前回、藤川駅から岡崎公園前駅まで歩いた。今回は岡崎公園前駅から知立駅まで歩こうと思う。「31.御油駅~藤川駅」で入った岡崎市をあとにして、安城市を通過、知立市に入っていく。名古屋市にだいぶ近づいてきた。
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1.矢作橋
今日は岡崎公園前駅からスタートだ。
前回終了地点の中岡崎町交差点に到着したら、左折して先に進む。「た」の案内板のある交差点だ。
そのまま進むと、「左 江戸 右 西京」とある石碑を見つけるので右折する。江戸時代の言葉を使っている割にやけに新しいなと思ったら昭和61年(1986年)の再建らしい。
そのまま直進し、矢作橋へ上がる。
矢作川の流れを見ながら橋を渡る。
江戸時代、矢作橋は東海道随一の橋として旅人に注目され、浮世絵・屏風絵・絵巻物に描かれてきた。
矢作川に板橋が最初にかけられたのは、江戸幕府3代将軍・徳川家光が上洛した寛永11年(1634年)のことで、以後のかけ替え・修復工事は、幕府の公儀普請として行われた。
矢作橋には「出合之像」が建つ。出合之像には、このようなエピソードがある。
日吉丸(のちの豊臣秀吉)は尾張国中村(現在の名古屋市中村区)の木下弥兵衛と妻のお仲の子で、8歳の頃から奉公に出されたが、12歳のときに奉公先の陶器屋を逃げ出した。
家へ帰ることもできず東海道を東へ向かっていたとき、空腹と疲れにより矢作橋の上で寝てしまう。
そこに海東郡蜂須賀村(現在のあま市)に住む小六正勝(のちの蜂須賀小六)という野武士の頭が、手下を連れてこの付近を荒らしながら矢作橋を通りかかった。
通りざまに小六正勝は日吉丸の頭を蹴ってしまい、そのとき、日吉丸は「頭をけって一言も言わないのは無礼だ。謝れ。」と小六を睨みつけた。
小六は「子供にしては度胸があるな。手下にするから手柄を見せろ。」と日吉丸に告げ、手下にした。
日吉丸はそれをすぐに承諾し、小六とともに味噌屋に侵入、荒らしはじめた。一通り荒らして逃げようとしたとき、味噌屋の家の人たちが騒ぎ始めた。
日吉丸はとっさに石を抱えて井戸に投げ込み、「盗賊は井戸に落ちた」と叫び、味噌屋の家の人たちが井戸に集まる隙に素早く門を抜け、小六たちともども逃げ去っていったようだ。
味噌屋を荒らす…というそれってやっていいの?という突っ込みは置いておいて、豊臣秀吉の頭の速さを描くエピソードである。なお、ここまで書いておいて何だが、どうやら史実とは異なるらしい。
2.矢作神社
矢作橋をあとにして、矢作神社へ向かう。
矢作神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷征討の途上、軍神の素戔嗚尊をまつったと伝えられ、社殿横に矢作の名の由来を伝える「矢竹」があるようだが、見つけられなかった。
また、南北朝時代に足利尊氏軍と矢作川で対峙した新田義貞が、戦勝祈願した際に動いたと伝えられる「うなり石」も置かれているようだが、これも見つけられなかった。
矢作神社では、毎年10月1・2日の秋の大祭で勇壮な山車の曳きまわしが行われるが、この山車は格納庫に格納されていた。
矢作神社はセルフ方式の御朱印が置かれていた。
軍艦矢矧(やはぎ)とは、大日本帝国海軍の軽巡洋艦で、昭和20年(1945年)に起こった坊ノ岬沖海戦で撃沈されたので現存しない。
矢作神社から東海道に戻り先に進むと、自然災害伝承碑を見つけた。
自然災害伝承碑とは、過去に発生した津波、洪水、火山災害、土砂災害等の自然災害に関わる事柄が記載されているモニュメントで、令和元年(2019年)に新設された地図記号だ。「東海道を歩く」では、「東海道を歩く 24-1.袋井駅~磐田駅 前編 2.澤野医院記念館」で、袋井町西国民被災児慰霊碑という自然災害伝承碑が以前登場している。
上の「南無妙法蓮華経」が目を引くが、その下に「溺死菩提」と書かれている。この碑が自然災害伝承碑に指定されている。
これは文政11年(1828年)に起こった洪水に由来する。
文政11年(1828年)7月の洪水により、矢作川では堤防が決壊、75軒の家が流され、14人が溺死した。犠牲者の供養のために、文政13年(1830年)に「溺死菩提」としてこの碑が建立されたそうだ。
矢作川は岡崎の物流に大きく貢献したが、やはりそこは川、時に人に牙をむくこともあるのだ。犠牲者を思い、そっと手を合わせた。
3.薬王寺
誓願寺があるが、休日は門が閉まっている。
奥州藤原秀衡をたよって東海道をくだった源義経は、この矢作の地で兼高長者の家に宿を求めた。
春霞たなびく一夜、長者の娘浄瑠璃姫のかなでる琴の音に誘われた義経は、母の形見の名笛「薄墨」をかなで、やがて2人は結ばれる。
しかし、義経が奥州へ旅立った後、義経を恋い慕う姫は悲しみのあまり菅生川の流れに身を投じてしまった。
誓願寺には義経・浄瑠璃姫の木像や名笛「薄墨」、浄瑠璃姫の墓などが伝えられている。悲しい恋の話である。
一見これ何て読むの?という名前の神社があった。竊樹(ひそこ)神社と読むらしい。
安城街道入口交差点から国道1号に合流する。国道1号沿いはあまり史跡がなく、友人と話しながら歩いていると薬王寺を見つけた。
薬王寺は奈良時代に創建された寺院で、御本尊は薬師瑠璃光如来。
この薬師瑠璃光如来は、和銅年間(708~715年)に、御手洗御立笠取(みたらいみたちかさとり)の池から光を放って現れた。この地に住んでいた豊阿弥長者(ほうあみちょうじゃ)の念持仏となっていたが、のちに行基を開祖として薬王寺を創建、納められた。
淳和天皇天長6年(829年)の春に疱瘡が流行し、長者の子供も重い疱瘡にかかった。そのときどこからともなく僧が現れ、瑠璃の瓶から取り出した薬を子供に含ませ、僧が子供の体をさすると疱瘡は治ったそうだ。その僧は長者から銭輪をもらい、首にかけると忽然と消えたらしい。
長者は「これは薬師瑠璃光如来の御利益だ」と気づいて薬師瑠璃光如来にお参りすると、薬師瑠璃光如来の首には銭がかけられ、体に疱瘡の跡が残っていた。長者は子供の身代わりになった薬師瑠璃光如来をますます敬うようになった。
天文18年(1616年)の戦いのとき薬王寺は焼かれ、長者の子孫が絶えてしまった。元和2年(1616年)4月、村人たちが長者の墓をここに移そうとしたときに、土から首に銭をかけた薬師瑠璃光如来を掘り出した。不思議な縁を感じた村人たちは再度薬王寺を建てたと伝えられている。
なお、この薬王寺は宇頭大塚古墳の後円部に造られている。古墳時代中期にここに勢力のあった豪族の子孫(豊阿弥長者)が、行基とともに薬王寺を建てたと考えられている。
疱瘡を治したと伝えられる薬師瑠璃光如来を見ることはできなかったが、本堂の前で手を合わせた。
4.安城市に入る
国道1号と旧道の交差点にあるラーメン横綱で昼食を食べた。お腹が空いていたので餃子もつけてしまった。
旧道に入ると松並木が出迎えてくれた。
水準点を見つけた。一等水準点第167-1号だ。昭和61年(1986年)に設置された標石型の水準点である。
安城市のマンホールを見つけた。
三河万歳とは安城市などに伝わる伝統芸能で、江戸時代には、元旦に諸大名や諸侯に招かれて、太夫と才蔵の2人が軽妙にかけあい、「あら楽しやな鶴は千年の名鳥なり、亀は万年の齢を保つ…」と長寿繁栄を祝いながら優雅に舞ったと伝えられている。現在は、西尾市西野町小学校の児童による御殿万歳クラブがこの芸能を継承しているようだ。
安城市章がついた仕切弁をみつけた。
安城市章は安城市の「安」を図案化し、発展を象徴する末広がりが特徴となっている。昭和35年(1960年)に制定された。
第一岡崎海軍航空隊跡があった。
第一岡崎海軍航空隊は大日本帝国海軍の部隊・教育機関のひとつで、昭和19年(1944年)に河和海軍航空隊岡崎分遣隊の設置にはじまる。4月に独立、「岡崎海軍航空隊」となった。
安城市などの農地を収容し、岡崎飛行場を造成したが昭和20年(1945年)の終戦に伴い解散、跡地はまた農地に戻ったそうだ。
最大で6,000人もの隊員がいたようだが、もちろん全員終戦まで生きていたわけではなく、戦いのなかで亡くなった人もいただろう。そっと手を合わせた。
第一岡崎海軍航空隊跡地の碑の隣に熊野神社があったが、なぜかロープが引かれ参拝できなかったので鳥居の外から手を合わせるだけにした。
建久3年(1192年)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ、宿駅63箇所が設置された。
この地域の鎌倉街道は里町 不乗(のらず)の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達し、街道はここで右に曲がって南東方向へ向かっていた。これにより、熊野神社の森は「踏分の森」と呼ばれていた。
ここを旧鎌倉街道と伝える「目印しの松」が残されている。
目印しの松の下に「東海道一里塚跡」の石碑があり、ここは83里(332km)の尾崎の一里塚跡とされている。
5.永安寺
永安寺に着いた。
大浜茶屋村の庄屋だった柴田助太夫は、街道の宿場駅に必要に応じて人馬を提供する助郷役を村が命じられたときに、村の窮状を訴えて免除を願い出た。
領主であった刈谷藩は延宝5年(1677年)に柴田助太夫を死罪としたが、その後村の助郷役は免除となった。村では、領主の代替わりごとにこの一件を説明し、助郷役の免除は幕末まで続いた。
村の人々は柴田助太夫の恩に感謝し、旧宅跡に草庵を建てた。草庵は後に寺となり、柴田助太夫の戒名である本然玄性居士と、妻の安海永祥大姉にちなみ、「本然山 永安寺」と名づけられた。
助郷ではなく検地だが、上からの頼みを住民のために断り死罪となるも、その後祀られた、という話は「東海道を歩く 13.吉原駅~新蒲原駅 4.青嶋八幡宮神社」に登場した青嶋八幡宮神社を思い出す。
そして永安寺には非常に特徴的な形をしたマツがある。雲竜の松だ。
一般的に、マツの主幹は地面から垂直に伸びるが、このマツは高さ1.5mのところから北西、南、東の3方向に分かれて横に伸びている。
この樹形が、雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を連想させることから、「雲竜の松」と呼ばれている。
樹齢は350年ほどで、柴田助太夫もこのマツを見ていたと考えられている。
マツは今まで東海道で数えきれないほど見たが、この樹形のマツは初めて見た。あまりの珍しさにしばらく友人と写真を撮ったり、木陰で涼んだりしていた。
永安寺をあとにして、明治川神社に向かう。
明治用水は、矢作川から水を引き、西三河を灌漑するための用水路で、明治13年(1880年)に完成した。
明治川神社は、開発の功労者の都築弥厚(つづきやこう)、岡本平松、伊与田与八郎らを祀っている。
明治用水は、荒れ野だった西三河の平野部に矢作川の水を引き入れ、広大な用地を開拓し、この用水のおかげで一帯は「日本デンマーク」と言われるまでの農業地帯になった。
水はときに人を脅かすが(溺死菩提参照)、人の繁栄を助けるものにもなるのだ。
6.知立市に入る
また新しいマンホールを見つけた。
このマンホールは安城七夕まつりがデザインされている。安城七夕まつりは昭和29年(1954年)から行われているお祭りである。
東海道の七夕祭りといえば平塚市で、平塚市でも七夕祭りデザインのマンホールがある。これは「東海道を歩く 7.藤沢本町駅~平塚駅 6.旧相模橋橋脚」で登場している。
また松並木が始まった。
しばらく東海道を歩いていくと、「東海道 見て歩きマップ」なるものがあった。
無量寿寺への道標があった。
無量寿寺はかきつばたの名勝地だが、少し遠いのとかきつばたの時期ではないことから、スルーすることにした。
そういえばいつのまにか知立市に入っていた(特にカントリーサインもなかった)。
知立は「かきつばた」を推している。
なぜかというと、在原業平が伊勢物語で現在の知立市のかきつばたについて語っているからである。これは教科書にも載っている有名なエピソードである。
「三河の国八橋といふ所に至りぬ。そこを八橋といひけるは、水行く河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。その沢のほとりの木の陰に下りゐて、乾飯食ひけり。その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字を句の上に据ゑて、旅の心を詠め。」と言ひければ、詠める。
唐衣(からごろも) きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅(たび)をしぞ思ふ
と詠めにければ、みな人、乾飯の上に涙落として、ほとびにけり。」
(現代語訳)「三河の国の八橋というところに着いた。そこを八橋といったのは、水が流れる川が蜘蛛の足のように八方にわかれているので、橋を八つ渡していることによって、八橋といった。その沢のほとりの木の陰に降りて座って、乾飯を食べた。その沢にかきつばたがたいそう美しく咲いていた。それを見て、ある人が言うことには、「かきつばたという五文字を各句の上に置いて、旅の心を詠みなさい。」と言ったので、こう詠んだ。
何度も着慣れた着物のように、長年慣れ親しんだ妻が都にいるので、はるばるやってきた旅をしみじみと思うことだ。
と詠んだので、人はみな、乾飯の上に涙を落として、乾飯がふやけてしまった。
この「八橋」というかきつばたが咲いていた場所が現在の知立市にあるのだ。そして在原業平が詠んだ句は頭が「かきつばた」となっているのにも気づいただろうか。
この文章を書いていて、「そういえばこれ、高校で習ったなあ」と懐かしく感じた。機会があればかきつばたの時期に訪れてみたい。
7.来迎寺一里塚
来迎寺一里塚に着いた。
慶長8年(1603年)、徳川家康が江戸に幕府を開き、その翌年、中央集権の必要から諸国の街道整備に着手、大久保長安に命じ江戸日本橋を起点に、東海道・東山道・北陸道など主要街道を修理させた。このとき1里(約4km)ごとに築いた里程標を一里塚、一里山などと称した。
来迎寺の一里塚は江戸から84里目(336km)の一里塚で、なんと北塚と南塚両方が残っているのだ。これは東海道でも珍しいので、愛知県指定文化財に指定されている。私も見たのは久しぶりで、「東海道を歩く 13.吉原駅~新蒲原駅 11.岩渕の一里塚」で見た岩渕一里塚以来である。
前回の大平一里塚を見たときに反応が薄かった友人も、両側残っている一里塚を見て流石に驚いていた。
知立市章がついた仕切弁を見つけた。
知立市章は昭和32年(1957年)10月、愛知教育大学教授の大野元三氏の考案によるもので、古くから交通の要衝として東西南北に通じた知立市の発展的な土地柄をテーマに、伊勢物語で有名なかきつばたの花を図案化したものである。
歩いていると、また無量寿寺の道標を見つけた。観光名所だったのだろうか。
8.知立松並木
新田北交差点を過ぎると、また松並木が始まる。知立松並木だ。
慶長9年(1604年)、江戸幕府が東海道を整備するなかで、道の両側に築かれた土塁に松が植えられた。松並木は夏は木陰となり、冬は防風林となり、街道を行く旅人に安らぎを与えていた。
知立では池鯉鮒(ちりゅう)宿の東の500mにわたって松並木が残っている。戦前までは昼なお暗いほどに老樹が鬱蒼としていたが、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風により6~7割の松が折られたり根ごと吹き倒されてしまった。住宅開発等もあり、この時期に松並木は半減してしまったようだ。松並木のケアが始まったのは昭和45年(1970年)のことで、このときに幼松を158本植え、以後も毎年松くい虫の防除に努めている。
「文化の道「東海道宿場散歩みち」」という案内板があった。
知立松並木にはいくつか彫刻作品が飾ってある。これは「かきつばた姫」。
知立市のデザインマンホールを見つけた。
在原業平が伊勢物語で詠んだ歌「からごろも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」が刻まれ、歌の周囲はかきつばたで囲まれている。
ちなみに知立市の花は当然だが、「かきつばた」である。
句碑が飾られている。
「引馬野(ひくまの)に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに」
「引馬野に色づいている榛原(はりはら)に入り乱れて、衣に色をうつしなさいな、旅のしるしに」という意味で、大宝2年(702年)に持統天皇が三河国に旅されたときの歌で、万葉集に収録されている。
「かきつばた 名に八ツ橋の なつかしく 蝶つばめ馬市 たてしあととめて」
保永堂版「東海道五十三次 池鯉鮒」でも描かれているように、池鯉鮒では馬市が盛大に行われていた。その歴史は鎌倉時代初期の「海道記」にも書かれているほどである。
馬市は毎年4月から5月はじめ頃まで開かれ、甲斐(山梨県)や信濃(長野県)からも馬が集められ、400~500頭にもおよんだようだ。馬を売買する人だけでなく商人や遊女、芸人なども集まり、たいへん賑やかな馬市だったと伝えられている。
また水準点を見つけた。一等水準点第169号は昭和47年(1972年)に設置された金属標型の水準点だが、松の落ち葉に隠れて見えない。
9.知立神社
「東海道 池鯉鮒(ちりゅう)宿」と書かれた石柱のある交差点から旧道に入る。
池鯉鮒宿は品川から数えて39番目の宿場にあたる。
池鯉鮒宿がもっとも賑わいをみせたのは18世紀末から19世紀初頭にかけてであり、享和元年(1801年)の人口は2,066人と記録されている。
しかし、今日では宿の面影は少なく、銀座タワービル前にたつ池鯉鮒問屋場跡の石碑、知立駅西に隣接する小松寺境内に移築され、地蔵堂として残された脇本陣玄関、国道1号線沿いにたつ本陣跡の碑が、わずかに往時をしのばせている。
それにしても「池鯉鮒」。すごい漢字である。これは知立神社の御手洗池に鯉や鮒などがたくさん泳いでいたことに由来する。旅人は、鯉や鮒などを「食べて」楽しんだようだ。その昔は「知立」「智立」と記されていたが、鎌倉時代以降は「智鯉鮒」、江戸時代は「池鯉鮒」、明治以降は「知立」と表記されて現在に至る。
また知立市のマンホールを見つけた。今度はかきつばたのみのシンプルなデザインだ。
先に進み、知立市観光交流センターで池鯉鮒宿の御宿場印とマンホールカードをいただいた。知立市観光交流センターの前には「からころも」と「かきつばた」のカラーマンホールが設置されていた。
知立市観光交流センター前の交差点で終わりにしようかと思ったが、友人が「知立神社に行きたい」と言うので少しだけ先に進み、知立神社へ向かった。
知立神社の祭神は鸕鷀葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、玉依比売命(たまよりひめのみこと)ほか2柱である。
「延喜式神名帳」には碧海郡6座の1つと記され、三河二宮にあたる。
社伝には、第12代景行天皇42年に、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰途に伊知里生命(いちりゅうのみこと)をこの地にとどめて祖霊をまつり、第14代仲哀天皇元年に社殿を造営したと伝えられている。
人々の間では古くからまむし除け、雨ごい、安産の神として霊験あらたかとされてきた。
また、知立神社では5月2・3日に知立まつりとよばれる祭礼が行われる。
祭りの歴史は承応2年(1653年)から続いており、山車のうえで上演される山車文楽とからくりを特徴としている。
からくりは80本もの糸をあやつることもある見事なものであるようなので、機会があれば見にいってみたいと思う。
知立神社境内には多宝塔がある。
嘉祥3年(850年)に円仁が神宮寺を創建して知立神社の別当寺とし、境内に2層の塔をたて愛染明王を安置したことにはじまる。
現在の多宝塔は室町時代の建築様式を伝えており、そのころに再建されたと考えられている。
明治時代の廃仏毀釈の際に取り壊しの危機に遭遇したが、本尊を総持寺に移し、相輪を取り除いて杮葺きの屋根を瓦葺きにかえ、「知立文庫」という額を掲げることで難を逃れたそうだ。
知立市観光交流センターのある交差点で南に進み、知立駅に到着。
ここからもう帰るので、名古屋駅へ向かい、夕飯を食べることにした。夕飯は私のおすすめのとり五鐵の名古屋コーチンの親子丼。
卵も鶏肉もぷるっぷるで最高に美味しい。これで1,580円だから名古屋に行くたびに通ってしまう。
時間が余ったので資生堂パーラーでお茶にした。美味しかったけれどパフェが2,000円近くして驚いた。
翌日は仕事なので、ビールと東海限定ジャガビーをつまみつつ帰ることにした。
次回は、知立駅から鳴海駅まで歩く予定である。
歩いた日:2024年2月12日
【参考文献・参考サイト】
愛知県高等学校郷土史研究会(2016) 「愛知県の歴史散歩 下 三河」 山川出版社
風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第10集」
風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第11集」
大石学(2021)「地形がわかる東海道五十三次」 朝日新聞出版
国土地理院 自然災害伝承碑
https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi.html
国土地理院 基準点成果等閲覧サービス
https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html
安城市 City Guide
https://www.city.anjo.aichi.jp/shisei/sisei-yoran/documents/h65-p40p41.pdf
KEIRINKAN ONLINE 【原文・現代語訳】東下り(『伊勢物語』より)
http://keirinkan-online.jp/high-classic-japanese/20201027/505/
https://www.city.chiryu.aichi.jp/soshiki/kikaku/kyodosuishin/gyomu/12/1445320199990.html
(2024年4月22日最終閲覧)