:20220226131456j:plain

南湖の左富士

 

 その近くに鶴嶺八幡宮の鳥居が見える。

f:id:Octoberabbit:20220221224821j:plain

 ここをくぐってすぐに神社があるならともかく、1kmくらい先なので今日はパスした。

 少し先に、神明神社がある。

f:id:Octoberabbit:20220221224946j:plain

神明神社

 この神社は寛正年間(1460~1466年)創立と伝えられるが詳細は不明である。祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)と大山咋命(おおやまくいのかみ)である。

6.旧相模川橋脚

少し行くと、「東海道の名物まんじゅう でかまん」という看板がある。

f:id:Octoberabbit:20220226132251j:plain

 「東海道の名物」という言葉にそそられて、思わず買ってしまった。

 でかまんから少し行くと、「史跡 旧相模川橋脚」という看板があったので寄ってみた。

f:id:Octoberabbit:20220226132440j:plain

相模川橋脚

 旧相模川橋脚は大正12年(1923年)の関東大震災とその余震によって水田に橋杭が出現した全国的にも稀な遺跡である。これは建久9年(1198年)に源頼朝重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、大正15年(1926年)に国の史跡に指定された。この考証の根拠としては「吾妻鏡」の建暦2年(1212年)2月28日条に「相模川の橋がしばらくの間壊れていたので源実朝が修理を命じた。その橋は建久9年(1198年)源頼朝の家臣稲毛重成が亡妻の追善供養のために相模川に橋を架けた。源頼朝が橋の落成式の帰路に落馬し、それが原因で没した。」と書かれていることである。鎌倉時代相模川はこのあたりを流れていたが、その後、川筋の変化によって西の方へ移ったため橋脚は700年間土に埋まっていた。橋脚はいずれもヒノキの丸材で、初め姿を現したのは7本だったが、地中に埋もれたものが3本発見され、合わせて10本の橋脚が保存整備されている。当時の橋の幅は少なくとも4間(7m)くらいと推定され、全国でも数少ない大橋だったと考えられている。

 旧相模川橋脚の隣にベンチがあったので腰掛け、でかまんを食べることにした。

f:id:Octoberabbit:20220226133209j:plain

でかまん

 もっと大きなサイズのそれこそ「でかまん」もあったが、食べきれる自信がなかったので一番小さいサイズのでかまんにした。それでも結構ボリュームがあった。

 でかまんを食べたら道祖神に挨拶しながら先に進む。

f:id:Octoberabbit:20220226133349j:plain

 ついに茅ヶ崎市を横断したようだ。茅ヶ崎市平塚市カントリーサインを見つけた。

f:id:Octoberabbit:20220226133458j:plain

f:id:Octoberabbit:20220226133532j:plain

 茅ヶ崎市区間はずっと国道1号を歩いていた。

 カントリーサインの先にはすぐに相模川を渡る馬入橋が架かっていた。馬入橋を渡る。

f:id:Octoberabbit:20220226133701j:plain

 馬入橋は全長563m、橋の上は何もないので余計に長く感じた。

 馬入橋は明治19年(1886年)に架けられたので、それまでは渡船、馬入の渡しによって人々は移動していた。将軍の上洛や朝鮮通信使の来朝のときは川に船を並べこれを繋いでその上に板を並べた「船橋」を架けたことが分かっている。

 馬入橋際にあるホテルサンライフガーデンの敷地内に明治天皇馬入御小休所趾があった。

f:id:Octoberabbit:20220226134032j:plain

明治天皇馬入御小休所趾

 さっきも明治天皇の小休所跡を見つけただけに、明治天皇はよく休みながら進むなあと思ってしまった。

 馬入交差点で国道1号から離れる。そこに馬入一里塚があった。

f:id:Octoberabbit:20220226135755j:plain

馬入一里塚

 ここは日本橋から数えて15番目の一里塚である。立派な塚があった茅ヶ崎の一里塚とは違い、ここは石碑と案内板のみとなっている。

 平塚市のマンホールを発見した。

f:id:Octoberabbit:20220226135924j:plain

 このマンホールは平塚の夏の風物詩「湘南ひらつか七夕まつり」と平塚海岸をはじめとする「湘南の海」をデザインしている。見ているだけでなぜか楽しげになってくるマンホールである。しかし、湘南ひらつか七夕まつりは2020年、2021年ともコロナの関係で中止となっている。

 このままひたすら西へ進む。平塚駅前交差点で左折すると、平塚駅に到着する。

f:id:Octoberabbit:20220226140454j:plain

平塚駅

 16kmのウォーキングで割と疲れた。実は、平塚宿の次の宿場、大磯宿までは27町(約3km)しかない。それでは短い気がするので、次回は箱根板橋駅まで歩くつもりである。平塚宿から小田原宿、4里27町(約19km)。果たして、歩ききれるのか?

f:id:Octoberabbit:20220226144533p:plain

今回の地図①

f:id:Octoberabbit:20220226144608p:plain

今回の地図②

f:id:Octoberabbit:20220226144624p:plain

今回の地図③

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

歩いた日:2022年1月23日

 

【参考文献】

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2011)「神奈川の歴史散歩」 山川出版社

風人社(2013) 「ホントに歩く東海道 第2集」

NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会(2016)「神奈川の宿場を歩く」 神奈川新聞社

高橋真名子(2022)「東海道五十三次いまむかし歩き旅」 河出書房新社

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

(2022/02/26最終閲覧)

茅ヶ崎市 史蹟・天然記念物「旧相模川橋脚」

https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/shiteibunkazai/1006254.html

(2022/02/26最終閲覧)

うさぎの気まぐれ旅行記 大分・宮崎旅行③宮崎編

f:id:Octoberabbit:20220131214519j:plain

 前回は大分市街地を歩いてみた。今回は大分駅から特急で3時間の宮崎市街地を歩いてみようと思う。宮崎市街地は城下町や宿場町などではなく、近代に入ってから造成された都市だが、それもそれで面白みがある都市だった。

 なぜ宮崎に近代になってから都市が造成されたか。その理由としては、宮崎県内には江戸時代、延岡藩高鍋藩、飫肥藩佐土原藩薩摩藩が分立しており、それに加え飛び地が多く中心が決めづらかった。そこで、明治6年(1873年)に美々津県と都城県が統合されたときにその境である上別府村に県庁が置かれたのがはじまりである。上別府村は明治22年(1889年)に宮崎町となり、ここで「宮崎」という自治体名が生まれた。なお、「宮崎」という地名自体は平安時代中期に作られた辞書「倭名類聚抄」にも出てくる地名である。

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

1.官庁街を歩く

 ホテルを出て、宮崎駅に向かう。

f:id:Octoberabbit:20220131214816j:plain

 宮崎駅のコインロッカーに荷物を預けて、出発だ。そこで興味深いものを見つけた。日向夏ポストだ。

f:id:Octoberabbit:20220131214923j:plain

日向夏ポスト

 日向夏は「日向」とつく通り、文政3年(1820年)に宮崎県で発見された果物である。これにちなんだポストを駅前に置くとは、なんとも宮崎らしい。

 宮崎駅交差点を左折し、老松通りを進む。裁判所前交差点を右折し、県庁楠並木通りを進む。県庁楠並木通りは県庁舎の建築時(明治7年(1874年))に造成された。県庁楠並木通りには宮崎地方裁判所宮崎県警察本部がある。このあたりが官庁街なのだろう。それにしても、警察本部はどこの建物も四角い。

f:id:Octoberabbit:20220131215226j:plain

宮崎地方裁判所

f:id:Octoberabbit:20220131215252j:plain

宮崎県警察本部

 「交通安全 宮崎八幡宮」の看板を見つけたので、宮崎八幡宮に寄ってみる。

f:id:Octoberabbit:20220131215403j:plain

宮崎八幡宮

 宮崎八幡宮は永承年中頃(1050年頃)にこのあたりを開拓した海為隆が宇佐八幡大神をここに勧請したのがはじまりである。

 宮崎八幡宮に参拝して、県庁楠並木通りに戻り、次の交差点の右手側にあるのが宮崎県庁だ。

f:id:Octoberabbit:20220131214519j:plain

宮崎県庁

 宮崎県庁舎は昭和7年(1932年)に竣工された、日本で4番目に古い県庁舎である。ゴシック建築の県庁舎は立派である。

 その県庁舎の向かい側に、宮崎市道路元標がある。

f:id:Octoberabbit:20220131220235j:plain

宮崎市道路元標

 道路元標は大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1個ずつ設置されたもので、宮崎県にもいくつか残っている。なお、この道路元標は正面以外、何も刻まれていなかった。

 県庁前交差点を左折し、橘通りを南進する。橘通りは明治20年(1887年)に建設着工された。この地域の中心であった上野町の道路を拡幅することも考えられたようだが、既成市街地の改変は抵抗が大きく、市街地の東側にバイパスするように設けられた。橘通りという名がつけられたのは明治40年(1907年)のことである。

 橘通りにはワシントン椰子が植えられている。これは岩切章太郎の提唱によって1930年代から戦後にかけてフェニックスなどの南国風の並木が風景を観賞する「動く額縁」として市内の通りに植えられていったものである。

f:id:Octoberabbit:20220220215947j:plain

 市役所前交差点の右手側にあるのが、宮崎市役所だ。昭和38年(1963年)竣工である。

f:id:Octoberabbit:20220131220445j:plain

宮崎市役所

2.宮崎の商店街

 橘通りを北進する。片側アーケードの商店街に入ったが、祝日の午前中にしてはシャッターが下りた店が目立つ。車が勢いよく通り過ぎていくので、ロードサイド店舗文化圏なのだろう。

f:id:Octoberabbit:20220131220646j:plain

 橘通2丁目交差点を左折し、恵比寿通りを進む。その後右折して中央通りに入る。中央通りとその南の上野町通りが上野町の南北通りで、この通りは橘通りなどよりはるかに古く、江戸時代からの歴史を持っている。

 「地域猫がいます。ひかないで!」という看板を見つけたので猫がいることを期待したが、残念ながら1匹も見なかった。

f:id:Octoberabbit:20220131220815j:plain

地域猫がいます。ひかないで!

 このあたりは夜の街なのか、クラブなどの看板が目立った。当然夜の街なので、営業していた店はまばらだった。

f:id:Octoberabbit:20220202214920j:plain

 しばらく歩くと右手側に一番街のアーケードが見えた。入ってみよう。

f:id:Octoberabbit:20220202215016j:plain

一番街

 アーケードだから賑わっていることを期待したが、祝日の午前中とは思えないほど閑散としていた。大丈夫なのか、宮崎市

f:id:Octoberabbit:20220202215135j:plain

 橘通りを挟むと若草通に名前を変える。

f:id:Octoberabbit:20220202215335j:plain

若草通

 だが変わったのは名前だけで、閑散とした商店街は相変わらずだった。

f:id:Octoberabbit:20220202215437j:plain

 現在11時半。少しお腹が空いてきたので、昼食にしようと思う。若草通を出て、四季通りを進む。その路地裏を見ると、今までどこにもいなかった人間が行列をなしているではないか。「おぐら」の行列だ。

f:id:Octoberabbit:20220202215626j:plain

 私もこの行列に並んだ。15分くらい待ったら入店できたので、チキン南蛮を注文した。ここはチキン南蛮発祥の店なのだ。そしてチキン南蛮がこちら。

f:id:Octoberabbit:20220202215804j:plain

 甘酢が効いた揚げ鶏に、濃厚なタルタルソースがかかっている。これはうまい。

 この店に貼ってあったチキン南蛮の由来によると、昔、鶏肉は部位ごとではなく、1羽買ってきていた。もも肉はチキンカツにできたが、むね肉は味が薄いのでどうしても余ってしまっていた。そこでむね肉を美味しく食べる方法を考えた。当時のおぐら店主が中華料理好きで、甘酢をかけるアイデアはそこから生まれた。しかし甘酢だけでは物足りなかったので、エビフライにかけていたタルタルソースをつけたことでチキン南蛮が誕生したそうだ。

 おぐらの目の前にある大きなデパートが、宮崎山形屋だ。宮崎山形屋は橘通りと高千穂通りの交差点に位置している。なお、ここには国道220号の0キロポストもある。

f:id:Octoberabbit:20220202220219j:plain

宮崎山形屋

f:id:Octoberabbit:20220220220312j:plain

国道220号0キロポスト

 私は地方都市の百貨店に行くとジューススタンドでジュースを飲むことにしているので、B1Fのジュースハウスさくらんぼで日向夏のジュースを飲んだ。さわやかな酸味で、美味しかった。

f:id:Octoberabbit:20220202220359j:plain

 高千穂通りを東に進むと、宮崎駅前に到着する。

 高千穂通りは若草通りから駅に向かう通り、広島通りのバイパスともいえる位置に大正2年(1913年)、宮崎県再設置30周年※を記念して駅前通りとして造成された。

※宮崎県は明治6年(1873年)に一度設置された後に鹿児島県に合併され(明治9年(1876年))、明治16年(1883年)に再設置された経緯がある

f:id:Octoberabbit:20220202220459j:plain

3.宮崎神宮

 まだ13時半、あと2時間くらい時間がある。スマホで調べたところ、宮崎神宮に行くことができそうなので、行ってみることにした。日豊本線で北に1駅、宮崎神宮駅に到着した。駅の入口が鳥居なのが面白い。

f:id:Octoberabbit:20220202220641j:plain

 駅から西に進むと宮崎神宮に到着するが、せっかくなので正面の鳥居から入ってみることにした。

f:id:Octoberabbit:20220202220742j:plain

 そのまま進むと「宮崎県護国神社」という看板を見つけたので、まずは宮崎県護国神社に参拝する。

f:id:Octoberabbit:20220202220850j:plain

宮崎県護国神社

 護国神社とは国家のために殉難した人の霊を祀るための神社で、1都道府県に1社設置してあることが多い。なお、宮崎県護国神社は戦後の昭和30年(1955年)に創建された。

 宮崎県護国神社に参拝したら、宮崎神宮に参拝する。

f:id:Octoberabbit:20220202221041j:plain

宮崎神宮

 宮崎神宮神武天皇の孫、健磐龍命(たけいわたつのみこと)が九州の長官に就任したとき、祖父の遺徳をたたえるために鎮祭したのが始まりと伝えられている。その創建年代は不明である。

 宮崎神宮に参拝した後、境内に博物館があると見たので行こうとしたところ、今から見たのでは到底間に合わないと判断してやめることにした。

f:id:Octoberabbit:20220202221252j:plain

 本当に面白そうな博物館で行けなかったことが悔やまれるので、次回宮崎に行く機会があればぜひ行きたいと思った。

4.東京に帰る

 そろそろ時間なので、宮崎神宮駅から電車に乗る。宮崎駅で荷物を取ってから、特急にちりんで宮崎空港駅に向かう。ちなみに宮崎駅から宮崎空港駅までの間は乗車券だけで特急に乗ることができる。

f:id:Octoberabbit:20220202221505j:plain

 さあ、楽しい旅行もこれで終わり。次の日は仕事なので、東京に戻ることにする。

f:id:Octoberabbit:20220202221600j:plain

 名残惜しい気持ちを、空港で買ったチキン南蛮弁当と日向夏のチューハイで流し込む。

f:id:Octoberabbit:20220202221700j:plain

 次はいつ旅行に行けるだろうか。

f:id:Octoberabbit:20220220222004p:plain

今回の地図①

f:id:Octoberabbit:20220220222018p:plain

今回の地図②

歩いた日:2022年1月10日

 

【参考文献・参考サイト】

西村幸夫(2018) 「県都物語」 有斐閣

宮崎八幡宮 宮崎八幡宮について

https://www.miyazakihachimangu.or.jp/about

宮崎神宮 宮崎神宮の由来

https://miyazakijingu.or.jp/publics/index/18/

(2022年2月2日最終閲覧)