前回は強風のため品川駅から川崎駅まで行く予定を短縮し、大森海岸駅までとした。それから約2週間後、今度こそ川崎駅まで歩くと決心して大森海岸駅へ降り立った。そして実際に川崎駅まで歩くことができたため、これを記録する。
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1.磐井神社
大森海岸駅から南へ少し進むと右側に大きな神社が見える。
磐井神社だ。
磐井神社は三十代敏達天皇二年(573年)8月起源といわれる古い神社である。別名、鈴森八幡宮とも呼ばれたと磐井神社由緒書にある。天正18年(1590年)に徳川家康が関東入国の際に参詣し、元禄2年(1689年)には五代将軍徳川綱吉が幕府の祈願所とし、享保10年(1725年)にも八代将軍徳川吉宗が参詣、代官の伊奈半左衛門に命じて社殿を改修させた。
手水をしようと手水舎を見ると閉鎖されており、かわりにアルコール除菌スプレーが置かれていた。
手を清めるという意味では、アルコール除菌スプレーでもありなのかもしれない。
御朱印をいただいたら、花火が打ちあがっていた。
御朱印は三種類から選べ、そこに「葉月」と書いてあったから、月替わりのイラスト御朱印なのだろう。
2.美原不動尊
少し南に進み、平和島口交差点の次の信号を左に入る。すると美原通りに入る。
美原通りはかつて三原通りと呼ばれた。字名の南原、中原、北原からとって三原、美称して美原になった。
「旧東海道」という石柱もあり、ここが東海道であったことがわかる。
大森本町ミハラ通り北商店街に入ってすぐのところに美原不動尊がある。
真言宗醍醐派の、小さな寺院である。
3.大森の海苔
そしてこのあたりには海苔店が多い。
大森村では以前、海苔の採取をやっていたことの名残だろう。
大森村でいつから海苔の採取を行うようになったかは諸説あるが、浅草永楽屋の「浅草海苔由来記」の説では元禄16年(1703年)の大地震で浅草方面が隆起して海苔が全くとれなくなったところ、翌年の大水で浅草川から流れた楢の小木が根を埋めてそこに海苔が生じたため、以後、この木をまねてひび麁朶を建てて海苔を養殖しだしたのが始まりと伝えている。
海苔は潮の干満があり、豊かな養分を運んでくる川があり、海水と淡水が混じる海でよく育つ。この条件がそろっていた大森村では海苔の栽培が盛んになり、「海苔業税」を幕府に納めたり、徳川将軍家などにも献上される「御前海苔」を作るようになったりした。慶応の頃には日本全国の海苔生産高の73%を大森村が占めたという。
明治維新政府の御用金では5000両という大金を献上したことから、海苔の収入で富裕な村だったことがわかる。海苔養殖場は明治23年(1890年)には30万坪を超え、昭和3年(1928年)には60万坪を超えている。ピークは昭和8年(1933年)で、100万坪近くに達した。明治の後期からは対岸の千葉海岸で胞子をつけて、大森で育成する移植法が取り入れられたり、昭和になると竹ひびが網に改良されたりして海苔栽培はますます発展した。
しかし昭和8年(1933年)以降はしだいに沿岸各地の工業化・宅地化がすすみ、水質は汚染し、埋め立てによる面積の減少などで、海苔生産は漸減傾向を示した。さらに戦争なども重なり、大森の海苔の生産量は著しく低下した。
戦後は一旦復活したものの、東京オリンピック開催のための高速道路建設、埋め立て地の造成、東京国際空港(羽田空港)の拡張などにより、海苔採取場の海面を放棄しなくてはならなかった。昭和34年(1959年)以降、海苔採取場の放棄に関する営業補償の折衝が漁業組合と東京都の間で行われ、昭和37年(1962年)12月に補償金総額330億円で妥協した。そのため、大森の海苔採取は終止符を打つことになり、「大森海苔」の名も消え去ることになった。
しばらく進むと内川橋に行き着く。
内川にかかる橋なので内川橋という名前になっている。
大森警察署前で三原通りは終わる。そこから国道15号方面に信号を渡り、南進していく。久しぶりに見た14キロポストは草に埋もれていた。
4.貴菅神社
しばらく歩くと貴菅神社がある。
正式な社号は「貴舩神社」らしいのだが、昭和に入って「貴菅神社」と呼ばれるようになった。明治42年(1909年)に菅原神社を合祀したことが神社名の変化に関係があるのだろうか。
5.梅屋敷公園
梅屋敷商店街を横目に通り過ぎると梅屋敷公園に到着する。
文政の頃(1818~1829年)に山本久三郎が梅の木などを植えて東海道の休み茶屋を開いたことが起源である。梅花の季節には、江戸の文人墨客・風流人の賞玩するところとなり、杉田や亀戸の梅林とともに江戸近郊の名所といわれた。
ここは東海道の旅人だけでなく、十二代将軍徳川家慶が鷹狩りの休み所としたり、十四代将軍徳川家茂も上洛の際に途中休息として使用したり、大久保利通や伊藤博文など幕末・維新期の要人が国家の大事をここで談じたりした。
文久2年(1862年)10月に、長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞らは横浜異人館の焼き討ちを計画した。梅屋敷でそれを打ち明けられた土佐藩の武市半平太は、暴挙として反対したが、久坂玄瑞らは聞き入れなかった。そこで武市半平太は主君の山内容堂にこれを伝え、さらに山内容堂は長州藩の毛利元徳にこれを知らせた。毛利元徳は高杉晋作らを説得し、どうにか横浜異人館の焼き討ちは実行されずに済んだ。これを「梅屋敷事件」という。
明治以降も、明治天皇や大正天皇の行幸・皇后の行啓などがあり、梅の名所として有名だったが、京浜国道の拡幅や、京浜電車の開通などによる地所の縮小などで、しだいに往時の姿を失っていった。昭和13年(1938年)には東京市の公園に寄付され、一般公開となり、現在は大田区の所有になっている。
園内には句碑が何基か残っている。
戦前には多くの句碑が残っていたが、戦後に姿を消してしまったらしい。探してみたら、3基の句碑を見つけた。
そして梅屋敷公園には復元した里程標があり、「距 日本橋三里十八丁」と刻まれている。
これは梅屋敷の前にあった里程標で、戦後に姿を消したが資料をもとに復元したものである。
15キロポストを超えると、夫婦橋がある。
夫婦橋は、呑川にかかる橋である。
京急蒲田駅を横目に見て、16キロポストを超えると熊野神社に到着する。
境内に祭礼時に力比べをしたと伝えられる力石があった。
6.六郷神社
雑色駅の商店街を横目に見て、17キロポストを超えてしばらく進むと、左手側に立派な神社が現れる。六郷神社だ。
六郷神社の開創にまつわる伝説はいろいろある。八幡太郎義家が奥州征伐のときに八幡宮を祀ったから、源頼義・義家父子が奥州征伐の祈願成就の報賽として建立した、源頼朝が鎌倉を手に入れたとき根拠地だった六郷に鶴岡八幡宮を勧請して建立した、など。どの伝説が正しいのかは定かではない。
徳川家康は江戸入府とともに社領18石を寄進し、六郷橋竣工のおりに祝詞を捧げている。このころには東海道筋の名高い神社となっていたようである。
そして六郷一円の総鎮守とされているだけあって広い神社だった。境内には源頼朝が寄進したとされる手水石や、貞享2年(1685年)に六郷中町の有志が奉納した狛犬(大田区文化財)がある。
7.六郷大橋
東海道に戻って直進すると階段を登ることになる。六郷大橋を渡るのだ。
慶長5年(1600年)7月、徳川家康は酒井左衛門尉忠次を普請奉行として多摩川に六郷大橋を架けた。これは両国大橋や千住大橋とともに江戸の三大橋とうたわれるようになった。この橋の完成は東海道の交通史上、画期的な発展をもたらした。
徳川家康は慶長6年(1601年)6月23日に、六郷神社に新橋竣工に際しての神文を寄せている。そこに「雁歯百余年間、古今まれなる橋なり」とその成果を自負している。
しかし急造の橋だったため、いたみが早く、慶長18年(1613年)には大修理が加えられた。そのとき擬宝珠がとりつけられ、立派なものに改修されたようだ。この架橋に際しては、八幡塚村と川崎宿の間を掘り割り、多摩川の流路を変える大工事だったようだ。
その後、あいつぐ多摩川の氾濫・洪水で毎年のように被害を受け、そのたびに改修が加えられた。寛文2年(1662年)に新たにかけられた橋も、寛文11年(1671年)8月27日から3日間にわたる豪雨で流失、天和3年(1683年)にようやく復旧した。橋の保持・改修には想像以上の費用と労力が費やされていた。貞享5年(1688年)7月21日の大洪水で、上流から流れてきた家屋が六郷大橋に激突し、橋は大破した。これを機会に六郷大橋は廃止となり、渡船による渡し場となった。以後、明治時代に橋を架けられるまで、東海道の名所「六郷の渡し場」として人々に親しまれた。なお、一時的に舟で橋を作ったことはあり(舟橋)、それは徳川吉宗が購入したゾウを運ぶときと、明治天皇の東京行幸のときである。
明治5年(1872年)、橋のない不便さを解消するため、八幡塚村の名手鈴木左内は自力で橋をかけることにし、東京府に架橋の許可を求める願書を提出した。この計画の内容は渡橋者から料金を徴収し、それを架橋費や修繕費に充てようとした有料橋だった。しかし実際の工事費は莫大で、左内一人の力ではまかないきれず、近隣の協賛者から資金援助や投資を得て明治7年(1874年)1月に完成した。しかしこれも毎年の洪水で破損や落橋がつづいたため、「金喰橋」とよばれるほどだった。
明治33年(1900年)に京浜電気鉄道株式会社が六郷大橋を六郷架橋組合から買収し、明治36年(1903年)8月に無料で渡れるようになった。これは明治39年(1906年)に政府に献納され、国有になった。その後もたびたび流されていたが、大正14年(1925年)に国道の整備の一環として近代的なコンクリート橋を完成し、これが今日まで存続している六郷大橋である。
多摩川緑地でスポーツをしている人や多摩川を遠目に見ているうちに、川崎市に入った。日本橋から歩いてついに神奈川県に到着したことになる。
川崎市側の六郷大橋を降りるとすぐに「六郷の渡し」の説明板がある。
8.川崎宿
説明版を読んだら、少し南に進み、高架をくぐるとすぐに川崎宿に到着する。
川崎宿は日本橋から数えて2番目の宿場である。東海道の成立時点では正式な宿場となっていなかったが、品川宿と神奈川宿の間が5里(約20km)と長かったため、元和9年(1623年)に川崎宿が設置された。しかし宝暦11年(1761年)の大火で建物が焼失してしまい、川崎宿に古い建物はあまり残っていない。
川崎宿の設置後は窮状に陥り、一時は宿役人が幕府へ川崎宿の廃止を訴える事態にもなった。そんななか、問屋・名主・田中本陣の当主を兼ねていた田中休愚が幕府に働きかけを行い、六郷の渡しの運営を川崎宿の請負とすることにして、川崎宿の経営を立て直すことに成功した。さらに幕府を論じた「民間省要」を著したことで徳川吉宗にも認められ、幕府に登用された。
民家の前に「田中本陣と田中休愚」という看板がある。
この看板の場所に川崎宿の本陣の一つ、田中本陣があった。本陣なので大名や幕府の役人、勅使などが宿泊したのはもちろんだが、明治時代に明治天皇もここで昼食をとり、休憩した。そして田中休愚はここの運営者だった。
川崎宿の名物といえば奈良茶飯である。これはもともと奈良県の郷土料理だったが、茶飯を気に入った旅人が関東へ持ち帰ったところ発展したようだ。奈良茶飯とは、米と大豆、小豆、栗などの穀物をお茶で炊き込んだごはんである。江戸時代の東海道を取り上げた滑稽本「東海道中膝栗毛」のなかでも川崎宿の万年屋の奈良茶飯が登場している。私も食べてみたいと思ったが、お店が見つからなかったことと、神奈川県の感染状況から外食自粛となったため、今回は食べていない。コロナが収束したら食べに来たいと思った。
東海道かわさき宿交流館を見つけたので寄ってみた。
入ったら学芸員さんがにこやかに挨拶してくれて、「2階と3階が展示スペースなのでご覧くださいね」とパンフレットを渡してくれた。
2階が主に川崎宿の展示、3階が川崎宿外も含めた川崎市の展示となっていた。無料だったが、無料にしては展示内容が充実しており、1時間ほど滞在してしまった。川崎宿に訪れたなら、ぜひおすすめしたい博物館である。
そのまま道なりに進むと砂子交差点に出る。ここから右折すると川崎駅に到着する。
今日の東海道歩きは川崎駅を終点とする。
次回は川崎駅から神奈川駅まで歩くことを予定している。
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歩いた日:2021年8月22日
【参考文献・参考サイト】
風人社(2020) 「ホントに歩く東海道 第1集」
三井住友トラスト不動産 東京都大森・蒲田 海苔養殖発祥の地・大森
https://smtrc.jp/town-archives/city/omori/p07.html
(2021年8月22日最終閲覧)
神社と御朱印 貴菅神社(貴舩神社)
https://jinja.tokyolovers.jp/tokyo/ota/kisugajinja
(2021年8月22日最終閲覧)
川崎市 六郷の渡し跡
https://www.city.kawasaki.jp/miryoku/category/67-1-4-1-5-3-0-0-0-0.html
(2021年8月22日最終閲覧)
https://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/category/94-10-2-6-2-0-0-0-0-0.html
(2021年8月22日最終閲覧)