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東海道を歩く 33.岡崎公園前駅~知立駅

 前回、藤川駅から岡崎公園前駅まで歩いた。今回は岡崎公園前駅から知立駅まで歩こうと思う。「31.御油駅~藤川駅」で入った岡崎市をあとにして、安城市を通過、知立市に入っていく。名古屋市にだいぶ近づいてきた。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.矢作橋

 今日は岡崎公園前駅からスタートだ。

岡崎公園前駅

 前回終了地点の中岡崎町交差点に到着したら、左折して先に進む。「た」の案内板のある交差点だ。

 

 そのまま進むと、「左 江戸 右 西京」とある石碑を見つけるので右折する。江戸時代の言葉を使っている割にやけに新しいなと思ったら昭和61年(1986年)の再建らしい。

「左 江戸 右 西京」

 

 そのまま直進し、矢作橋へ上がる。

 

 矢作川の流れを見ながら橋を渡る。

 

 江戸時代、矢作橋東海道随一の橋として旅人に注目され、浮世絵・屏風絵・絵巻物に描かれてきた。

東海道五十三次 岡崎」

 歌川広重東海道五十三次の岡崎にも、矢作橋が描かれている。

 矢作川に板橋が最初にかけられたのは、江戸幕府3代将軍・徳川家光が上洛した寛永11年(1634年)のことで、以後のかけ替え・修復工事は、幕府の公儀普請として行われた。

 

 矢作橋には「出合之像」が建つ。出合之像には、このようなエピソードがある。

出合之像

 日吉丸(のちの豊臣秀吉)は尾張国中村(現在の名古屋市中村区)の木下弥兵衛と妻のお仲の子で、8歳の頃から奉公に出されたが、12歳のときに奉公先の陶器屋を逃げ出した。

 家へ帰ることもできず東海道を東へ向かっていたとき、空腹と疲れにより矢作橋の上で寝てしまう。

 そこに海東郡蜂須賀村(現在のあま市)に住む小六正勝(のちの蜂須賀小六)という野武士の頭が、手下を連れてこの付近を荒らしながら矢作橋を通りかかった。

 通りざまに小六正勝は日吉丸の頭を蹴ってしまい、そのとき、日吉丸は「頭をけって一言も言わないのは無礼だ。謝れ。」と小六を睨みつけた。

 小六は「子供にしては度胸があるな。手下にするから手柄を見せろ。」と日吉丸に告げ、手下にした。

 日吉丸はそれをすぐに承諾し、小六とともに味噌屋に侵入、荒らしはじめた。一通り荒らして逃げようとしたとき、味噌屋の家の人たちが騒ぎ始めた。

 日吉丸はとっさに石を抱えて井戸に投げ込み、「盗賊は井戸に落ちた」と叫び、味噌屋の家の人たちが井戸に集まる隙に素早く門を抜け、小六たちともども逃げ去っていったようだ。

 味噌屋を荒らす…というそれってやっていいの?という突っ込みは置いておいて、豊臣秀吉の頭の速さを描くエピソードである。なお、ここまで書いておいて何だが、どうやら史実とは異なるらしい。

 

2.矢作神社

 矢作橋をあとにして、矢作神社へ向かう。

矢作神社

 矢作神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷征討の途上、軍神の素戔嗚尊をまつったと伝えられ、社殿横に矢作の名の由来を伝える「矢竹」があるようだが、見つけられなかった。

 また、南北朝時代足利尊氏軍と矢作川で対峙した新田義貞が、戦勝祈願した際に動いたと伝えられる「うなり石」も置かれているようだが、これも見つけられなかった。

 矢作神社では、毎年10月1・2日の秋の大祭で勇壮な山車の曳きまわしが行われるが、この山車は格納庫に格納されていた。

 

 矢作神社はセルフ方式の御朱印が置かれていた。

 軍艦矢矧(やはぎ)とは、大日本帝国海軍軽巡洋艦で、昭和20年(1945年)に起こった坊ノ岬沖海戦で撃沈されたので現存しない。

 

 矢作神社から東海道に戻り先に進むと、自然災害伝承碑を見つけた。

 自然災害伝承碑とは、過去に発生した津波、洪水、火山災害、土砂災害等の自然災害に関わる事柄が記載されているモニュメントで、令和元年(2019年)に新設された地図記号だ。「東海道を歩く」では、「東海道を歩く 24-1.袋井駅磐田駅 前編 2.澤野医院記念館」で、袋井町西国民被災児慰霊碑という自然災害伝承碑が以前登場している。

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溺死菩提

 上の「南無妙法蓮華経」が目を引くが、その下に「溺死菩提」と書かれている。この碑が自然災害伝承碑に指定されている。

 これは文政11年(1828年)に起こった洪水に由来する。

 文政11年(1828年)7月の洪水により、矢作川では堤防が決壊、75軒の家が流され、14人が溺死した。犠牲者の供養のために、文政13年(1830年)に「溺死菩提」としてこの碑が建立されたそうだ。

 矢作川は岡崎の物流に大きく貢献したが、やはりそこは川、時に人に牙をむくこともあるのだ。犠牲者を思い、そっと手を合わせた。

 

3.薬王寺

 誓願寺があるが、休日は門が閉まっている。

誓願寺

 誓願寺には浄瑠璃姫と源義経にまつわる伝説が伝わる。

 奥州藤原秀衡をたよって東海道をくだった源義経は、この矢作の地で兼高長者の家に宿を求めた。

 春霞たなびく一夜、長者の娘浄瑠璃姫のかなでる琴の音に誘われた義経は、母の形見の名笛「薄墨」をかなで、やがて2人は結ばれる。

 しかし、義経が奥州へ旅立った後、義経を恋い慕う姫は悲しみのあまり菅生川の流れに身を投じてしまった。

 誓願寺には義経浄瑠璃姫の木像や名笛「薄墨」、浄瑠璃姫の墓などが伝えられている。悲しい恋の話である。

 

 一見これ何て読むの?という名前の神社があった。竊樹(ひそこ)神社と読むらしい。

竊樹神社

 安城街道入口交差点から国道1号に合流する。国道1号沿いはあまり史跡がなく、友人と話しながら歩いていると薬王寺を見つけた。

薬王寺

 薬王寺奈良時代に創建された寺院で、御本尊は薬師瑠璃光如来

 この薬師瑠璃光如来は、和銅年間(708~715年)に、御手洗御立笠取(みたらいみたちかさとり)の池から光を放って現れた。この地に住んでいた豊阿弥長者(ほうあみちょうじゃ)の念持仏となっていたが、のちに行基を開祖として薬王寺を創建、納められた。

 

 淳和天皇天長6年(829年)の春に疱瘡が流行し、長者の子供も重い疱瘡にかかった。そのときどこからともなく僧が現れ、瑠璃の瓶から取り出した薬を子供に含ませ、僧が子供の体をさすると疱瘡は治ったそうだ。その僧は長者から銭輪をもらい、首にかけると忽然と消えたらしい。

 長者は「これは薬師瑠璃光如来の御利益だ」と気づいて薬師瑠璃光如来にお参りすると、薬師瑠璃光如来の首には銭がかけられ、体に疱瘡の跡が残っていた。長者は子供の身代わりになった薬師瑠璃光如来をますます敬うようになった。

 

 天文18年(1616年)の戦いのとき薬王寺は焼かれ、長者の子孫が絶えてしまった。元和2年(1616年)4月、村人たちが長者の墓をここに移そうとしたときに、土から首に銭をかけた薬師瑠璃光如来を掘り出した。不思議な縁を感じた村人たちは再度薬王寺を建てたと伝えられている。

 

 なお、この薬王寺宇頭大塚古墳の後円部に造られている。古墳時代中期にここに勢力のあった豪族の子孫(豊阿弥長者)が、行基とともに薬王寺を建てたと考えられている。

 

  疱瘡を治したと伝えられる薬師瑠璃光如来を見ることはできなかったが、本堂の前で手を合わせた。

 

4.安城市に入る

 ついに岡崎市が終わり、安城市に入る。

 

 国道1号と旧道の交差点にあるラーメン横綱で昼食を食べた。お腹が空いていたので餃子もつけてしまった。

 

 旧道に入ると松並木が出迎えてくれた。

 

 水準点を見つけた。一等水準点第167-1号だ。昭和61年(1986年)に設置された標石型の水準点である。

一等水準点第167-1号

 安城市のマンホールを見つけた。

 安城市発祥の三河万歳の扇と鼓がデザインされている。

 三河万歳とは安城市などに伝わる伝統芸能で、江戸時代には、元旦に諸大名や諸侯に招かれて、太夫と才蔵の2人が軽妙にかけあい、「あら楽しやな鶴は千年の名鳥なり、亀は万年の齢を保つ…」と長寿繁栄を祝いながら優雅に舞ったと伝えられている。現在は、西尾市西野町小学校の児童による御殿万歳クラブがこの芸能を継承しているようだ。

 

 安城市章がついた仕切弁をみつけた。

 安城市章は安城市の「安」を図案化し、発展を象徴する末広がりが特徴となっている。昭和35年(1960年)に制定された。

 

 第一岡崎海軍航空隊跡があった。

第一岡崎海軍航空隊跡

 第一岡崎海軍航空隊は大日本帝国海軍の部隊・教育機関のひとつで、昭和19年(1944年)に河和海軍航空隊岡崎分遣隊の設置にはじまる。4月に独立、「岡崎海軍航空隊」となった。

 安城市などの農地を収容し、岡崎飛行場を造成したが昭和20年(1945年)の終戦に伴い解散、跡地はまた農地に戻ったそうだ。

 最大で6,000人もの隊員がいたようだが、もちろん全員終戦まで生きていたわけではなく、戦いのなかで亡くなった人もいただろう。そっと手を合わせた。

 

 第一岡崎海軍航空隊跡地の碑の隣に熊野神社があったが、なぜかロープが引かれ参拝できなかったので鳥居の外から手を合わせるだけにした。

 

 熊野神社前は鎌倉街道跡になっている。

 建久3年(1192年)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ、宿駅63箇所が設置された。

 この地域の鎌倉街道は里町 不乗(のらず)の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達し、街道はここで右に曲がって南東方向へ向かっていた。これにより、熊野神社の森は「踏分の森」と呼ばれていた。

 ここを旧鎌倉街道と伝える「目印しの松」が残されている。

目印しの松

 目印しの松の下に「東海道一里塚跡」の石碑があり、ここは83里(332km)の尾崎の一里塚跡とされている。

東海道一里塚跡

5.永安寺

 永安寺に着いた。

永安寺

 永安寺は曹洞宗の寺院で、山号は本然山という。

 大浜茶屋村の庄屋だった柴田助太夫は、街道の宿場駅に必要に応じて人馬を提供する助郷役を村が命じられたときに、村の窮状を訴えて免除を願い出た。

 領主であった刈谷藩は延宝5年(1677年)に柴田助太夫を死罪としたが、その後村の助郷役は免除となった。村では、領主の代替わりごとにこの一件を説明し、助郷役の免除は幕末まで続いた。

 村の人々は柴田助太夫の恩に感謝し、旧宅跡に草庵を建てた。草庵は後に寺となり、柴田助太夫の戒名である本然玄性居士と、妻の安海永祥大姉にちなみ、「本然山 永安寺」と名づけられた。

 助郷ではなく検地だが、上からの頼みを住民のために断り死罪となるも、その後祀られた、という話は「東海道を歩く 13.吉原駅新蒲原駅 4.青嶋八幡宮神社」に登場した青嶋八幡宮神社を思い出す。

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 そして永安寺には非常に特徴的な形をしたマツがある。雲竜の松だ。

雲竜の松

 一般的に、マツの主幹は地面から垂直に伸びるが、このマツは高さ1.5mのところから北西、南、東の3方向に分かれて横に伸びている。

 この樹形が、雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を連想させることから、「雲竜の松」と呼ばれている。

 樹齢は350年ほどで、柴田助太夫もこのマツを見ていたと考えられている。

 マツは今まで東海道で数えきれないほど見たが、この樹形のマツは初めて見た。あまりの珍しさにしばらく友人と写真を撮ったり、木陰で涼んだりしていた。

 

 永安寺をあとにして、明治川神社に向かう。

明治川神社

 明治用水は、矢作川から水を引き、西三河を灌漑するための用水路で、明治13年(1880年)に完成した。

 明治川神社は、開発の功労者の都築弥厚(つづきやこう)、岡本平松、伊与田与八郎らを祀っている。

 明治用水は、荒れ野だった西三河の平野部に矢作川の水を引き入れ、広大な用地を開拓し、この用水のおかげで一帯は「日本デンマーク」と言われるまでの農業地帯になった。

 水はときに人を脅かすが(溺死菩提参照)、人の繁栄を助けるものにもなるのだ。

 

6.知立市に入る

 また新しいマンホールを見つけた。

 このマンホールは安城七夕まつりがデザインされている。安城七夕まつりは昭和29年(1954年)から行われているお祭りである。

 東海道の七夕祭りといえば平塚市で、平塚市でも七夕祭りデザインのマンホールがある。これは「東海道を歩く 7.藤沢本町駅平塚駅 6.旧相模橋橋脚」で登場している。

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 また松並木が始まった。

 

 しばらく東海道を歩いていくと、「東海道 見て歩きマップ」なるものがあった。

 

 無量寿寺への道標があった。

 無量寿寺はかきつばたの名勝地だが、少し遠いのとかきつばたの時期ではないことから、スルーすることにした。

 そういえばいつのまにか知立市に入っていた(特にカントリーサインもなかった)。

 知立は「かきつばた」を推している。

 なぜかというと、在原業平伊勢物語で現在の知立市のかきつばたについて語っているからである。これは教科書にも載っている有名なエピソードである。

 

 「三河の国八橋といふ所に至りぬ。そこを八橋といひけるは、水行く河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。その沢のほとりの木の陰に下りゐて、乾飯食ひけり。その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字を句の上に据ゑて、旅の心を詠め。」と言ひければ、詠める。

 唐衣(からごろも) きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅(たび)をしぞ思ふ

 と詠めにければ、みな人、乾飯の上に涙落として、ほとびにけり。」

 (現代語訳)「三河の国の八橋というところに着いた。そこを八橋といったのは、水が流れる川が蜘蛛の足のように八方にわかれているので、橋を八つ渡していることによって、八橋といった。その沢のほとりの木の陰に降りて座って、乾飯を食べた。その沢にかきつばたがたいそう美しく咲いていた。それを見て、ある人が言うことには、「かきつばたという五文字を各句の上に置いて、旅の心を詠みなさい。」と言ったので、こう詠んだ。

 何度も着慣れた着物のように、長年慣れ親しんだ妻が都にいるので、はるばるやってきた旅をしみじみと思うことだ。

 と詠んだので、人はみな、乾飯の上に涙を落として、乾飯がふやけてしまった。

 

 この「八橋」というかきつばたが咲いていた場所が現在の知立市にあるのだ。そして在原業平が詠んだ句は頭が「かきつばた」となっているのにも気づいただろうか。

 この文章を書いていて、「そういえばこれ、高校で習ったなあ」と懐かしく感じた。機会があればかきつばたの時期に訪れてみたい。

 

7.来迎寺一里塚

 来迎寺一里塚に着いた。

来迎寺一里塚

 慶長8年(1603年)、徳川家康が江戸に幕府を開き、その翌年、中央集権の必要から諸国の街道整備に着手、大久保長安に命じ江戸日本橋を起点に、東海道東山道北陸道など主要街道を修理させた。このとき1里(約4km)ごとに築いた里程標を一里塚、一里山などと称した。

 来迎寺の一里塚は江戸から84里目(336km)の一里塚で、なんと北塚と南塚両方が残っているのだ。これは東海道でも珍しいので、愛知県指定文化財に指定されている。私も見たのは久しぶりで、「東海道を歩く 13.吉原駅新蒲原駅 11.岩渕の一里塚」で見た岩渕一里塚以来である。

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 前回の大平一里塚を見たときに反応が薄かった友人も、両側残っている一里塚を見て流石に驚いていた。

 

 知立市章がついた仕切弁を見つけた。

 知立市章は昭和32年(1957年)10月、愛知教育大学教授の大野元三氏の考案によるもので、古くから交通の要衝として東西南北に通じた知立市の発展的な土地柄をテーマに、伊勢物語で有名なかきつばたの花を図案化したものである。

 

 歩いていると、また無量寿寺の道標を見つけた。観光名所だったのだろうか。

 

8.知立松並木

 新田北交差点を過ぎると、また松並木が始まる。知立松並木だ。

知立松並木

 慶長9年(1604年)、江戸幕府東海道を整備するなかで、道の両側に築かれた土塁に松が植えられた。松並木は夏は木陰となり、冬は防風林となり、街道を行く旅人に安らぎを与えていた。

 知立では池鯉鮒(ちりゅう)宿の東の500mにわたって松並木が残っている。戦前までは昼なお暗いほどに老樹が鬱蒼としていたが、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風により6~7割の松が折られたり根ごと吹き倒されてしまった。住宅開発等もあり、この時期に松並木は半減してしまったようだ。松並木のケアが始まったのは昭和45年(1970年)のことで、このときに幼松を158本植え、以後も毎年松くい虫の防除に努めている。

 

 「文化の道「東海道宿場散歩みち」」という案内板があった。

文化の道「東海道宿場散歩みち」

 知立松並木にはいくつか彫刻作品が飾ってある。これは「かきつばた姫」。

かきつばた姫

 知立市のデザインマンホールを見つけた。

 在原業平伊勢物語で詠んだ歌「からごろも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」が刻まれ、歌の周囲はかきつばたで囲まれている。

 ちなみに知立市の花は当然だが、「かきつばた」である。

 

 句碑が飾られている。

 「引馬野(ひくまの)に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに」

 「引馬野に色づいている榛原(はりはら)に入り乱れて、衣に色をうつしなさいな、旅のしるしに」という意味で、大宝2年(702年)に持統天皇三河国に旅されたときの歌で、万葉集に収録されている。

 

 「かきつばた 名に八ツ橋の なつかしく 蝶つばめ馬市 たてしあととめて」

  星野麦人という明治から昭和にかけての歌人が詠んだ歌である。

 

保永堂版「東海道五十三次 池鯉鮒」

 保永堂版「東海道五十三次 池鯉鮒」でも描かれているように、池鯉鮒では馬市が盛大に行われていた。その歴史は鎌倉時代初期の「海道記」にも書かれているほどである。

 馬市は毎年4月から5月はじめ頃まで開かれ、甲斐(山梨県)や信濃(長野県)からも馬が集められ、400~500頭にもおよんだようだ。馬を売買する人だけでなく商人や遊女、芸人なども集まり、たいへん賑やかな馬市だったと伝えられている。

 

 また水準点を見つけた。一等水準点第169号は昭和47年(1972年)に設置された金属標型の水準点だが、松の落ち葉に隠れて見えない。

一等水準点第169号

 

9.知立神社

 「東海道 池鯉鮒(ちりゅう)宿」と書かれた石柱のある交差点から旧道に入る。

 池鯉鮒宿は品川から数えて39番目の宿場にあたる。

 池鯉鮒宿がもっとも賑わいをみせたのは18世紀末から19世紀初頭にかけてであり、享和元年(1801年)の人口は2,066人と記録されている。

 しかし、今日では宿の面影は少なく、銀座タワービル前にたつ池鯉鮒問屋場跡の石碑、知立駅西に隣接する小松寺境内に移築され、地蔵堂として残された脇本陣玄関、国道1号線沿いにたつ本陣跡の碑が、わずかに往時をしのばせている。

 それにしても「池鯉鮒」。すごい漢字である。これは知立神社の御手洗池に鯉や鮒などがたくさん泳いでいたことに由来する。旅人は、鯉や鮒などを「食べて」楽しんだようだ。その昔は「知立」「智立」と記されていたが、鎌倉時代以降は「智鯉鮒」、江戸時代は「池鯉鮒」、明治以降は「知立」と表記されて現在に至る。

 

 また知立市のマンホールを見つけた。今度はかきつばたのみのシンプルなデザインだ。

 

 先に進み、知立市観光交流センターで池鯉鮒宿の御宿場印とマンホールカードをいただいた。知立市観光交流センターの前には「からころも」と「かきつばた」のカラーマンホールが設置されていた。

 

 知立市観光交流センター前の交差点で終わりにしようかと思ったが、友人が「知立神社に行きたい」と言うので少しだけ先に進み、知立神社へ向かった。

知立神社

 知立神社の祭神は鸕鷀葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、玉依比売命(たまよりひめのみこと)ほか2柱である。

 「延喜式神名帳」には碧海郡6座の1つと記され、三河二宮にあたる。

 社伝には、第12代景行天皇42年に、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰途に伊知里生命(いちりゅうのみこと)をこの地にとどめて祖霊をまつり、第14代仲哀天皇元年に社殿を造営したと伝えられている。

 人々の間では古くからまむし除け、雨ごい、安産の神として霊験あらたかとされてきた。

 

 また、知立神社では5月2・3日に知立まつりとよばれる祭礼が行われる。

 祭りの歴史は承応2年(1653年)から続いており、山車のうえで上演される山車文楽とからくりを特徴としている。

 からくりは80本もの糸をあやつることもある見事なものであるようなので、機会があれば見にいってみたいと思う。

 

 知立神社境内には多宝塔がある。

多宝塔

 嘉祥3年(850年)に円仁が神宮寺を創建して知立神社の別当寺とし、境内に2層の塔をたて愛染明王を安置したことにはじまる。

 現在の多宝塔は室町時代の建築様式を伝えており、そのころに再建されたと考えられている。

 明治時代の廃仏毀釈の際に取り壊しの危機に遭遇したが、本尊を総持寺に移し、相輪を取り除いて杮葺きの屋根を瓦葺きにかえ、「知立文庫」という額を掲げることで難を逃れたそうだ。

 

 知立神社で御朱印をいただいた。

 

 知立市観光交流センターのある交差点で南に進み、知立駅に到着。

知立駅

 ここからもう帰るので、名古屋駅へ向かい、夕飯を食べることにした。夕飯は私のおすすめのとり五鐵の名古屋コーチンの親子丼。

 卵も鶏肉もぷるっぷるで最高に美味しい。これで1,580円だから名古屋に行くたびに通ってしまう。

 

 時間が余ったので資生堂パーラーでお茶にした。美味しかったけれどパフェが2,000円近くして驚いた。

 

 翌日は仕事なので、ビールと東海限定ジャガビーをつまみつつ帰ることにした。

 

 次回は、知立駅から鳴海駅まで歩く予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

歩いた日:2024年2月12日

【参考文献・参考サイト】

愛知県高等学校郷土史研究会(2016) 「愛知県の歴史散歩 下 三河」 山川出版社

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第10集」

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第11集」

大石学(2021)「地形がわかる東海道五十三次」 朝日新聞出版

国土地理院 自然災害伝承碑

https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi.html

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

安城市 City Guide

https://www.city.anjo.aichi.jp/shisei/sisei-yoran/documents/h65-p40p41.pdf

KEIRINKAN ONLINE 【原文・現代語訳】東下り(『伊勢物語』より)

http://keirinkan-online.jp/high-classic-japanese/20201027/505/

知立市 知立市の概要

https://www.city.chiryu.aichi.jp/soshiki/kikaku/kyodosuishin/gyomu/12/1445320199990.html

(2024年4月22日最終閲覧)

東海道を歩かない 岡崎編

 先日投稿した「東海道を歩く 32.藤川駅~岡崎公園前駅」では岡崎市街地をめぐりつつ東海道を歩いた。しかし同行していた友人が「今日だけだと岡崎で行きたい場所に行ききれないから、また行く必要があるなぁ」と言った。友人も神戸に住んでいるため、そう簡単に岡崎には行けないだろう。今回は3連休で、4月にも取材に行く予定なので1日岡崎をまわっても大丈夫と判断し、「明日、岡崎まわる?」と聞くと友人は嬉しそうに「うん」と言った。今回は岡崎をまわった日の記録である。

 「東海道を歩く 32.藤川駅~岡崎公園前駅」はこちら↓

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1.岡崎城

 岡崎公園前駅の宿を出て、喫茶店で朝食を食べる。朝食をいただいたのは「亀屋」。

 トーストとおにぎりの組み合わせが斬新だと思ったが、美味しかった。

 

 岡崎城へ向かう。

 

 ここで岡崎城について説明する。「東海道を歩く 32.藤川駅~岡崎公園前駅」9.岡崎城 でも説明したため、それを読んだ人は読み飛ばしていただいて構わない。

 岡崎城は、明大寺に屋敷を構えていた三河守護代 西郷頼嗣(さいごうよりつぐ)が、康正元年(1455年)、北方への備えから乙川の北側に砦を築いたことが始まりと考えられている。

 その後、安祥城(あんしょうじょう)を居城としていた徳川家康の祖父・松平清康が、当時岡崎に勢力をもっていた大草松平氏の松平信貞(まつだいらのぶさだ)を屈服させて移り、享禄3年(1530年)頃に本格的な築城を行ったとされる。

 徳川家康岡崎城で生まれたため、岡崎城には家康産湯の井戸がある。天文11年(1542年)12月26日、幼名竹千代、のちの徳川家康がここで産声をあげたときに産湯の水を汲んだ井戸である。

 松平清康の死後、家康の父・松平広忠は、東の今川氏と西の織田氏にはさまれて苦闘し、家康も8歳で今川氏の人質となるほか、広忠は家臣の岩松八弥に城内で殺され、岡崎城は今川方の城となった。

 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦い後に自立した家康は岡崎城にはいり、10年後に浜松城に移るまでこの城を根拠地としてほぼ三河一国を平定した。

 家康が浜松に移ってからの岡崎城は、家康の長男・松平信康石川数正、本多重次の各城代時代を経て、家康の関東移封後には豊臣秀吉の家臣・田中吉政が入城し、大規模な城郭の整備拡張が行われた。

 元和3年(1617年)に本多康紀が3層3階地下1階の天守閣を完成させたが、明治6年(1873年)から翌年にかけて取り壊された。

 現在のものは昭和34年(1959年)に復元されたもので歴史資料館になっており、1階が受付、2階から4階で歴史資料などを展示し、最上階は展望台となっている。

 

 東隅櫓を見つけた。

東隅櫓

 東隅櫓は東曲輪に建っている。東曲輪は二の丸の東側に位置し、二の丸に対する防衛機能を担っていた。東隅櫓は平成22年(2010年)に再建されたもの。

 東隅櫓のなかでは岡崎城の発掘調査の様子が紹介されていた。

 

 東隅櫓の下に下りていってみると石垣が復元されている区画がある。東曲輪腰巻石垣だ。

東曲輪腰巻石垣

 東曲輪腰巻石垣は平成20年(2008年)の発掘調査で見つかった石垣で、斜面の中腹と裾部に築かれた二段の石垣である。

 

 本丸の東側と南側に対する防衛機能を担う馬蹄形の曲輪、隠居曲輪には茶店などが出ていた。なぜ隠居曲輪という名前なのだろう。少なくとも今は「隠居」しているふうには見えない。

隠居曲輪

 辰巳櫓台下石垣は岡崎城内で最も完成度の高い石垣で、大きさや形が整えられた石材が布積みで積まれている。特に隅角部の算木積みは精巧に加工された石材を使用し、稜線は直線になるように江戸切りで仕上げられている。隅角部がピシッと直線になっているのがわかる。

 

 この日は、梅が綺麗に咲いていた。

 

 乙川沿いでも石垣が発掘され、一部が展示されていた。

 

 岡崎城に戻る。

 本丸埋門北袖石垣の石材には大型の自然石や割石が使用され、大きさや形はやや不揃いながらも、横方向の目地の一部が揃うことから持仏堂曲輪腰巻石垣より先行する江戸時代前期の構築と考えられている。

本丸埋門北袖石垣

 胞衣(えな)塚を見つけた。

胞衣塚

 胞衣とは出産時に排出された胎盤などのことで、子供の成長と出世を願う習わしから胞衣を壷に入れて埋納、そこに塚や碑が建てられ信仰対象となることもあった。

 ここには徳川家康の胞衣が埋められている…と思いきや、説明板を見ると「徳川家康の功績を広く知らしめるため、昭和11年(1936年)に公園整備の一環として建てられました。」とある。つまりここには徳川家康の胞衣はない、ということになる。

 

 岡崎城内ではいまも発掘調査が続けられているようだった。

 

 この井戸は「家康産湯の井戸」といい、天文11年(1542年)12月26日、幼名「竹千代」、のちの徳川家康岡崎城で産声をあげたとき産湯の水をくんだ井戸とされている。

家康産湯の井戸

 持仏堂曲輪腰巻石垣は、江戸時代前期に構築された石垣で、後世の改修を受けることなく現在まで残る貴重な石垣である。

持仏堂曲輪腰巻石垣

 太鼓門跡。江戸時代には城下に時を知らせる太鼓が置かれていたことから太鼓門と呼ばれていたが、現在は門の石垣を残すのみとなっている。

太鼓門跡

 持仏堂曲輪。本丸北側に位置し、徳川家康が持っていた阿弥陀仏を安置した堂があったことからこの名がついた。

持仏堂曲輪

 廊下橋。

廊下橋

 廊下橋は持仏堂曲輪と天守台をつなぐ橋で、大正9年(1920年)に現在のアーチ型石橋に改修されているが、江戸時代は屋根付きの廊下橋が架けられていたようだ。

 

 清海堀。

清海堀

 清海堀は本丸北側に位置し、本丸と持仏堂曲輪を隔てる堀である。岡崎城の最初の築城者である西郷頼嗣の法名「清海入道」にちなみ名づけられた。

 

 やっと本丸に到着した。

本丸

 本丸は岡崎城の中心部で、松平清康が城主のときに八幡社が建てられていたことから「八幡曲輪」とも呼ばれる。城から北東方向の甲山から延びる丘陵の先端に位置し、西は矢作川、南は菅生川(現在の乙川)に囲まれた天然の要害となっている。

 

 月見櫓は、城主が月見をするために建てられた櫓である。現在は残っていない。

月見櫓跡

 この井戸は「龍の井」と呼ばれている。

龍の井

 康正元年(1455年)に岡崎城が竣成した日と、天文11年(1542年)の徳川家康が生まれた日などの吉兆のたびにここの井戸水が噴出し、龍が現れることからこの名がついたとされる。今後、龍が現れることはあるのだろうか。

 

 天守天正18年(1590年)に城主となった田中吉政により初めて築かれたが、天守台の石垣はこの当時のもので、岡崎城内では最も古い段階の石垣とされている。確かに、石がやや不揃いだ。

 

 岡崎城天守閣。

 岡崎城天守閣は昭和34年(1959年)に復元されたものである。天守閣には「東海道を歩く 32.藤川駅~岡崎公園前駅」9.岡崎城 で入ったので入らない。

 天守閣の前に立派な(邪魔と言ってはいけない)松の木があるが、この松は数か月後に伐採されたようで、伐採した後の写真を友人が送ってくれた。ちなみにこの写真はサムネイル画像にも使用させていただいた。友人、ありがとう。

 やはり、松がないほうがすっきりして見える。

 

2.カクキュー八丁味噌

 岡崎といえば、八丁味噌である。ということで、カクキュー八丁味噌にやってきた。

カクキュー八丁味噌

 岡崎の特産品の八丁味噌は、矢作大豆とよばれた地元の大豆と吉良の塩、さらに花崗岩質の地盤から得られる矢作川の伏流水を使ってつくられた素朴な豆味噌が始まりといわれる。

 戦国時代には三河武士の兵糧として愛用されていたが、徳川家康が江戸に幕府を開いたことで「三河味噌」などの名で知られるようになった。

 いつごろから「八丁味噌」の名が使われるようになったのかは不明だが、味噌が当時の八丁村でつくられていたことからこの名がつけられたとされる。

 安政4年(1857年)に江戸役人が書いた「三河みやげ」にその名が登場しており、幕末にはかなり広い範囲で知られていたようである。

 その後原料の大豆は、西三河だけでなく東三河、関東、東北、九州からも仕入れられるようになり、矢作川を川舟で運ばれて八丁土場に荷揚げされ、帰りの舟で味噌が出荷された。

 このように、海運や舟運の発達によって原料を全国から調達できるようになったことが、その販路を全国に拡大させることにつながった。

 味噌づくりは、ぐり石を積み上げた大きな仕込み桶で行われており、現在は常時450桶以上を使って醸造されている。仕込み桶は吉野杉を使った高さ2mのものである。桶に積まれたぐり石のほとんどは、江戸時代に矢作川上流から運ばれたもので、150個あまりが人の手で桶の上に円錐形に積まれ、その重さは約3tにもなる。

 

 カクキュー八丁味噌の工場見学に参加しようと思ったが、人がたくさん並んでいる。どうやら観光バスのルートにもなっているようで、観光バスからもどんどん人が流れてくる。

 「あきらめて、大樹寺に行こうか」と友人が言ったが、「工場見学は諦めるにせよ、私はお腹が空いている。味噌カツ食べたい。」と私は返し、工場に隣接しているレストランで味噌カツを食べることにした。レストランでも15分ほど待ったが、これは致し方ない。

 注文してしばらく経つと、味噌カツが運ばれてきた。さりげなく味噌汁にも八丁味噌が使われているのがポイント高い。

 カツはサクサク、甘辛いタレがカツに絡むのが絶妙で美味しい。すぐに食べ終わってしまった。

 

3.大樹寺

 中岡崎駅から大門駅まで、愛知環状鉄道に乗って移動する。

愛知環状鉄道

 大門駅からしばらく歩くと大樹寺に到着する。

大樹寺

 大樹寺は文明7年(1475年)、勢誉愚底上人(せいよぐていしょうにん)を開山として松平氏4代親忠により創建された。「大樹」とは、唐名で「将軍」を意味する。

 家康と大樹寺との関係を最もよく伝える話が、桶狭間の戦いのおりのエピソードである。

 永禄3年(1560年)、尾張をめざした今川義元にしたがった松平元康(のちの徳川家康)が、義元の敗死により身の危険を感じて大高城からこの大樹寺に逃れてきた。

 前途をはかなみ先祖の墓前で自害しようとする19歳の元康に対して、ときの住職、登誉天室上人(とうよてんしつしょうにん)が「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」の言葉をあたえて思いとどまらせた。

 この「厭離穢土 欣求浄土」の意味は、「今は私利私欲に満ちた戦国の乱世であるけれども、これを正しい目的をもって住みよい浄土にしていくのがお前の役目である」とされている。この言葉は家康の座右の銘となった。このシーンは「どうする家康」第2話「兎と狼」で描かれ、登誉上人は里見浩太朗が演じた。

 このとき、元康を追って到来した野武士の集団に対して、七十人力といわれた寺僧の祖洞和尚(そどうおしょう)が総門の閂(かんぬき)を手に応戦し、敵を退散させたようだ。

 この閂は家康により「貫木神(かんぬきじん)」と命名され、寺内でまつられている(残念ながら撮影不可)。

 慶長8年(1603年)に家康が征夷大将軍に任ぜられると、将軍家先祖の菩提所として寺格を高めて幕府の手厚い保護をうけ、慶長11年(1606年)には後陽成天皇から勅願所とされ、常紫衣許可の綸旨をうけた。

 安政2年(1855年)に火災が発生し、本堂とそれにつながる主要な建物をことごとく失ったが、その2年後に13代将軍家定により、現在の本堂や大方丈が再建された。

 

 本堂の前には三門がある。この三門は寛永18年(1641年)に3代将軍家光が建立したもので、後奈良天皇の筆による勅額をいただき、上層内部には釈迦三尊像、十六羅鑑像を安置している。

三門

 三門の前には「岡崎市×戦国無双5」の徳川家康のマンホールがある。

 

 本堂の前には立派な鐘楼があり、この鐘楼は家光が建立したもので、梵鐘は9代将軍家重が鋳造させたものである。

鐘楼

 本堂の西には墓地が広がり、その奥に松平氏8代の廟所がある。昭和44年(1969年)に松平広忠(家康の父)の墓に隣接して家康の墓も建てられたのだが…流石に家康の墓にしては新しすぎないか?と思う。

松平家廟所

家康の墓

 境内の南西隅には、伽藍のなかでもっとも古い建物である多宝塔がある。天文4年(1535年)に松平清康(徳川家康の祖父)により建立されたこの塔は、一層が方形、二層が円形をなし、屋根は檜皮葺きで下層に多宝如来像がおさめられている。

多宝塔

 大樹寺本堂に入る。なお、本堂内は撮影禁止のため、文章のみの紹介とする。

 本堂本尊となっている木造阿弥陀如来坐像は、安政2年(1855年)の火災後に京都の泉涌寺から迎えられたもので、平安末期の作とされ、愛知県の文化財に指定されている。

 また火災後の大方丈再建にあたり、京都から大和絵師 冷泉為恭(れいぜいためちか)が招かれて大方丈障壁画47画を描いた。将軍御成りの間の「円融天皇子日之御遊図(えんゆうてんのうねのひのぎょゆうず)」の襖絵などは国の重要文化財に指定されているが、原本は文化財収納庫にあり、公開されているものは復元品である。

 また、先ほどのエピソードに登場した祖洞和尚の閂は「貫木神」として祀られていた。

 元和2年(1616年)に家康が亡くなるとき、「位牌は三河大樹寺に立てよ」との遺言が残され、家康をはじめ歴代将軍の位牌が祀られている位牌堂がある。位牌堂には、初代松平親氏(まつだいらちかうじ)以下の松平氏8代と、家康から14代までの将軍の位牌が安置されている。歴代将軍の位牌は本人の等身大とされ、大きさは以下の通りである。

初代将軍 徳川家康 159cm(享年75歳)

2代将軍 徳川秀忠 158cm(享年54歳)

3代将軍 徳川家光 157cm(享年48歳)

4代将軍 徳川家綱 158cm(享年40歳)

5代将軍 徳川綱吉 124cm(享年64歳)

6代将軍 徳川家宣 160cm(享年51歳)

7代将軍 徳川家継 135cm(享年8歳)

8代将軍 徳川吉宗 155.5cm(享年68歳)

9代将軍 徳川家重 156.3cm(享年51歳)

10代将軍 徳川家治 153.5cm(享年50歳)

11代将軍 徳川家斉 156.6cm(享年69歳)

12代将軍 徳川家慶 154cm(享年61歳)

13代将軍 徳川家定 149.9cm(享年35歳)

14代将軍 徳川家茂 157cm(享年21歳)

 平均身長は152.4cm、江戸時代の男性の平均身長が157cmだからそれと比べるとだいぶ低い。私(158cm)よりも低い。

 位牌のなかでとりわけ小さな位牌が2つあった。5代将軍綱吉の位牌(124cm)と、7代将軍家継の位牌(135cm)だ。家継は8歳で亡くなってしまったため、小さいのは致し方ない。ただ、綱吉は64歳まで生きている。小人症だったのだろうか…?そして、綱吉といえば、あの悪名高い「生類憐みの令」を出した将軍である。こういう無理な掟を決めたのも、背景に身長コンプレックスがあったのでは?と説明板に考察されていた。

 大樹寺御朱印をいただいた。登誉上人の名言「厭離穢土 欣求浄土」と書かれている。

 

 大樹寺小学校内に大樹寺の総門がある。そこから振り返ると岡崎城が見え、これは「ビスタ=ライン」と呼ばれているらしい。もっとも、江戸時代にこの呼称があるとは考えられないので、後世の人がつけたものだとは思う。

大樹寺総門

 

4.伊賀八幡宮

 伊賀八幡宮に向かう途中に明願寺に立ち寄る。

明願寺

 明願寺は浄土真宗の寺院で、宗徧流茶道の宗匠、宗徧が残した唯一の茶室「淇菉庵並水屋(きろくあんならびにみずや)」があるが、普段は見ることはできない。

 

 伊賀八幡宮に到着した。鳥居と神橋がある。

 鳥居は石造明神鳥居。神橋は石造反り橋で橋骨に大きな特徴があり、二重虹梁(にじゅうこうりょう)・大瓶束(たいへいつか)などを用いてつくられ、拳鼻(こぶしばな)の飾りのうえに勾欄(こうらん)をかざっている。

 神橋の向こうに随身門がある。

随身

 随身門(ずいじんもん)は下層が高く、上層が低い2層造りで、軒唐破風や上棟の吹寄垂木、人字型の板蟇股(いたかえるまた)などにこった意匠が見られる。

 門をくぐると、権現造の本殿・幣殿・拝殿や御供所が姿をあらわす。

 ここで伊賀八幡宮について簡単に説明する。

 社伝によると、松平氏4代親忠が、武運長久・子孫繁栄を祈願するため、社を伊賀から額田郡井田村に勧請したことにはじまるようだ。

 永禄9年(1566年)、徳川家康三河守に任じられたことを喜び社殿を造営した。

 慶長7年(1602年)には社領228石を加増して後陽成天皇の宸筆額を奉納し、慶長16年(1611年)にも社殿の造営を命じており、このときに現在の規模がほぼ整ったようだ。

 その後、寛永13年(1636年)に江戸幕府3代将軍家光が100石を加増して社領を540石とし、当時の岡崎城主の本多忠利を奉行に任じて社殿を大々的に造営させたものが、現在の社殿である。

 昭和40年(1965年)から随身門ほか4棟が解体修理されて現在に至っているが、落書きなどを防ぐ目的で社殿の前に柵がつくられ、間近に社殿を見ることができないのが残念でならない。

 柵の向こうから参拝し、御朱印をいただいた。

 

5.甲山寺

 甲山寺へ向かう途中に六供配水場があった。

六供配水場の配水塔

 大正の岡崎市は、都市化の進展に伴う人口増加で生活汚水が増加し、伝染病の発生状況が深刻だった。

 そこで市民の生活を守るため、ここに六供浄水場が建設され、昭和8年(1933年)に岡崎市最初の浄水場として給水を開始した。

 六供浄水場矢作川の伏流水を水源とし、標高54.5mの高台にある場内に水を送り、浄化したあと配水塔へポンプアップし、自然流下式で市街地に配水していたが、平成24年(2012年)に役目を終えた。

 配水塔とは、水を貯めて周辺の水道管に配水するための建物である。

 この配水塔は昭和9年(1934年)に建てられ、外壁下部は板状の花崗岩を張りつけ、上部はモルタル仕上げに線を引き、石を貼ったかのように見せている。

 配水塔に絡まるツタは、太平洋戦争中に植えられたもので、グレーの外壁にツタをめぐらせることで迷彩柄に見せようとしたようだ。ツタは季節とともに色合いを変える。

 

 甲山寺に到着した。まずは秋葉堂に参拝する。

秋葉堂

 秋葉堂があるということは、秋葉神社の信仰、秋葉信仰があったことを意味する。

 秋葉神社浜松市天竜区にあり、火の幸を恵み悪火を鎮め、諸厄諸病を祓う火伏開運の霊験が最も有名である。

 

 甲山寺の本堂に参拝する。

甲山寺

 甲山寺は、松平清康岡崎城の鬼門の守りのために、安祥から薬師堂とその6坊を移転させたことにはじまる。

 本堂の護摩堂は、家康の父の松平広忠が家康をさずかったことを喜んで建立したものといわれている。

 甲山寺の背後には甲山八幡宮があり、そちらも参拝する。

甲山八幡宮

 甲山八幡宮をあとにして南に進むと、すぐ籠田公園に到着する。

 籠田公園は「東海道を歩く 32.藤川駅~岡崎公園前駅」でも登場した公園である。

籠田公園

 籠田公園からすぐの岡崎市観光協会に向かい、岡崎宿の御宿場印とマンホールカードをもらう。昨日も内藤ルネのマンホールカードをいただいたので、「これ、昨日のと何が違うの?」と友人に聞かれた。よく見てみると、道の駅藤川宿でもらったものは背景が紫、岡崎市観光協会でもらったものは背景がピンクなので別物である。

「道の駅藤川宿」のマンホールカード

 歩いていたら、東海オンエアの「ゆめまる」のマンホールを見つけた。

 東海オンエアは岡崎市に拠点を置く6人組Youtuberで、岡崎市内7か所に東海オンエアマンホールが設置してある。以前、道の駅藤川宿前に「としみつ」のマンホールが設置してあったのを目撃した。

 

「としみつ」マンホール

 

 このあとは備前屋でおみやげを買い、夕食に向かった。ちなみに買ったのは「銘菓 あわ雪」。

あわ雪

 「あわ雪」は明治元年(1868年)に3代目が創作した和菓子である。あわ雪の名は、岡崎宿の名物であった「淡雪豆腐」にちなんでつけられたものである。

 あわ雪は砂糖と寒天、卵白で作った和菓子で、宿に戻ったあとで食べたが不思議な食感がして、淡い甘さが美味しかった。

 

 夕食はこちら。岡崎公園前駅の目の前にある「大正庵 釜春 本店」。

大正庵 釜春 本店

 私はここで味噌煮込みうどんを注文した。

味噌煮込みうどん

 冷えた体に八丁味噌が染み渡る。美味しい。

 このあとは宿に戻り、明日の「東海道を歩く」に備えることにした。

 それにしても岡崎は、東海道を歩いていなければ行くことを思い立ちもしない場所だったと思う。流石家康生誕の地、家康関係の史跡が多かった。そしてどこも初めて行く場所だったので、見つけたものも多かった。

 さあ、明日は岡崎公園前駅から知立駅まで歩こう。

今回の地図

歩いた日:2024年2月11日

【参考文献】

愛知県高等学校郷土史研究会(2016) 「愛知県の歴史散歩 下 三河」 山川出版社

江戸三十三観音をめぐる 10.赤坂・西麻布編

 前回、江戸三十三観音第20番札所天徳寺、第21番札所増上寺に参拝しながら芝をめぐった。今回は第22番札所長谷寺に参拝しながら、赤坂・麻布をぶらぶらしようと思う。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.迎賓館赤坂離宮

 今日は四ツ谷駅からスタートだ。

四ツ谷駅

 四ツ谷駅から南に歩いて、見えてくるのが迎賓館赤坂離宮だ。

迎賓館赤坂離宮

 ちなみに四ツ谷駅からこの景色にたどり着くまでに、チケットの購入だけでなく、荷物検査も行わなければならない。なぜなら、この迎賓館は現役で使われているからだ。

 迎賓館のある敷地には、紀州徳川家中屋敷があった。

 現在の建物は、大正天皇の皇太子時代の東宮御所として明治42年(1909年)に建造されたもので、設計は東京国立博物館表慶館などの設計で著名な片山東熊。

 日本唯一のネオバロック様式の洋風建築で、パリのヴェルサイユ宮殿ルーブル宮殿がモデルであるという。

 第二次世界大戦後、国会図書館とされた時期もあったがその後改修され、昭和49年(1974年)から国の迎賓施設とされ、迎賓施設として使っていないときは一般公開されている。

 迎賓館赤坂離宮内は撮影禁止のため、文章のみの紹介とさせていただく。

 

 入口から入り、正面玄関を見る。

 正面玄関の鉄扉を開けると、黒と白の市松模様の床に真紅の絨毯が敷かれた玄関ホールを通ることになる。玄関ホールの床は、イタリア産の白い大理石と国産の黒い玄昌石で構成されている。

 

 次に入るのは、花鳥の間。

 花鳥の間の名は、天井に描かれた油絵や壁に飾られた七宝焼が花や鳥を題材にしていることに由来する。現在では主に公式晩餐会や記者会見の場として使用されている。

 壁には30枚の七宝焼の額が飾られ、これは明治を代表する日本画家の 渡辺省亭(わたなべせいてい)が下絵を描き、七宝焼の天才・涛川惣助(なみかわそうすけ)が焼いたもの。

 天井にはフランス人画家が描いた油彩画24枚と金箔地に模様を描いた絵12枚が張り込まれている。

 

 続いて、彩鸞(さいらん)の間。

 この部屋は鳳凰の一種、「鸞(らん)」と呼ばれる架空の鳥のデザインのレリーフがあることからこう呼ばれている。この部屋は、条約の調印式や首脳会談に使用されるそうだ。

 左右の大きな鏡の上部と大理石で作られた暖炉の両脇に、華麗な鳥の彫刻が飾られている。これが「鸞」だ。

 部屋の装飾は19世紀初頭ナポレオン1世の帝政時代にフランスで流行したアンピール様式で、金箔張りのレリーフは軍隊調のモチーフとなっており、なかには鎧武者などの和の要素も組み込まれている。

 天井のレリーフは筋が放射状に広がったもので、ナポレオンのエジプト遠征に想を得たデザインとなっているようだ。

 

 彩鸞の間と朝日の間の間で、中央階段と大ホールを通る。

 中央階段から見上げた南側と北側のアーチに絵が描かれており、2階に向かう賓客には朝日の絵、正面玄関に降りていく賓客には夕日の絵が見えるようになっている。粋な演出だ。

 中央階段を登ると大ホールがあり、天井には東京芸術大学教授・寺田春弌(てらだしゅんいち)による「第七天国」という絵が描かれていた。

 また、朝日の間の扉の左右の壁には洋画家・小磯良平が描いた「絵画」「音楽」という油彩画が飾られている。

 

 朝日の間に入る。

 朝日の間は、賓客のサロン(客間・応接室)として使われ、表敬訪問や首脳会談等も行われる迎賓館で最も格式の高い部屋となっている。

 天井にはフランス人画家による絵が描かれており、朝日を背にした女神オーロラが、左手には月桂樹の枝、右手には馬の手綱を持ち、チャリオットで天空を駆けている姿が描かれていて、これが「朝日の間」の由来。

 朝日の間の床に敷かれた敷物「緞通(だんつう)」は、桜の花をモチーフにしたもので、47種類もの色の糸が使われている。実際に緞通が織られている様子のビデオが放映されていた。

 壁面には2種類の絵が描かれている。ひとつは、鎧、兜、鎖をくわえたライオンの頭が描かれ、陸軍の象徴となっている。もうひとつは、船首、月桂樹、櫂(かい)や銛(もり)が描かれ、こちらは海軍を象徴している。

 

 最後に訪れたのが、「羽衣の間」。

 羽衣の間の由来は、謡曲「羽衣」の景趣を描いた大絵画が天井に描かれていることで、雨天時の歓迎式典や晩餐会の招待客に食前酒が供される場所でもある。

 天井画は高炉から煙が立ち上り、赤やピンクの花が舞う、天女が地上に降り立った直後の空の様子が描かれていて幻想的だ。

 羽衣の間のシャンデリアはクリスタルガラスを主体に7,000個ものパーツを組み合わせた迎賓館で最も大きく、豪華なもので、洋風の仮面や楽器がモチーフに描かれ、舞踏室として使われていた時代をうかがわせる。壁面のレリーフにも洋風の仮面やヴァイオリンなどの洋楽器に交じり、琵琶や鼓などの和楽器も使用されているのも魅力的だ。

 また、舞踏会を催すときに音楽を演奏するオーケストラボックスが部屋の奥にあり、往時は使用していたのだろう、と思った。

 

 迎賓館赤坂離宮本館から出て、庭園から迎賓館を見る。美しい。

 

 このほか和風別館があるが、予約制であり、私が行こうと思ったときは予約でいっぱいになっていたので、またの機会とすることとした。

 

2.赤坂豊川稲荷

 迎賓館赤坂離宮をあとにして、敷地をぐるっと南東端にまわると、赤坂豊川稲荷がある。

赤坂豊川稲荷

 赤坂豊川稲荷は、正式名称を豊川吒枳尼真天堂(とよかわだきにしんてんどう)といい、キツネの化身とされる吒枳尼天を本尊とする寺院である。

 この吒枳尼天は、愛知県豊川市にある妙厳寺(みょうごんじ)山門の鎮守神を、大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)が赤坂一ツ木の邸内にまつったもので、のちに一般の参詣者に開放されて繁盛したという。現在地に移ったのは明治20年(1887年)のこと。

 赤坂界隈の飲食店や芸能関係の人々の信仰を集め、奥の院一帯の参道両側には奉納された幟がびっしりとたち並び、「千本のぼり」とよばれている。

千本のぼり

 参拝し、御朱印をいただいた。

 

 境内で「いなりん」を発見した。

いなりん

 いなりんは愛知県豊川市のマスコットキャラクターで、キツネと豊川いなり寿司を合体させたキャラクターである。少し前に東海道豊川市を歩いたとき、いなりんのマンホールを見つけた。

 

 いなりんマンホールは「東海道を歩く 30.札木停留場~御油駅 5.速素佐之男神社」で登場している。

octoberabbit.hatenablog.com

 

 境内を散策していると、キツネがみんなこっちを見ている。少し怖くて、手を合わせた。

 

3.高橋是清翁記念公園

 赤坂豊川稲荷をあとにして、国道246号線沿いをしばらく進むと、高橋是清翁記念公園に到着する。

高橋是清翁記念公園

 高橋是清は首相・蔵相を歴任して昭和初期の日本の政治経済に大きな足跡を残したが、二・二六事件のときに自邸で暗殺された。

 高橋是清の邸宅跡が昭和13年(1938年)に東京市へ寄付され、公園とされたものが、高橋是清翁記念公園である。

 空襲で当時の建物は焼失したが、焼け残った母屋が小金井市江戸東京たてもの園に移築・保存されている。

 高橋是清銅像が公園の奥にあった。命日である2月26日のあとだったからか(この日は3月3日)、花が供えられており、そっと手を合わせた。

 

4.乃木神社

 赤坂郵便局前交差点を左折して南に進むと、旧乃木邸がある。

旧乃木邸

 乃木希典は、日露戦争の旅順攻略戦のときの陸軍司令官で、退役後は学習院長などもつとめた人物である。

 大正元年(1912年)9月、明治天皇の大葬に際して妻の静子とともにこの邸宅で殉死したのは有名な話である。

 乃木邸は明治35年(1902年)の築造で、フランス軍隊の建物を模したという半地下の部屋をもつ木造平屋建て。

 普段は非公開で、周囲に通路がめぐらされていて外から内部をみることができる。

 

 旧乃木邸の厩(うまや)は明治22年(1889年)に建てられたもの。飼っていた馬の名前は壽(す)号と、璞(あらたま)号。

 

 旧乃木邸の坂の下に、乃木神社がある。

乃木神社

 乃木神社は乃木夫妻を祭神とした神社で、大正12年(1923年)に創立された。

 乃木神社でも御朱印をいただいた。デザインがかわいい。

 

 乃木神社の前の坂道は乃木希典からとって「乃木坂」と名づけられているが…まあ、現在では「乃木坂」と聞いて乃木希典乃木神社を連想する人よりも、アイドルグループ「乃木坂46」を連想する人のほうが多いだろう。

乃木坂

 

5.長谷寺

 都道413号線を通り、長谷寺へ向かう。途中、青山霊園の上を通った。

青山霊園

 美濃郡上藩青山家の下屋敷だったところを明治5年(1872年)に明治政府が神式墓地として造成した。まもなく神式・仏式を問わず埋葬するようになり、管理は東京府に移された。

 公園墓地の草分けのひとつで、26万㎡余の敷地には、大久保利通墓はじめ犬養毅らの政治家、乃木希典らの軍人、斎藤茂吉国木田独歩志賀直哉らの文化人を含む約11万人が眠っている。

 

 根津美術館前の交差点で左折し、住宅街のなかの道をいくと長谷寺がある。

長谷寺

 長谷寺曹洞宗の寺院である。

 慶長3年(1598年)、大和・鎌倉両長谷寺と同じ木・同じ作者と伝えられる小十一面観音像が安置されていた御堂の地に、今川義元の孫で、徳川家康の師でもあった門庵宗関(もんなんそうかん)大和尚を開山に迎えて開創された。

 正徳6年(1712年)には、この像を宝冠のなかに収めて2丈6尺の大観音が建立され、江戸三十三箇所の観音霊場のひとつとして庶民の信仰を集めた。

 昭和20年(1945年)に戦災で堂宇が焼失したが復興、昭和24年(1949年)に永平寺東京別院となり、昭和42年(1967年)には専門僧堂の認可も受け、東京の禅の修行道場のひとつとなった。

 戦火で大観音も焼失し、昭和52年(1977年)に10年かけて再建、現在はくすのきの一木彫、高さ3丈3尺(約10m)の十一面観音像で「麻布大観音」と親しまれている。

 麻布大観音はこの大観音堂に安置され、見ることができる。とても大きかった。

観音堂

 寺務所に行き、御朱印をいただいた。

 

 また、長谷寺には江戸時代の医師の井沢蘭軒、鹿鳴館外交で著名な政治家の井上馨、洋画家の黒田清輝喜劇王エノケンこと榎本健一、歌手の坂本九らの墓がある。

 

 長谷寺をあとにして、表参道駅前のスタバで「花見だんごフラペチーノ」を飲んでから帰路につくことにした。花見だんごフラペチーノはだんごがタピオカのようで美味しかった。

花見だんごフラペチーノ

 迎賓館赤坂離宮はまぶしいほどに豪華絢爛な洋館だった。次回行くときは和館にも行ってみたい。豊川稲荷にはいつか行きたいと思っていたので、赤坂豊川稲荷に参拝したことで少しは御利益がいただけた…と信じたい。

 高橋是清翁記念公園で二・二六事件で亡くなった高橋是清の冥福を祈った。乃木神社乃木希典に思いを馳せたが、現在ではアイドルグループのほうが有名になってしまったのは何ともいえないと思う。長谷寺の麻布大観音はとにかく大きく、今まで見た江戸三十三観音のなかでも最も大きかったと思う。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図



歩いた日:2024年3月3日

【参考文献・参考サイト】

俵元昭(1979) 「港区の歴史」 名著出版

江戸札所会(2010) 「昭和新撰江戸三十三観音札所案内」

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

内閣府 迎賓館赤坂離宮

https://www.geihinkan.go.jp/akasaka/

(2024年4月3日最終閲覧)

東海道を歩く 32.藤川駅~岡崎公園前駅

 前回、御油駅から藤川駅まで歩いた。今回は藤川駅から岡崎公園前駅まで歩こうと思う。岡崎城下町は「東海道岡崎城下二十七曲り」と言われ、27回ものクランクがある。寄り道しつつ見失わないように、歩いていこうと思う。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.十王堂

 今日は藤川駅からスタートだ。

藤川駅

 少しお腹がすいているのと、藤川宿の御宿場印をもらうために道の駅藤川宿へ立ち寄る。

道の駅藤川宿

 道の駅藤川宿の前で消火栓を見つけた。

 これは昭和62年(1987年)に製作したデザインマンホールの岡崎城と桜、三河花火を背景に、岡崎市消防本部マスコットキャラクターのレッサーくんとはしご車が描かれている。

 

 道の駅藤川宿に入り、御宿場印とマンホールカードをゲットした。

御宿場印

マンホールカード

 このマンホールは内藤ルネのマンホールで、内藤ルネ昭和7年(1932年)に岡崎市で生まれたイラストレーター、デザイナーである。岡崎市内7か所に内藤ルネマンホールが設置してあり、道の駅藤川宿の前にも設置してある。

 

 道の駅藤川宿でモーニングセットをいただいた。

モーニングセット

 岡崎の地鶏卵「ランニングエッグ」に、岡崎市産のむらさき麦ごはん、むらさき麦きしめんとさらにサラダやコーヒーもついて600円。

 これを読んでる人に道の駅藤川宿へ行く機会がある人がいるかはわからないが、オススメしたい逸品である。

 

 卵かけごはんを食べて元気になったところで、東海道ウォークを始めよう。

 

 少し歩いていったら、藤川宿の西棒鼻があった。

藤川宿西棒鼻

 「棒鼻」とは棒の端、すなわち棒の先端をいい、それが転じて、宿場のはずれを「棒鼻」と称し、したがって宿場町では東、西の両方のはずれをいう。

 藤川駅は、藤川宿の西のはずれにあるのですぐ西棒鼻となった。藤川宿について詳しく知りたい人は前回の「東海道を歩く 31.御油駅~藤川駅」10.藤川宿 を参照してほしい。

 

 藤川宿西棒鼻から少し行ったところに、十王堂がある。

十王堂

 十王堂とは、10人の王を祀る堂で、その王とは、冥土にいて、亡者の罪を裁く10人の判官をいう。

 泰広王(しんこうおう)、初江王(しょこうおう)、宗帝王(そうていおう)、五官王(ごかんおう)、閻魔王(えんまおう)、変成王(へんじょうおう)、平等王(びょうどうおう)、太山王(たいざんおう)、都市王(としおう)、五道転輪王(ごどうてんりんおう)の10人である。

 藤川宿の十王堂はいつごろ創建されたかは不明だが、十王が座る台座の裏に「宝永七庚寅年(1710年)七月」と書かれているので、この十王堂の創建はこの年であると推測されている。

 

 十王堂の隣には松尾芭蕉の句碑がある。

 「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつばた はせを」と刻まれている。

 「在原業平により、かきつばたで有名な知立宿も三河なら、この藤川宿も三河、ここにはむらさき麦というかきつばたに劣らぬものがありますよ」と詠んでいる。

 むらさき麦は戦後に姿を消したが、30年ほど前から藤川の町おこしとして、地元民が栽培を復活させている。先ほど食べたモーニングセットのごはんときしめんにもむらさき麦が使われていた。

 

2.藤川の松並木

 十王堂から少し行くと、藤川宿の一里塚跡がある。

藤川宿の一里塚跡

 藤川宿の一里塚跡は江戸から79里の一里塚である。

 一里塚の上には榎が植えられているものだが、南側の一里塚の榎は天保年間(1830年頃)にはすでになくなってしまい、北側の榎も昭和初期にはなくなってしまったようだ。

 

 吉良道の道標を見つけた。

吉良道道

 東海道は、藤川宿の西端で南西の方向に分かれて、土呂(現在の岡崎市福岡町)、西尾、吉良(旧幡豆郡吉良町、現在は西尾市に合併)方面へ出る道がある。この道を「吉良道」と呼んでいて、その分岐点にこの道標が立っている。

 

 吉良道道標を見て踏切を越えると素晴らしい景観が広がっている。藤川の松並木だ。

藤川の松並木

 慶長9年(1604年)、江戸幕府東海道を整備するなかで、道の両側に築かれた土塁に松が植えられた。松並木は夏は木陰となり、冬は防風林となり、街道を行く旅人に安らぎを与えていた。

 藤川の松並木は旧東海道にあたる、愛知県道市場福岡線および、岡崎市道藤川北荒古6号線の約1kmにわたる。その間に100本あまりのクロマツが並び、当時の景観を今にとどめている。

 松並木を気持ちよく歩いていると藤川町西交差点で国道1号線に合流し、松並木は終わる。

 

 ひたすらに国道1号線を歩き、竜泉寺川を渡る少し前で旧道に入る。

 

 藤川の松並木ほどではないが、少しだけ松が生えているのがうれしい。

 

 ひたすら旧道を歩き、乙川を渡るところで国道1号線に戻り、乙川を渡る。橋の上に323キロポストも見つけた。

乙川

323キロポスト

 このマンホールは初めて見る気がする。

 このマンホールは岡崎城と、乙川を走る五万石船がデザインされている。

 

3.西大平陣屋跡

 乙川を渡るとまた旧道に戻り、大平町東交差点で国道1号線に交差しつつも旧道を進む。

 本日初の秋葉灯籠を見つけた。

秋葉灯籠

 秋葉神社の信仰が秋葉信仰で、それにより秋葉灯籠が設置される。

 秋葉神社の正式名称は秋葉山本宮秋葉神社といい、浜松市天竜区にある。

 火の幸を恵み悪火を鎮め、諸厄諸病を祓う火伏開運の霊験が最も有名だが、そのほかにも火災消除、家内安全、厄除開運、商売繁盛、工業発展にも霊験があるという。

 

 秋葉灯籠から進むと、「つくで道」の道標を見る。つくで道は、新城市の作手(つくで)に至る道である。

つくで道

 「西大平藩陣屋跡」「大岡稲荷社」とあったので、覗いてみる。

西大平藩陣屋跡

 西大平藩の成立は、大岡忠相寛延元年(1748年)に奏者番寺社奉行に就任して三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4,080石を加増され1万石の譜代大名となり、西大平に陣屋を設置したことに始まる。

 安永元年(1772年)以降は藩領の変動はなく、三河国内に9,000石、上総国相模国に1,000石の領地があり、9割が三河国内の領地となっていた。

 西大平に陣屋が置かれたのは東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、三河の領地が最も多かったことが考えられている。

 

 初代藩主、大岡越前守忠相は徳川8代将軍吉宗のもとで江戸町奉行として仕え、享保の改革として多くの改革を行った。

 著名なものに、相対済し令(金銀貸借などお金関係の訴訟は当事者同士で解決するよう命じた法令)、目安箱の設置、小石川養生所(無料医療施設)の設置、いろは四十七組の町火消の組織化、江戸防火対策である火除地の設置、建築基準(屋根を瓦葺きにするなど)の設置など、江戸庶民の生活向上に尽力した。

 しかし初代の大岡忠相が藩主だったのはわずか3年間で、宝暦元年(1751年)に亡くなっている。その後は廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治め続けていた。

 

 西大平藩陣屋跡の一角に、大岡稲荷社がある。

大岡稲荷社

 大岡越前守忠相は、領地に近い三河国宝飯郡豊川村にある豊川稲荷の本尊、「吒枳尼眞天(だきにしんてん)」を厚く信仰していた。

 江戸赤坂の藩邸内に豊川稲荷の分霊社として赤坂稲荷を祀り、西大平陣屋内に大岡稲荷として社殿を建立し、「豊川吒枳尼尊天」を本尊として祀った。

 

4.大平一里塚

 西大平陣屋跡をあとにして、東海道を歩いていくと大平一里塚がある。

大平一里塚

 大平一里塚は東海道の一里塚のうちのひとつで、日本橋から80里にあたる。

 現在の大平一里塚は、昭和3年(1928年)に道路改修の際、北側の塚は破壊され、南側だけが残ったもので、塚の大きさは高さ2.4m、底部縦7.3m、横8.5mで、中央には榎が植えられている。

 北側の塚は破壊されたが、そのかわりに(?)、大きな秋葉灯籠が設置されていた。

 

 大平一里塚から少し進み、大平八幡宮に参拝する。

大平八幡宮

 大平八幡宮の創建年代は不詳だが、明治42年(1909年)に白山社、御鍬社、日枝社を合祀しているようだ。

 ちなみに住所、氏名、日付を書き、300円と一緒に賽銭箱に入れれば御朱印を送ってくれるそうだが、そこまではしなくていいかな…と思った。

 

 また国道1号線に戻るが、一旦旧道に入り、国道1号をカルバートでくぐって進む。

 

 スイセンが綺麗に咲いていた。

 

 歩道に小さな松並木がある。こういうのでも、嬉しくなる。

 

 秋葉灯籠の下に…水準点発見!

 一等水準点第165-1号は明治33年(1900年)に設置された古い標石型の水準点である。100年以上前に設置された割には綺麗だ。

 

 冠木門があり、岡崎二十七曲がりの始まりを告げる。

 天正18年(1590年)、徳川家康の関東移封後に岡崎城主となった田中吉政は、以後10年間を岡崎城主としてすごしたが、彼の最大の課題は、関東の家康に対する備えをもったあらたな城下町の建設であった。

 吉政は、城下町を堀と土塁で囲む総曲輪とし、櫓門を築いて防備をかためるとともに、それまで乙川の南をとおっていた東海道を城下町に引き入れた。その際、城下の道を防衛上の必要性から屈折の多い道にかえた。これは、外敵に対して城までの距離をのばすとともに、間道を利用した攻撃や防衛を目的としていた。

 このことで、岡崎宿の町並みは東海道の各宿場町のなかでもっとも長いものとなり、岡崎二十七曲がりとよばれるようになった。

 

5.丸石醸造

 まず、冠木門のある交差点を北に向かい、若宮町2丁目交差点を左折する。

 

 「い これより次の両町角まで 650m」と書かれている看板が目印だ。

 

 根石観音堂を見つけた。普段は若宮町公民館として使用しているらしい。

根石観音堂

 和銅元年(708年)に悪病が流行り、人々は苦しんでいた。

 このことに心を悩んだ元明天皇行基を呼び、悪疫を絶やしてほしいと願った。

 そこで行基は6体の観音像を彫り、そのうちの2体を根石の森に勧請、17日間祈祷を続けたところ悪病は収まり、人々は大変喜んだ。このうち1体がこの観音堂に納められている。

 また、岡崎三郎信康も天正元年(1573年)の初陣のときにこの観音様に祈願し、軍功をあげて以来開運の守り尊像としてあがめられているようだ。

 

 東海道はまだ西に進むが一旦寄り道で両町3丁目交差点で右折し、丸石醸造に向かう。

丸石醸造

 丸石醸造は創業者・投町三太夫が酒造りの方法を知り、元禄3年(1690年)に酒造業を興したことに始まる。

 明治時代に入り木綿業・銀行業などの事業拡大をしつつ、明治33年(1900年)に灘で酒造りを始めた。当時は灘の酒を「長誉」、岡崎の酒を「三河武士」としていた。その後岡崎で焼酎、みりん、味噌、醤油造りなども始める。

 しかし太平洋戦争中の岡崎空襲により蔵のほとんどを失うが、わずかに残った味噌蔵を再築、日本酒造りを再開し、現在に至っている。

 現在作っている銘柄は「二兎」「徳川家康」「三河武士」「長誉」「魅惑の果実」。

 友人は酒が苦手なのと、私もそこまで強くはない。そして日本酒を持ち帰るにも重いので、「大吟醸徳川家康アイス」を食べることにした。ほのかに日本酒の風味がして美味しかった。

 

 両町3丁目交差点に戻り、東海道をまた歩き始める。

 「は これより次の伝馬町角にまで 80m」と書かれた交差点を右折する。

 

 秋葉灯籠が展示されていた。

 この秋葉灯籠は寛政2年(1790年)に建てられたもので、空襲で崩れかけるも昭和47年(1972年)まで原型をとどめていた。

 しかし傷みがひどくなったので取り壊し、宝珠だけを残して保存している。

 

 次の交差点で左折して先に進む。

 

 また寄り道する。伝馬町通5丁目交差点で右折し、曙町2丁目交差点で右折、すぐ左手側に真宗大谷派 三河別院がある。

真宗大谷派 三河別院

 真宗大谷派 三河別院は明治23年(1890年)に建てられた新しい寺院である。しかし当時の本堂は空襲で焼失したため、昭和43年(1965年)に再建された。

 真宗大谷派 三河別院に寄る途中に徳王稲荷金刀比羅社を見つけたので、そちらにも寄る。

徳王稲荷金刀比羅社

 徳川家康も弓の稽古で訪れた由緒正しい神社で、徳王稲荷社と金刀比羅社に2社が合祀されている。

 徳王稲荷金刀比羅社では御朱印をいただいた。

 

6.隋念寺

 伝馬通5丁目交差点から東海道に戻り、少し西に進んでからまた寄り道で、隋念寺に向かう。

隋念寺

 隋念寺は、徳川家康が祖父の松平清康と叔母の久子の菩提をとむらうため、永禄5年(1562年)に創建したもので、松平家・徳川家の菩提寺大樹寺15世の麘誉魯聞(こうよろぶん)上人を開基としている。

 松平清康は天文4年(1535年)、尾張への勢力拡大をねらった守山の陣中で、家臣の阿部弥七郎に殺された。その遺骸は岡崎に運ばれこの地で荼毘に付され墓塔が建てられた。

 また、永禄4年(1561年)、生母の於大との生別以来、家康を養育してきた久子が没すると、彼女の遺言でその墓塔が清康の墓と並んで建てられた。寺号は、久子の法名、隋念院にちなんで仏現山隋念寺と名づけられた。

 本堂は元和5年(1619年)、2代将軍の徳川秀忠によって再建されたもので、三河浄土宗本堂のなかでは最古のものらしい。

 学制が公布された明治5年(1872年)の翌年に第一番小学岡崎学校がおかれ、明治32年(1899年)には、愛知第二師範学校(現在の愛知教育大学)の開校準備も隋念寺で行われた。

 

 隋念寺でも御朱印をいただいた。

 

 隋念寺をあとにして、東海道に戻る。伝馬交差点に備前屋を見つけた。

備前

 備前屋は天明2年(1782年)創業の和菓子屋で、「あわ雪」という銘菓を売っている。

 「あわ雪」は明治元年(1868年)に3代目が創作した和菓子である。あわ雪の名は、岡崎宿の名物であった「淡雪豆腐」にちなんでつけられたものである。

 あわ雪は砂糖と寒天、卵白で作った和菓子で、翌日に食べたが不思議な食感がして、淡い甘さが美味しかった。

あわ雪

 備前屋の前にはさまざまな石像が置かれている。これは茶壷の石像。

 寛永9年(1632年)に宇治茶を将軍家に献上することに始まったのがお茶壷道中である。行程の都合により、岡崎伝馬宿で一行が御馳走屋敷で休むことになり、御馳走屋敷には岡崎藩の家老が出向き、丁重にもてなしたとの記録が残っている。

 

 これは朝鮮通信使の石像。

朝鮮通信使

 江戸時代を通し、李氏朝鮮は将軍に向けて12回ほど使節の派遣をした。

 一行は瀬戸内海を抜け、大阪から京都に入り、陸路で江戸に向かう途中、岡崎宿に泊まった。岡崎宿は将軍の慰労の言葉を伝える最初の宿泊地であったので、岡崎宿の応対は一大行事であったようだ。

 

 助郷の石像。

助郷

 助郷とは宿場で公用旅行者に継立する人馬の基準数、人70人、馬80匹で不足する分を周辺の村々から雇い入れる制度で、元禄7年(1694年)に正式に実施されている。

 助郷負担の話は東海道でもたびたび聞くが、岡崎も例外ではなかったようだ。

 

 こちらもほかの宿場でも登場する、飯盛女。

飯盛女

 飯盛女は旅籠で旅人の給仕などをする女性だったが、唄や踊りを披露する遊女でもあった。

 岡崎宿の飯盛女は唄に歌われたり紀行文に記されるなど全国的に有名だったらしい。

 しかし飯盛女の華やかさの裏には悲惨な世界もあることを忘れてはならない。御油宿の遊女の悲劇の話は、前回「東海道を歩く 31.御油駅~藤川駅 1.御油のマツ並木」の東林寺で取り上げたばかりだ。

 

 田中吉政は、先ほども取り上げた通り岡崎二十七曲がりなど、岡崎のまちづくりを行った人物だ。

田中吉政

 

 各宿場の人足会所・馬会所で宿場ごとに馬や人足を雇いながら旅をしたが、これを人馬継立という。東海道では53ヶ所の宿駅でこのような継立をしたので「東海道五十三次」と呼ばれたのだ。

人馬継立

 

 三度飛脚の像もあった。

三度飛脚

 飛脚は現在でいう郵便配達人にあたり、あずかった書状などを入れた箱をかつぎ、目的地に届けていた。

 飛脚には公用の継飛脚、大名飛脚のほか、一般用の町飛脚があり、三度飛脚というのは毎月東海道を3往復したことからその名がある。東海道は492kmもあり、マラソンランナーもびっくりである。

 

 これは塩船の像。

塩船

 塩座というのは塩を専売する権利のことで、岡崎では伝馬町と田町が権利を有し、伝馬町では国分家などが商っていた。塩は塩船に載せて運ばれてきたようだ。

 

 タイの石像があったが、これは御馳走屋敷で出てくるタイをイメージしたものらしい。

 御馳走屋敷とは、現在の岡崎信用金庫資料館あたりにあった屋敷のことで、公用の役人などをもてなす岡崎藩の迎賓館だったそうだ。

 

 石像を見終わると、また岡崎宿二十七曲がりのクランクがあり、左折する。

 

 次の交差点でまた右折。

 

 明治に建立された古い道標がある。

 「↑東京みち ←西京いせ道 ↓きらみち」と書いてある。

 

7.岡崎信用金庫資料館

 歩いていると、突然大きな赤レンガの建物が右手側に現れる。岡崎信用金庫資料館だ。

岡崎信用金庫資料館

 岡崎信用金庫資料館は鈴木禎次(すずきていじ)が設計した。鈴木禎次は東京帝国大学辰野金吾に師事していた。どうりで辰野金吾の建築に似ていたわけだ。

 また、鈴木禎次の奥さんと夏目漱石の奥さんが姉妹だったこともあり、夏目漱石とも仲が良く、漱石の小説に登場したこともあったようだ。

 鈴木禎次設計作品は97件現存しており、そのうち56件が愛知県に現存、51件が名古屋市内に現存している。それもあって「名古屋をつくった建築家」とも呼ばれている。

 

 1階は鈴木禎次についての展示、2階は世界のお金についての展示である。

 まず、江戸時代の小判などを見る。

 

 続いて日本の記念硬貨天皇陛下(現在の上皇陛下)御即位記念10万円金貨、実家にあった気がする。令和の天皇陛下のときも販売されて、一瞬欲しいなと思ったけど10万円も払えないので諦めた。

 

 古い紙幣も展示されている。このうち、古い10,000円札(福沢諭吉が描かれているのは同じだが、裏に鳳凰ではなく雉が描かれている)、2代前の聖徳太子が描かれた5,000円札、夏目漱石が描かれた1,000円札は持っている。いずれ、現在使われている福沢諭吉樋口一葉野口英世のお札も渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎のお札に置き換わっていくだろう。

 

 世界のお金も展示されている。

 一番右のベトナムは見事に同じ人物が描かれている。同行していた友人は仕事でベトナムに行ったことがあるので「これ誰?」と聞いたら「ホー・チ・ミン」と答えられた。

 ホー・チ・ミンベトナムの革命家・政治家で、植民地時代からベトナム戦争までのベトナム革命を指導した建国の父である。

 1万ドン、2万ドン、5万ドン、10万ドンが置かれていて、「1万ドンって日本円だといくら?」と友人に聞いたら「60円くらいだからチロルチョコは3つしか買えないよ」と答えられた。つまり1番上の10万ドンでも、野口英世に満たない、ということか…。

 

 インド、パキスタン、イランのお札が並ぶ。とりあえず全部同じ人物が描かれているのはわかる。

 インドはマハトマ・ガンディーが描かれている。マハトマ・ガンディーはインドの宗教家・政治指導者でインド独立の父として知られる。

 余談だが、ガンディーの誕生日は10月2日、私の誕生日も10月2日。ガンディーの誕生日はインドでは国民の休日になっているので、もしインドに生まれていたら私の誕生日が国民の休日だった…!と考えたことはある。

 パキスタンのお札はムハンマド・アリー・ジンナーが描かれている。ムハンマド・アリー・ジンナーは独立パキスタンの初代総督として知られる。

 イランのお札はルーホッラー・ホメイニーが描かれている。ルーホッラー・ホメイニーはイラン革命の指導者で、以後はイラン・イスラム共和国の最高指導者となった人物だ。

 

 ドイツとフランスは日本同様、額によって描かれている人は違う。

 ドイツの50マルク紙幣はヨハン・バルタザール・ノイマン(建築家)、100マルク紙幣はクラーラ・ヨゼフィーネ・シューマン(ピアニスト・作曲家)、500マルク紙幣はアンナ・マリア・ジビーラ・メーリアン(画家)、1000マルク紙幣はグリム兄弟(文学者、グリム童話集の編集者)。

 フランスの50フラン紙幣はアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(小説家・飛行家、「星の王子さま」の著者)、100フラン紙幣はポール・セザンヌ(画家)、200フラン紙幣はギュスターヴ・エッフェル(建築家、エッフェル塔の設計者)、500フラン紙幣はキュリー夫妻(物理学者、ラジウムを発見した)。

 現在ではどちらもユーロに置き換えられてしまったが、調べてみるとグリム兄弟、サン=テグジュペリ、キュリー夫妻など知っている人の名前もあって面白い。

 

 ロシアとベラルーシは都市や建物が描かれているのが面白い。

 ロシアは都市が描かれていて、50ルーブル紙幣はサンクトペテルブルク、100ルーブル紙幣はモスクワ、500ルーブル紙幣はアルハンゲリスク、1000ルーブル紙幣はヤロスラヴリとなっている。

 ベラルーシは建物が描かれている。50ルーブル紙幣はブレストの英雄要塞、1000ルーブル紙幣は国立美術館、5000ルーブル紙幣は体育宮殿、10000ルーブル紙幣はヴィチェプスクという都市の全景が描かれている。

 ウクライナの紙幣も偉人で、5フリヴニャ紙幣はボフダン・フメリニツキー(貴族、ウクライナ・コサックの指導者)、10フリヴニャ紙幣はイヴァン・マゼーパ(政治家)、20フリヴニャ紙幣はイヴァン・フランコ(作家)、50フリヴニャ紙幣はミハイロ・フルシェフスキー(歴史学者、政治家)である。

 

 東カリブ通貨同盟の紙幣は全てエリザベス女王が描かれている。

 ちなみにこのお札はアンティグア・バーブーダセントルシアドミニカ国グレナダ、セントクリストファー・ネービス、セントビンセント・グレナディーン諸島、アンギラ、モンセラットの8か国・地域で使えるようだ。

 

 マダガスカルの紙幣は面白い。

 500マダガスカルアリアリ紙幣にはかごを織る男性、1000マダガスカルアリアリ紙幣にはクロシロエリマキキツネザル、2000マダガスカルアリアリ紙幣にはバオバブの樹、5000マダガスカルアリアリ紙幣には船が描かれている。

 中央アフリカCFAフランガボン、チャド、赤道ギニア中央アフリカコンゴカメルーンの6か国で流通している。

 500中央アフリカCFAフラン札は学校教育、1000中央アフリカCFAフラン札は林業、2000中央アフリカCFAフラン札は水力発電、10000中央アフリカCFAフラン札は中部アフリカ諸国銀行が描かれている。なお、描かれている人物は特定の人物ではないらしい。

 

 南アフリカのお札には動物が描かれている。

 10ランド紙幣はサイ、20ランド紙幣にはアフリカゾウ、100ランド紙幣にはアフリカスイギュウ、200ランド紙幣にはアフリカヒョウが描かれている。

 エジプトのお札も面白い。10ポンド紙幣にはカフラー王の彫像、20ポンド紙幣にはセソストリス神殿、50ポンド紙幣にはエドフ神殿、100ポンド紙幣にはスフィンクスが描かれている。

 

 西アフリカCFAフランのお札はどれも同じで、教育と医療が描かれている。

 ナイジェリアは50ナイラ紙幣にはイボ・ヨルバ人の人々が描かれているが、100ナイラ紙幣にはオバフェミ・アウォロウ(政治家)、200ナイラ紙幣にはアフマドゥ・ベロ(政治家)、500ナイラ紙幣にはンナムディ・アジキウェ(政治家)が描かれている。

 

 世界のお金を見終わると、岡崎信用金庫についての説明があった。

 岡崎信用金庫大正13年(1924年)に有限責任岡崎信用組合として設立し、昭和26年(1951年)に岡崎信用金庫となった。

 現在は愛知県東部を中心に多くの支店を持ち、岡崎市には本店を含め34店舗ある。

 

8.菅生神社

 岡崎信用金庫資料館をあとにして、緑道のある道を右折して直進すると籠田公園がある。

籠田公園

 籠田公園は昭和33年(1958年)に開園した公園である。

 右手に鳩の像があるが、これは戦災復興之碑である。

戦災復興之碑

 戦災復興之碑は岡崎空襲の慰霊碑である。

 岡崎空襲とは、昭和20年(1945年)7月19日から20日にかけて行われた空襲で、280名の死者を出した。そっと手を合わせる。

 

 籠田公園の北西端に大きな秋葉山常夜燈がある。

秋葉山常夜燈

 この秋葉山常夜燈は寛政10年(1798年)に石工の七左衛門によって籠田総門付近に建立されたものである。

 岡崎空襲にも被災することなく残り、昭和25年(1950年)に籠田公園に設置、昭和56年(1981年)に現在地に移転した。

 

 籠田公園北西交差点から西に向かう。岡崎シビコ北の交差点で東海道は右折するが、菅生神社に寄り道するために直進する。

 岡崎藩校允文(いんぶん)・允武(いんぶ)館跡を見つけた。

岡崎藩校允文・允武館跡

 岡崎藩主本多忠直は江戸にあった藩校を明治2年(1869年)にここに移した。その後明治4年(1871年)に市学校を設立して一般市民を教育することになり、藩校は廃止された。明治5年(1872年)に市学校は県立額田郡小学校と改められた。ここは岡崎の学校のはじまりの地なのである。

 

 突き当たりを左折して、国道1号線を越えて南に進むと菅生神社がある。

菅生神社

 第12代景行天皇の時代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征したとき(110年)、矢を作り、矢を吹き流し、その矢が刺さった場所に伊勢大神を奉祀したのが菅生神社である。菅生神社は岡崎最古の神社とされている。

 徳川家康も25歳のときに厄除け・開運の祈願を行っているなど、歴代岡崎城主も崇敬していたようだ。

 

 菅生神社で御朱印をいただいた。

 

 岡崎藩校允文・允武館跡に戻り、岡崎シビコ北の交差点で北に進む。

 

 次の交差点で左折する。

 

 材木町交差点で右折する。

 

 ファミリーマート岡崎材木町店のある交差点を左折。

 

 柿田橋の手前で左折。

 

 川沿いに白山神社がある。

白山神社

 白山神社は大林寺境内にあったものを天文16年(1547年)6月11日に岡崎城主の松平康忠(徳川家康の父親)が兜のなかに納めていた守護神を鎮座して、ここに社殿を建立したのが起源であったといわれている。

 なお、ここにも秋葉灯籠があった。

 

 川沿いを歩き、次の三清橋で右折。

 

 沖縄でもないのに、なぜか石敢當を発見した。

 石敢當とは丁字路の突き当たり等に設けられる魔除けの石碑で、主に沖縄県に多く分布する。

 

 三清橋を渡ったら、細い道で路地に入る。

 

 すぐに左折。

 

 国道1号に突き当たるので、歩道橋を渡り対岸に行く。次の交差点で右折する(写真撮り忘れ)。

 そのまま直進し、鬼頭理容院のある交差点で右折する。

 

 中岡崎町交差点で「た」の案内板を見る。東海道はここから西に向かっていくが、今日の東海道ウォークはここまでとする。

 

 岡崎公園前駅に到着した。

岡崎公園前駅

 ここから、もう少しだけ歩き続ける。

 

9.岡崎城

 岡崎公園前駅から岡崎城に向かう。岡崎城に入る前に、龍城神社に参拝する。

龍城神社

 龍城神社は明治9年(1876年)、岡崎城内にあった東照宮と映世神社が合祀されてここに建てられたものである。

 東照宮の創建は明らかでなく、当初本丸にあったが、明和7年(1770年)に三の丸に移された。このとき忠勝をまつる映世神社が本丸にたてられている。なお、現在の社殿は昭和39年(1964年)に再建されたものである。

 

 龍城神社でも御朱印をいただいた。

 

 さあ、岡崎城に入ろう。

 

 岡崎城は、明大寺に屋敷を構えていた三河守護代 西郷頼嗣(さいごうよりつぐ)が、康正元年(1455年)、北方への備えから乙川の北側に砦を築いたことが始まりと考えられている。

 その後、安祥城(あんしょうじょう)を居城としていた徳川家康の祖父・松平清康が、当時岡崎に勢力をもっていた大草松平氏の松平信貞(まつだいらのぶさだ)を屈服させて移り、享禄3年(1530年)頃に本格的な築城を行ったとされる。

 徳川家康岡崎城で生まれたため、岡崎城には家康産湯の井戸がある。天文11年(1542年)12月26日、幼名竹千代、のちの徳川家康がここで産声をあげたときに産湯の水を汲んだ井戸である。

 松平清康の死後、家康の父・松平広忠は、東の今川氏と西の織田氏にはさまれて苦闘し、家康も8歳で今川氏の人質となるほか、広忠は家臣の岩松八弥に城内で殺され、岡崎城は今川方の城となった。

 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦い後に自立した家康は岡崎城にはいり、10年後に浜松城に移るまでこの城を根拠地としてほぼ三河一石を平定した。

 家康が浜松に移ってからの岡崎城は、家康の長男・松平信康石川数正、本多重次の各城代時代を経て、家康の関東移封後には豊臣秀吉の家臣・田中吉政が入城し、大規模な城郭の整備拡張が行われた。

 元和3年(1617年)に本多康紀が3層3階地下1階の天守閣を完成させたが、明治6年(1873年)から翌年にかけて取り壊された。

 現在のものは、昭和34年(1959年)に復元されたもので、歴史資料館になっており、1階が受付、2階から4階で歴史資料などを展示し、最上階は展望台となっている。

 

 受付を済ませ、2階へ上がると岡崎城の歴史の概要と、ジオラマが展示されていた。

 

 本多忠直所用の登城用具足が展示されていた。

 本多忠直は岡崎藩の第6代の藩主で、幕末期に藩政を行っていた。

 

 江戸時代の胞衣皿が展示されていたが、家康のものではないだろう。多分。

 

 岡崎城下町には戦国時代末に田中吉政が新設した材木町に、美濃国関鍛冶の刀工が移り住み、「兼有」名で代々作刀していた。

 上は龍城臣吉達が作刀した脇指、下は藤原兼有が作刀した脇差である。

 脇差とは日本刀よりも短い日本刀のことである。

 

 太刀 銘三河國龍城。龍が彫ってあって細かい。

 

 3階は岡崎の城下町についての説明とジオラマが展示されていた。城下町についての説明は岡崎宿二十七曲がりや矢作橋、御馳走屋敷など。矢作橋以外は先ほど説明したし、矢作橋についても次回取り上げる予定なので割愛する。

 

 最上階は展望台で、岡崎のまちを一望することができる。

 

 最後に売店で御城印と城カードをゲット。

 

 岡崎城をあとにし、岡崎公園前駅から名鉄に乗って豊橋へ向かう。前回(「東海道を歩く 31.御油駅~藤川駅」)友人と時間の関係で食べそこねた、スパゲッ亭チャオのあんかけスパを食べるためだ。

 野菜をたっぷり使ったチャオソースと絡めて食べるあんかけスパは、美味しかった。

 デザートにカタラーナもいただいた。

 

 名鉄に乗って、岡崎公園前駅の宿に戻る。

 次回は、岡崎公園前駅から知立駅まで歩く予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

※今回の地図について

今回は岡崎市街地の東海道のクランクが多く、寄り道もしているため以下の線で区別しています。

赤線…東海道

黒線…東海道以外の寄り道ルート

 

歩いた日:2024年2月10日

この翌日の岡崎市街地まちあるき記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

愛知県高等学校郷土史研究会(2016) 「愛知県の歴史散歩 下 三河」 山川出版社

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第10集」

国土地理院 基準点成果等閲覧サービス

https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html

丸石醸造 会社概要

https://014.co.jp/company/

真宗大谷派三河別院 三河別院の紹介

https://mikawabetsuin.blogspot.com/2013/03/blog-post.html

岡崎おでかけナビ 徳王稲荷社金刀比羅社

http://okazaki-kanko.jp/point/497

文鉄・お札とコインの資料館 海外通貨

https://www.buntetsu.net/mbc/fcc.html

菅生神社 御由緒

http://sugojinja.jp/whatisSugo.html

(2024年3月23日最終閲覧)

江戸三十三観音をめぐる 9.芝編

 前回、江戸三十三観音第18番札所真成院に参拝しながら四谷をめぐり、第19番札所の東円寺も訪れた。今回は第20番札所天徳寺、第21番札所増上寺に参拝しながら芝をぶらぶらしようと思う。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.天徳寺

 今日は神谷町駅からスタートだ。

神谷町駅

 神谷町駅から北に進むとナチュラルローソン虎ノ門巴町店があり、ここには「なっ!とくしま」という徳島県のアンテナショップが併設されている。

 

 ここのすだちジュースが美味しいのだが、今日は寒いので「おさっち」というさつまいもチップスを買った。今食べながら書いているのだがサクサクして美味しい。

 

 ナチュラルローソンのある交差点に戻って左折、愛宕山方面へ進み、隧道の手前の交差点を右折すると天徳寺がある。

天徳寺

 天徳寺は浄土宗江戸四か寺の一つで、光明山和合院とも言う。

 天文2年(1533年)増上寺7世の親誉周仰上人の開創で、はじめは紅葉山にあったが、慶長16年(1611年)に現在地に移る。

 元和元年(1615年)には徳川家康から御朱印を賜るなど、幕府に重要視されていた寺院である。

 安政6年(1859年)には樺太、北蝦夷国境問題でロシア施設ムラビエフとの交渉議定の会所にもなったという。

 本堂に手を合わせ、寺務所に御朱印をいただきに行こうとすると、「江戸三十三観音 御朱印 一枚ずつどうぞ」の文字が。

 

 セルフ方式の御朱印は珍しくなくなったが、だいたいそばに賽銭箱があり、そこにお金を納めていく形式が多い。だが近くに賽銭箱は見当たらない。箱を開けたところ、誰かが下の方に100円玉を5枚入れていたため、私も500円玉を箱の奥のほうに納めておいた。

 

 隧道を通り、伝叟院に参拝する。

伝叟院

 伝叟院は曹洞宗の寺院である。

 伝叟院の境内には震災記念聖観世音菩薩像があり、この観音様が自然災害伝承碑に指定されている。

震災記念聖観世音菩薩像

 自然災害伝承碑とは、過去に発生した津波、洪水、火山災害、土砂災害等の自然災害に関わる事柄が記載されているモニュメントで、令和元年(2019年)に新設された地図記号だ。

 大正12年(1923年)9月1日に起きた関東大震災では火災が各地で発生し、新橋、愛宕、浜松町一帯が灰燼に帰した。

 芝区(現在の港区の一部)では世帯の半数近くが焼失し、伝叟院で死者を火葬したという。

 今年(令和6年・2024年)も元日早々、能登半島が大地震に襲われ多数の犠牲者を出したように、地震はいつ何時来るかわからない。いつ来ても最小限の被害で済むように、備えることしかできない。犠牲者の冥福を祈り、手を合わせた。

 

2.愛宕神社

 愛宕神社へ向かう。社殿の前にそびえたつのは、大きな階段。「出世の石段」だ。

出世の石段

 出世の石段は、徳川家光の家臣、曲垣平九郎(まがきへいくろう)の故事にちなむ。

 その故事とは以下のエピソードである。

 徳川家光増上寺に参詣した帰りに愛宕山の梅を見て、「あの梅を取ってこい」と家臣に命じた。

 そこで四国丸亀藩の家臣、曲垣平九郎が馬に乗ったままこの階段を登り、梅を取ってきて徳川家光に献上した。

 徳川家光曲垣平九郎のことを讃え、彼は一躍有名になった。

 この故事から、「出世の石段」と呼ばれるようになった。

 

 出世の石段は急な階段なので、本殿にたどり着く頃には息切れしていた。

 息を整えてから、愛宕神社に参拝する。

愛宕神社

 愛宕神社関ケ原の戦いを終えてまもなく創建された。

 徳川家康が戦に出陣するたびに神証という僧が戦勝祈願をしてきたが、関ケ原の戦いのときに祈願した場所が桜田の山、現在の愛宕山だったのでそこに社殿を建てることになった。

 愛宕神社総本宮は京都の愛宕山にあり、そこから勧請して建てられたのがここ、港区の愛宕神社である。

 愛宕神社の祭神は火産霊命(ほむすびのみこと)で、防火に霊験があるとされている。

 愛宕神社には基準点がある。

 まずひとつめは三等三角点「愛宕山」で、これは昭和62年(1987年)に設置された三角点だ。以前は鉄蓋の下にあったが、今は石標が見えるようになっている。

三等三角点「愛宕山

以前(2021年6月)の三等三角点「愛宕山

 ふたつめは池のなかにある三角点。

 これは明治4年(1871年)の工部省測量司が設置した13ヶ所の三角点のひとつなのではないか、と言われている。

 実際に洋式日本測量野史 三交會誌第二十號に書かれた三角点の設置場所として「芝愛宕山」と記録されている。

 以前は池のなかを目をこらさないと見えなかったが、境内整備に伴い、今は池のなかを見るとすぐ見つけることができる。

池のなかの三角点

図の赤丸が三角点。以前は見づらかった…

 みっつめは「起倒流拳法碑」にある几号水準点。几号水準点とは明治初期に高低測量を行うために設けた基準となる基準点で、「不」の形をしたものが多いがここの几号水準点は「T」と彫られた珍しいものだった。しかし起倒流拳法碑が見当たらないので、不安になった。このことについて友人に話したところ、境内整備が終わったら起倒流拳法碑ももとに戻すとのこと。とりあえず、よかった。

地面すれすれに「T」と彫られている

起倒流拳法碑

起倒流拳法碑があった場所

 愛宕神社の基準点については、同人誌「地理交流広場 第3号」に掲載されている「几号点を訪ねて―港区、日本経緯度原点周辺―」でも取り上げているので興味のある人は読んでいただけると嬉しい。

booth.pm

 

  愛宕神社御朱印をいただいた。そういえば今日(令和6年(2024年)2月4日)は立春だったな、と御朱印を見て思いだす。

 

3.NHK放送博物館

 愛宕山にはNHK放送博物館がある。

NHK放送博物館

 NHK放送博物館はラジオ放送開始30周年を記念して昭和31年(1956年)に開館した。

 大正14年(1925年)に本放送を開始したJOAK愛宕山放送局跡地に建てられ、放送機器、放送原稿、文献などが展示され、ラジオ・テレビの歴史を語っている。

 

 なかに入ると、「ブギウギ」の撮影スポットがある。

「ブギウギ」

 「ブギウギ」は現在放送されている連続テレビ小説で、笠置シヅ子(歌手・女優)をモデルとしている。主人公の福来スズ子は趣里が演じている。

 

 こちらは「光る君へ」の紹介ブース。

「光る君へ」

 「光る君へ」は現在放送されている大河ドラマで、「源氏物語」の作者、紫式部をモデルとしている。主人公の紫式部こと「まひろ」は吉高由里子が演じている。

 

 2Fに上がると愛宕山8Kシアターがある。こちらは撮影禁止で、私が行ったときはマジックの番組が放送されていた。

 愛宕山8Kシアターの隣にあるのが放送体験スタジオで、こちらでは天気予報の画面をバックに記念撮影を撮ることができたが、私は1人で恥ずかしいので記念撮影はなし。

放送体験スタジオ

 「こども番組がいっぱい」のコーナーにピタゴラ装置が展示されていた。

ピタゴラ装置

 ピタゴラ装置とは、日用品を利用したカラクリ仕掛けがつぎつぎに展開していき、最後に「ピタゴラスイッチ」という番組ロゴで終わるというコーナーで、子供心ながらにどうなっているのだろう、と楽しみに観ていたことを思いだす。

 

 こども番組のキャラクターがいっぱい展示されていたが、右から2番目のワンワンしかわからない…。ワンワンは「いないいないばあっ!」に出てくるキャラクターだ。

 

 「NHKと音楽」のコーナーを見る。まず、NHKの音楽番組として欠かせない、年末の風物詩「紅白歌合戦」の優勝旗が飾られていたのを見る。

紅白歌合戦優勝旗

 紅白歌合戦は昭和26年(1951年)から毎年大晦日に放送されている男女対抗形式の大型音楽特別番組である。大晦日に年越しそばをすすりながら少し観たりもするが、最近は最後まで観ることは少ない気がする。

 

 「NHKのど自慢」のコーナーもあった。

NHKのど自慢

 NHKのど自慢は、毎週日曜日12時15分から放送されている公開視聴者参加の音楽番組で、チューブラーベルの音の数で合格・不合格が発表されるのが印象的だ。

 

 「オリンピックの感動を伝える」のコーナーではオリンピックの名言や、それに使う放送機材などが展示されていた。

 

 「音効体験コーナー」ではラジオドラマの効果音作りを体験できるコーナーだった。高校時代、放送部でラジオドラマを作ったことがあったので、その時点で知っていたらもっと良い作品を作ることができたかもしれない、と思った。

 

 「テレビドラマの世界」ではNHKが放送したテレビドラマの歴史と、それに使った台本等が展示されていた。

 

 平成19年(2007年)に放送された大河ドラマ風林火山」と平成24年(2012年)に放送された連続テレビ小説梅ちゃん先生」のジオラマが展示されていた。

風林火山ジオラマ

梅ちゃん先生ジオラマ

 梅ちゃん先生ジオラマのは昭和30年代の町並みをイメージしており、ぬくもりを感じる。

 

 3Fはヒストリーゾーンとなっていて、放送の歴史を整理して説明している。

 大正14年(1925年)3月22日、東京・芝浦にある東京高等工芸学校図書室の一隅に開設した東京放送局仮放送所から日本初のラジオ放送が始まった。

 この373型ダブルボタンマイクは、日本初のラジオ放送で使われたマイクである。

373型ダブルボタンマイク

 日本初の放送機、GE社製、AT-702型送信機が展示されている。

AT-702型送信機

 この放送機は大正14年(1925年)3月22日、東京・芝浦の仮放送所からラジオ放送を開始するときに使用されたもの。放送機とは、放送を送出する設備である。

 

 東京放送局の局舎模型がある。

東京放送局 局舎模型

 東京放送局大正14年(1925年)7月、芝浦の仮放送所から愛宕山の局舎に移転し、本放送を開始した。

 

 大正15年(1926年)8月、日本放送協会が発足した。その後、昭和3年(1928年)の昭和天皇即位の大礼に向けて全国の中継網を完成させた。「御大禮奉祝 御即位の御儀」の文字がすごい。

 

 ロンドン軍縮条約成立記念放送のアナウンス原稿が展示されていた。

ロンドン軍縮条約成立記念放送のアナウンス原稿

 ロンドン海軍軍縮会議に出席した若槻礼次郎昭和5年(1930年)2月9日、イギリス・ドージェスター局から日本へメッセージを放送、日本国内での中継放送を目的とした外国からの送受信に初成功した。

 

 これは「コドモの新聞週報」。

コドモの新聞週報

 昭和7年(1932年)6月から子供向けに重要なニュースや話題をわかりやすく紹介する「コドモの新聞」が始まり、1週間分の話題をまとめた週報も発行されていた。

 

 ラジオ放送開始10周年の昭和10年(1935年)には全国向け学校放送と海外放送が始まった。

 これは学校放送受信装置1号機で、長野県の小学校で使用されたもの。

学校放送受信装置1号機

 昭和14年(1939年)5月、東京の放送の拠点は愛宕山から内幸町の放送会館へ移った。この放送会館は昭和48年(1973年)までの34年間使用された。そのミニチュア模型が展示されていた。

内幸町放送会館

 「擧って國防 揃ってラヂオ」。

 昭和16年(1941年)12月8日の太平洋戦争開戦の放送から、ラジオは国民の戦意高揚を図るメディアとなっていった。

 

 太平洋戦争の結果は敗戦だった。戦争を終結させるために、昭和天皇自らがマイクの前に立ち、昭和20年(1945年)8月14日深夜に「玉音放送」を録音、翌日正午に放送された。

 これは玉音放送の録音に使った録音機である。

録音機

 敗戦後、GHQによる番組検閲と指導・監督は厳しかったが、ラジオ番組はこれを機に改革された面も多かった。

 これは女性向け番組「婦人の時間」の放送原稿で、この番組は女性を社会的責任のある市民としてとらえていた点に番組の新しさがあった。

「婦人の時間」

 「鐘の鳴る丘」の放送台本と「とんち教室」の落第式の賞状。

「鐘の鳴る丘」「とんち教室」

 「鐘の鳴る丘」は信州の高原にできた戦災孤児たちの収容施設を舞台に、社会の荒波にもまれて生きる少年たちを描いた連続放送劇。

 「とんち教室」は言葉遊びを生かしたクイズ番組で、年度末には「落第式」が行われ、そのときの賞状が展示されていた。落第式で賞状とは?と思うが、そこは深く突っ込まなくてもよいのだろう。

 

 昭和25年(1950年)には放送法が施行された。

放送法

 放送法第1条には、放送の最大限の普及、放送による表現の自由の確保、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること、という3大原則が示されている。

 

 これは連続放送劇「君の名は」の台本。

君の名は

 「君の名は」はラジオ黄金時代の代表的な連続ドラマで、放送時間には銭湯の女湯が空になると言われたほどの人気だった。数年前に流行した映画「君の名は。」との関係性はないと思う…多分。

 

 ここからはテレビ放送のコーナー。

 高柳健次郎が「イ」の文字をブラウン管に映し出すことに成功したのは、大正15年(1926年)12月25日のことで、奇しくも大正天皇崩御の日だったという。

 なぜ「イ」?と思ったが、「いろはにほへと」の最初が「イ」だからか、と納得した。

 

 昭和14年(1939年)に製造された反射型テレビ。

反射型テレビ

 当時のブラウン管は丈が長かったので、受信機の奥行きを短くするために、ブラウン管を縦に取り付けて、鏡に反射させて映像を見るようになっている。

 

 なんとアメリ進駐軍から寄贈され、テレビ本放送開始当時から昭和天皇が視聴していたテレビが展示されていた。

昭和天皇のテレビ

 

 街頭テレビの再現コーナーがあった。

 テレビ放送が始まった1950年代前半はテレビ受像機は高価で一般人が買えるものではなかった。そこでNHK等は各地に街頭テレビを設置、人々にテレビを体験してもらおうとした。昭和29年(1954年)の力道山・木村組対シャープ兄弟のプロレス試合のときは新橋駅西口の街頭テレビに20,000人もの人々が押し寄せたという。ライブ状態だ。

 

 RCA TK-30型テレビジョンカメラは放送会館からテレビ本放送を開始したときに使用したカメラである。

RCA TK-30型テレビジョンカメラ

 

 こちらはハリクラフター17-816型テレビ受信機。テレビ受信世帯第1号となった世帯で購入されたテレビで、価格は28万円。28万円と聞くと今でも高価だが、当時の物価に換算するともっと高価になる。第1号世帯はお金持ちだったのだろう。

ハリクラフター17-816型テレビ受信機

 

 「ジェスチャー」という当時の人気番組のフリップが展示されていた。

 「彼女にプロポーズされてポーッとなり無重力状態になった彼氏」「フスマを足で開けたらお客さんがいたので、あわててお尻でしめた娘さん」「寒いので、千円札に化け美人のフトコロであたたまっているキツネ」…ちょっと状況がわからない。

 

 三菱14T-210型テレビが展示されていた。

14T-210型テレビ

 このテレビは7~8万円で売られており、一般家庭でも手に入れられる値段になり、テレビの普及に弾みがついた。フォルムがかわいい。

 

 昭和34年(1959年)4月10日の皇太子(現在の上皇さま)ご結婚パレードの中継は、NHK・民放あわせて100台のカメラ、1000人の放送スタッフを動員し、テレビ放送始まって以来の大規模な中継となった。

 「パレードをテレビで見たい」という人が相次ぎ、テレビ受信契約数がそれ以前の倍の200万件以上となった。

 これは「皇太子殿下御結婚祝賀特集報道番組」という冊子で、2日間にわたるラジオ・テレビの特集番組を紹介した冊子である。

皇太子殿下御結婚祝賀特集報道番組

 時代はモノクロテレビからカラーテレビに移行していく。

 これはNHK-1型イメージオルシコンカラーカメラ。

NHK-1型イメージオルシコンカラーカメラ

 技術研究所でのカラー実験放送時に、RCAカメラとこのNHK-1型イメージオルシコンカラーカメラの2台を使用した。

 

 これは東芝19CH型カラーテレビ。

東芝19CH型カラーテレビ

 東芝19CH型カラーテレビは昭和43年(1968年)に製造されたもの。

 

 また、カラー放送のみならず、衛星中継も発達してきた。

 これは「宇宙中継「われらの世界 OUR WORLD」」の放送台本である。

宇宙中継「われらの世界 OUR WORLD」

 衛星中継は、時空間を越えて「世界のいま」をテレビで見ることを可能にした。それを象徴したのが、昭和42年(1967年)6月26日に放送された世界同時中継番組「われらの世界 OUR WORLD」だった。

 

 この2年後の昭和44年(1969年)には人類が初めて月面に着陸し、その様子が放送された。当時の計画表が展示されていた。

 

 もちろん、テレビは月面着陸のようなポジティブなニュースのみを放送するわけではない。これは浅間山荘事件のメモ。浅間山荘事件とは、昭和47年(1972年)2月19日、連合赤軍の5人が人質をとって浅間山荘に立てこもった事件である。

浅間山荘事件

 

 この頃、VTRという録画して流す、という手法が可能となり、テレビ演出の幅が広がったという。

 これは昭和45年(1970年)に発売された家具調テレビで、この頃はテレビのデザインに木目調を取り入れたものに人気が出たようだ。

家具調テレビ

 3代目放送局、東京・渋谷のNHK放送センターの模型があった。こちらは昭和48年(1973年)に竣工した。

NHK放送センター模型

 FP-1600J型ハンディカラーカメラ・VTRが展示されていた。

FP-1600J型ハンディカラーカメラ・VTR

 FP-1600J型ハンディカラーカメラ・VTRは、ENG(小型ビデオカメラと携帯型ビデオテープレコーダーによる取材システム)の基礎となったカメラである。

 

 これは家庭用ビデオテープレコーダー、ソニーSL-8300型VTR。

ソニーSL-8300型VTR

 家庭用ビデオテープレコーダーは1980年代を通じて急速に普及し、録画視聴が増加した。

 

 「NHK特集 シルクロード」の台本が展示されていた。

NHK特集 シルクロード

 秘境シルクロードの全容を初めてテレビカメラに収めた「NHK特集 シルクロード」は、昭和55年(1980年)4月7日、石坂浩二の「シルクロード長安に始まる」というナレーションで始まった。いつかシルクロードも歩いてみたいとは思うが…流石にしんどいだろうか。

 

 HDCC-4型ハイビジョンカメラが展示されていた。

HDCC-4型ハイビジョンカメラ

 HDCC-4型ハイビジョンカメラは昭和55年(1980年)、NHKが世界で初めて開発したハイビジョンカメラである。

 平成元年(1989年)6月、NHKは世界に先駆けて衛星放送で実験放送を開始し、平成12年(2000年)12月にはデジタルハイビジョン放送を始めた。

 

 ハイビジョン放送で行われた番組の台本として、平成4年(1993年)の「ハイビジョン ご結婚おめでとう 皇太子さま雅子さま」が置かれていた。ちなみにこのときの皇太子さまは現在の天皇陛下である。

「ハイビジョン ご結婚おめでとう 皇太子さま雅子さま

 

 平成元年(1989年)6月1日、郵政省が衛星第1テレビと衛星第2テレビの免許を交付したことにより、BS1とBS2の放送が開始された。これはBS2オープニングスペシャルの台本。

 

 阪神淡路大震災NHK大阪放送局の番組表。

阪神淡路大震災NHK大阪放送局の番組表

 阪神淡路大震災は平成7年(1995年)に関西方面で起こった震災で、関係番組を一覧できるようにしたものがこれである。長期にわたり、安否情報や生活情報を放送していた。

 

 ニュース送出卓が展示されていた。

ニュース送出卓

 これは平成11年(1999年)から平成28年(2016年)まで使われていたニュース送出卓で、スイッチャー卓とも呼ばれる操作卓である。これで全国・世界から届く映像のなかで何を放送するかを選択する。アメリ同時多発テロ(平成13年・2001年)、イラク戦争(平成15年・2003年)、東日本大震災(平成23年・2011年)もこの送出卓が使用された。

 

 3F最後の展示が、スーパーハイビジョンカメラだ。

スーパーハイビジョンカメラ

 平成14年(2002年)に放送技術研究所が試作した走査線数4000本級のスーパーハイビジョンカメラである。

 

 4Fに向かう。4Fは図書・史料ライブラリーと番組公開ライブラリーがあるが、これらは撮影禁止。しかも番組公開ライブラリーは事前予約制のため入ることもできなかった。

 そのほか、「正直不動産2」の展示があった。

 正直不動産は夏原武原案の漫画原作のドラマである。

 

 シロネコ便の段ボールがたくさん置いてある。なぜ黒猫じゃないのか?と突っ込んでは…いけないのだろう。

 

 

 八起市の地図が展示されていた。おっ!架空地図か!誰が作ったんだろう?と見入っていたが、これは八起市=武蔵野市で、ほかが現実のままであることに気がついた。

 

 1Fまで下り、NHK放送博物館をあとにする。それにしても、無料だけど充実した博物館だった。

4.西久保八幡神社

 NHK放送博物館をあとにして、愛宕山を下り、ナチュラルローソン虎ノ門巴町店のある交差点に出て左折する。

 途中で麻布台ヒルズを見る。

麻布台ヒル

 麻布台ヒルズは森ビルがデベロッパーの複合施設で、令和5年(2023年)11月24日に開業したばかりである。

 この通りは「几号点を訪ねて」の取材やそれをもとにした大学サークルOB巡検、基準点まちあるきのイベント等で何度も通っており、再開発をしていたことは気づいていたが完成したことは初めて知った。

令和元年(2019年)撮影の麻布台ヒル

 

 西久保八幡神社に到着した。

 西久保八幡神社も一時期建て替えを行っていたが今は立派な本殿がある。

令和元年(2019年)撮影のプレハブ本殿

西久保八幡神社

 西久保八幡神社は寛弘年中(1004~1012年)に源頼信石清水八幡宮の神霊を請じて、霞ヶ関のあたりに創建した神社で、太田道灌江戸城築城の際に現在地に遷された。

 西久保八幡神社の境内に西久保八幡貝塚があり、これは縄文後期の貝塚で貝層のなかから土器が発掘されたこともあるようだ。

 西久保八幡神社の鳥居に几号水準点がある。

 

 西久保八幡神社御朱印の授与を行っていないらしいが、「参拝記念スタンプ」ならあった。どう見ても御朱印だけど、何か違うのだろうか…?

「参拝記念スタンプ」

せっかくなのでいただいた

5.日本経緯度原点

 ロシア大使館前に東京市が設置した水準基標がある。

 ここはロシア大使館前の守衛の隣にあり、かなり物々しい雰囲気が漂っている。ただ、私はここに何度も来て撮影しているし、イベントでも人を連れて2回くらい訪れていて何も言われたことはない。気になる人は守衛に一声かけてから撮るのでもよいと思うが、この日、守衛はおばあさんに道案内をしていた。

 

 アフガニスタン大使館のなかに一等三角点「東京(大正)」があるが、柵の外からは三角形の標柱が見えるだけである。

一等三角点「東京(大正)」

 アフガニスタン大使館の隣にあるのが、日本経緯度原点だ。

 明治7年(1874年)、海軍水路寮が今の日本経緯度原点の土地に海軍観象台を作り、天文観測を開始した。

 明治16年(1883年)に参謀本部が海軍観象台構内に一等三角点「東京」を設置し、翌年これを経緯度原点とした。

 明治21年(1888年)には文部省が海軍観象台を引き継ぎ、東京天文台を設置し、明治25年(1892年)には参謀本部陸地測量部が東京天文台の子午環中心を日本経緯度原点と定めた。

 しかし大正12年(1923年)に起きた関東大震災により子午環が崩壊してしまったため、その後金属標が設置された。

 東京天文台大正13年(1924年)に三鷹村(現在の三鷹市)に移転し、現在は国立天文台となっている。

 平成13年(2001年)の日本測地系から世界測地系への移行時と、平成23年(2011年)の東日本大震災による地殻変動により、原点数値は2回変更されている。

 現在の数値は東経139度44分28.8869秒、緯度が35度39分29.1572秒、原点方位角(日本経緯度原点とつくば超長基線電波干渉計観測点の方位角)は32度20分46.209秒となっている。

 

6.芝丸山古墳・芝東照宮

 日本経緯度原点をあとにして、国道1号線に戻る。赤羽橋交差点で左折し、芝丸山古墳に入る。

芝丸山古墳

 芝丸山古墳は長さ112mの前方後円墳で、後円部は丸山と呼ばれている。

 ここに葬られた人物は不明だが、西暦4世紀頃の南武蔵一帯を代表するような有力者だったのではないかと推測されている。

 芝丸山古墳を登っていくと、後円部墳頂に石碑があるのを見つける。伊能忠敬測地遺功表だ。

伊能忠敬測地遺功表

 伊能忠敬は江戸時代の天文学者・地理学者・測量家で、大日本沿海輿地全図を完成させ、日本国土の正確な姿を明らかにした人物である。

 この測量の起点が芝公園近くの高輪大木戸であったため、東京地学協会がその功績を顕彰して、芝丸山古墳後円部墳頂に明治22年(1889年)に伊能忠敬測地遺功表を建設した。

 しかしこれは第二次世界大戦で破壊されてしまったため、昭和40年(1965年)に再建した。

 形は僧のもつ扇である中啓をかたどっている。

 

 伊能忠敬に思いを馳せ、芝丸山古墳から降りると芝東照宮がある。芝東照宮の鳥居に、几号水準点が刻まれている。

芝東照宮の几号水準点

芝東照宮

 芝東照宮は元和3年(1617年)創建、徳川家康の像(寿像)を御神体としている。

 これは徳川家康還暦記念で作られたもので、もとは駿府城に祀られていたが、徳川家康が寿像を祀る社殿を増上寺に造るよう遺言したため創建された。当時は増上寺境内にあったが、神仏分離のときに独立した。

 

 芝東照宮御朱印をいただくと、道中安寧守もセットでついてくる。これは御朱印帳のしおりとして使っている。

 

7.増上寺

 芝公園には、増上寺がある。これは増上寺の三解脱門だ。

三解脱門

 豊臣秀吉の意向を受けて、関東を領国とした徳川家康が江戸へはいってきたのは、天正18年(1590年)8月1日のことといわれる。

 増上寺の歴史を書いた「三縁山志」によると、当時、増上寺門前で馬が進まなくなり、やむをえず下馬した家康が、新城主を迎えるべく門前に出ていた住職と話してみると、三河の徳川家菩提寺、浄土宗の大樹寺で修行したことのある存応であると知り、増上寺という名が「増し上る」の意味で縁起がよいことなどが気に入り、「武士に菩提寺がないということは、死を忘れることに似ている」といい、師檀の約束をした、ということになっている。

 しかし「岩淵夜話別集」によれば、家康は入国の前に江戸の寺院を調べて、領主にふさわしい菩提寺をさがしており、あらかじめ小田原の陣屋に増上寺住職を招いたこともあったという。

 増上寺師檀の約束を奇蹟的に説明したいことから、馬が立ち止まる話を生んだのかもしれないが、事前に検討していた、というほうが現実的だろう。

 徳川家菩提寺となった増上寺はその後、6人の将軍を含む徳川家一家38人が葬られたとされているが、将軍は2代将軍秀忠、6代将軍家宣、7代将軍家継、9代将軍家重、12代将軍家慶、14代将軍家茂と、不規則な葬られ方をしている。

 これはのちに寛永寺菩提寺に加わり、日光に祀られた初代将軍家康と3代将軍家光、大政奉還を行い明治に亡くなり谷中に葬られた15代将軍慶喜を除くほかの将軍は、寛永寺墓所となったためである。

 なぜこのような結果になったかはまったく知られていない。おそらく、親子、兄弟、叔甥間の親疎の情や、時の両寺の勢力関係が作用したのであろうという憶測があるだけである。

 なお、もうひとつの徳川家菩提寺寛永寺については「江戸三十三観音をめぐる 3.上野編」の2.寛永寺 で取り上げている。

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 増上寺に入るとき、三解脱門をくぐることになるが、この門は慶長10年(1605年)に徳川家康が建立した入母屋造の門で、経蔵とともに都心部に現存する最古の建造物であり、国の重要文化財に指定されている。

 

 三解脱門をくぐるとグラント松がある。

グラント松

 グラント松は、アメリカ第18代大統領ユリシーズ・グラント明治12年(1879年)7月に国賓として日本を訪れ、増上寺に参詣し記念として植えた松である。

 

 仏足石を見つけた。

仏足石

 仏足石とは、仏の足裏の形を石に彫りつけたもので、インドではこれを仏として礼拝しているようだ。

 この仏足石は、明治14年(1881年)5月に建石されたものと説明されていた。

 

 鐘楼堂を見つけた。

鐘楼堂

 鐘楼堂は寛永10年(1633年)に建立されたものののちに焼失、現在のものは戦後に再建されたものである。

 納められている大梵鐘は延宝元年(1673年)に品川御殿山で椎名伊代守吉寛により鋳造されたものという。

 

 珍しい観音様を見つけた。聖鉄観音像だ。

鉄観音

 聖鉄観音像は昭和56年(1981年)に国際美容協会会長の山野愛子が願主となって、ここに建立、開眼された。

 山野氏の一生がハサミに支えられ、おかげによって生かされたことへの深い感謝をこめ、ハサミに関わりのあるすべての人々の心のよりどころとなるよう願われて作られたという。

 確かに髪を切るのにハサミは必需品だし、そのハサミにお世話になって私の髪も整えられている。そっと手を合わせた。

 

 歌碑を見つけた。

 「池の水 ひとのこころに 似たりけり にごりすむこと さだめなければ」

 浄土宗宗祖の法然上人の歌で、変わりやすい人の心を池の水にたとえて示したものである。ただ、私は気分屋は嫌かなぁ。

 

 大殿を見る。後ろに東京タワーがあり、映える。ただひとつわがままを言わせてもらえば、青空だったら完璧だったなあ。

大殿

 大殿は昭和49年(1974年)に戦災に遭った本堂を再建したものである。

 間口48m、奥行き45m、高さ23mという名前通り、大きな本堂である。

 大殿には、御本尊の阿弥陀如来、両脇檀に善導大師と法然上人の像が祀られている。

 

 大殿に参拝し、宝物展示室を見ようとしたらもう閉まっていた。

 

 西向観音を見つけた。

西向観音

 西向観音は観音山にあり、そこに西に向けて安置されていたのでその名がある。

 なお、江戸三十三観音第21番札所に指定されている観音様はこの西向観音である。

 

 西向観音の近くに、千躰子育地蔵菩薩がある。

千躰子育地蔵菩薩

 千躰子育地蔵菩薩は、子や孫の無事成長を祈って、増上寺のひまわり講の人々が中心となって建てられたものである。とても可愛らしいお地蔵さんである。

 

 安国殿に向かう。

安国殿

 安国殿とは元来家康の像を祀る御霊屋を意味していたが、昭和49年(1974年)に当時の仮本堂をここに移転し、家康の念持仏だった「黒本尊阿弥陀如来」を安置し「安国殿」と命名した。

 現在の安国殿は平成23年(2011年)に建て替えたもの。

 黒本尊は秘仏で、正月、5月、9月のそれぞれ15日、年3回行われる祈願会のときだけ御開帳されるようだ。

 ちなみに安国殿は御朱印をいただける場所でもあり、寺院用御朱印帳に「黒本尊」、江戸三十三観音御朱印帳に「西向聖観世音」をそれぞれいただいた。

黒本尊

西向聖観世音

 増上寺の奥には将軍墓所もあるのだが、もう受付を終了していた。

将軍墓所

 もう16時なので、スタバで一休みしてから帰ることにする。今回頼んだのはホワイトオペラフラペチーノ。

 

 フラペチーノを飲み干し、芝公園駅から帰路についた。

芝公園駅

 天徳寺は幕府に重要視された寺院でありながら、今はひっそりとしていた。愛宕神社の最古の三角点が目立つようになったのは素晴らしいが、几号水準点が刻まれた石碑がなくなっていたのが気になった。

 NHK放送資料館、高校時代に放送部でありながら初訪問。無料だが充実した展示だった。西久保八幡神社の記念スタンプは御朱印では…?と思った。

 日本経緯度原点で大正期まであった東京天文台に思いを馳せ、伊能忠敬測地遺功表で江戸時代の測量に思いを馳せた。芝東照宮の几号水準点も忘れてはいけない。

 増上寺は時間ギリギリ訪問で宝物展示室と将軍墓所が見られなかったのが心残りだ。いつか再訪するつもりである。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2024年2月4日

次回記事はこちら↓

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【参考文献・参考サイト】

俵元昭(1979) 「港区の歴史」 名著出版

江戸札所会(2010) 「昭和新撰江戸三十三観音札所案内」

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

国土地理院 自然災害伝承碑

https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi.html

(2024年3月17日最終閲覧)

うさぎの気まぐれまちあるき「江戸時代の新宿から現代の歌舞伎町まで 新宿散策」

 「史跡散策」の吉田さんにお誘いいただき、「江戸時代の新宿から現代の歌舞伎町までを楽しもう♪新宿散策」に参加してきた。講師は石井建志さん。

 以前掲載した記事「うさぎの気まぐれまちあるき「新宿DeepZone&歴史探訪」」「うさぎの気まぐれまちあるき「新宿DeepZone&歴史探訪(第二回)」」と内容が重複している部分があるので、そちらも参照していただきたい。

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1.多武峯内藤神社

 この日は新宿御苑に12時半に集合。ちなみに新宿御苑には入らない。

 

 もう12月だが、紅葉が綺麗だった。

 

 新宿御苑の裏に、玉川上水の暗渠がある。

玉川上水の暗渠

 玉川上水とは、承応元年(1652年)に江戸幕府の命をうけて開削された江戸市中に送水するための水路である。

 工事の命を受けた玉川兄弟は、多摩川上流の羽村から、四谷大木戸までの43kmにも及ぶ長い水路をたった1年足らずで開削し開通させたという。

 玉川上水は、江戸時代初期、承応2年(1653年)に開通して以来、明治34年(1901年)の東京市内給水停止まで、250年間にわたり江戸・東京の生活を支えていた上水道だった。

 ちなみに、玉川上水の水を取水する堰、羽村取水堰に行ったことがある。

羽村取水堰

 羽村取水堰については「うさぎの気まぐれまちあるき「玉川上水×福生×立川 まちあるき」」の3.羽村取水堰 を参照してほしい。

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 玉川上水の暗渠に沿って歩いていくと、多武峯内藤神社(とうのみねないとうじんじゃ)に到着する。

多武峯内藤神社

 多武峯内藤神社には駿馬塚の碑と駿馬舎がある。

駿馬塚の碑

駿馬舎

 多武峯内藤神社には以下のような伝説がある。

 徳川家康は鷹狩りに同行した内藤清成を呼び、新宿御苑一帯を示し「馬でひと息に回れるだけの所領を与える」と言った。

 そこで清成は馬に乗り、南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走り、約22万坪もの広大な所領を手に入れたが、馬はそこで息絶えてしまった。

 内藤家はこの故事にちなみ、内藤家の屋敷内にあった多武峯内藤神社に駿馬塚と駿馬舎を造ったという。

 22万坪を走った馬はさぞしんどかっただろうな、と思った。

 

 多武峯内藤神社の隣の公園に「鉛筆の碑」がある。

鉛筆の碑

 明治20年(1887年)、眞崎仁六が水車を動力とした鉛筆工業生産を始めたのがここで、「眞崎鉛筆製造所」を開業した。現在の三菱鉛筆株式会社である。

 鉛筆なんて小学校の頃に「筆記用具は鉛筆のみ」とあるから使っていただけで、中学生になればシャープペンシルが主流となり、今ではボールペンしか触らない。たまには鉛筆を握ってみようかな、などと思った。

 

2.四谷大木戸跡

 玉川上水の暗渠沿いに、「伝 沖田総司逝去の地」という説明板を見つけた。

伝 沖田総司逝去の地

 沖田総司は幕末の武士で、新撰組に所属していた。慶応4年(1868年)に24歳の若さで亡くなっている。

 晩年、沖田総司は植木屋平五郎の屋敷で療養し、亡くなったようだが、その屋敷がこのあたりにあったらしい。

 

 国道20号線沿いに戻り、東京都水道局新宿営業所の隣に水道碑記と四谷大木戸跡碑がある。

水道碑記

四谷大木戸跡碑

 玉川上水の終着点がここ「四谷大木戸」で、ここは内藤新宿の東門でもあった。

 羽村から43kmを流れてきた玉川上水新宿御苑の北側に沿って流れて四谷大木戸に達し、それより先は木樋や石樋で地下に潜って江戸市中に給水していた。

 四谷大木戸に置かれた水番所では、毎日水位の測定や水量の調節をし、余った水や大雨の後の濁り水は南側にあった渋谷川上流部につながる谷のひとつを利用した水路に流していたという。

 

 新宿区立花園小学校と花園公園は、松平信綱の屋敷跡だったという。

松平信綱屋敷跡

 松平信綱川越藩主なども務めていたが、やがて第4代将軍の徳川家綱の補佐役にまで出世した大名である。

 私は「川越郷土かるた」の札で松平信綱について知っていた。

 「ち 知恵があり 川越治めた 名将信綱」

 

 また、花園公園は三遊亭圓朝の旧居跡でもある。

三遊亭圓朝旧居跡

 三遊亭圓朝は幕末から明治時代にかけて活躍した落語家で、話術に長じ、人物の性格や風景の描写を巧みに表現し、近代落語を大成したという。

 

3.太宗寺

 太宗寺へ向かう途中で、ファミマっぽい整骨院を見つけた。入店音はあの音なのだろうか。

 

 太宗寺に着くと、銅造地蔵菩薩坐像が出迎えてくれる。

銅造地蔵菩薩坐像

 太宗寺は慶長元年(1596年)頃に建てられた浄土宗の寺院である。

 この銅像地蔵菩薩坐像は江戸六地蔵のひとつである。江戸六地蔵とは、江戸時代の前期に江戸の出入口6ヶ所に造立されたお地蔵さんである。

 江戸六地蔵が建てられた寺院は品川寺東禅寺、太宗寺、真性寺、霊巌寺、永代寺の6寺で、永代寺のお地蔵さんは現存していないがそれ以外は現存している。いつか巡ってみたいものだ。

 

 太宗寺には閻魔像と奪衣婆像がある。

閻魔像

奪衣婆像

 閻魔像の別名は「つけひも閻魔」と呼ばれている。これは以下の伝説に由来している。
 むかし、一人の乳母が太宗寺の境内で子供を背負い、子守をしていた。

 あるとき、子供が泣き始め、いくらあやしても泣き止まない。そこで乳母が「そんなに悪い子だと、閻魔様に食べられてしまうよ」と赤ん坊に言うと、泣き声はぴたりとやんだ。

 そして乳母が振り向くと子供の姿はなく、閻魔像の口から子供のおんぶ紐が垂れているのが見えた。子供は閻魔様に食べられてしまったのだ。

 本当に閻魔様が子供を食べたとは思えず、子供はさらわれてしまったのだろうと思う…と思うのは野暮なのだろうか。

 

 奪衣婆は、死者の衣を剥ぐ役割を担っている。ちなみに奪衣婆は妓楼の商売神だったらしい。「衣を剥ぐ」から「妓楼」の商売神…詮索しないほうがよさそうだ。

 

 境内には切支丹灯籠がある。

 

切支丹灯籠

 この切支丹灯籠は昭和27年(1952年)に内藤家墓所から出土したものである。

 切支丹灯籠とは、江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れキリシタンがひそかに礼拝したとされるものである。つまり内藤家はキリシタンだったということになる。

 

 内藤新宿の祖、内藤家の墓地も太宗寺境内にある。

内藤家墓地

 太宗寺には新宿山ノ手七福神布袋尊も祀られている。

 

 新宿山ノ手七福神は新宿区内の7つの寺社で構成された七福神巡りである。いつかやってみたい。ちなみに「江戸三十三観音をめぐる 6.高田・西早稲田・神楽坂編」で登場した善国寺も新宿山ノ手七福神を構成する寺社のひとつで、毘沙門天となっている。

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 境内には塩かけ地蔵もある。

塩かけ地蔵

 塩かけ地蔵はおできに御利益があり、ここの塩をおできに塗り込むと治るらしい。今度ニキビができたらもらいに行こうと思う。

 

 灯籠のなかに猫がいた。かわいい。

 

4.正受院・成覚寺

 正受院にも奪衣婆がいるが、今日は閉まっていて見られなかった。

 正受院の奪衣婆は元禄14年(1701年)以前に安置されたといわれており、咳止めの霊験があるとして庶民の信仰を集め、あまりの混雑ぶりに年2回(正月と7月)しか参拝できなくなった時期もあったという。今はいつでも参拝できる。

 

 境内には平和の鐘がある。

平和の鐘

 平和の鐘は宝永8年(1711年)に鋳造された鐘で、昭和17年(1942年)の戦時金属類回収で回収されるも、戦後にアメリカのアイオワ州立大学に保管されていたことが判明した。昭和37年(1962年)に正受院に鐘は返還され、「平和の鐘」と名づけられた。

 

 正受院の隣に成覚寺がある。ちなみにここ、夏に訪れると蚊が多く、刺されるのだが、今はおとなしかった。

成覚寺

 成覚寺には子供合埋碑がある。

子供合埋碑

 子供とは、遊女のことである。遊女たちは過酷な仕事で病死したりと無残な死に方をする人が多く、死んだら投げ込み寺に投げ込むように葬られた。

 この子供合埋碑には1,600人もの遊女が眠っているという。そっと手を合わせた。

 

 境内には旭地蔵もある。

旭地蔵

 旭地蔵には、18人の戒名が刻まれているが、うち7組は玉川上水で心中した新宿の遊女と客だという。

 江戸時代の一時、近松門左衛門の「曽根崎心中」の流行から、遊郭の男女が心中するという流行もあったという。あまりに心中する人が多いことから幕府は心中を禁止する令を出したほどだった。

 もとは旭町の玉川上水北岸にあったことから「旭地蔵」と呼ばれたが、明治12年(1879年)に成覚寺に移された。

 

 成覚寺には恋川春町の墓もある。恋川春町は江戸時代の戯作者である。

 

5.新宿ディープゾーン

 ここから新宿のディープゾーンに入っていく。

 「男兄さん」などの看板が見えるが、ここはゲイバーの多い一角となっている。

 

 Bar「九州男」がある。ここもゲイバーである。

 

 ここの店主、増田さんはクィーンのボーカル、フレディ・マーキュリーと親交があり、コンサートへ招待されたり、ホテルの同じ部屋に泊まったりしたらしい。つまり、フレディ・マーキュリーは…そういうことだ。

 

 Bar「九州男」の近くに小さな飲み屋街があり、ここが新千鳥街である。

新千鳥街

 新千鳥街の入口にある「毒」という看板は中島みゆきBarの看板で、中島みゆきの歌「毒をんな」にちなむ店名である。

 

 「角海老」のあたりが芥川龍之介の旧居跡である。

 ここは芥川龍之介の父、新原敏三が娘のヒサ夫婦のために家を建てたが、ヒサが離婚したため空き家になっていた。

 そこへ明治43年(1910年)10月、芥川龍之介一家が、本所小泉町から転居してきた。

 大正3年(1914年)に田端に転居するまで、芥川龍之介はここに住んだという。

 

 Barどん底にやってきた。

Barどん底

 Barどん底は昭和26年(1951年)に開業した老舗のバーである。昭和38年(1963年)頃、美川憲一らが通っていた時期もあったらしい。

 

 末広通りを通る。末広通りは戦前、赤線地帯(売春が合法だった地帯)に指定されていた。

末広通り

 新宿三丁目駅のある交差点に「新宿元標ここが追分」がある。

「新宿元標ここが追分」

 ここは青梅街道と甲州街道の分岐点である。

 ここで内藤新宿について少し解説しよう。

 江戸に幕府が開かれた慶長8年(1603年)に東海道中山道日光街道奥州街道甲州街道五街道が定められた。

 そのうちのひとつ、甲州街道日本橋から甲府を経て、中山道の下諏訪につながる街道だった。甲州街道日本橋から歩くと最初の宿場は高井戸宿(杉並区)で、ここまで4里(約16km)もあり、旅人を困らせていた。

 そこで、高松喜六らが幕府に宿場設置を懇願し、元禄12年(1699年)に内藤新宿の設置が認められた。これが新宿のルーツである。

 しかし色街の風紀上の問題などで、享保3年(1718年)に内藤新宿は廃止されてしまう。

 その後、度重なる再興の願いにより明和9年(1772年)に内藤新宿は再興され、現在に至っている。

 

 「新宿元標ここが追分」の近くに「追分だんご」という名物があるのだが、ここはいつも混みあっている。青い車の横にできている行列が追分だんごの行列。

 

 「新宿元標ここが追分」のある交差点に新宿伊勢丹があるのだが、この伊勢丹、よく見ると建物に継ぎ目がある。

建物の継ぎ目

 伊勢丹明治19年(1886年)に神田明神下の旅籠町に呉服屋として誕生した。

 昭和8年(1933年)に神田の店舗をたたみ、現在地に新店舗を構えたが、当時そこに「ほてい屋百貨店」という百貨店が既にあった。

 伊勢丹はほてい屋そっくりの建物を隣接させて建設した。

 2年ほど伊勢丹とほてい屋は熾烈な競争を繰り広げたが、昭和10年(1935年)に伊勢丹がほてい屋を買収してしまった。

 建物の継ぎ目は伊勢丹とほてい屋の境目だった、ということになる。

 

6.花園神社

 花園神社に入る。

花園神社

 社伝によると、江戸時代以前に大和国吉野山より勧請した稲荷社で、もとは新宿3丁目交差点付近にあったが、寛政年間(1789~1801年)に現在地に移転した。

 移転した先が尾張藩下屋敷の一部で、美しい花が咲き乱れる花園のような場所であったことから「花園稲荷神社」と呼ばれた。

 

 境内には成徳稲荷神社がある。夫婦和合、子授け、縁結びや恋愛成就にご利益があるらしい。

成徳稲荷神社

 ここには「男性のシンボル」が飾ってあるのだが、ほとんどの参拝者は気づかない。私も石井さんに教えられるまで気づかなかったほどだ。

 

 境内には芸能浅間神社もある。

芸能浅間神社

 芸能浅間神社は、日本神話に登場する女神「木花佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」が祀られている。

 芸能に関わりのある浅間神社は珍しく、芸能のご利益を受けるために参拝する芸能人も多いらしい。

 「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑もある。

圭子の夢は夜ひらく

 宇多田ヒカルの母でもある藤圭子は「新宿の女」で昭和44年(1969年)にデビューした。しかし平成25年(2013年)に亡くなっている。

 

 花園神社の境内にある飛行機の額に向かった。

 

 この額には「同栄信用金庫飛行機貯金旅行會献木記念」と書かれ、昭和27年(1952年)四月吉日と日付が打たれている。

 この信用金庫への貯金によって3機の飛行機をチャーターし、旅行に行ったようだ。

 当時の飛行機旅行は神社に額を奉納するほどの一大行事であったことが伺える。

 この飛行機旅行で使われた飛行機「もく星号」は、彼らが旅行した4日後の昭和27年(1952年)4月9日に、伊豆大島三原山に墜落して乗客・乗務員37人全員が亡くなる事故を起こしている。

 事故に遭った人たちは額を奉納していなかったのだろうか。それはわからない。

 

 新宿ゴールデン街に入る。

新宿ゴールデン街

 

 「中村酒店」の前を通った。

中村酒店

 中村酒店の店主、中村京子さんは「Dカップ京子」の異名を持ち、80年代「平凡パンチ」をはじめとして数多くの雑誌グラビアのヌードモデルとして活躍していたようだ。

 「新宿DeepZone&歴史探訪(第二回)」では中村さんも同行していたため、店内を見せていただくことができた。

 

 新宿ゴールデン街の奥には「四季の道」という遊歩道があり、そこは都電角筈線の跡である。

都電角筈線跡

 新宿区役所前を通る。新宿区役所は歌舞伎町に立地している。

新宿区役所

 パリジェンヌ事件が発生したパリジェンヌの前も通過した。

 パリジェンヌ事件とは、平成14年(2002年)9月27日に喫茶店「パリジェンヌ」で住吉会系の暴力団員がチャイニーズマフィアに射殺された事件である。喫茶店で発砲事件が起きるなんて、怖い。

 

7.歌舞伎町弁財天

 「思い出の抜け道」を通る。

思い出の抜け道

 「思い出の抜け道」は薄暗く、さまざまな人種が行きかう。一人だったら入る勇気がないと思った。

 

 歌舞伎町弁財天に到着した。

歌舞伎町弁財天

 ここの地面を掘り返したらものすごい数の蛇が湧いてきて、これを壺に籠めて埋めたところ、工事の親方がとてつもない悪夢にうなされた。

 そこで大正2年(1913年)に上野寛永寺の不忍弁財天の分祀として弁財天を勧請したのが歌舞伎町弁財天だ。

 

 歌舞伎町弁財天の玉垣には「尾張屋銀行」と刻まれている。

尾張屋銀行」

 尾張屋銀行は明治33年(1900年)から昭和2年(1927年)の間あった銀行なので、その27年のどこかで奉納されたのだろう。

 

 歌舞伎町弁財天の隣には王城ビルがある。

王城ビル

 王城ビルは昭和39年(1964年)に建てられたビルで、当初は「名曲喫茶 王城」として営業していたが、現在はカラオケ店が入居している。

 

 新宿東宝ビルからゴジラがのぞいているが、その下に「ゴジラ-1.0」の広告が。ダブルゴジラだ。

ゴジラゴジラ(-1.0)

 

 歌舞伎町タワーの前の石碑に、歌舞伎町建設の由来が記されている。

 昭和20年(1945年)の空襲により新宿はすべて灰燼に帰した。そこに角筈1丁目北町会長の鈴木喜兵衛氏が立ち上がり復興計画を持ち上げ、東京都都市計画課長と綿密に計画が立てられた。

 鈴木氏は復興計画を中断させないために、昭和25年(1950年)にこの地に戦後最初の博覧会となる「東京文化産業博覧会」を誘致する。

 戦災で焼失したここに歌舞伎の新劇場を招致して一大劇場街として復興する計画が立ち上がり、その一環として博覧会が開催された。

 この博覧会は多額の赤字となり、鈴木氏は借財を背負い、私財で返済したという。

 「歌舞伎町」という町名は戦後の復興計画に基づくものだが、歌舞伎の演舞場ができることはなかった。

 しかし、新宿コマ劇場新宿ミラノ座、新宿地球座など映画館や劇場が建ち並び、当初はファミリー向けに建設された繁華街となったようだ。しかし現在は若者を中心とした風俗街と化している。

 

 歌舞伎町ビル火災の現場も通過した。

 平成13年(2001年)9月1日未明、歌舞伎町一番街の雑居ビル、明星56ビルから出火し、麻雀ゲーム店「一休」、4階の飲食店「スーパールーズ」の従業員と客、44人の犠牲者を出す大惨事となった。未だに犯人は捕まっていない。

 令和元年(2019年)に起こった京都アニメーション放火殺人事件等、火事はいつどこで起こるかわからない。それだけに怖いと思った。

 

8.常圓寺

 SUZUYAビルの横を通る(右側の茶色いビルがSUZUYAビル)。

 ここの5階に「すずや」という飲食店があり、ここはとんかつ茶漬けを提供するお店なのだが、そこの初代オーナーが鈴木喜兵衛である。

 鈴木喜兵衛は歌舞伎町を作った人物である、ということは前述したとおり。

 喜兵衛はもう亡くなっており、喜兵衛の子孫が「すずや」を経営している。

 なお、喜兵衛リスペクトか、この通りだけはぼったくりがいないらしい。

 

 アルタビジョンに巨大3D猫が出現した。とてもかわいい。

巨大3D猫

 巨大3D猫は令和4年(2022年)11月に新宿区の警察官に任命され、「新宿東口の猫交番」として警帽をかぶった猫の3Dが登場し、新宿区の防犯の一助を担っている…らしい。どれくらい効果が出ているのだろうか。でもとりあえずかわいい。

 

 なんと新宿西口にも思い出横丁がある。ただ新宿西口の思い出横丁のほうがやや入りやすい気がした。

思い出横丁

 

 新都心歩道橋下交差点の新都心歩道橋から小田急百貨店を見たら、建て替え中だった。

 

 常圓寺には便々館湖鯉鮒狂歌碑(べんべんかんこりふきょうかひ)がある。

便々館湖鯉鮒狂歌

 「三度たく 米さへこはし やはらかし おもふままには ならぬ世の中」

 私は最近自炊しているのだが、米を同じように炊いても水の量でやたら柔らかく炊けてしまうことがある。米の炊き具合ですら思い通りにならないのだから、ましてや世の中が思い通りになるはずがない。わかるわ。と思いながら句を読んだ。

 

 常圓寺は、創建年代不詳ながら天正13年(1585年)頃、渋谷区幡ヶ谷近辺より現在地に移されたと伝わる。

常圓寺

 本堂には徳川光圀寄進の三宝諸尊が安置されている。

 境内には枝垂桜が2本植えられていて、桜の時期には夜のライトアップも行われ、とても綺麗だということを石井さんが教えてくれた。

枝垂桜

 常圓寺には祖師堂がある。

祖師堂

 祖師堂には、11代将軍徳川家斉江戸城中にて御守護仏とした「感応胎蔵の祖師像」が安置されている。

 祖師堂の祖師像(日蓮像)は、顔を徳川家斉に似せて作られているという。

 これは、法華信仰に厚かった家斉の側室、お美代の方の勧めによって、家斉が江戸城の鬼門を守護するための感応寺建立を発願した際、そこに祀られる予定だった。

 しかし感応寺は幕府の財政引き締め方針により建立されることはなく、祖師像だけが残ることになった。

 この祖師像は、胎内にお美代の方が日頃から拝んでいた日蓮像を納めたところから「はらごもりの祖師」と呼ばれて信仰を集めていた。これは「子供が育つように」と家斉が祈願して作らせたという。

 家斉は53人もの子供がいたらしいが、そこは江戸時代、子供の死亡率が高い時代だ。実際、家斉の子供のうち25人が子供のうちに亡くなったという。

 ちなみに、祖師堂では映画が放映されており、祖師像を見ることはできなかった。

 

 常圓寺は筒井政憲の墓、辰野金吾の墓、伏屋美濃の墓がある。

 筒井政憲長崎奉行、江戸南町奉行大目付などを歴任した人物で、ロシア艦隊の司令長官プチャーチンとも会談した人物である。

 辰野金吾は東京駅や日本銀行本店など、多くの重要建築物を設計した。

 伏屋美濃は祐宮(さちのみや。のちの明治天皇)の乳母、明宮(はるのみや。のちの大正天皇)の養育係詰、迪宮(みちのみや。のちの昭和天皇)の御七夜の儀で御抱を務めた人物である。

 このうち辰野金吾の墓に参り、手を合わせた。辰野建築は全国でいろいろ見てきたが、お墓に来たのは初めてだった。

辰野金吾の墓

9.淀橋浄水場

 ここは「君の名は。」でも出てくる場所らしいが、ぱっとどのシーンか思い出せなかった。「君の名は。」は知っていたが、観たことはなかったので今度観て特定しなければ、と思う。

 

 今立っているところから一段低い場所に人が行きかっている。ここは淀橋浄水場跡だ。

淀橋浄水場

 新宿駅西口には淀橋浄水場があった。

 淀橋浄水場玉川上水から水を引き入れ、明治31年(1898年)に使用開始され、衛生面の改善・家事の軽減に役立ったという。

 しかしこの立地は新宿の発展を妨げるとして、昭和40年(1965年)にその機能を東村山浄水場に移し、淀橋浄水場は閉鎖された。

 その跡地は「新宿副都心計画」により、昭和46年(1971年)にオープンした京王プラザホテルを皮切りに、その後続々と超高層ビルが林立した。

 昭和49年(1974年)に新宿住友ビル、昭和51年(1976年)に安田火災海上保険会社ビル、昭和53年(1978年)に新宿野村ビル、昭和54年(1979年)に新宿センタービルなどが建設された。

 東京都庁は平成3年(1991年)に竣工し、有楽町から移転してきた。

 超高層ビル街を縦横に走る道路が立体交差になっているのは、浄水場の水面と底面の位置関係の名残りである。

 

 新宿住友ビルには「たまちゃん」の像がある。

たまちゃん

 太田道灌は、江戸城を築城した人物である。

 このたまちゃん像は、世界的に有名な彫刻家・流政之の作である。

 それにはこのような伝説がある。

 江戸城から出て神田川妙正寺川を遡った道灌軍と、石神井城と練馬城から出撃した豊島一族が激突した。文明9年(1477年)の江古田が原・沼袋の戦いである。

 この戦いの後、道灌は夜道で迷ってしまったという。

 そのとき、目の前に現れた黒猫が盛んに手招きをするので、そのあとをついていったら自性院の地蔵堂があった。

 道灌はそこで一夜を明かし、翌日体制を立て直して反撃、勝利した。

 江古田が原・沼袋の戦いのあと、道灌は猫を江戸城に連れ帰り、たいそうかわいがっていたという。猫はそのうち死んでしまったが、その石像を自性院に寄贈した。

 

 この猫が、招き猫の元祖のひとつともいわれている。

 ずっとブログを読んできた人のなかには、「前にも似たような話をしていなかった?」と思う人がいるかもしれない。

 そう、「うさぎの気まぐれまちあるき 境界協会FW「豊島区・北区完歩計画」」の5.妙義神社 の道灌霊社に、狛猫がいるのは全く同じエピソードが由来である。

道灌霊社

道灌霊社の駒猫

 

octoberabbit.hatenablog.com

 流石江戸城を造った太田道灌、同じエピソードで猫が2ヶ所にいるのだ。

 

 新宿住友ビルにはかつて淀橋浄水場で使用されていた内径1mの蝶型弁も展示されており、「東京水道発祥の地」のプレートもある。ただビルのなかにあり、非常に目立ちにくい。

蝶型弁

 夕暮れ時に都庁前に行き、ここでイベントは終了となった。

 

 このあと、有志で懇親会に行った。懇親会はまずビールから。歩いた後のビールは美味しい。

 

 この店はおでんが特に美味しかった。

 

 石井さんとの新宿まちあるきはこれで3回目。以前訪れた場所も結構あるので、「楽しかった?」と聞かれてしまった。しかし一度行った場所にまた行くことで知識が定着するし、多武峰内藤神社や常圓寺、淀橋浄水場跡は初めて行った。淀橋浄水場があったことは旧版地形図などで見て知っていたが、実際に立体交差が残っていたことは初めて気が付いた。

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2023年12月9日

【参考文献・参考サイト】

新宿の歴史を語る会(1977) 「新宿区の歴史」 名著出版

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社

石井建志(2023) 「あなたも知らない「新宿の今昔物語」」

江戸三十三観音をめぐる 8.四谷・東円寺編

 前回、江戸三十三観音第17番札所宝福寺に参拝しながら神田川沿いを歩いた。今回は第18番札所真成院に参拝しながら四谷をぶらぶらしつつ、方南町駅に向かい第19番札所東円寺を訪問しようと思う。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.田宮稲荷神社跡・陽運寺

 今日は四谷三丁目駅からスタートだ。

四谷三丁目駅

 

 四谷三丁目駅から国道20号線を離れ、住宅街を歩いていくと田宮稲荷神社跡がある。

田宮稲荷神社跡

 田宮稲荷神社跡は、「東海道四谷怪談」に出てくる「お岩さん」ゆかりの神社である。

 お岩は、幕府御家人田宮又左衛門の娘で、田宮伊右衛門の妻で、美人だったという。

 下級武士の家で生活は苦しくも、お岩はよく働いて家を守り、代々家に伝わる稲荷を厚く信仰していたという。

 このお岩にあやかろうと、家内安全・商売繁盛を祈り、人々は「お岩稲荷」として信仰するに至り、明治以降は田宮神社と呼ばれた。

 なお、お岩は寛永13年(1636年)に病没したという。

 これが事実であり、怪談のもとになるような話はなにもない。

 

 ところが、文政8年(1825年)、四世鶴屋南北は歌舞伎台本「東海道四谷怪談」を書き、三代目尾上菊五郎が浅草の中村座で上演、大当たりした。

 四谷左門町の浪人、民谷伊右衛門の妻お岩が、夫の不実を恨んで憤死し、亡霊となってたたるという怪談物である。

 この話は完全なフィクションながら、南北が各種の事件を素材に、巧みに構成したことや当時エロ・グロが流行していたことからたちまち評判になったという。

 

 お岩さんは真面目に働いて、稲荷を信仰していた人だったのに、後世の人によって亡霊に脚色されてしまったのだ。

 実際、「お岩さんの稲荷に行った」と友達に話したところ、「お岩さんの稲荷って…なんか怖くない?」と言われてしまった。

 「東海道四谷怪談」はヒットしたものの、これはお岩さんにとって名誉毀損といってもいい事案だ。東海道四谷怪談のヒットを、お岩さんはどう思っていたのだろうか。

 

 田宮稲荷神社跡の向かい側に陽運寺がある。陽運寺でもお岩稲荷を祀っている。

陽運寺

 境内には「於岩稲荷水かけ福寿菩薩」がある。「南無妙法蓮華経」と唱えながら菩薩像に水をかけると幸せが訪れるという。私も「南無妙法蓮華経」と小声で唱えながら、水をかけた。

於岩稲荷水かけ福寿菩薩

 

 それにしても、陽運寺の境内には多くの人がいた。「陽運寺は縁結びの寺と説明板に書かれていたからみんなお岩さんにあやかろうとして来たのだろう」と思い参拝客を見ると、みんな同じパンフレットを手に持っている。どうやら、何かのイベントのチェックポイントとして陽運寺が指定されていたらしい。

 その人たちは、パンフレットに何やら書きものをしたら、すぐ陽運寺を出ていってしまった。福寿菩薩に水をかけたり、お堂に参拝する人もいたが、お堂に参拝することなく境内をあとにする人のほうが多いと感じた。

 寺社仏閣に行って「参拝しない」という選択肢がない私として、非常にもったいないことをしているなぁ、と思ったのが正直な感想である。

 

 気をとりなおして、御朱印をいただいた。サルやかぼちゃの絵が描かれていて、とてもかわいい。

 

2.永心寺

 陽運寺の突き当たりを左折すると、本性寺がある。本性寺は日蓮宗の寺院である。

本性寺

 本性寺には萩原宗固(はぎわらそうこ)の墓がある。萩原宗固は江戸中期の国学者歌人である。宗固の門人には、塙保己一(国学者)や松平定信(老中)などがいた。

 本性寺の毘沙門堂は釘を1本も使わない手斧(ちょうな)削りの切組造で、元禄(1688~1704年)頃の建造とされている。

本性寺毘沙門堂

 本性寺の近くに闇坂(くらやみざか)という坂道がある。

闇坂

 闇坂はこの坂の左右にある松巌寺と永心寺の樹木が茂り、薄暗い坂であったためこの名がついたという。今は薄暗くない坂道だ。

 

 闇坂の隣に永心寺がある。

永心寺本堂

 永心寺の本堂は享保11年(1726年)の建立で、北を正面とする方丈型の平面形式をもち、正面中央に向背を設けている。

 新宿区内では希少な江戸時代の寺院建築なので、新宿区指定有形文化財に指定されている。

 

 永心寺の山門も新宿区指定有形文化財に指定されている。

永心寺山門

 山門の正確な建立年代は不明だが、絵様が元禄年間から18世紀中頃の作例に類似していることや、扁額に慶応3年(1867年)の年号が刻まれていることから、江戸時代に造られた門であることは確からしい。

 

 永心寺の向かい側に、勝興寺がある。

勝興寺

 勝興寺には、死罪執行の首打役で「首切り朝右衛門」といわれた山田朝右衛門の墓が墓地入口右側にあったようだが、気がつかなかった。

 

3.須賀神社

 勝興寺をあとにして、須賀神社に向かう。須賀神社の天白稲荷神社があるほうの門は冠木門になっている。

 

 天白稲荷神社に参拝してから、本殿に向かう。

天白稲荷神社

須賀神社

 須賀神社は江戸時代以前は四谷牛頭天王社といったが、明治以降須賀神社と改称された。牛頭天王に稲荷社を合祀する四谷の鎮守となっている。

 須賀神社の天井に三十六歌仙の額がかかげられている。現在の新宿区大京町に住んでいた旗本で画家の大岡雪峰が天保7年(1836年)に奉納、歌は公卿の正三位中納言千種有功(ちぐさありこと)が書いている。参拝するとき、本殿のなかをのぞくと三十六歌仙の額を見ることができた。この額は新宿区指定有形文化財に指定されている。

 須賀神社御朱印をいただいた。御朱印は書置きのみとなっている。

 

 須賀神社をあとにして、須賀神社男坂に向かう。この景色、見たことがある人もいるのではないだろうか。

須賀神社男坂

 平成28年(2016年)に公開された新海誠監督の映画「君の名は。」は日本国内興行収入250億円の大ヒット映画だ。

 「君の名は。」ラストシーンで主人公の立花瀧(たちばなたき)と宮水三葉(みやみずみつは)が再会したところがここ、須賀神社男坂だ。一時期は「君の名は。」ファンでごった返していたらしい。

 私もせっかくだからここを下りていこうと考えたが、外国人観光客が撮影にいそしんでいたのでやめておいた。

 「君の前前前世から僕は 君を探しはじめたよ そのぶきっちょな笑い方をめがけて やってきたんだよ」

 思わず、主題歌のRADWIMPSの「前前前世」が脳内に流れた。

 ここまで語っておいて私は「君の名は。」をちゃんと観たことがないのだが、機会があれば観てみたいと思う。

 

4.真成院

 来た道を戻り、突き当たりを勝興寺方面へ向かうと西応寺がある。

西応寺

 西応寺には榊原鍵吉の墓がある。

 榊原鍵吉は幕末から明治にかけて活躍した剣客で、天保元年(1830年)に江戸の麻布広尾に生まれた。

 慶応2年(1866年)には幕府遊撃隊頭取になり、上野戦争で活躍するも、明治元年(1868年)8月に徳川家達に従って静岡に移住した。

 明治27年(1894年)に64歳で亡くなるまで髷を切らなかったという。

 

 西応寺の梵鐘は正徳2年(1712年)に鋳造されたという。新宿区内でも数少ない江戸時代の梵鐘であるため、新宿区登録有形文化財に指定されている。

 

 西応寺の向かい側に戒行寺がある。

戒行寺

 戒行寺には長谷川平蔵の墓がある。

 「鬼平犯科帳」とは池波正太郎が著した時代小説で、火付盗賊改方長官・長谷川平蔵を主人公とする捕物帳である。テレビドラマとしてもヒットし、長谷川平蔵を八代目松本幸四郎らが演じた。

 「鬼平犯科帳」は後世の人によって作られたフィクションだが、長谷川平蔵は実在の人物である。

 長谷川平蔵は延享3年(1746年)江戸赤坂築地中之町で生まれた。

 父である宣雄が火付盗賊改を務めていたときに、目黒行人坂の放火犯を捕らえて京都西町奉行に出世するも、わずか10ヶ月で亡くなってしまった。

 その後、平蔵が家督を継ぎ、火付盗賊改などを務めた。

 平蔵の功績としては、石川島人足寄場を作ったことである。ここに軽犯者や無宿者を収容して手業を習得させ、工賃の一部を積み立て、出所時の更生資金に充てる仕組みを作った。刑務所でも労役はするが、それよりもう少し軽い感じだろうか。

 

 戒行寺の目の前の坂の名前は戒行寺坂という。戒行寺坂を下っていく。

戒行寺坂

 戒行寺坂の途中にある宗福寺には、源清麿(みなもとのきよまろ)の墓がある。

宗福寺

 源清麿は江戸時代後期の刀工で、文化10年(1813年)に信濃国岩村(現在の長野県東御市)に生まれた。

 天保6年(1835年)に江戸に出て、刀工としての活動を始めた。

 新々刀(江戸時代後期の刀)の刀工の第一人者として活躍し、江戸三作(江戸の三大刀工)のひとりとして数えられたほどだったという。

 

 戒行寺坂を突き当たりまで下りて左折、次の交差点を右折すると観音坂を上がることになる。

観音坂

 この観音坂とは潮踏観音にちなんでいる。

 潮踏観音がある真成院、ここが江戸三十三観音第18番札所である。

真成院

 受付に御朱印帳を預け、観音堂へ向かう。

観音堂

 観音堂の扉を開けると、なかに観音様がいるので参拝する。

 この観音様の名前は潮干観音とも、潮踏観音とも呼ばれる。

 これは日本武尊が東征したとき、今の四谷付近を通り過ぎたときに蘆の風にそよぐ様子が潮のうねりのように感じられたことから「潮干の里」「潮踏の里」と日本武尊が名づけたからと言われている。

 また、この観音様の台石は潮の干満により湿ったり乾いたりするらしいが、それには気が付かなかった。そもそもどういうメカニズムでそうなるのか気になる。

 

 そのようなことを考えながら受付に戻り、御朱印をいただいた。

 

5.西念寺

 観音坂をのぼると、西念寺がある。

西念寺

 西念寺は、文禄2年(1593年)に徳川家康の家臣、服部石見守正成(はっとりいわみのかみまさなり)が開基した。服部石見守正成は「服部半蔵」のほうが有名なので、以後こちらで記す。

 服部半蔵は槍の名手で、家康十六人将のひとりに数えられた。

 天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、和泉国堺を見物中の家康を警固して伊賀の山越えをし、主人の危地を救う功があった。

 家康が関東に入国すると、与力30騎、伊賀同心200人を支配し、半蔵の通称に由来するという半蔵門内に居を構えて、城内外の雑事を指揮した。

 天正7年(1579年)に家康の長男、岡崎三郎信康が、義父の織田信長から甲斐の武田氏に通謀しているという嫌疑をうけて切腹を命じられたとき、信康の幼い頃から守り役をしていた半蔵が検死役を務めた。

 半蔵は信康の死を悼み、麹町清水谷に一庵をいとなみ、剃髪して西念と名乗った。これが西念寺の開基である。寛永11年(1634年)に現在地に移転した。

 

 令和5年(2023年)に放送された大河ドラマ、「どうする家康」では服部半蔵山田孝之、岡崎三郎信康を細田佳央太が演じている。

 幼い頃から見ていた主君の子供の死を見た服部半蔵は、どう思ったのだろうか。改めて、戦国時代の無情さを思った。

 

 また、西念寺には服部半蔵の墓もある。そっと手を合わせた。

服部半蔵の墓

6.愛染院

 観音坂を下り、国道20号線方面へ進むと右手側に東福院坂がある。東福院坂の途中に、愛染院がある。

東福院坂

愛染院

 愛染院には高松喜六と塙保己一の墓がある。

 

 甲州街道には、日本橋から高井戸までの間に休憩所がなかった。その距離は4里(約16km)と長く、旅人を困らせていた。

 そこで元禄11年(1698年)、浅草の名主、高松喜兵衛ら町人4人が、権利金5,600両を幕府に上納する条件で、宿場設置許可を願いでた。

 こうして内藤氏の拝領地だった御苑の北側、新宿2丁目を中心とする甲州街道沿いに宿場町ができ、「内藤新宿」と呼ばれた。現在の「新宿」である。

 喜兵衛は喜六と改めて新宿の名主となり、子孫は代々新宿の名主を務めたという。

 つまり、高松喜六は新宿というまちを造った人、といえよう。

 新宿については「うさぎの気まぐれまちあるき「新宿DeepZone&歴史探訪(第二回)」」でも取り上げているので、そちらも参照してほしい。

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 塙保己一は、延享3年(1746年)に現在の埼玉県に生まれた。

 5歳のときに失明したが、13歳で江戸に出て、国学、漢学、神道、医学などを学んだ。のちに賀茂真淵の門下生となった。

 天明3年(1783年)に保己一は盲人に与えられる最高の地位である検校となった。

 そして幕府の援助をうけ、「群書類従」の編纂に尽力、文政2年(1819年)に完成した。

 「群書類従」とは、江戸時代以前の未刊の古文献を収録して編集したもので、神祇、帝王、系譜、武家など25部門に分類されている。正編は530巻、666冊に及ぶ。

 保己一が没した翌年には続編が完成し、こちらは1,150巻、1,185冊にものぼるという。

 文政4年(1821年)に保己一は76歳で亡くなり、四谷安楽院に葬られたが、ここが廃寺となったため、明治31年(1898年)に愛染院に移された。

 

 余談だが、埼玉県の偉人で、盲人であるということから、埼玉県の盲学校は「塙保己一学園」という。実家の最寄り駅が塙保己一学園の最寄り駅でもあり、時折白杖をついた学生を見ることがあった。

 

 愛染院をあとにして、国道20号線方面へ向かう。途中で円通寺坂を登る。円通寺坂とは、坂の途中に円通寺という寺院があることから名づけられた。

円通寺

円通寺

 国道20号線との交差点、津之守坂入口交差点で左折し、四谷三丁目駅へ向かう。

 ここから、方南町駅に向かう。

四谷三丁目駅

7.東円寺

 方南町駅2番出口から出て、東円寺に向かう。なお、東円寺のある地域は「江戸三十三観音をめぐる 7.神田川沿いを歩く」で歩いてしまったので、今回は東円寺のみ訪問することとする。

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 ちなみに、方南町駅の入口には「営団地下鉄」という表記が残っている。「営団地下鉄」とは、帝都高速度交通営団のことで、昭和16年(1941年)から平成16年(2004年)まで存在していた。現在は東京地下鉄株式会社となっている。

営団地下鉄

 方南町駅から北側に進むと、東円寺がある。

東円寺

東円寺観音堂

 東円寺は真言宗の寺院で、開基は天正4年(1576年)に祐海の建立という。

 江戸三十三観音に指定されている観音様は聖観世音菩薩で、江戸時代には多くの参詣者がいたようだが今はひっそりとしていた。

 社務所のチャイムを鳴らし、御朱印をいただいた。

 

 御朱印をいただいたあと、寺の人から「実は観音堂は少し開くので、見てから帰ってください」と言われたので、少しだけ開けてみた。なかでは観音様が穏やかに微笑んでいた。

  東円寺をあとにして、方南町駅に戻り、帰路についた。

 お岩さんは江戸時代の怨霊として恐れられているが、それは後世の創作でお岩さん自体は至極真面目な人だったと知り、見習いたいと思った。須賀神社男坂は今度こそ坂を下りてみたい。真成院の潮干観音の岩のメカニズムは気になるし、湿っているかもっと見ておけばよかった。西念寺で戦国時代の無常さに手を合わせ、愛染院で2人の偉人に思いを馳せた。東円寺の観音様も忘れられない。

 

 私の知らない東京が、まだまだありそうだ。

今回の地図①

今回の地図②

歩いた日:2023年12月29日

次回記事はこちら↓

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【参考文献・参考サイト】

新宿の歴史を語る会(1977) 「新宿区の歴史」 名著出版

杉並郷土史会(1978) 「杉並区の歴史」 名著出版

江戸札所会(2010) 「昭和新撰江戸三十三観音札所案内」

東京都歴史教育研究会(2018) 「東京都の歴史散歩 中 山手」 山川出版社