10月うさぎの部屋

10月うさぎがいろいろ語る部屋

東海道を歩く 2.品川駅~川崎駅 後編

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 前回は強風のため品川駅から川崎駅まで行く予定を短縮し、大森海岸駅までとした。それから約2週間後、今度こそ川崎駅まで歩くと決心して大森海岸駅へ降り立った。そして実際に川崎駅まで歩くことができたため、これを記録する。

 

 

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.磐井神社

 大森海岸駅から南へ少し進むと右側に大きな神社が見える。

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磐井神社

 磐井神社だ。

 磐井神社は三十代敏達天皇二年(573年)8月起源といわれる古い神社である。別名、鈴森八幡宮とも呼ばれたと磐井神社由緒書にある。天正18年(1590年)に徳川家康が関東入国の際に参詣し、元禄2年(1689年)には五代将軍徳川綱吉が幕府の祈願所とし、享保10年(1725年)にも八代将軍徳川吉宗が参詣、代官の伊奈半左衛門に命じて社殿を改修させた。

 手水をしようと手水舎を見ると閉鎖されており、かわりにアルコール除菌スプレーが置かれていた。

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 手を清めるという意味では、アルコール除菌スプレーでもありなのかもしれない。

 

 御朱印をいただいたら、花火が打ちあがっていた。

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 御朱印は三種類から選べ、そこに「葉月」と書いてあったから、月替わりのイラスト御朱印なのだろう。

2.美原不動尊

 少し南に進み、平和島口交差点の次の信号を左に入る。すると美原通りに入る。

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美原通り

 美原通りはかつて三原通りと呼ばれた。字名の南原、中原、北原からとって三原、美称して美原になった。

 「旧東海道」という石柱もあり、ここが東海道であったことがわかる。

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旧東海道

 大森本町ミハラ通り北商店街に入ってすぐのところに美原不動尊がある。

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美原不動尊

 真言宗醍醐派の、小さな寺院である。

3.大森の海苔

 そしてこのあたりには海苔店が多い。

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 大森村では以前、海苔の採取をやっていたことの名残だろう。

 大森村でいつから海苔の採取を行うようになったかは諸説あるが、浅草永楽屋の「浅草海苔由来記」の説では元禄16年(1703年)の大地震で浅草方面が隆起して海苔が全くとれなくなったところ、翌年の大水で浅草川から流れた楢の小木が根を埋めてそこに海苔が生じたため、以後、この木をまねてひび麁朶を建てて海苔を養殖しだしたのが始まりと伝えている。

 海苔は潮の干満があり、豊かな養分を運んでくる川があり、海水と淡水が混じる海でよく育つ。この条件がそろっていた大森村では海苔の栽培が盛んになり、「海苔業税」を幕府に納めたり、徳川将軍家などにも献上される「御前海苔」を作るようになったりした。慶応の頃には日本全国の海苔生産高の73%を大森村が占めたという。

 明治維新政府の御用金では5000両という大金を献上したことから、海苔の収入で富裕な村だったことがわかる。海苔養殖場明治23年(1890年)には30万坪を超え、昭和3年(1928年)には60万坪を超えている。ピークは昭和8年(1933年)で、100万坪近くに達した。明治の後期からは対岸の千葉海岸で胞子をつけて、大森で育成する移植法が取り入れられたり、昭和になると竹ひびが網に改良されたりして海苔栽培はますます発展した。

 しかし昭和8年(1933年)以降はしだいに沿岸各地の工業化・宅地化がすすみ、水質は汚染し、埋め立てによる面積の減少などで、海苔生産は漸減傾向を示した。さらに戦争なども重なり、大森の海苔の生産量は著しく低下した。

 戦後は一旦復活したものの、東京オリンピック開催のための高速道路建設、埋め立て地の造成、東京国際空港(羽田空港)の拡張などにより、海苔採取場の海面を放棄しなくてはならなかった。昭和34年(1959年)以降、海苔採取場の放棄に関する営業補償の折衝が漁業組合と東京都の間で行われ、昭和37年(1962年)12月に補償金総額330億円で妥協した。そのため、大森の海苔採取は終止符を打つことになり、「大森海苔」の名も消え去ることになった。

 

 しばらく進むと内川橋に行き着く。

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内川橋

 内川にかかる橋なので内川橋という名前になっている。

 

 大森警察署前で三原通りは終わる。そこから国道15号方面に信号を渡り、南進していく。久しぶりに見た14キロポストは草に埋もれていた。

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14キロポスト

4.貴菅神社

 しばらく歩くと貴菅神社がある。

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貴菅神社

 正式な社号は「貴舩神社」らしいのだが、昭和に入って「貴菅神社」と呼ばれるようになった。明治42年(1909年)に菅原神社を合祀したことが神社名の変化に関係があるのだろうか。

5.梅屋敷公園

 梅屋敷商店街を横目に通り過ぎると梅屋敷公園に到着する。

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梅屋敷公園

 文政の頃(1818~1829年)に山本久三郎が梅の木などを植えて東海道の休み茶屋を開いたことが起源である。梅花の季節には、江戸の文人墨客・風流人の賞玩するところとなり、杉田や亀戸の梅林とともに江戸近郊の名所といわれた。

 ここは東海道の旅人だけでなく、十二代将軍徳川家慶が鷹狩りの休み所としたり、十四代将軍徳川家茂も上洛の際に途中休息として使用したり、大久保利通伊藤博文など幕末・維新期の要人が国家の大事をここで談じたりした。

 文久2年(1862年)10月に、長州藩高杉晋作久坂玄瑞らは横浜異人館の焼き討ちを計画した。梅屋敷でそれを打ち明けられた土佐藩武市半平太は、暴挙として反対したが、久坂玄瑞らは聞き入れなかった。そこで武市半平太は主君の山内容堂にこれを伝え、さらに山内容堂長州藩毛利元徳にこれを知らせた。毛利元徳高杉晋作らを説得し、どうにか横浜異人館の焼き討ちは実行されずに済んだ。これを「梅屋敷事件」という。

 明治以降も、明治天皇大正天皇行幸・皇后の行啓などがあり、梅の名所として有名だったが、京浜国道の拡幅や、京浜電車の開通などによる地所の縮小などで、しだいに往時の姿を失っていった。昭和13年(1938年)には東京市の公園に寄付され、一般公開となり、現在は大田区の所有になっている。

 園内には句碑が何基か残っている。

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 戦前には多くの句碑が残っていたが、戦後に姿を消してしまったらしい。探してみたら、3基の句碑を見つけた。

 そして梅屋敷公園には復元した里程標があり、「距 日本橋三里十八丁」と刻まれている。

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 これは梅屋敷の前にあった里程標で、戦後に姿を消したが資料をもとに復元したものである。

 

 15キロポストを超えると、夫婦橋がある。

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15キロポスト

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夫婦橋

 夫婦橋は、呑川にかかる橋である。

 

 京急蒲田駅を横目に見て、16キロポストを超えると熊野神社に到着する。

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16キロポスト

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熊野神社

 境内に祭礼時に力比べをしたと伝えられる力石があった。

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力石

6.六郷神社

 雑色駅の商店街を横目に見て、17キロポストを超えてしばらく進むと、左手側に立派な神社が現れる。六郷神社だ。

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17キロポスト

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六郷神社

 六郷神社の開創にまつわる伝説はいろいろある。八幡太郎義家が奥州征伐のときに八幡宮を祀ったから、源頼義・義家父子が奥州征伐の祈願成就の報賽として建立した、源頼朝が鎌倉を手に入れたとき根拠地だった六郷に鶴岡八幡宮を勧請して建立した、など。どの伝説が正しいのかは定かではない。

 徳川家康は江戸入府とともに社領18石を寄進し、六郷橋竣工のおりに祝詞を捧げている。このころには東海道筋の名高い神社となっていたようである。

 そして六郷一円の総鎮守とされているだけあって広い神社だった。境内には源頼朝が寄進したとされる手水石や、貞享2年(1685年)に六郷中町の有志が奉納した狛犬(大田区文化財)がある。

7.六郷大橋

 東海道に戻って直進すると階段を登ることになる。六郷大橋を渡るのだ。

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六郷大橋

 慶長5年(1600年)7月、徳川家康は酒井左衛門尉忠次を普請奉行として多摩川に六郷大橋を架けた。これは両国大橋や千住大橋とともに江戸の三大橋とうたわれるようになった。この橋の完成は東海道の交通史上、画期的な発展をもたらした。

 徳川家康は慶長6年(1601年)6月23日に、六郷神社に新橋竣工に際しての神文を寄せている。そこに「雁歯百余年間、古今まれなる橋なり」とその成果を自負している。

 しかし急造の橋だったため、いたみが早く、慶長18年(1613年)には大修理が加えられた。そのとき擬宝珠がとりつけられ、立派なものに改修されたようだ。この架橋に際しては、八幡塚村と川崎宿の間を掘り割り、多摩川の流路を変える大工事だったようだ。

 その後、あいつぐ多摩川の氾濫・洪水で毎年のように被害を受け、そのたびに改修が加えられた。寛文2年(1662年)に新たにかけられた橋も、寛文11年(1671年)8月27日から3日間にわたる豪雨で流失、天和3年(1683年)にようやく復旧した。橋の保持・改修には想像以上の費用と労力が費やされていた。貞享5年(1688年)7月21日の大洪水で、上流から流れてきた家屋が六郷大橋に激突し、橋は大破した。これを機会に六郷大橋は廃止となり、渡船による渡し場となった。以後、明治時代に橋を架けられるまで、東海道の名所「六郷の渡し場」として人々に親しまれた。なお、一時的に舟で橋を作ったことはあり(舟橋)、それは徳川吉宗が購入したゾウを運ぶときと、明治天皇の東京行幸のときである。

 明治5年(1872年)、橋のない不便さを解消するため、八幡塚村の名手鈴木左内は自力で橋をかけることにし、東京府に架橋の許可を求める願書を提出した。この計画の内容は渡橋者から料金を徴収し、それを架橋費や修繕費に充てようとした有料橋だった。しかし実際の工事費は莫大で、左内一人の力ではまかないきれず、近隣の協賛者から資金援助や投資を得て明治7年(1874年)1月に完成した。しかしこれも毎年の洪水で破損や落橋がつづいたため、「金喰橋」とよばれるほどだった。

 明治33年(1900年)に京浜電気鉄道株式会社が六郷大橋を六郷架橋組合から買収し、明治36年(1903年)8月に無料で渡れるようになった。これは明治39年(1906年)に政府に献納され、国有になった。その後もたびたび流されていたが、大正14年(1925年)に国道の整備の一環として近代的なコンクリート橋を完成し、これが今日まで存続している六郷大橋である。

 多摩川緑地でスポーツをしている人や多摩川を遠目に見ているうちに、川崎市に入った。日本橋から歩いてついに神奈川県に到着したことになる。

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 川崎市側の六郷大橋を降りるとすぐに「六郷の渡し」の説明板がある。

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8.川崎宿

 説明版を読んだら、少し南に進み、高架をくぐるとすぐに川崎宿に到着する。

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 川崎宿日本橋から数えて2番目の宿場である。東海道の成立時点では正式な宿場となっていなかったが、品川宿神奈川宿の間が5里(約20km)と長かったため、元和9年(1623年)に川崎宿が設置された。しかし宝暦11年(1761年)の大火で建物が焼失してしまい、川崎宿に古い建物はあまり残っていない。

 川崎宿の設置後は窮状に陥り、一時は宿役人が幕府へ川崎宿の廃止を訴える事態にもなった。そんななか、問屋・名主・田中本陣の当主を兼ねていた田中休愚が幕府に働きかけを行い、六郷の渡しの運営を川崎宿の請負とすることにして、川崎宿の経営を立て直すことに成功した。さらに幕府を論じた「民間省要」を著したことで徳川吉宗にも認められ、幕府に登用された。

 民家の前に「田中本陣と田中休愚」という看板がある。

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田中本陣と田中休愚

 この看板の場所に川崎宿の本陣の一つ、田中本陣があった。本陣なので大名や幕府の役人、勅使などが宿泊したのはもちろんだが、明治時代に明治天皇もここで昼食をとり、休憩した。そして田中休愚はここの運営者だった。

 

 川崎宿の名物といえば奈良茶飯である。これはもともと奈良県の郷土料理だったが、茶飯を気に入った旅人が関東へ持ち帰ったところ発展したようだ。奈良茶飯とは、米と大豆、小豆、栗などの穀物をお茶で炊き込んだごはんである。江戸時代の東海道を取り上げた滑稽本東海道中膝栗毛」のなかでも川崎宿の万年屋の奈良茶飯が登場している。私も食べてみたいと思ったが、お店が見つからなかったことと、神奈川県の感染状況から外食自粛となったため、今回は食べていない。コロナが収束したら食べに来たいと思った。

 

 東海道かわさき宿交流館を見つけたので寄ってみた。

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東海道かわさき宿交流館

 入ったら学芸員さんがにこやかに挨拶してくれて、「2階と3階が展示スペースなのでご覧くださいね」とパンフレットを渡してくれた。

 2階が主に川崎宿の展示、3階が川崎宿外も含めた川崎市の展示となっていた。無料だったが、無料にしては展示内容が充実しており、1時間ほど滞在してしまった。川崎宿に訪れたなら、ぜひおすすめしたい博物館である。

 そのまま道なりに進むと砂子交差点に出る。ここから右折すると川崎駅に到着する。

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川崎駅

 今日の東海道歩きは川崎駅を終点とする。

 次回は川崎駅から神奈川駅まで歩くことを予定している。

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今回の地図

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今回の地図

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歩いた日:2021年8月22日

 

【参考文献・参考サイト】

風人社(2020) 「ホントに歩く東海道 第1集」

新倉善之(1978) 「大田区の歴史」名著出版

三井住友トラスト不動産 東京都大森・蒲田 海苔養殖発祥の地・大森

https://smtrc.jp/town-archives/city/omori/p07.html

(2021年8月22日最終閲覧)

神社と御朱印 貴菅神社(貴舩神社)

https://jinja.tokyolovers.jp/tokyo/ota/kisugajinja

(2021年8月22日最終閲覧)

川崎市 六郷の渡し跡

https://www.city.kawasaki.jp/miryoku/category/67-1-4-1-5-3-0-0-0-0.html

(2021年8月22日最終閲覧)

川崎市川崎区 川崎宿とは

https://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/category/94-10-2-6-2-0-0-0-0-0.html

(2021年8月22日最終閲覧)

 

東海道を歩く 2.品川駅~川崎駅 前編

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 前回は日本橋を出発し、品川駅まで歩いた。今回は品川駅を出発し、川崎駅まで歩く予定である。しかし強風のため、途中の大森海岸駅で引き揚げてしまった。今回は品川駅から大森海岸駅まで歩いた記録とする。

 

 

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 前回終了した、品川駅から今回の散策を始める。

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品川駅

1.髙山稲荷神社

 品川駅から少し南進すると見えてくるのが髙山稲荷神社だ。

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髙山稲荷神社

 髙山稲荷神社の創建年代は不明だが、明治元年に現在地へ遷座した。祭神は宇迦之御魂神(うかのみたま)となっている。

 少し進むと、8kmポストが見えてくる。

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8kmポスト

 ここからしばらく国道15号を離れるので、キロポストともお別れとなる。

2.品川宿

 八ツ山交差点を左折し、線路を超えたら交差点を右折する。そのまま歩くと北品川本通り商店街に到着する。ここからが品川宿だ。

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 ここは第一京浜国道の拡幅の際、人家が多いため旧道が残され、震災・戦災も受けなかったため、古いたたずまいが今でも残る街である。

 品川宿とは、東海道日本橋を出て最初の宿駅である。宿駅指定は慶長6年(1601年)とされている。江戸に最も近い宿場だったため、江戸の玄関口として、宿駅というよりは社交の場として賑わっていた。品川宿は長期旅行者の宿泊所というよりは、江戸の人が近郷の神社・仏閣へ参詣に出かけたりした帰りに遅くなって休泊する利用者が多かった。そして品川御殿山の桜、袖ヶ浦の汐干狩り、海妟寺の紅葉狩りなどで、江戸市民が季節ごとに訪れた。

 日本橋から二里(約8km)で、最も江戸に近い宿場だったため、この宿場では飯盛女(めしもりおんな。娼婦のこと。)が特別に許可されていた。そのため多くの旅籠屋は、貸座敷として旅人を宿泊させるだけでなく、江戸の人々にとって手近な遊興の場所にもなっていた。経済的に余裕が出てきた江戸市民の手頃な行楽地として、品川宿は発展したのである。

 そして品川宿は芝高輪町から大井村までの間、南北約2kmにわたり続く、海沿いの細長い宿場町だった。そのため、しばらく品川宿の話になる。

3.問答河岸跡

 少し進むと、「問答河岸跡」と書かれた石碑を見つける。

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問答河岸跡

 これは、徳川家光と東海寺の住職、沢庵のやりとりが行われた場所である。そのやりとりとは以下の通りである。

 徳川家光が「海が近いのになぜ東海寺という名前なのか?」と沢庵に質問した。東海寺(とうかいじ)は遠海寺(とうかいじ)と音が同じだからだろう。

 そこで、沢庵は「大軍を率いた将軍でも、将軍と言うでしょう?」と答えた。これも、将軍(しょうぐん)と小軍(しょうぐん)が同じ音だからである。

 要は、駄洒落のやり取りである。

4.土蔵相模跡

 少し進むと、「土蔵相模跡」と書かれた石碑を見つける。

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土蔵相模跡

 これはかつてあった食売旅籠屋(めしうりはたごや)「相模屋」の俗称で、奥座敷が土蔵造りになっていたことから「土蔵相模屋」と呼ばれた。桜田門外の変での水戸浪士やイギリス公使館焼き討ちでの高杉晋作伊藤俊輔(のちの伊藤博文)ら長州藩士の集合場所として使用された。昭和54年(1979年)発行の「品川区の歴史」には「二階の柱に幕末期につけられた刀きずという跡が残っている」と書かれているが、現在も残っているかは不明である。

5.街道松

 品川宿には街道松が多く植えられている。

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袋井宿の街道松

 街道松とは東海道のほかの宿場との兄弟松で、袋井宿、藤沢宿、坂下宿、土山宿、枚方宿、浜松宿、三島宿、亀山宿の街道松が植えられている。街道松の分布は以下の通りである。

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街道松の分布

6.品海公園

 しばらく進むと品海公園に到着する。

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品海公園

 品海公園にある石垣石は、かつて品川宿の街道筋の土留めと目黒川の護岸を兼ねた石垣として組まれており、組まれた時期は幕末から明治時代と言われている。

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品海公園の石垣石

7.養願寺・一心寺

 しばらく進むと虚空蔵横町と書かれた札を見つける。

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虚空蔵横町

 東海道北品川本宿から養願寺への横町を通称「虚空蔵横町」というらしい。これは養願寺境内の虚空蔵堂が「品川の虚空蔵さま」として親しまれたのに起源する。そのまま右に折れて養願寺へ寄ってみる。

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養願寺

 養願寺は正安元年(1299年)に創建された天台宗の寺院である。このあたりを七福神巡りとする、「東海七福神」では布袋尊の札所になっている。

 養願寺の向かい側には一心寺がある。

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一心寺

 一心寺は安政2年(1855年)創建の真言宗の寺院である。こちらも「東海七福神」の札所で、寿老人が祀られている。

8.聖蹟公園

 しばらく進むと聖蹟公園に到着する。

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聖蹟公園

 ここは品川宿本陣の跡で、江戸時代、東海道を行き来する諸大名や公家・門跡などの宿泊・休息所として賑わった。明治元年(1868年)に明治天皇行幸の際の行在所になったことにちなみ、聖蹟公園と名付けられた。

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9.品川宿交流館

 聖蹟公園交差点を超えて南進すると、品川宿交流館に到着する。

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品川宿交流館

 少し寄り道してみる。

 品川宿交流館は「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」が管理・運営する施設で、1階は貸しギャラリー、2階に品川宿の展示、3階と4階は品川区民の多目的スペースとなっている。2階に品川宿の展示があったので少し見せていただいた。

 品川宿交流館をあとにして南に進むと、すぐ橋がある。これは品川橋だ。

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品川橋

 品川橋とは目黒川にかかる橋で、ここが北品川と南品川の境界である。

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 しばらく進むと青物横丁商店街に入っていた。

10.品川寺

 しばらく南に進むと右手側に品川寺(ほんせんじ)がある。

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品川寺

 品川寺とは大同年間(806~810年)に創立された寺院で、本尊は観世音菩薩となっている。この本尊は太田道灌が持ってきたものと伝えられている。ここも「東海七福神」の札所で、毘沙門天が祀られている。

 江戸六地蔵の第一番目にあたる銅像地蔵尊も祀られており、これは武蔵坊正元が勧進して建立したもので、東京都指定文化財である。

 御朱印をいただいた折に、寺の人といろいろ話をした。そこで印象に残っているのは「鈴ヶ森刑場跡には気を付けたほうがいい。あなたは若いから回り道をしてほしいくらいだ。あそこで霊に憑かれる人もいるから。」と言われたことだった。少しぞっとしたから、鈴ヶ森刑場跡は足早に通り過ぎることを決めた。

11.青雲稲荷神社

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鮫洲商店街

 このあたりは鮫洲商店街である。鮫洲とは、建長3年(1251年)頃、品川の海上で大鮫の死体を漁師がとりあげ、腹をさいたところ、正観音の木造が出現したことから生まれた地名とされている。現在は鮫洲といえば免許試験場を連想する人が多い。

 商店街と書かれているが住宅街が続いている。つまり、書くネタがない。そのとき、「青雲稲荷神社」の看板を見つけた。

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青雲稲荷神社

 この看板の位置で右折し、突き当たりを右折する。看板からすぐにあるのかと思ったら案外遠く、これ以上遠かったら諦めようと思った頃に到着した。

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青雲稲荷神社

 小さな、稲荷神社である。

12.鮫洲八幡神社

 青雲稲荷神社に参拝してから東海道へ戻り、南へ進むとすぐに鮫洲八幡神社があった。

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鮫洲八幡神社

 鮫洲八幡神社はかつての御林漁師町の鎮守である。「江戸砂子」に「鮫洲明神さみずの海辺にあり。今砂水と書く。むかし此浜へ丈余の鮫あがる。漁夫どもこれを殺してけり。その折ふし此辺疫病大にはやる。かの鮫のたたり也とて、鮫の頭を神にまつりて鮫頭明神というと也。」と記してある。

 鮫洲八幡神社に頭を祀られた鮫は、先ほどの正観音像の出てきた鮫と同じ個体なのかはわからない。

13.立会川の坂本龍馬

 閑静な住宅街を歩いていると、小さな稲荷神社を見つけたので参拝しようと思った。仲町稲荷神社だ。

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仲町稲荷神社

 そして、仲町稲荷神社から周りを見たら銅像があるのが目に入った。近づいて確認したら、坂本龍馬銅像だった。

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立会川の坂本龍馬

 なぜこんなところに坂本龍馬がいるのか?と思ってしまった。桂浜にいるならともかく、ここは品川だ。近くの説明版を見ると、こう解説されていた。

 ペリーが初めて来航したとき、坂本龍馬は江戸で剣術の修行をしていた。ペリー来航後、土佐藩は立会川河口付近にあった下屋敷の警備のため、土佐藩の武士を動員した。そのなかに坂本龍馬もいた。このことから坂本龍馬の幕末が始まったことを記念して、この銅像が作られた。

 威厳に満ちたように見えるが、コロナ禍故にこの銅像にもマスクがつけられており、それがどうしても可愛らしく映ってしまう。

 そしてこのあたりは立会川商店街が東海道と交差している。

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立会川商店街

 久しぶりに人の気配を感じ、つい歩きたくなったが進行方向とは違うので通り過ぎるだけとする。

14.浜川橋

 立会川商店街と交差するとすぐに、立会川にかかる橋を渡ることになる。浜川橋だ。

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浜川橋

 立会川が海にそそぐあたりを浜川と呼ぶことから、浜川橋の名がついた。

 浜川橋は通称、「涙橋」とも呼ばれている。それは、鈴ヶ森刑場で処刑される罪人が馬に乗せられて江戸から鈴ヶ森刑場に護送されるときに、罪人の親族が密かに見送りにきて、ここまで見送ることが許されて涙を流しながら別れたということからそう呼ばれるようになった。

15.天祖諏訪神社

 浜川橋を渡るとすぐに大きな神社がある。天祖諏訪神社だ。

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天祖諏訪神社

 ここはもともと天祖神社諏訪神社という別の神社で、天祖神社は浜川町と元芝の鎮守の神社だったが、昭和40年(1965年)に合祀され、ひとつの神社になった。

16.しながわ区民公園

 しばらく進むと、しながわ区民公園に到着する。

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しながわ区民公園

 しながわ区民公園は勝島運河を埋め立てて造られた区民公園である。入ってみようかと思ったが、地図を見たところあまりに敷地が広大だったため、入口で看板を見るだけとした。

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17.鈴ヶ森刑場跡

 そのまま進むと、鈴ヶ森遺跡が見えてくる。そう、これが鈴ヶ森刑場跡である。

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鈴ヶ森刑場跡

 鈴ヶ森刑場は慶安4年(1651年)に開設された江戸の処刑場である。現在は日蓮宗の大経寺の敷地になっている。近辺の人々は浜川の南、一本松にこの刑場があったので一本松獄門場といっていたが、隣村入新井にある磐井神社の鈴の森と混同し、江戸の方からみた「鈴ヶ森」の総称が定着してしまったようだ。

 処刑に使用されたといわれる台石や首洗いの井戸、様々な供養塔が残る。何か嫌な気配を感じたので、品川寺の人の言葉通り、足早に通り過ぎた。

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大森海岸駅

 ここから川崎駅まではまだまだ距離があるが、この日は午前中天気が悪くスタート時間が遅かったことや、強風でまちあるきがやりづらかったこともあり、隣に大森海岸駅が見えたところで切り上げてしまった。

 次回は、大森海岸駅からスタートする。

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今回の地図

 

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今回の地図

次回記事はこちら↓

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歩いた日:2021年8月9日

【参考文献・参考サイト】

風人社(2020) 「ホントに歩く東海道 第1集」

品川区文化財研究会(1979) 「品川区の歴史」 名著出版

しながわ観光協会 旧東海道品川宿まち歩き

https://shinagawa-kanko.or.jp/recommended_route/kyuutoukaidou/

(2021年8月14日最終閲覧)

しながわ観光協会 一心寺

https://shinagawa-kanko.or.jp/spot/issindera/

(2021年8月14日最終閲覧)

しながわ観光協会 八幡神社

https://shinagawa-kanko.or.jp/spot/samezuhashimanjinja/

(2021年8月14日最終閲覧)

しながわ観光協会 しながわ区民公園

https://shinagawa-kanko.or.jp/spot/shinagawa-kuminpark/

(2021年8月14日最終閲覧)

しながわ観光協会 鈴ヶ森刑場跡・題目供養塔

https://shinagawa-kanko.or.jp/spot/suzukamorikeijouseki/

(2021年8月14日最終閲覧)

北品川商店街 品川宿交流館

http://www.k-shina.com/kouryu.html

(2021年8月14日最終閲覧)

別格本山 品川寺

http://www.evam.ne.jp/honsenji/

(2021年8月14日最終閲覧)

濱川総鎮守 天祖諏訪神社 神社の由緒

http://www.tensosuwa-jinja.jp/history.html

(2021年8月14日最終閲覧)

 

東海道を歩く 1.日本橋~品川駅 後編

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 前回は日本橋を出発し、港区との境目である新橋駅まで歩いた。今回は日本橋を出て初めての宿場である、品川宿まで歩く。しかし現在では駅で境としたほうが交通の便がよいため、品川駅を目指し、そこを今回のまちあるきの終点とする。

前回記事はこちら↓

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 1.日比谷神社

 新橋から南に進むと、左手側に日比谷神社が見えてくる。

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日比谷神社

 日比谷神社の創建は不詳、祓戸四柱大神(はらいどのよつばしらのおおかみ)が祀られている。ここの手水はコロナ対策なのか、センサー式で、私が近づくと龍の口から水が出た。

 しばらく南進する。ここの3kmポストは橋の下にあってわかりづらい。

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3kmポスト

 日が当たって暑いので右側に移動した。しばらく歩くと、右手側に芝大神宮が見えてくる。

2.芝大神宮

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芝大神宮

 芝大神宮は寛弘2年(1005年)に創建され、伊勢神宮の祭神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)と豊受大神(とようけのおおかみ)を祀っている。芝大神宮の例大祭は9月11日から21日にかけて行われるが、祭りが長期間に渡って続くため「だらだら祭り」とも呼ばれている。これは生姜を商うことや千木箱という容器細工を頒布すること、甘酒を接待することなどが独特の風習として知られている祭りである。今年の「だらだら祭り」はコロナのため、神職のみで行われるそうだ。

 参拝し、御朱印をもらったらいろいろなプレゼントをいただいた。

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 下から芝大神宮のパンフレット、御朱印、生姜の飴、道中安寧のお守りだ。道中安寧のお守りは、これから長く続く東海道のたびの道中安寧を祈ってくれたのだと思い、大事に持っておくことにした。そして気になったのが生姜の飴だ。なぜ生姜?と思い調べてみたら芝大神宮が生姜とゆかりの深い神社だということがわかった。昔はこの一帯は生姜畑であり、芝大神宮が鎮座したときも生姜が供えられた。そして「だらだら祭り」でも生姜が盛んに売られた。現在この周辺に生姜畑はない。生姜とのつながりがわかるのは、御朱印をもらったときに生姜の飴がもらえることと、境内に生姜塚があることくらいである。生姜の飴は甘さと生姜の香りが絶妙で美味しかった。

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生姜塚

3.増上寺

 芝大神宮を後にして東海道を南進していくと大門の交差点にぶつかる。このあたりに大きい門があったから大門の地名がついたのだろうか、と考えながらおもむろに進行方向右側を向いたらそこに大きな門があった。増上寺の大門である。

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大門

 東海道の道からは少し外れるが、増上寺に行ってみることにした。

 大門と三解脱門をくぐると、増上寺の境内に入ることができる。そして増上寺を撮ろうとすると、絶妙なアングルで東京タワーが写りこんでくる。

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増上寺と東京タワー

 増上寺は明徳4年(1393年)、酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって開かれた。そして天正18年(1590年)、徳川家康が徳川家の菩提寺として増上寺を選んだことにより、増上寺は繁栄してゆく。徳川家康増上寺を選んだ経緯として、『三縁山志』によると、徳川家康が江戸にやってきたとき、増上寺の門前で馬が動かなくなった。仕方なく徳川家康は下馬し、増上寺門前にいた住職と話してみると、その住職は三河の寺院で修行していたことを知った。そこで徳川家康は自らの出身地と住職の出身地が同じ三河であることや、増上寺の名前が「増し上る」という縁起のよい言葉であったことなどから気に入り、菩提寺にした、と伝えられている。しかしこれは美談であり、江戸に来る前から徳川家康菩提寺を決めていたのではないか、との説もある。

 そして徳川家の菩提寺は2つあり、もう1つは上野の寛永寺である。徳川家将軍の墓所増上寺寛永寺、そして日光の輪王寺の3箇所にある。増上寺には2代将軍秀忠、6代将軍家宣、7代将軍家継、9代将軍家重、12代将軍家慶、14代将軍家茂の墓所がある。なぜこのように分けられているのかは不明だが、親子などの親疎の情や、増上寺寛永寺の勢力関係等が関係しているのではないかと憶測されている。

4.金杉橋

 増上寺に参拝したら東海道に戻る。そのまま進むと金杉橋を渡ることになる。

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金杉橋

 これは古川に架かる橋で、江戸時代は流罪者を運ぶ遠島船の出た橋として知られていた。

 金杉橋の近くに4kmポストがあり、日本橋から品川宿の中間地点であることを知らせてくれる。

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4kmポスト

5.江戸開城西郷南州勝海舟會見之地

 そのまま進むと工事中の壁に「田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)付近沿革案内」が貼ってあることに気がつく。ここに江戸開城西郷南州勝海舟會見之地の碑があったようだが、工事で外されているためにここに貼ってあると考えられる。この地で慶応4年(1868年)西郷隆盛勝海舟が会見し、江戸城無血開城が決定したそうだ。近くに5kmポストがある。

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田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)付近沿革案内

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5kmポスト


 そのまま進むと「札の辻」交差点に行き着く。ここは「札の辻」の名前通り、かつての高札場である。歩道橋を渡って進む。

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札の辻

6.御田八幡神社

 しばらく進むと右側に御田八幡神社が見えてくる。御田八幡神社和銅2年(709年)に創建され、江戸時代に現在地へ遷座した。以来三田・芝・芝浦・高輪の氏神として崇敬されている。現在でも釜鳴神事のような古代的な行事が残っている。

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御田八幡神社

7.高輪大木戸跡

 6kmポストを確認したら、高輪大木戸跡が見えてくる。高輪大木戸は江戸時代中期の宝永7年(1710年)に芝口門にたてられたのが起源である。享保9年(1724年)に現在地に移された。江戸の南の入り口として、夜は閉めて通行止めとし、治安の維持と交通規制の機能を持つ門だった。後に高札場も札の辻から移された。かつては旅人の送迎もここで行われ、たいへん賑やかな場所だったそうだ。現在は自動車が大木戸跡の横を通り過ぎるだけとなっている。

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6kmポスト

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高輪大木戸跡

8.泉岳寺

 そのまま進むと、泉岳寺が右手側に見えてくる。泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚を拝請して徳川家康が創立した寺院である。寛永の大火により現在地に移転となった。境内に忠臣蔵で有名な、赤穂義士の墓地があることで有名である。泉岳寺の前には赤穂義士グッズを取り扱う店もある。

 播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央に斬りつけ、浅野内匠頭切腹となったが吉良上野介はお咎めなしだった。そこで浅野内匠頭の家臣、大石内蔵助良雄以下47人が吉良上野介を討った事件が赤穂事件、これに関わった義士が赤穂義士である。

 赤穂義士の墓地を見てみようとしたが、「供養の精神でお参りください。見学はお断りします。」と書いてあった。時間の問題もあり、今回は引き返すことにした。

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泉岳寺

9.高輪神社

 泉岳寺にお参りしてから東海道に戻る。そのまま南進すると右手側に高輪神社が見えてくる。

 高輪神社の創建は室町中期で3座の祭神を祀っている。

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高輪神社

10.高輪海岸の石垣石

 そのまま進むと高輪二丁目の交差点の脇に石垣が積んであることに気がつく。これは高輪海岸の石垣石である。江戸時代に築かれた高輪海岸の石垣に使われていた石垣で、平成7年(1995年)の発掘調査で出土したものらしい。江戸時代は高輪大木戸から品川宿までの間は石垣の海岸だったそうだ。

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高輪海岸の石垣石

11.品川駅

 7kmポストを確認したら、もうすぐ品川駅である。本来は品川宿をゴールにしたほうがよいのかもしれないが、鉄道の便を考えて今回のゴールは品川駅とする。ロータリーに品川駅創業記念碑があるが、表面は入れないので確認できず、裏側の鉄道創業時の時刻表と運賃だけ確認した。

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7kmポスト

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品川駅

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品川駅創業記念碑

 今回の東海道巡りはここまでとする。次回は品川駅からスタートする。

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今回の地図

次回記事はこちら↓

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歩いた日:2021年7月17日

【参考文献・参考サイト】

風人社(2020) 「ホントに歩く東海道 第1集」

俵元昭(1979) 「港区の歴史」名著出版

東京都神社庁 日比谷神社
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/minato/3034/
(2021年7月17日最終閲覧)
芝大神宮ホームページ 御由緒
http://www.shibadaijingu.com/html/goyuisyo.html
(2021年7月17日最終閲覧)
神社検定 参拝後のお楽しみ「諸国味詣で」 第9回 東京・芝大神宮の「生姜」
https://www.jinjakentei.jp/column/column_000024.html
(2021年7月17日最終閲覧)
増上寺 歴史
https://www.zojoji.or.jp/info/history.html
(2021年7月17日最終閲覧)
御田八幡神社
https://mitahachiman.net/
(2021年7月17日最終閲覧)
泉岳寺 泉岳寺について
https://sengakuji.or.jp/about_sengakuji/
(2021年7月17日最終閲覧)
東京都神社庁 高輪神社
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/minato/3021/
(2021年7月17日最終閲覧)

東海道を歩く 1.日本橋~品川駅 前編

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 私はモノを書くのが好きで、今までも「標高7mを歩く―谷根千編―」や「几号点を歩く」などを発表してきたが(それぞれ月刊地理2020年2月号、地理交流広場第2号掲載)、継続して書く場がなかった。もっとモノ書きとしてスキルアップしたい。そんなことを考えていたとき、東海道を歩くことを思いついた。もう使い古されたネタだとは思うが、一度東海道を自分の足で歩いてみたかった。そこで今回の企画を思いついた。月1回、それぞれの宿場の間を歩き、それを記録してみたいと思う。京都まで辿り着ければ、何か変わるかもしれないと信じて。

1.日本橋

 東京駅、八重洲中央口を出て、北に向かう。呉服橋交差点を右折して進み、日本橋交差点を左折する。すると正面に立派な橋が見えてくる。日本橋だ。

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日本橋

 日本橋日本橋川にかかる橋で、初めて架けられたのは慶長8年(1603年)のことである。徳川家康江戸城の東の海を埋め立て、浅瀬に日本橋を架けた。その後、平川を東へ延ばして日本橋川を造った。普通、川があって通行に困るから橋を架けるものだと思うのだが、ここでは橋を架けた後に川を造っているのだ。

 そして日本橋五街道の起点で、これは慶長9年(1604年)に定められた。この五街道とは、東海道中山道奥州街道日光街道甲州街道である。

 現在かかっている日本橋明治44年(1911年)に架けられたルネサンス様式の石造二連アーチ橋である。

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日本橋

鋳銅製のキリン像、ライオン像もある。橋銘を書いたのは第15代将軍徳川慶喜である。

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 この日本橋関東大震災や太平洋戦争の空襲にも耐えた代物である。しかし昭和38年(1963年)に首都高速道路日本橋の上をまたいで走るようになってから、日本橋の印象が薄くなってしまったのは悲しい限りである。

 日本橋の橋名の由来は、『御府内備考』にこう書かれている。

「この橋、江戸の中央にして、諸国への行程もここより定めらるるゆえ、日本橋の名ありといふ。」

 理念としては日本橋を日本の中心として、すべての道を日本橋から発達させようとしたことに違いない。

 しかし、日本橋が諸街道の起点になったとはいえ、橋の中央が原点と決められたのは明治6年(1873年)に「東京は日本橋、京都は三条橋の中央をもって、国内諸街道の元標となす」と定められてからである。それまでは「日本橋より何里」と道標に書かれていても、橋のどこから測るということではなく、大雑把に距離を示しているにすぎなかった。

 そして、日本橋の橋の中央には日本国道路元標がある。その真上には道路元標地点と書かれた柱があり、これは首都高速都心環状線から見えるようになっている。橋の中央の日本国道路元標を直接見るのは、車に轢かれるおそれがあり大変危険なのでやめたほうがよい。

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日本国道路元標と道路元標地点

 橋の北詰に元標の広場がある。ここには日本国道路元標の複製品と、東京市道路元標の柱がある。

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日本国道路元標複製

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東京市道路元標

 日本橋に道路元標が置かれたのは明治5年(1872年)のことである。東京市道路元標はかつて橋の中央にあったが、都電の廃止とともに移転された。

 東京市道路元標の足元には里程標があり、そこに国内諸都市までの距離が粁(キロメートル)で刻まれている。近い都市では横浜市千葉市から、遠い都市では札幌市や鹿児島市まで刻まれている。那覇市が入っていないのは当時まだ沖縄が日本に返還されていなかったからなのかもしれない。

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 また、五輪も置いてあった。普段は置いてないので、東京オリンピックが近いから特別に置いてあったのだろう。(ちなみに訪れたのは2021年7月17日である)

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 日本橋東海道を巡る覚悟を固めたところで、国道15号に沿って南進していく。

2.ヤン・ヨーステンの碑

 日本橋界隈はデパートが多い。これは江戸時代の呉服屋が百貨店となり、それがデパートになったからである。「ホントに歩く東海道 第1集」には髙島屋、松屋三越松坂屋があると書いてある。髙島屋と三越は確認できたが、松屋松坂屋は確認できなかった。デパートの吸収合併や閉店の波は日本橋にまで来ているのかもしれない。

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髙島屋

 日本橋三丁目の交差点の中央分離帯ヤン・ヨーステンの碑がある。

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ヤン・ヨーステンの碑

 ヤン・ヨーステンはオランダ人の航海士である。ヨーステンは慶長5年(1600年)、ウイリアム・アダムスらと豊後(現在の大分県)に漂着し、そのまま日本に留まることにした。徳川家康の信任を得たヨーステンは、家康に対して外交や貿易について進言する役目に就いた。ヨーステンの江戸屋敷は現在の和田倉門の内堀の沿岸に与えられた。その場所はヤン・ヨーステンの名前をとって「八代洲河岸(やよすがし)」と呼ばれるようになった。明治時代に「八重洲(やえす)」と改められた。「八重洲」の由来が外国から来た人だったとは知らなかった。

3.京橋

 少し南に進むと国道15号の1kmポストを見つける。

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1kmポスト

日本橋から1km進んだのかと思いを馳せる。まだ1kmしか進んでいないのだが。

 そのまま進むと京橋が見えてくる。

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京橋

 京橋は日本橋と同時期に架けられた橋である。『武江図説』には「京橋 日本橋より八丁南なり。橋長さ十二間、欄干に擬宝珠あり」と書かれている。修復費用を幕府がまかなった橋のうち、擬宝珠で飾られているのは日本橋、京橋、新橋のみである。そしてこの3橋はどれもこの話に登場する。

 しかし、京橋に現在橋はない。もちろん昔は川の上にかけられた橋で、その川の名前は京橋川日本橋川同様、橋の名前が河川名になっている。なお、京橋とは江戸から出て京都に向かう最初の橋という意味である。現在、京橋には擬宝珠がついた親柱と大正に作られたガス灯付きの親柱が残るのみとなっている。

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擬宝珠がついた親柱

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ガス灯付きの親柱

4.銀座

 京橋を過ぎると、街が華やかになる。「銀座」に入ったのだ。

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 銀座は日本有数の繁華街、高級商業地である。「銀座」の名前は一種のブランドとなっており、全国各地にそれにあやかった「○○銀座」が多くある。今でこそ「銀座=高級商業地」であるが、元は銀貨を鋳造していた場所だから「銀座」と呼ばれるようになったのだ。

 慶長17年(1612年)、徳川幕府が現在の銀座の地に銀貨幣を鋳造する役所「銀座役所」を設置した。当時の町名は「新両替町」だったが、通称で「銀座町」と呼ばれていた。しかし寛政12年(1800年)に汚職事件が起こったことにより、銀座鋳造所は蛎殻町に移されてしまった。しかし「銀座」の地名だけは残り、明治2年(1869年)に正式に「銀座」が地名となった。この話は銀座2丁目にある「銀座発祥の地」に詳しい。

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銀座発祥の地

 明治2年(1869年)に起こった大火によって銀座の街はほとんど燃えてしまった。そこで政府は文明開化の象徴と防火対策のために「銀座煉瓦街」を造ることにした。しかし建てられた当時は煉瓦が乾ききっていなかったため、商人たちからは不評で寄り付かなかった。そのため見世物業者が集まっていた。煉瓦が乾いて商人たちが戻ってきてから繁華街の様相を見せるようになってきた。

 日本一地価が高いと有名な銀座四丁目交差点の和光を見ながら、銀座の街を南に進んでいく。銀座6丁目に2kmポストを確認したら、新橋が進行方向に見えてくる。

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和光

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2kmポスト

5.新橋

  新橋は、現在はサラリーマンの街として有名だが、この名称は汐留川に架かっていた橋「新橋」に由来する。新橋と言っても新しい橋ではなく、その名は承応2年(1653年)の『武州古改江戸之図』には既に地名が登場している。最後の改架は大正14年(1925年)で、汐留川が埋め立てられたことにより昭和39年(1964年)に撤去された。日本橋、京橋に続く橋由来の地名である。現在は親柱が残るのみである。

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新橋

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新橋親柱

東海道を歩く 1.日本橋~品川駅 前編」はここまでとする。

東海道を歩く 1.日本橋~品川駅 後編」は新橋からスタートする。

 

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今回の地図

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

歩いた日:2021年7月17日

【参考文献・参考サイト】

風人社(2020) 「ホントに歩く東海道 第1集」

北原進(1979) 「中央区の歴史」 名著出版

東急百貨店東横店に行ってきた

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どうもこんにちは。10月うさぎです。

今日は、2020年3月31日に閉店した東急百貨店東横店に行ってきた話をします。

コロナ流行真っ只中だったので行くか相当迷いましたが、どうしても見たいものがあり、かつ近い日程でこの日くらいしか都合がつかなかったので行ってきました。

なお、可能な限りソーシャルディスタンスを保ちながら行動し、密を避けるため閉店のタイミングの前に帰りました。

 

それでは、よろしくお願いいたします。

 

【目次】

 

1.渋谷駅変遷模型

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2020年3月31日18時半頃、渋谷の東急百貨店東横店に到着しました。

まず向かったのは、「東横デパートの思ひ出展 第2会場『いつもみなさまと一緒に 東横デパートアラカルト』」です。

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1920年の渋谷駅模型

まずこの中で目をひいたのは「渋谷駅変遷模型1/1000」です。これは1920年、1938年、1964年、2012年の4時期にわたり作られています。上の写真は1920年の渋谷の模型です。真ん中にちょこんと渋谷駅があるだけです。

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1938年の渋谷駅模型

こちらは1938年の渋谷の模型です。1934年に開店した東横百貨店(=東急百貨店東横店)が見えます(渋谷駅の東側の建物)。東横線井の頭線が開通し、鉄道路線が目立ってきました。よく見るとロープウェイ「ひばり号」も見えますが、実は1938年の東横百貨店にはひばり号はありません。ロープウェイと建物の状態が同じなので入れ込んだそうです。ひばり号については後述します。

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1964年渋谷駅模型

こちらは1964年の渋谷の模型です。1938年と比べるとだいぶ発展しています。東横百貨店は1954年に西館ができ、規模が拡大しています。そして何より目を引くのが大きな半球状のプラネタリウムを備えた東急文化会館です。これは1956年に完成しました。

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2012年渋谷駅模型

これが最後、2012年の渋谷の模型です。東横百貨店の西側には2000年にマークシティができ、2012年には東急文化会館の跡地にヒカリエができました。

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2012年渋谷駅模型・裏側

これ、地下も再現されているのですが、2012年の模型の地下を見ると地下の開発具合がわかります。これだけ開発されていると迷路のように思えます。実際に、私は未だに渋谷駅の出口を全部把握できていません。

 

2.ひばり号

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ひばり号

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会場に大きなロープウェイの模型がありました。ひばり号です。

ひばり号は1951年に開通した、東横百貨店屋上と旧玉電ビル仮屋上の間に開通したロープウェイです。

一般的なロープウェイは移動手段ですが、これは移動手段ではなく遊戯物なので、東横百貨店屋上で乗ったら旧玉電ビルでは降りられず、そのまま東横百貨店屋上に戻る運行だったようです。この頃は現在と違って高層ビルはなかったので、三軒茶屋の方まで見渡すことができたようです。子どもしか乗れない乗り物だったのが残念ですが…。なお、東横百貨店新館の建設により、1953年頃には姿を消していたとのことです。

 

3.渋谷ジオラマ模型

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今回この展示を見に来た最大の目的が、この渋谷のジオラマ模型です。

私はあまり模型には関心がないのですが、精巧に作りこまれていてすごいと思ってしまいました。

これは都電のターミナルですね。

そして…

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屋上遊園地

東急百貨店東横店の屋上にあった屋上遊園地も再現されています。実はこれが見たかったのです。

「あれ?屋上遊園地あったの?行けばよかったじゃん」という方もいるかもしれませんが、ご多分に漏れずここの屋上遊園地も閉園しています。東急百貨店東横店東館が閉館する2013年3月31日に閉館してしまったようです。ただ閉店ニュースの写真を確認したところ、このジオラマにあるような観覧車やグルグル回る巨大遊具的なものは見当たらないので、これらのものはもっと早くに撤去されてしまったのだと思われます。

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五島プラネタリウム

東急文化会館にあったプラネタリウム(1964年の模型にあった半球状の屋根のある建物)も再現されています。これは2001年まで営業していたようです。ちなみに東急文化会館の完全閉鎖は2003年、現在は取り壊されて跡地にヒカリエが建っています。

ちなみにこの模型は長野県小県郡青木村五島慶太未来創造館に展示されるとのことです。

(4月18日に一般公開開始予定でしたがコロナの影響で延期、公開日は未定です)

 

4.東横デパートの思ひ出展・壁面特設パネル

西館7階の特設会場を後にして、地下1階の東急フードショー渋谷地下街口外にある壁面特設パネルを見に行きます。

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五島慶太東京横浜電鉄の社員に阪急百貨店でデパート経営について学ばせました。その後に東急百貨店を開業したようです。

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現役時代のひばり号

会場には「ひばり号」が動いていた頃の写真があります。確かにこれなら眺めが良さそうだ。

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元祖デパ地下「東横のれん街」

百貨店の地下1階といえば今は食料品、デパ地下となっているのが当たり前になっていますが、元祖デパ地下は東横百貨店の「東横のれん街」みたいです。ここで成功を収めたことにより全国に波及したとか。

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東急百貨店東横店が閉店する理由は渋谷駅周辺の再開発です。

85年間続いた百貨店が閉店してしまうのは寂しいですが、再開発で跡地にどんな建物ができるか、楽しみです。

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ありがとう、東急百貨店。

 

さて、次回予告です。

次回は、2020年2月15日~16日に行ってきた伊豆旅行について書こうと思います。

お楽しみに!

 

次回記事はこちらです↓
octoberabbit.hatenablog.com

 

参考サイト

シブヤ経済新聞/東急東横店・屋上「ちびっ子プレイランド」、東館閉館で営業終了へ
https://www.shibukei.com/headline/9243/
長野県小県郡青木村/五島慶太未来創造館
http://www.vill.aoki.nagano.jp/assoc/see/miraisouzoukan.html

すべて2020年4月28日最終閲覧

 

 

 

四国旅行記高知編⑤商店街を歩こう

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どうもこんにちは。10月うさぎです。

 

今日も高知旅行の続きを書こうと思います。前回は大橋通り、ひろめ市場、高知大神宮を紹介しましたが、今回は帯屋町二丁目商店街を東に進んでみようと思います。

 

これまでの四国旅行記高知編をまだお読みでない方はこちらから読めます↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちらです↓
octoberabbit.hatenablog.com

 

それでは、よろしくお願いいたします。

【目次】

 

1.帯屋町商店街

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帯屋町二丁目商店街

高知大神宮から出て左側に進むと帯屋町二丁目商店街に到着します。

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「帯屋町」

帯屋町という名前は江戸時代初期に豪農の帯屋勘助が住んでいたことに由来します。

1950年頃ここは商店街として使用されていませんでしたが、中央公園が新設されたのをきっかけに多くの商店が集まるようになりました。

しかし郊外店舗の出店による衰退で、2005年に「ダイエーショッパーズプラザ」が撤退してしまいました。

それでも訪れた日は日曜だったからか、多くの人が訪れていました。

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帯屋町一丁目商店街

そのまま直進すると帯屋町一丁目商店街に到着します。

それにしても、関東ではアーケードのある商店街はあまり見ないので、路面電車と同じく旅情をそそられてしまいます。

 

2.中央公園

そして歩いていくと、中央公園に到着します。

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中央公園

中央公園は、高知市の戦災復興計画で造られた公園で、高知市街地のイベントスペースとなっています(現在はコロナの影響か、フリーマーケット献血しか掲載されていませんでしたが…)。

そしてここは北・東・南に緑道が延びており、東と南の緑道はかつての堀川の跡で、北は戦後デザインされたグリーンロードです。

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中央公園・グリーンロード

堀川跡は行っていませんが、グリーンロードは追手筋通り、帯屋町通り双方から見ました。次は歩いてみたいです。

 

3.帯屋町歓楽街

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壱番街商店街

中央公園を過ぎて帯屋町一丁目商店街を進むと壱番街商店街に到着します。ここで、少し左折してみます。

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帯屋町歓楽街

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帯屋町歓楽街

商店街の明るい雰囲気とは打って変わって、一気にディープな雰囲気の街になりました。

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スパイダーマン

こういった街には必ずある無料案内所ですが、スパイダーマンがいるおかげか(?)絶妙に中和されている感じがあります。

 

4.高知大丸

壱番街商店街に戻り、歩いていたら百貨店を見つけました。

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高知大丸

高知大丸です。

高知大丸は1947年に開業した百貨店です。ベネフィットで「高知唯一の百貨店」と謳っており、日本百貨店協会のホームページで検索してみたところ高知県の百貨店はここだけでした(そして山形県にこのリストに掲載された百貨店はなかった…)。

本館地上6階地下1階建て、東館地上5階地下1階建てです。

ここには屋上遊園地はないので上には上がらず地下に行きましょう。

ちなみに屋上遊園地は2010年9月30日をもって閉店したそうです。検索して画像を見たところ結構大きな屋上遊園地だったみたいで、残念でなりません。まあ当時中学2年生だったので1人で高知に行けるかと聞かれたら行けないでしょうけど…(両親が許可しないと思う)。

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デパ地下のジュースっておいしいよね

地下のジューススタンドでグリーンスムージーを飲みながら一休み。

飲み終わったら大丸を出て、散策を再開します。

 

5.サンゴの販売店

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壱番街商店街の終点まで来ると、2店舗サンゴのお店があります。高知特産のサンゴの販売店です。

高知の珊瑚産業は、19世紀に土佐湾で宝石珊瑚が発見されたのが始まりです。しかし、江戸時代は土佐藩が珊瑚の所持や販売を禁止し、藩に差し出すお触れを出していたため自由に捕ることはできませんでした。密猟で捕っていた人はいたようですが…。

明治時代になると、宝石珊瑚の本場のイタリアからバイヤーが直接買い付けに来るようになり、世界の珊瑚産業の中心地となりました。

…まあ、お土産にサンゴを買っていけるだけのお金は持ち合わせていないので、今回はこれくらいにして先に進みます。

 

6.はりまや橋

壱番街商店街を出て右折し、はりまや橋方面に行きます。

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はりまや橋

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はりまや橋です。日本3大がっかり名所と言われていますが、それは錦帯橋のような大きな橋をイメージしていたら思ったより小さい橋でがっかりした、という誇大なイメージがついていたからなのか、はりまや橋が有名になったきっかけ(後述)を知らないからよくわからずがっかりするのかはわかりません。

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堀川

はりまや橋は小さな水路を渡っていますが、この水路は堀川です。つまり、中央公園から東側の緑道を辿っていくとはりまや橋に着きます。

ここで、はりまや橋について少し書きます。

土佐藩の時代に、豪商の播磨屋と富商の櫃屋が互いの往来のために架けた私橋が後に「はりまや橋」と呼ばれるようになります。 

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はりま家(や)というお土産屋さんがはりまや橋北側にあります。これが当時の播磨屋なのかはわかりません。

はりまや橋は幾度か架け替えられていますが、1958年の南国博覧会のため朱色の欄干が登場しました。

さらに翌年には「南国土佐を後にして」という歌謡曲がヒットしたことで同名の映画が創られ、そこにはりまや橋が映ったことにより全国的に有名な橋となりました。

現在のこの橋は江戸期のはりまや橋として再現したもののようです。

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地理院地図に加筆

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はりまや交差点

また、はりまや橋から南にあるはりまや交差点は、はりまや通りと国道32~493号まで8本の国道が重複する道が交差する場所であり、とさでん交通軌道線の東西線南北線が交差する場所でもあります。

はりまや橋は観光地であり、はりまや交差点は交通の要衝なのです。

この後は、高知駅まで戻ります。

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高知駅

高知駅に到着しました。

高知編、そして四国旅行記はこれで終了となります。

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南風

この後特急と新幹線を乗り継いで東京まで帰りました。

(6時間かかった…長かった…)

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

このブログは前の旅行に遡っていくスタイルなので、その前の旅行だと2月の伊豆旅行…となるのですが、その前に、3月31日に閉店となった東急百貨店東横店についての記事を書こうと思います。お楽しみに!

 

次回記事はこちらです↓
octoberabbit.hatenablog.com

 

【おまけ】

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まだ2020年にオリンピックをやるつもりだった時期の時計

高知から乗り継いで東京駅に着いたとき、「オリンピック中止になるかも?」と思ったので東京駅前に設置してあるオリンピックのカウントダウン時計を撮影しました。3月22日21時25分撮影、表示画面はオリンピック開会式まであと123日22時間34分13秒でした。

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2020年にオリンピックがやらないことが決まった時期の時計

「2020年にオリンピックはやらない」と宣言された後の3月26日18時29分に見たときは、普通の時計となっていました。

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2021年にオリンピックが決まった時期の時計

「2021年にオリンピックをやる」と宣言した後の4月2日18時02分に撮影した時計です。表示画面はオリンピック開会式まであと477日1時間57分17秒、1年後に向けて時を刻んでいました。

今も東京駅前で時を刻んでいるはずですが、果たして東京オリンピックはやるのでしょうか…。

 

参考文献

西村幸夫(2018)『県都物語』 有斐閣.

 

参考サイト

高知県商店街振興組合連合会
https://www.kochi-shotengai.net
高知市/中央公園のイベント予定
https://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/57/chuo.html
高知大丸/会社概要
https://www.kochi-daimaru.co.jp/about/
一般社団法人 日本百貨店協会/百貨店 店舗所在地
https://www.depart.or.jp/depart_address/
開店閉店 9/30【閉店】 高知大丸 屋上遊園地
https://kaiten-heiten.com/daimaruokujo-kouchi/
高知まるごとネット 高知が世界の誇る、海の宝石。土佐珊瑚
http://kochi-marugoto.com/goods/cg8/265/

すべて2020年4月27日最終閲覧

 

四国旅行記高知編④高知のまちへ

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どうもこんにちは。10月うさぎです。

 

今日も高知旅行の続きを書こうと思います。前回は高知県庁・高知市役所周辺について紹介しましたが、今回は高知のまちの方を歩いてみたいと思います。

これまでの四国旅行記高知編をまだ読んでない方はこちらから読めます↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちらです↓
octoberabbit.hatenablog.com

 

それでは、よろしくお願いいたします。

【目次】

 

国道が8本重複している道を東へ向かいます。

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路面電車を見つけました。とさでん交通軌道線東西線です。

路面電車は大学3年生の頃に松山で初めて見たときに驚いたのを覚えています。私は路面電車を見ると「地方都市に来たな」と思い旅情をそそるので、路面電車が好きです。東の方の都市にはあまりないからかもしれません。

1.大橋通り

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大橋通り

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天神橋通り

大橋通駅から北は大橋通り、南は天神橋通りです。

今日はここで大橋通り方面へ向かいます。

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大橋通り

大橋通りは、大橋通り商店街となっています。

大橋通り商店街は近接する壱番街、帯屋町1丁目、帯屋町2丁目の3商店街とともにアーケードがかかる「帯屋町筋商店街」を形成しています。

1918年に開設された公設市場を前進とすることから食品関連の業種が充実しており、古くから「高知市民の台所」として親しまれてきました。

しかし2000年に「イオンモール高知」が出店した影響で、2002年には「高知西武百貨店」、2005年には「ダイエーショッパーズプラザ」、2006年には「高知スーパーバルザ店」が相次いで撤退し、衰退は避けられないとされていました。地方都市にイオンなどの郊外店舗の出店による中心市街地の衰退は、地方都市どこにでもあるのです。徳島そごうの撤退も、中心市街地の衰退がひとつの原因でした。

しかし、イベントの展開や「高知スーパーバルザ店」の跡地に1階がスーパー、上階がマンションの複合型商業施設ができたことで歩行者通行量も増加したようです。この日は日曜日だったので大変賑わっていました。

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ここで歩き疲れたので休憩を取りたいと思い、喫茶店を探していたら素敵な喫茶店が並んでいました。ここでは左側の「COFFEE HOUSE SPOON」にしました。

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アイスコーヒーを注文。疲れた体にしみる味です。

ひとやすみしたら、先に進みます。

2.ひろめ市場

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ひろめ市場

ひろめ市場が見えてきました。

高知に行ったことがある人なら、ひろめ市場を知らない人はおそらくいないと思われる有名観光スポットです。

ひろめ市場は土佐藩家老の屋敷跡付近にあり、明治維新後もその一帯は「弘人屋敷(ひろめやしき)」と呼ばれていたため「ひろめ市場」と名付けられました。

市場内の至るところにテーブルと椅子が並べられ、それぞれ好きなお店で買ってきて持ち寄って食べるスタイルの市場です。

そのスタイルから知らない人と相席になることも多く、独り者だとコミュ強じゃないときついと言われています…なので私はひろめ市場で相席に座ったことはありません。

このときは昼であまりおなかが空いていなかったため素通りとしましたが、実は高知に到着した夜にひろめ市場で夕飯をとっていました。

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カツオのたたき丼

高知名物、カツオのたたき丼です。私は知らない人と相席をする勇気がなかったため、テーブル席のあるお店でいただきました。次は相席ができる席に行ってみようかな…?

コロナウイルス感染拡大防止のため、ひろめ市場では2020年4月10日から5月6日まで臨時休館となっています。ご注意ください。

 

3.高知大神宮

ここで東側に進む予定ですが、その前にふらっと西側に行きたくなりました。

歩いていくと、金色の鳥居の神社が見えます。

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高知大神宮

高知大神宮です。

前記事で取り上げた、現在は高知県高知城歴史博物館、昔は土佐郡郡役所と聯隊区司令部があった場所の隣にある神社です。

高知大神宮は1879年に社殿が建立され、高知県における伊勢信仰の中心として崇敬されている神社です。

伊勢神宮では神使がニワトリとされるからか、境内ではニワトリが放し飼いになっていました。

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ニワトリ

狛鶏もいます。

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狛鶏

ニワトリと狛鶏のツーショット。この後ニワトリが狛鶏に威嚇(?)を始めます。

にわとり from 10月うさぎ on Vimeo.

 

本殿に参拝。本殿の写真は撮り忘れていました…。

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令和旗

もう令和2年になったのに令和の旗が飾ってありました。昨年はどこの神社でもこの旗を見かけた記憶があるのですが、もう令和2年になったからか、久しぶりに見た気がします。

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鶏舎

ニワトリの鶏舎もあります。

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茶色いニワトリ

茶色いニワトリもいました。

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高知大神宮の御朱印

高知大神宮の御朱印がこちら。右下にニワトリのはんこがあるのが可愛い。

 

ここからまた東に進もうと思います。

ですが、今日のブログはここまでとし、また次回以降、帯屋町二丁目商店街を進んでいこうと思います。

 

次回記事はこちらです↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

参考サイト

 大橋通り商店街振興組合/観光振興と職業体験による賑わい創出事業
http://www.syoutengai.or.jp/jirei/h28/010_S_ohashi_dori.pdf
高知市/ひろめ市場
https://www.city.kochi.kochi.jp/site/kanko/hirome.html
平成浪漫商店街 ひろめ市場
https://hirome.co.jp/
高知大神宮/御由緒・境内案内
https://www.yosakoi-inari.com/kochidaijingu/goyuisho.html

 

すべて2020年4月26日最終閲覧